nekosuimidori
2026-04-20 19:19:11
32302文字
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君の献身を知っている


 それを初めて見たのは十年前のワイルドエリアだった。
 ジムチャレンジに参加し、ジム戦を乗り越えるために幾度となく足を踏み入れたワイルドエリアで見かけた野良バトル。それ自体は決して珍しいものでは無い。街中のコートでは激しいバトルはできないから、ここはトレーナーにしたらうってつけの場所なのだ。
「リザード、『かえんほうしゃ』だ!」
 キバナの目を奪ったのは、バトルをしている一人の少年だった。紫の髪を持った可愛らしい顔立ちの少年が彼の手持ちであろうリザードに指示を出す。大きく開いた口から発される弾む声は、爛々と輝く黄金の目はひたむきにバトルだけを向いていて、一瞬で目を奪われた。勝てば楽しい、負けても悔しいが楽しい。そんなバトルを望み、目が合えば仕掛け、あるいは仕掛けられている。だが、あれほどまでに燃え滾るバトルをすることなど自分にはあっただろうか。いやきっと、おそらく自分にはないだろう。
……おれも、」
 たたかいたいな。無意識のうちに溢れ出た羨望は、音にすればさらにその存在を色濃くしてキバナの脳裏に強く残る。そういえば彼はジムチャレンジの開会式にも参加していたと思い出した。名前は確か、
……ダンデ」
 ダンデ。そう、ダンデだ。花の名を冠した名前。彼の名前を口に出すたび、思うたびに心が震える。今まで感じたことのないこの感情はいったい何なのだろう。
 一瞬でも目を離すことなどできない試合は、リザードと戦っていたワンパチが倒れたことにより決着が付いた。熱くなった体を冷ますように深く呼吸をしていると、彼の視線がこちらを向きそうになり慌てて茂みに体を隠す。成長途中の小さな体は上手く自然に紛れたようで、ダンデや彼と試合をしていたであろう少女の声は遠くなっていく。
 気付かれなかったことにホッとしたような、残念だったようなそんな気持ちで空を仰げばいつの間にか日が傾きかけていた。夜のワイルドエリアは昼間以上に危険で、物思いにふけていては命が幾つあっても足りはしない。急いで見晴らしの良い場所に移動してテントを組み立てなければと、茂みから抜け出し体に付いた葉を払う。
(勝ち上がれば、オレ様もあいつとバトルできるかな)
 湧き立つ観衆の中の中で相対するダンデとキバナ。想像するだけで興奮は自分の身を焦がすように燃え盛る。もっと強くなって勝ち上がらなければ、想像は現実になりはしない。逸る気持ちを抑える事はしないまま、地を蹴る足に力を込めた。

 控室の外から大歓声が聞こえてくる。キバナは今まさに戦っているダンデと少女の試合を、備え付けの大きいディスプレイで眺めていた。チャンピオンカップが開催された今日、キバナはもうすでに決勝へのチケットは手に入れており、次の試合を待つばかりだ。
 画面の中では同い年ぐらいのオレンジの髪をした少女——ソニアのアーマーガアが倒れ、パルスワンが場に出るところだった。対するダンデはギルガルドで、彼の手持ちにはまだ相棒であるリザードンが残っている。接戦だがこれはおそらくダンデに軍配が上がるか? そう思った瞬間『かみくだく』がギルガルドの急所を捉え、その体は地面に伏した。カメラがアップでソニアを撮れば好戦的に笑う彼女が大画面に映り込む。その目から闘志は失われておらず、次に映ったダンデもそれに応えるかのようにボールから相棒を出す。リザードンへと進化した彼の相棒は、彼と同じように目を爛々と輝かせている。
 二人の手首で赤く光るねがいぼしに呼応するように二体の獣は猛々しく吠え、キバナはその勝敗の行方を固唾を飲んで見守った。

 皮膚を突き破るんじゃないかというくらい激しい動悸がキバナを襲う。湧き立つ観衆、傍らには共に旅した相棒達、そして目の前には、あの日焦がれた黄金の目を持つ少年がひとり。
「ダンデだ、よろしく頼むぜ」
 あの後、ダンデのリザードンはソニアのパルスワンを見事倒し、決勝への切符を手に入れた。パルスワンが地に伏せた瞬間、興奮のあまり思わず声をあげたキバナの瞼の裏には、数十分前のその光景が今尚広がっているように感じる。
「オレ様はキバナ。こちらこそよろしくな」
 差し出された手を握り返すと、グローブ越しに先のバトルの覚めやらぬ熱が伝わってくる。ああ、嬉しい!ついにあの熱いバトルを自分もすることができるのか!彼の熱い手を離し距離を取ると、腰に付けたホルダーからボールを一つ手にとる。興奮で自然と浮かぶ笑みを抑える事はせず、ただありのままに牙を剝く。それこそが今彼に向けるべき感情のただ一つの正解である事をキバナは知っていた。
「絶対負けねえ!行け、ギガイアス!」
「こっちこそだ!頼んだぜ、ドラパルト!」

