人気のない隊舎の通路に、蛍光灯の光だけが途切れなく落ちている。 壁も床も、どこもかしこも同じ色をしていて、目を凝らせば凝らすほど、遠近感が曖昧になっていく。笠原郁はその中を歩いていた。靴底の当たる音だけが、やけに乾いて響く。
どこへ向かっているのか、自分でもよく分からなかった。足は前に出ているのに、行き先だけが霧の中に置き去りにされているような感覚がある。ただ、探している。誰かを。何かを。見つけなければならないものが、この先にあると知っているのに、それが何なのかだけは口に出した瞬間に壊れてしまいそうで、郁はまだ名前を呼べずにいた。
曲がり角をひとつ抜ける。向こうから数人の隊員が来た。小牧の横顔が見えた気がした。もう一人は手塚だったようにも思う。けれど二人とも郁の方を見ない。見ないまま、擦れ違っていく。声を掛ければ振り向くはずなのに、呼び止めようとした喉が、うまく開かなかった。
その先の隊室の扉は半分だけ開いていた。隙間から灯りが漏れている。郁は無意識に足を早める。中では誰かが低い声で何かを話していた。紙を捲る音がして、短い返答があって、また沈黙が落ちる。どこにでもある業務の音だ。なのに、その平凡さがひどく恐ろしい。
大丈夫ですか、と誰かが言わないだろうかと思った。無事です、と誰かが報告しないだろうかと耳を澄ませた。けれど、待っても待ってもその言葉は来ない。
胸の奥が冷たくなっていく。
名前を呼ばなければならないのに、呼んだ瞬間に何かが決定してしまう気がした。呼んで、返事がなかったらどうする。そんなことを考えているうちに、喉の奥で乾いた息だけが引っ掛かる。
泣きそうだ、と郁は思った。
けれど泣いたら駄目だった。泣いた瞬間、それが本当になる。ここにないものが、ほんとうに失われたものとして形を持ってしまう。そんな予感があって、郁は唇を噛み、指先をきつく握りしめた。
そのとき、隊室の向こう側で椅子が引かれる音がした。
郁ははっとして顔を上げる。
誰かが立ち上がる。けれど姿は見えない。見えないまま、灯りだけが滲んで、白い廊下がさらに白くなる。
次の瞬間、郁は自分の名前を呼ばれた気がした。
「笠原。笠原、起きなさいよ」
肩を軽く叩かれて、郁は薄く目を開けた。カーテンの隙間から差す朝の光は、夢の中の蛍光灯と違ってちゃんと柔らかい。それでも、目が覚めたという実感が体に追いつくまで、少し時間が要った。
「……あれ」
「何、その反応。まさか時間見てないわけじゃないでしょうね」
呆れた声で言いながら、柴崎麻子がベッド脇に立っている。すでに出勤姿で、髪も整っていた。郁はようやく上体を起こし、枕元の時計を見る。いつもならとっくに支度を始めている時間だった。
「うわっ、やば」
「やばいのは顔色の方。何そのひどい顔」
そう言われて、郁は手の甲で自分の頬に触れた。熱はない。けれど肌がやたらと乾いている。まぶたも重くて、眠った気がほとんどしない。
「別に普通でしょ」
「普通の人は起き抜けにそんな死人みたいな声出さないの」
柴崎は簡潔に言って、ベッド脇に畳まれていた制服を郁の方へ押しやった。「急いだ方がいいわよ」と付け足す声音はいつも通りだ。いつも通りなのに、郁はその普通さに少しだけ救われた。
「悪い夢でも見た?」
何気ない調子で訊かれて、郁の指先が止まる。
ほんの一瞬だけだった。けれど自分でも分かるくらい、動きが止まった。柴崎はそれを見逃さなかっただろう。それでも彼女は追及せず、ただ郁の返事を待っている。
「……別に。そういうんじゃないって」
笑って誤魔化すつもりだった。ちゃんといつもみたいに、少し大げさなくらい元気な顔で「いやー、寝相悪くて変な夢見たかも」くらい言えればよかった。けれど出てきた声は思ったよりずっと頼りなくて、笑いも口元で止まってしまった。
柴崎は小さく息を吐いた。
「そう。じゃあ早く支度して」
「うん」