 万雷の拍手と割れるような歓声の中、キバナはその場に立ち尽くした。
 先に倒れたのはキバナのジュラルドンだった。ダンデのリザードンは僅かにぐらつきながらも未だ地に伏してはおらず、煮えた様に熱い頭の中で、どこか冷静に自分は負けたのかと理解する。そうだ、自分は負けた。今までみたいな野良バトルじゃない、一世一代の晴れの舞台で負けたのだ。あともう少しで勝てたのに、そのもう少しを詰められなかったことが悔しくて堪らない。嬉しそうに笑うダンデを見て、敗北を理解した思考の冷静な部分までもが煮えたそれらに混ざるのを、キバナは必死で押し留めた。
……ダンデ!」
 ジュラルドンをボールに戻しダンデに駆け寄り、驚くダンデに勢いのまま自分の感情を叩きつける。
「お前とのバトル、スッゲー楽しかった!」
 そうだ、悔しいだけじゃない。たった一度、ワイルドエリアで目にしたあの血潮湧き立つ様なバトルを彼とできた。あの爛々と輝く黄金の目を見据え、声が枯れるほど吠え、互いに命を削るかのようなバトルができた。それを悔しいという一言で終わらせるにはあまりに惜しい。ダンデは丸くした目を嬉しそうに緩めキバナの手を強く握りしめた。
「ああ!俺もだ!俺もキバナとのバトル、すごい楽しかった!」
「お前はオレ様に勝ったんだからな、オレ様がお前のこと負かすまで誰にも負けんなよ!」
「もちろんだ!」
 握った手を離してダンデに背を向けると、控室に繋がる通路に歩みを進める。俯くことも振り返ることもしない。それをすれば泣いてしまう事は目に見えているから、ただ前だけを向いて歩く。なぜだかわからないが、涙を流すことだけはしたくなかった。
 控室に足を踏み入れると、備え付けのベンチにソニアが膝を抱えて座っていた。自分の試合の前は精神を集中させていたから彼女の様子は全く見えていなかったが、どうやらかなりの間泣いていたら強い。その目は赤く充血していた。
……目、腫れちゃうぜ。これ使いなよ」
 キバナはズボンのポケットからハンカチを取り出すと、ソニアに差し出す。だがソニアはキバナの言葉にゆるく首を振り、それを受け取ろうとはしなかった。
……腫れたっていいの、がんばった勲章だもの。ちっとも恥ずかしくなんかないんだから」
 彼女の言葉で必死に引き締めた涙腺が緩みそうになり、ギュッと唇を噛み締める。
 ぐずぐずと鼻をすする彼女の視線は、少し前の自分も見ていた大きな画面に注がれている。映るのは先程の自分とダンデのバトルのリプレイ映像。地に伏せるジュラルドンの姿が写ると、キバナはホルダーにあるボールをそろりと撫でた。
……お疲れさま、いい試合だったね」
 ようやくキバナを見たソニアは、眉に寄せていたしわを伸ばして懐っこい笑みを浮かべていた。キバナも唇を噛み締めるのをやめてにこりと笑う。
「そっちもお疲れ、アンタの試合もめちゃくちゃよかったぜ。えっと……ソニアさん」
「ソニアでいいよ」
「オッケ。んじゃ、オレ様のこともキバナって呼んで」
 自己紹介をして握手を交わす。握った少女の手は皮膚が硬く少し荒れていて、トレーナーの手をしていた。
「この後どうすんの?」
「友達と一緒にご飯行くの。……よければキバナ君も来る?」
「行っていいの?」
「いいよ!ご飯食べる人は多い方が楽しいもん」
 連絡用に通話アプリのIDを交換すると、早く着替えようと控室を出る。すると更衣室に向かおうと向けた足がピタリと止まった。裾が引っ張られる感覚があって、振り返れば何か苦いものでも噛んだような顔のソニアがキバナのユニフォームをギュッと握りしめていた。
……あのさ」
「な、なに?」
「キバナ君は、来年もまた挑戦する?」
「ん?当たり前だろ!絶対参加するぜ!」
 ソニアの言葉に間髪入れずに答える。来年こそオレ様がチャンピオンになってやるんだ、そう言うと彼女の表情は苦い顔から寂しいような、ほっとしたような、なんとも言い難い顔に変わる。口角は上がっているが、はたしてそれは本当に彼女の浮かべたい顔なのか。
「ソニアもやるんだろ?」
……うん、やるよ。……変なこと聞いてごめん。また後で」
 前向きな言葉を発するソニアは、しかしその表情は変わらない。何が彼女をそうさせているのかキバナには見当もつかず、足早に去っていく彼女の背を見つめることしかできなかった。

「あ、ルリナじゃん」
 待ち合わせ場所に着くと、そこにはルリナが立っていた。ジムチャレンジの最中にたまたま会ったのがきっかけで話すようになった彼女は、準決勝でのキバナの対戦相手でもある。
「ソニアから人増えたって連絡来てたけど、アンタだったのね」
「そう、そのソニアにお呼ばれされたからさ」
「ていうかいつの間に仲良くなったのよ」
「ついさっぐえッ」
「キバナ!」
 背中に強い衝撃が走り、前に立っていたルリナごと倒れそうになるのをなんとか踏み止まる。ガマゲロゲが潰れたような声が出たが倒れなかっただけマシだ。いったい何だと振り返れば、目に写るのはキラキラと輝く黄金の目。
「っ……!」
「ちょっとダンデ君!」
 度肝を抜かれて固まっていると、走ってきたソニアがそれを引き剥がしてようやく誰だか理解ができた。
「いきなり走り出したと思ったら飛びつくなんて、危ないじゃない!」
「ご、ごめんソニア!キバナもごめん!大丈夫か?」
「お、おう」
 慌てた様子でわたわたと手を動かす彼に、大丈夫、気にしてないぜと笑うと安心したように顔を綻ばせた。バトルの時とは違う雰囲気に心臓が大きく跳ねた気がして、いや気のせいだと首を振る。
「ちょっと、私も潰れるところだったんだけど」
「ごめんルリナ!」
 無邪気に言うダンデの頭を鷲掴みにするルリナを横目に、キバナはバレないようにソニアに視線を向ける。呆れたように笑う彼女は先程の表情などまるで無い。あれは一体なんだったのだろうか。
「ん?キバナ君、どうかした?」
……いやぁ?友達ってダンデとルリナのことだったんだなって」
 取り繕ったのがばれないように指を差したのは元気に戯れるダンデとルリナ。バトルが終わって間もないのにあれだけ元気に動き回れる体力はなかなか見ない。
「ダンデ君は幼馴染で、ルリナはバウタウンで知り合ったの」
「あ、そうなんだ。一緒に回ってたのか?」
「ダンデ君とはね。ルリナとは時々キャンプしたりしたわ」
「へえ。オレ様一人で回ってたから、そういうのちょっといいなって思うわ。楽しそう」
今度皆で一緒にキャンプに行こうかと話していると、ダンデとルリナが寄ってくる。どうやら騒ぐのに飽きたらしい。
「腹減ったから飯行こうぜ!」
「二人で楽しそうに話してないでよ!」
「お前らのこと待ってたんだよなぁ」
「はいはい、何食べる?私はらぺこだからなんでもいいや」
「肉!」
「魚!」
 元気よく発された言葉に二人の眉がピクリと動く。溜息を吐くソニアを横目に、キバナはロトムに「肉と魚の美味い店探して」と声をかけた。

 四人はロトムの案内のもと、シュートシティの川沿いに面したレストランを訪れていた。カジュアルだが洗練された雰囲気で、店内はかなりの賑わいを見せている。
「明日はファイナルリーグだろ、調整大丈夫なのか?」
「あぁ、もちろんだ!抜かりないぜ!」
 注文したウールーのステーキを頬張りながらキバナに答えるダンデは、早くバトルをしたくて仕方がないといった様子だ。
「そうだ!今日の君とのバトル、すごい楽しかったぜ!」
 手にしていたカトラリーを置いてキバナにぐっと詰め寄るダンデにキバナは少し仰け反る。一目見たときからキラキラ輝いて見えていたが、至近距離のこれはなかなか眩しく、近いと言うと少し間を開けてくれたので元の体勢に体を戻す。
「オレ様も楽しかったぜ!これでオレが勝ってたら、もっと楽しかったけど」
「じゃあまた勝負しようぜ!次も俺が勝つけどな!」
「臨むところだ、絶対負けねぇ!」
 自信ありげに胸を張る彼に啖呵を切ると、ダンデはにかりと笑ってまたステーキを食べ始めた。キバナもそれに倣って切り分けたケンホロウのミートパイに齧り付く。サクサクのパイ生地に包まれたしっかり煮込まれて口の中でほろほろと崩れる肉と、甘辛いこの店オリジナルの味付けはキバナ好みだ。夢中になって食べていたが、ふと隣のダンデの皿を見てぎょっとする。
「お前、もう食い終わったの?」
「ん?ああ、今日のバトルの反省をしたくて」
 添えてあったバゲットでソースまで拭ったのだろう、綺麗に空になった皿とスマホロトムを弄るダンデの顔を交互に見つめる。食べ始めて十分やそこらでボリュームのあるステーキが空になるとはどういうことか。
「ダンデ君はいつもそうなんだよ」
 ネマシュのかさとウデッポウときのみのサラダを食べながら、ソニアは仕方ないと肩を竦めた。
「いつもぱぱって食べちゃって、すぐにバトルやポケモンのこと始めちゃうの。ダンデ君のおばさんもすごい困ってたのよ、『身体に悪いし、もっとゆっくり食べてほしい』って!」
「キャンプ中もカレーを掻き込んですぐ食べ終わっちゃうから、作りがいが無いのよ」
 ルリナはカマスジョーのバターソテーを一切れ口に運んで、味わうように噛み締めて飲み込むと、じろりとダンデを睨め付ける。
「作る側の気持ちも考えて、少しは味わって食べなさいよね」
「うーん……気を付けるぜ」
 流石に思うところがあったのか、ダンデは気まずそうに頭を掻く。
「でも、味わってないわけじゃないんだぞ。美味いのはちゃんとわかってる」
「そういうことじゃないんだよなぁ」
 キバナは苦笑しながら突っ込むと、ミートパイの最後の一切れを口に放り込んだ。
「まあでも、美味いと食べるスピード上がるよな」
「もう、キバナ君てば」
 たじたじな様子のダンデに少しだけフォローを入れると、女子二人からは呆れたようにため息をつかれた。