「遅刻で堂上教官に絞られるのは、今日のあんたにはきつそうだし」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が不意に冷えた。氷でも落とし込まれたように、ひやりとしたものが広がる。郁は服の袖に腕を通しながら、顔を上げないまま「平気だし」とだけ返した。
柴崎は何も言わない。
洗面所で顔を洗っても、夢の残滓はなかなか落ちなかった。冷たい水に指先を浸し、何度もまぶたのあたりを押さえる。鏡の中の自分は確かに少しひどい顔をしていた。目元が重く、唇の色も薄い。けれど体調が悪いわけではない。ただ、どこかひどく疲れている。
髪を整え、制服の襟を直しながら、郁は何度も自分に言い聞かせた。
夢だ。たかが夢だ。
昨日の任務だって、ちゃんと終わった。誰も死んでいない。誰も欠けていない。堂上班はいつも通り基地へ戻ってきて、そのあとも、何事もなかったみたいに解散した。堂上だって無事だった。自分の目で見ている。見たはずだ。
なのに、胸の奥だけがまだ現実に追いついていない。
朝の空気は冷たく、隊舎へ向かう道の舗装は夜露を吸って少しだけ暗い色をしていた。遠くで車両の出る音がして、どこかの窓から書架整理の台車を押す音が聞こえる。いつもの朝だ。何も変わらない朝だ。
それなのに、廊下へ足を踏み入れた瞬間、夢の中の白い通路がふっと脳裏をよぎった。
郁は小さく息を呑み、すぐに歩幅を整える。
馬鹿らしい。こんなことでいちいち怯えるなんて、本当にどうかしている。昨日の任務は少しばかり緊張したが、終わってしまえばいつもの仕事と変わらない。避難誘導が多少慌ただしかっただけだ。自分は怪我だってかすり傷程度だったし、子どもたちも利用者も無事に避難できた。むしろ上出来なくらいだった。
隊室の扉を開ける。
朝の隊室は、すでに紙の音と低い会話で満ちていた。各人のデスクに書類が積まれ、コピー機が唸り、誰かが備品棚の引き出しを開け閉めする。郁はその日常の音に少しだけ肩の力を抜きかけて、それからすぐに固まった。
堂上がいた。
当たり前のことだった。ここにいるのが当然だ。そうでなくては困る。分かっているのに、姿を認めた瞬間に心臓が嫌な跳ね方をした。生きている、無事だ、ここにいる――そういう安心より先に、夢の中で見つけられなかった姿が急に目の前に現れたことで、現実感の方が追いつかなくなる。
「笠原、遅いぞ」
いつも通りの低い声だった。
その声に肩がびくりと揺れた。郁は自分でもびっくりするほど大きく反応してしまい、慌てて「すみません!」と返す。返した声が少し上ずる。
堂上の眉がわずかに寄った。
「寝坊か」
「ち、違います。ちょっと支度に手間取って」
「だったらなおさら急げ。朝からぼんやりするな」
「はいっ」
短いやり取りだけで、郁はもう疲れていた。堂上の顔をちゃんと見られない。見たら夢の続きに引きずり込まれそうで、視線が胸元あたりで止まる。堂上はそれを怪しんでいるだろう。けれど問い詰めるほどのことでもないと思ったのか、それ以上は何も言わずに手元の書類へ視線を戻した。
郁は自分のデスクへ向かう。歩幅が少しだけ早くなっていた。
机に着き、配布された書類を捌き始めても、どうにも集中できない。文字を目で追っているつもりなのに、頭の中に入ってこない。しかも最悪なことに、堂上の位置ばかりが気になる。紙を捲る音がするたびに、ペン先が止まるたびに、堂上がそこにいることを耳で確認してしまう。
馬鹿みたいだ、と郁は思う。
無事なことなんて分かっている。いまこうして同じ部屋にいるのだ。 視界の端に、堂上の動く気配がちゃんとある。なのに、確かめるように何度も意識がそちらへ向く。姿を見れば少しは落ち着くかと思えば、逆だ。見るたびに、ここにいる現実と、夢の中でいなかった事実が重なって、胸の奥がざわつく。
「笠原さん」
名前を呼ばれて、郁はまた肩を跳ねさせた。