 食事を終えてロンド・ロゼに戻る道中はとても賑やかだった。
 自分が住む街のこと、家族のこと、今日のバトルのこと、食事中に話しきれなかったことを話していると、ふとルリナが足を止め、じっと一点を見つめた。
「どうしたんだ」
 キバナが声を掛ければなんとも気恥ずかしそうに首を振る。なんだなんだと彼女の見ていた方向を窺えば、そこには小さな公営コートがあった。
「ルリナ、コートがどうかしたの?」
……コートがっていうか、」
「うん」
「今日、私だけダンデと戦ってないなって思っただけ」
 ムウと唇を尖らせたルリナと、すぐ横にあるコート、そして四人に漂う間。
「よし!」
「よしじゃない!明日リーグ本戦でしょ!」
 コートへ駆け出そうとするダンデに迷わずツッコミを入れるソニアに若干同情しつつ、まあそうなるだろうなとキバナは納得していた。
 ダンデはきっと、バトルのことで自分を全て埋め尽くした人間なのだ。さっきの食事だって、食べ応えがあって腹が埋まるから肉と答えただけで、ダンデはパパッと手早く食べれるものならきっとなんだってよかったのだろう。自分と戦いたい人間がいるのなら、一も二もなくバトルしようと言うのだろう。
 他をおざなりにしてまでも、バトルひとつを道にしてただ真っ直ぐに楽しそうに駆けて行く。
(きっとそんな奴だから、キバナはあいつに惹かれるんだ)
 ひたすら夢中になる姿は、周囲を共に走らせるほどに魅せるもの。まるで光に惹かれる虫のようだとキバナが小さく笑うと、ソニアの説得に失敗したダンデにグイグイと袖を引かれた。
「キバナはどう思う?」
 どうしてもバトルしたいというダンデと、すごく戦いたいけどソニアの言うことはごもっともだというルリナと、明日のダンデを案じるソニア。三人に見つめられたキバナはにっかりと笑った。
「道具なし、もちものなし、一対一でひんしになったら即終了。それなら長引かないんじゃないか?」
「よし、やるぜルリナ!」
「見てなさい、一瞬で流してやるわ!」
 勇んでコートに入っていく二人を追って、ソニアとキバナもコート脇のベンチに座る。
「ダンデ君のことだから、明日も完璧に仕上げてくるんだろうけど……、なんで止めなかったの?」
「いや、止めるべきだとは思ったんだけどさぁ」
 じとりとした目のソニアに、キバナは言い訳するように口を開く。
「なんか、ダンデが楽しそうだしいいかって思っちゃったんだよな」
 コート上にリザードンを出したダンデは、いつか遠目で見た、そして今日キバナと相対したように楽しそうに目を輝かせていた。
……私、キバナ君は私とおんなじなのかなって思ってたの。でも違うみたい」
「どういうこと」
「止めなかった罰よ、自分で考えて」
 そうこう話している間に、ダンデとルリナのバトルが始まった。相性はカジリガメが有利だが、どうやらリザードンの方が一枚上手なようで攻撃を避け、受け流し、少しずつ着実にダメージを与えて行く。
気がつけば街行く人々が立ち止まり、どんどん観客が増えていたようだ。ヤジや応援の声が響く野外の開放された小さなコートが、歓声に包まれるスタジアムに重なった。
瞬間、高く突き上げられた拳、新たな王者を称える歓声、そんな情景がキバナの心を吹き抜ける。
 明日、自分達は伝説の始まりを観るのだと、キバナはどこか確信していた。

 その時が訪れたのは、ダンデがチャンピオンになって初めての防衛戦となるリーグが開催される季節だった。
 チャンピオンカップ決勝戦まで勝ち上がったのはキバナとソニアだった。どちらが勝ってもおかしくない手に汗握る接戦に「歴史に残るぐらいの熱く燃え滾るバトルだ」と答えたのは、昨年と同じく準決勝でキバナと戦い敗れたルリナだ。
 そして迎えたダンデの初防衛戦は、それこそ本当に歴史に残るであろうものとなる。若き王の喉笛に噛みつき、玉座から引き摺り下ろさんとする挑戦者は昨年のチャンピオンカップ準優勝者であり今年の優勝者、ナックルジムより次期ジムリーダーとして名を挙げられたキバナだった。
 僅か十一歳でガラル最高峰のジムの次期トップに名指しされた少年と、僅か十歳でガラル地方のトレーナーの頂点に座した少年の一進一退で進む試合。最後、視界を烟らす砂嵐が消えたその場に立ち続けるダンデのリザードンを見た瞬間の観客からの爆発するような歓声は、キルクスタウンにまで届いたという噂さえある程だ。

 試合の翌日、ダンデ、キバナ、ソニア、ルリナの四人は、バウタウンのルリナの家に集まっていた。一年前のジムチャレンジからすっかり仲良くなった四人は、何かあってもなくても度々集まるようになっていた。
 お疲れ様会と称した打ち上げには、デリであったり、ルリナの父が漁で獲ってきたバウタウン特産の水ポケモンを使った魚介料理がテーブルに並び、あまりの美味しさに舌鼓を打つばかりだ。
「魚もうまいな!」
 誘った当初「俺も行っていいのか」と不安げだったダンデも、どうやら楽しくしているようでキバナは内心ほっとしていた。
 一端に空気を読もうとして誘いを断ろうとするダンデの背を、いいから来いと思い切りぶっ叩いたのは誰だったか。負けて何も思わないわけじゃないし、むしろ悔しくて頭がどうにかなりそうで、どんな顔で会えばとも思った。それでもダンデが自分達にとって大切な友人であることに変わりはないのだ。気を使われる方がよっぽど辛いんだぞと告げた時のダンデは、ちょっと面白いくらい間の抜けた顔だった。
 美味しい料理を食べて、バトルやポケモンの話で盛り上がる。そうしていつの間にか日が傾いてきて、でもまだお開きには早いからと手持ち達と一緒に遊んでいた時だった。
「私、今回でジムチャレンジ、終わりにするよ」
 庭に続く開けた窓から遊んでこいとボールから出した相棒たちを眺めていたそんな時に聞こえた言葉は、一瞬でも時間を固まらせるには十分だった。
……ソニア?アンタ何言ってんの?」
 ルリナは呆然とした様子でソニアに問う。
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。私、笑えない冗談は言わないじゃん」
 冗談だと言うことを期待して、返ってきた言葉はその期待をぐしゃりと潰すものだった。
「あんなに頑張ってたのにやめるって言うの⁈」
 ルリナの泣きそうな声がキバナの心を震わせた。ああそうだ、あんなに頑張っていたのに、あそこまで上り詰めたのにどうしていきなりそんな、
……いきなり?)
 それは本当にいきなりだったのだろうかと思い返す。昨年、初めてソニアと話した時。控室を出たあの時、今と同じ顔をしていなかっただろうか。寂しいような、ほっとしたような、なんとも言い難いこの顔を。
……理由、聞いてもいいか?」
 ダンデの口から発せられたのは、あまりに静かな声だった。てっきり「嫌だ」と言うかと思っていたのに、普段とはあまりに様子が違う。
「私ね、博士になりたいの、おばあさまみたいな立派な博士に」
 ソニアの祖母は大マックス研究の第一人者であるマグノリア博士だ。そういえば最近、ソニアはキバナにナックル宝物庫貯蔵の文献のコピーが欲しいと言ってきたことがあった。そういう依頼は個人からでも受け付けているから了承した。てっきり博士から頼まれたものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
……パルスワン達はどうするの。バトル大好きじゃない、あの子達」
 四人の視線は庭で遊ぶソニアのパルスワンとアーマーガアに向いた。
「しばらくポケジョブに出すよ。ワイルドエリアでのフィールドワークを始めたら戻ってきてもらうつもり。そうじゃないと危ないし、……なにより、私が寂しいし」
……そう」
「うん。……それで、研究者としての相棒はこの子」
 ソニアが新たな相棒と呼ぶポケモンは、ボールから飛び出ると特徴的な鳴き声を上げた。黄色いマフに緑の目、笑みを描くような柔らかな口元のポケモン——ワンパチは、ソニアに抱き上げられると嬉しそうにその頬を舐めた。
「パルスワンの子でね、ほら、よくダンデ君の道案内してくれたでしょ?」
……ああ、よく覚えてるぜ。ワイルドエリアでいつも助けてもらってた」
「ふふ、バトルは苦手だけど、道を覚えたり物を持ってきたりするのは得意なんだよ」
 遊んでいたパルスワンが寄ってきて、ワンパチの頬を舐めた。ソニアが抱えていたワンパチを下ろすと、パルスワンは我が子の毛繕いをし始める。ソニアの右手にダイマックスバンドがつけられていないことに、キバナは今頃気付いた。
「三人とも頑張ってね。私も頑張るからさ」
「っ当たり前でしょ!ソニアも絶対に博士になんのよ!」
 ソニアに抱きついて流す涙は、道を違う友人へのルリナからの餞別だろう。
 ふとキバナはダンデをそっと窺って、視線を逸らす。悲しそうに歪められたその顔は、キバナが見ていいものだとは思わなかったから。