今度は小牧だった。心配したように片眉を上げている。
「大丈夫? 体調でも悪い?」
「え、別に普通ですけど」
「普通って感じないから声かけたんだよねぇ」
苦笑まじりに言われて、郁はむっとする。
「眠いだけです」
「夜更かし?」
「してません」
「ふうん」
そこで会話に割り込んできたのは手塚だった。
「笠原、眠いなら眠いでしっかりしろ。午前中からミスをされると困る」
「してないし、まだ」
「まだって言ったな」
「うるさい!」
いつもなら周囲に小さな笑いが起きる程度の言い合いだった。だが今日の郁は、自分でも分かるくらい声音がきつい。言ってからしまったと思ったが、引っ込みもつかない。
手塚が少しだけ眉をひそめる。小牧は横から「はいはい、そのへんで」と流したが、視線は郁を観察するものになっていた。
堂上は何も言わなかった。
それがかえって気になる。
午前の業務が始まってしばらく経つと、郁は自分の不調をもっとはっきり自覚するようになった。利用者から尋ねられた書架位置を一瞬聞き逃し、聞き返してしまう。後ろでファイルが落ちた音に肩が跳ねる。資料のページをめくる手に無駄な力が入って、紙の端を少し折ってしまう。
どれも大したことではない。大したことではないのに、こういう小さな乱れが重なると、自分がいつも通りでないことを嫌でも思い知らされる。
昼の休憩時間、郁は紙コップのコーヒーを持ったまま窓際に立っていた。飲み物はすでにぬるくなりかけている。手の中にある温度が、中途半端に現実的で腹が立つ。
「飲まないの?」
柴崎が隣に来た。いつものように姿勢がよく、声も落ち着いている。
「飲むって」
「そのわりに五分くらい持ったままよ」
「そんなに経ってないでしょ」
「経ってる」
短く言い切られて、郁はむっとしたようにコップに口をつけた。味はほとんどしない。口の中に苦味だけが残る。
「……あんた、昨日何かあったの」
さらりと問われて、郁はまた言葉に詰まる。
何か、と言われれば、別に何もなかった。任務は成功だった。避難誘導は混乱こそしたが、重大事故にはならなかったし、自分も怪我をしたわけではない。堂上班としても十分に及第点だったと思う。
「何もないって」
「そう」
柴崎は頷いて、それ以上は掘り下げなかった。けれど去り際に、窓に映る郁の顔を一瞥してから言った。
「悪い夢でも見たなら、せめて寝不足の自覚くらい持ちなさい」
その言い方は責めるでもなく、慰めるでもなかった。ただ、郁が今ひどい顔をしていることを認める声だった。
午後になっても、調子は戻らなかった。
とくに駄目だったのは、堂上の姿が視界に入ったときだ。会話そのものはいつも通りだ。堂上はいつも通り短く指示を出し、郁も反射的に返事をする。けれど、その一往復だけで心拍数が上がる。夢の中でどこにもいなかった人が、こんなにも近くにいる。その事実がなぜだか、郁の神経をずっと逆撫でしていた。
どうしてこんなにおかしいのだろう。
昼過ぎ、搬入資料の確認中に一冊取り違えをして、郁は手塚に「笠原」と低く呼ばれた。呼び方はただそれだけなのに、心臓が大きく跳ねた。郁はとっさに「分かってるってば」と強い声を出してしまう。手塚は眉をひそめ、小牧が間に入る。
「ほら、二人とも落ち着いて。笠原さん、疲れてるなら少し水飲んできな」
「疲れてないです」
言ってみせたものの、実際には疲れていた。身体ではなく、神経が。常に何かを待ち構えているように張りつめていて、少しの刺激にすぐ反応してしまう。
そのうち、昨日の現場の光景が断片的に蘇ってきた。
書架の陰で泣いていた小さな男の子。避難を促す声。走る足音。利用者の肩を押して出口へ誘導したとき、左側から妙な圧が来て、とっさにそちらを見た。堂上が一歩前へ出ていた。盾を少しだけ大きく傾け、郁の方へ向く角度を変えて、郁と利用者の間に身体を差し入れるように。
ほんの一歩だった。本当に、それだけだった。