 日もとっぷり暮れてそろそろ帰ろうと、三人はルリナの家から出る。駅に着いたはいいが、バウタウン駅から出るはずのナックルシティ直通列車はどうやら車両トラブルで遅れているらしかった。
「俺の乗るシュートシティ行きの特急はナックルには停車するけど、遅延でまだ当分来そうにないし……
「フライゴンの背中に乗れたら楽なのにな」
「本当にね。でも免許持ってても十五歳までは夜間の飛行は禁止なんだし、我慢しないと」
「早く大人になりてぇなぁ」
 全くだと同意を返してくれるダンデソニアと共に電光掲示板を見つめる。
 ガラル地方には『免許を持つ限られた人間しかポケモンに乗っての移動ができない』という他の地方には無い法律があるが、十五歳以下の子供にはさらに『夜間飛行の禁止』という制限がつく。ダンデもソニアもキバナも、今ここにはいないがルリナも免許は持ってはいるが、十五歳以下のため日が暮れたこの時間帯の飛行は禁止なのだ。子供を守るためのルールなのはわかるが、こういう時はなんとももどかしく感じてしまう。
「あ、エンジンシティからナックル行きの電車出てるよ!」
「え、どこ」
「右端の掲示板に書いてあるよ。私の乗るエンジンシティ経由ブラッシータウン行きが一番早く来るから、途中まで一緒に乗っていこう」
「お、それいいな。そうしようか、な……
 同意しようとしたところで隣にいるダンデを見る。この一年間でダンデのことはよく知れたと思うが、その中でも一番印象深いのは超がつくほどの方向音痴ということだった。エンジンシティの巨大な昇降機ですら見失うそれは、もはやある種の呪いと言ってもいい。そんな彼を今ここに置いて行くのはいささが気が引けるどころの話ではない。
 キバナの視線に気付いたのか、ダンデは心配するなと笑った。
「安心してくれ、いざとなったらリザードンに案内してもらう」
「普段ボールに入ってるポケモンの方が道を覚えてるのって、どうなんだろうな……
 遠い目をしながら言うと、プラットホームにキバナとソニアが乗る予定の電車が入ってくる。慌ててチケットを買って改札口に向かうと、ダンデに呼び止められて振り返る。
「またな!」
「おう、またな!」
「じゃあね、ダンデ君」
 元気に笑うダンデに挨拶を返して、改札を抜ける。
 いつもと同じ別れの挨拶のはずなのに、キバナには何故だかひどく寂しく感じた。

 車内は時間が遅いという事もあって、普通に座れるぐらいには空いていた。向かい合わせに座って、最初は他愛ない話で盛り上がったが、疲れも溜まっていて次第に言葉数が少なくなる。話題もなくなって窓の外を眺めれば、夜に飲まれた放牧地と遠くに灯る家々の灯。
「私も、もっと頑張れたらよかったのになぁ」
 ポツリと小さく呟かれた言葉は、きっとキバナに聞かせるためのものでは無いのだろう。閉ざしていた口を開いて、また閉じる。自分が一体何を言おうとしていたのか、キバナは自分のことの筈なのになにもわからなかった。
 いくつかの小さな無人の停車駅を過ぎて、エンジンシティの大きなプラットホームに入る。キバナは自分の荷物を持って席を立った。
「じゃあね、キバナ君」
「おう、じゃあな」
 いつも通りの挨拶をしてキバナは列車を降りた。やっぱりキバナにはそれが寂しく感じて、乗り換えの電車に向かう足がほんの少し、遅くなった。