何も起きなかった。結局そのまま押し返して終わったし、堂上は何事もなかったみたいに次の指示を飛ばした。郁もその場では動けた。だから、その一歩に意味を与える必要なんて、本来はないのだ。
けれど夢の中では、その一歩がほんの少しずれていた。
だから、怖い。
自分でも呆れるくらい、怖い。
夕方近くになり、隊室の空気が少しずつ弛み始める頃には、郁はすっかり消耗していた。普段なら何ともない程度の作業がやけに遅い。目が乾いて、肩が重い。身体を動かせば動かすほど、自分が“ちゃんと普通でいよう”として空回りしているのが分かる。
業務終了の時刻が過ぎ、隊員たちが順に帰り支度を始めた。小牧が書類をまとめ、手塚が明日の確認をしている。郁はまだ片付けきれていない書類の束を前に、今日は少し居残るしかないかと息を吐く。
隊室の人が減っていく。ひとつ、またひとつと灯りが落ち、夜の気配がじわじわと広がる。最後まで残っているのは郁と堂上だけになった。
堂上は自分のデスクに向かったまま、机上の書類を捌いている。郁は自分の席で報告書の整理を続けようとした。けれど集中が続かない。文面は頭に入ってくるのに、手元がどうにも落ち着かなかった。
今日のうちに終わらせたかった簡易報告に、最後の署名を書こうとして、ペン先が紙の上で止まる。
手が震えていた。
最初は、自分が見間違えたのかと思った。けれど違う。意識して止めようとしても、指先の震えは収まらない。ほんのわずかな揺れなのに、白い紙の上ではそれがやけに目立った。郁は慌ててペンを握り直す。深呼吸をして、もう一度ペン先を下ろす。だが署名の最初の一文字を引いたところで、線が少し歪んだ。
その瞬間、背後から椅子を引く音がした。
「笠原」
低い声が近い。
郁は反射的に用紙を伏せた。隠したところで手の震えは隠れないのに。
「……何してる」
「べ、別に。報告書です」
「見れば分かる」
堂上は郁のデスクの横で立ち止まり、伏せられた紙ではなく、郁の手元を見ていた。視線の先が分かって、郁は余計に力を入れる。震えはかえってひどくなるだけだった。
「大丈夫です」
「そうは見えん」
「だから、大丈夫ですって」
声が少しだけ尖る。堂上はそれにも動じない。短く息を吐くと、郁の返事を待たずに「こっち来い」と言った。
「は?」
「いいから」
有無を言わせない調子だった。郁は一瞬反発しかけたが、その頃には自分の手がまるで他人のものみたいに言うことをきかなくなっていて、強く出る気力もなかった。しぶしぶ立ち上がり、堂上に続く。
連れていかれたのは、堂上のデスクの近くだった。周囲のデスクはすでに暗く、堂上の席の上だけにスタンドライトが点いている。昼間の隊室とは別の場所みたいに静かだった。コピー機も止まり、窓の向こうの夜だけが濃く広がっている。
堂上は自販機で買ってきたのだろう紙コップを郁に渡した。湯気が細く立っている。郁は反射的に受け取る。指先に伝わる温かさがやけに鮮明だった。
「飲め」
「……すみません」
「謝れとは言ってない」
堂上は自分のデスクの脇に立ったまま、椅子には座らなかった。郁も座らない。互いに中途半端な距離を保ったまま、夜の隊室に二人きりで立っている。
紙コップに口をつけても、最初の一口はほとんど味がしなかった。ただ温かさだけが喉を通る。
「何があった」
堂上はそう言った。
「……何も」
「嘘をつくな」
「嘘じゃありません」
ほとんど反射みたいに返してから、郁は自分の声が情けないくらい弱いことに気づく。堂上は表情を変えない。けれど目だけは逸らさなかった。
「昨日の現場からずっとおかしい。今朝からまともに人の顔も見てない。物音にいちいち跳ねる。手元まで狂ってる」
「それは、」
「それを何でもないで通すな」
強くはない声だった。怒鳴ってもいない。むしろ静かな分だけ逃げ場がなかった。