 キバナがジムリーダーに就任して半年経ったある日、休憩時間にテレビをつけるとダンデが映し出される。どうやら今は親善試合を行っていたらしく、バトル相手と握手を交わす姿がカメラに抜かれた。相手とにこやかに話すダンデも、観客に手を振る姿も画面越しに久々の彼を認識した瞬間、キバナは何か嫌なものを感じた。
「キバナ、どうしたんだい」
……ダンデの様子が変なんだ」
「どういう風に?」
「全然笑ってないんだ」
「笑っているじゃないか」
「違う!あんなんじゃないんだよダンデは!……あんな変に空っぽなのじゃないんだ!」
 あの日見たダンデの笑顔は、こんなアニメに出てくるヒーローのようなお手本じみた笑顔じゃない。人形のように印刷されて画一的な中身のない笑顔じゃない。ただひたすらに楽しいと、それだけを訴えてくる爛々としたお日様のような笑顔だ。
……なあミスター、お願いがあるんだ」
「なんだい、キバナ」
「明後日の午後と明々後日、ジムをあなたに預けたい」
 キバナの言葉に目を窄める先代の彼は、しかし言葉の続きを促すように小さく顎でしゃくった。
「ダンデ、明日と明後日は休みって言ってたんだ。それでオレ様、ダンデと一緒に、」
「それはお前が本当にやるべきことかい?」
 遮って伝えられた言葉に息を飲んだ。キバナを見つめる視線はバトルの時とは違う、深海のような静かな冷たさを纏っている。それにのまれないようにキバナは牙を向いた。
「ミスター、オレはやるべきことじゃなきゃやっちゃいけないのか。キバナがやりたいと思ったことをやるのは許されないことなのか」
「それがキバナ個人でやることならもちろん私は止めないさ。だが今回は、君が総責任者であるジムのトップを私に一時的にでも任せたいと言っている。組織のトップの代理というのはね、そう簡単な理由で請け負えるほど楽なことではないんだよ」
 ぐうの音も出ないほどの正論に噛みついた勢いがぐっと弱まる。キバナが理由としているのはただの自分の感情で、そんなもので組織を動かすわけにはいかない。
 それでも一蹴しないのは彼の優しさだ。彼は理由を示せと言っている。キバナでなければならない理由を示せと、彼の目と声が言っている。そしてきっとそれが示せれば彼はキバナの申し出を受けてくれるのだ。
……多分、絶対オレじゃなきゃいけないってことはないんだ。オレ以外にもきっといるんだよ」
 彼はそういう男だとキバナはきちんとわかっているが、それでもキバナは馬鹿正直にそう告げた。だってダンデのそばにいてやれる人間はきっといる。彼の母や、ソニア、ルリナ、他にも沢山、連絡さえ取れれば彼のそばにいてくれる存在はあるのだ。それらの存在を無視してしまうのはどうにもキバナの心が落ち着かない。
「それなら、」
「でもキバナがやりたいんだ。キバナじゃなきゃ嫌なんだ」
 だとしても、彼のそばにいるのは自分でなくては嫌なのだとキバナの心が叫んでいる。呆れるような彼の視線にキバナは視線を落とした。自分だってこれは子供の癇癪だとわかっている。それでももっともらしく理由なんて付けられるほど、キバナは自分が大人ではないことを理解していた。
「なあミスター、オレ様、人は変わっていくってちゃんとわかってるんだ。当たり前のことだよ、プライマリースクールの学生にだってわかる。……でも、本人が望んでない方に誰かの手でねじ曲げられていくのはなんか、違う気がするんだよ」
……
「オレ様、自分の大切な奴が人形みたいに変わっていくの見てるだけなんて、いやだ」
 もしかしたら勘違いかもしれない、理解しているなんて自惚れかもしれない。それでも一度感じた違和感は木の根のようにキバナの心臓に張り巡り、この違和感を枯らせてはいけないのだと主張する。
……今回限りだよ、キバナ」
 頭上から降る言葉にパッと顔をあげると、仕方ないという風に苦笑いを浮かべる先代が目に映る。
「次回からはちゃんと事前にきっちりと予定を立てて、休暇を取りなさい」
 わかったね。
 まるで父のように言い含めてくる先代にキバナは抱きついた。
「ありがとうミスター!……わがまま言ってごめんなさい」
「いいさ、子供っていうのはそういうものなんだから」
 彼はキバナの頭を撫でると、「みんなにどうやって説明するか、ちゃんと考えるんだぞ」と笑った。

「ダンデ、キャンプ行こうぜ」
 いかにも高そうなマンションのエントランスで、高層階の部屋の番号を入力して呼び出しボタンを押し、呼びかける。
……すまないキバナ、今はそんな気分じゃないんだ」
 気怠げな声色のダンデに一瞬怯みそうになるが、こんなところで退いてはいけないとキバナは強気に口を開いた。
「いいから行くぞ」
「えっ」
 いつもなら断れば引き下がるキバナが今日はそんなそぶりもなく我を通そうとしていると、ダンデは珍しく困惑した声をあげた。
「いやていうか、キバナはジムあるだろ」
「先代とリョータ達に預けてるから大丈夫」
「おいちょっと待て、それ本当に大丈夫なのか⁈」
「オレ様が大丈夫って言ってんだから大丈夫!いいから早く準備しろよ」
 早くこないとロトムにいたずらけしかけるからな。そう言った二十分後、慌てて準備しましたと言わんばかりのぼさぼさな頭のダンデが出てくる。対してキバナは夏にしては厚着気味なアウターにトレッキングシューズのしっかりと整った格好で、あまりに正反対な様子に笑ってしまった。
「めっちゃぼさぼさじゃん」
「君が急かすからだろ!」
 少し息を切らしたダンデがなんだかおかしくてさらに笑いそうになるが、これ以上はきっと不機嫌にしてしまうだろう。
「ほら、早く行こうぜ」
 キバナはダンデの手を引いてマンションから出る。ボールからフライゴンを出せば、彼はダンデとキバナを交互に見て「くるる」と嬉しそうに鳴いた。