郁は紙コップを持つ指に力を込める。唇の内側を噛む。ここで何を言えばいいのか分からない。分からないまま、黙っていればなんとかなると思っていた。いつもみたいに少し反発して、少し強がって、それで終わるはずだった。
けれど今日は無理だった。
手の中の温かさが、逆に自分の指先の冷たさを際立たせる。胸の奥でぐるぐる渦巻いていたものが、出口を探すように喉元までせり上がってきた。
「……夢を、見ました」
自分でもびっくりするほど小さな声だった。
堂上の眉がわずかに動く。
「夢?」
「……教官が」
そこで言葉が詰まる。言ってしまえば、こんなことで一日中おかしくなっていた自分を、ちゃんと認めることになる。馬鹿みたいだと思う。子どもじみていると思う。たかが夢だ。そんなことで上官を避けて、仕事にまで支障を出しているなんて、情けないにも程がある。
それでも、口は止まらなかった。
「教官が、帰ってこない夢を見たんです」
言い終わった瞬間、郁は視線を落とした。堂上の顔なんて見られない。見られるわけがない。こんなことを言うつもりじゃなかったのに、と思う気持ちと、ようやく言ってしまったという安堵に近い感覚が同時に押し寄せてきて、頭の中がぐしゃぐしゃになる。
堂上はすぐには何も言わなかった。
その沈黙がひどく長く感じられた。現実には数秒程度だったのかもしれない。だが郁には、そのわずかな間で自分がいくらでもみっともなくなっていく気がした。
夢なんかで。たかが夢で。
そう言われたらどうしよう。いや、言われなくても分かっている。こんなのは普通じゃない。笑い飛ばしてしまえばいいだけのことだ。堂上だって、そうするのが正しいと思うに決まっている。
堂上が息を吐く気配がした。
「……夢だろう」
その通りだった。
その通りだったのに、郁の胸の奥は少しも軽くならなかった。むしろ、その正しさで押し潰されそうになる。郁は咄嗟に唇をきつく結び、泣くなと自分に命じた。
だが次の瞬間、堂上の気配が一歩だけ近づいた。
「笠原」
低い声が、今度はさっきより少しだけ近い。
郁が反応するより先に、堂上の手が頭に触れた。指先の温度が直接伝わる。
「見ろ」
郁は反射的に顔を上げた。
堂上の目が、真っ直ぐこちらを見ている。
「俺はここにいる」
郁の呼吸が一瞬止まる。
「帰ってきてる」
「……」
「お前の前に立ってるだろう」
慰めるような言い方ではなかった。夢を馬鹿にもしないし、大丈夫だと乱暴に決めつけもしない。ただ、いま目の前にあるものだけを、堂上は堂上の声で告げた。
郁の視界が急に滲んだ。
ああ、と思う。駄目だ、と思う。これで泣いたら本当に子どもみたいだ。こんなところで、こんなことで。けれどそれでも、一度ゆるんでしまったものは戻らなかった。
ぽたりと一滴、涙が落ちる。
声は出なかった。大きく泣く余裕もない。ただ息がうまく吸えなくて、肩が小さく震える。郁は紙コップを持っていない方の手で目元を押さえようとしたが、その前に堂上の手が頭から離れ、今度は背に移った。
「夢でも怖いものは怖いだろ」
低く、静かな声だった。
背をさする手つきは、不器用なくせに妙に丁寧だ。慰め慣れていないのに、放っておけないから手を出しているみたいな動きだった。その不器用さが、かえって郁には堪える。
「……帰ってきたのに」
息を整えようとしても、声が少し震える。
「帰ってきたのに、帰ってきた気がしなくて」
言いながら、自分でも馬鹿みたいだと思った。昨日からずっとそうだった。姿を見ても、声を聞いても、夢の方が皮膚の内側にこびりついていて、現実の方が薄い膜みたいに感じられた。
堂上は黙って聞いていた。否定しない。笑わない。余計な慰めも挟まない。
「人間なんだ。そういう時もある」
やがて返ってきたのは、その一言だけだった。
説明になっているようで、まるでなっていない。けれど今の郁には、その簡潔さがちょうどよかった。大丈夫だと言われるより、怖かった自分をそのまま置いてもらえる方がずっと楽だった。
郁は何度か呼吸を繰り返し、ようやく紙コップを持ち直す。飲み物は少し冷めていたが、それでもちゃんと温かかった。
堂上は背から手を離し、それでも近くにはいた。郁が一人で立てると判断した距離までしか引かない。その加減が、郁にはありがたかった。
「……教官」
「何だ」
「……私、あんなに怖いと思ってませんでした」
言ってから、何を今さらと思う。任務中に怖くなることくらいある。 危険な現場で動いているのだから当然だ。けれど昨日の恐怖は、良化隊に対するものとも、現場そのものに対するものとも少し違っていた。堂上がいなくなるかもしれない、という、その一点だけが異様に怖かった。
堂上はすぐには答えなかった。
郁がゆっくりと顔を上げると、堂上はほんのわずかに目を細めたあとで言った。
「……俺も、帰れなくなるつもりはない」
その言い方は、約束というには硬く、宣言というには静かだった。
「だから」
堂上は一度だけ言葉を切る。
「お前も帰ってこい」
郁は、それに返す言葉をしばらく見つけられなかった。はい、と言うのは簡単だった。でもその一言だけで済ませたら、今受け取ったものの重さを取りこぼしてしまう気がした。
けれど結局、出てきたのは一番短い言葉だった。
「……はい」
それで十分だったのかもしれない。
堂上はそれ以上何も言わなかった。かわりに、郁の持つ紙コップが空になっているのを確認して、「今日はもう帰れ」とだけ言った。その声は、いつもの命令口調に戻っている。なのに、さっきまでとは少しだけ違う。
郁は小さく頷き、鞄を取る。足元はまだ少し頼りないが、さっきまでみたいな心許なさではなかった。
隊室を出る前、郁は一度だけ振り返った。
堂上はすでに自分のデスクへ戻りかけていたが、郁の視線に気づくと動きを止めた。
「何だ」
「……いえ」
本当は、何か言いたかった。ありがとうございますとか、ごめんなさいとか、そういうきちんとした言葉ではなく、もっと別の、うまく形にならない何かを。けれど結局、郁は首を振るしかなかった。
堂上はそれ以上は追及しない。「さっさと行け」といつも通りに言う。郁はその平常運転に、また少しだけ救われる。
女子寮へ戻る道すがら、夜風が頬を撫でた。さっきまでの涙の跡が少し冷える。けれど胸の内側は不思議なくらい静かだった。
その夜、郁は久しぶりにちゃんと眠れた。
夢は見なかった。見なかったのか、見ても覚えていないだけなのかは分からない。ただ、次に目を開けたとき、胸の奥に残っていたのは白い廊下でも、乾いた足音でもなかった。
俺はここにいる。
その低い声だけが、はっきりと残っていた。
翌朝、郁は少しだけまぶたの重さを感じながら隊舎へ向かった。まだ完全にいつも通りとは言えない。けれど昨日までとは違う。少なくとも、堂上の姿を見た瞬間に心臓が嫌な跳ね方をすることはなかった。
隊室の扉を開ける。朝の紙の音、低い会話、コーヒーの匂い。昨日と同じ景色だ。違うのは、郁の方だった。
「笠原、遅い」
堂上が言う。
「今日は遅れてません!」
反射的に返した声は、昨日よりずっと普通だった。
小牧がそれを聞いて肩を揺らす。手塚は「朝からうるさい」と眉をひそめる。
堂上は特に表情を変えない。ただ「声がでかい」とだけ言って、手元の書類へ視線を落とした。
それでよかった。
それがよかった。
郁は自分のデスクへ向かいながら、夢の中でどこまでも遠かった白い廊下のことを思い出す。あの場所はまだ、記憶の底に残るだろう。完全には消えないかもしれない。けれど、もう大丈夫だと思えた。
あの廊下の先で見つけられなかった人は、ちゃんとここにいる。
声が届く距離で、紙を捲っていて、少し不機嫌そうな顔で仕事をしている。
その当たり前を、郁はようやく自分のものとして受け取れた気がした。
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