「ここをキャンプ地とする!」
 フライゴンを先導にして着いた場所は、ワイルドエリアの奥深く、木々が生茂る間にできた小さな原っぱだった。
「どうしたんだキバナ、なんかおかしいぞキバナ」
「なんにもおかしくないぜオレ様は」
 どさりと荷物を下ろしてボールから相棒達を出してやると、皆一斉に遊び始める。困惑しっぱなしのダンデとリザードンに擦り寄るフライゴンをスマホロトムに納め、キバナはぐっと伸びをした。
「リザードン級のカレーたくさん作ってさ、夜はこないだ見つかった新種のポケモンの話しながら一緒に寝ようぜ」
 リュックからテントを取り出すとバサバサと広げ、ポールを通していく。エンドピンを差し込めばポールが張って、インナーテントが立ち上がる。人と同じくらいの大きさのポケモンなら一緒に寝れ程のテントは、子供のキバナには少し大きすぎる。いつもは手持ち達と一緒に寝るが今日ばかりはそれはおやすみだ。
「それで朝になったら残りのカレーを食べて、いっぱいバトルするんだ。……な、いい案だろ?」
 キバナがそう笑うと、ダンデは連れてきていた手持ちをボールから出し、リュックを下ろす。キバナがインナーテントに付いているフックをポールにかけていると、ダンデはキバナとは対角線のフックを手に取った。
「テント立ち上げるの、手伝うぜ」
「ん、ありがと」
 一人でも立ち上げられるが、二人の方が早く終わる。日が暮れないうちにカレーを作って、相棒たちと遊ぶ時間を多くしたいと二人は作業の手を早めた。

 ポケモン達とたくさん遊んで、ダンデ好みの少し辛いカレーを山ほど作ってたくさん食べて、また遊ぶ。そんなことをしていれば、日が傾くのはすぐだった。カレーに使っていた焚き火は絶やさず、そのまま火の近くに座れば肌を熱気が撫でる。側に二人分置いていたおいしいみずのペットボトルがちらちらと火の光を反射させて、興味深そうにヌメルゴンとオノノクスが地面に写る光に寄っていた。
……ソニアに、招待状渡したんだ。ジムチャレンジはしないって言ってたけど、たまになら、バトルだけならって、思って」
 火に枝を足していたダンデがこぼしたそれにキバナは内心首を傾げる。招待状というのは、つい先日行われた不定期開催のトーナメントのものだろう。キバナもダンデに誘われて参加したが、そこにソニアの名前はなかった。
「ソニアも参加してたのか?」
「いや、返されてしまったんだ」
「返された……?」
「ああ、返された。……もう、バトルはしないんだって」
 ダンデの声が震えて、その手は強くズボンを握りしめていた。
「キバナ、おれ、さびしいよ」
 ダンデの声に寄ってきていたリザードンが、慰めるようにダンデの背に頭を擦り付け、小さく吠えた。薄く張っていた涙の膜が破れて、泣き声が辺りに響く。
 ソニアとバトルしたかっただけなんだ、でももうできないんだ。迷子になった時だって何ともないという顔をしていたクセに、ダンデは今、キバナの前でくしゃくしゃに顔を歪めて迷子のように泣いている。キバナの大好きな笑顔を歪めて泣いている。
……さびしいな、ダンデ。オレ様もすごいさびしいよ」
 ダンデが寂しいとキバナも寂しい。それが共通の友人を想ってのことなら尚更。自分ではその寂しさを埋められないのだと分かっているから、殊更に。今ダンデの寂しさを埋められるのはソニアだけで、でもそれが果たされる時はきっと一生来ないのだ。じわりとキバナの眦に涙が滲んだ。
 それでもやはり連れ出してよかった。きっとダンデを今誰かが連れ出さなければ、感情を吐き出すことも、泣くこともせずただそのままに彼は日々を過ごしていくことになっていただろう。それははたしてどれだけ苦しいことなのか、キバナはそれをまだ知らないけれど、きっととても苦しくて切ないことなのだということはなんとなくわかっていた。
 一頻り泣いた後、ダンデは袖で涙を拭っておいしいみずを一口飲んだ。キャンプの火はぼんやりと自分達を照らして、ゆらゆらと生き物のように蠢いていた。
……俺、ソニアの前では泣かなかったんだ。ガラル紳士は淑女の前では涙は見せないんだって、じいちゃんも、ドラマの主人公も言ってたから」
「ダンデお前、……ドラマとか観るんだな」
「俺をなんだと思ってるんだ」
 バトル馬鹿だと告げると「それは君もだろ」と返され、そのままおふざけのように遊び始める。
 頭を締め付けるように重たかった空気がゆっくりと自然の中に溶けていって、無意識に入っていた肩の力が抜けていくのに安堵した。
 どうにもままならないのが人生だとしても、そのままならなさを飲み干すことができるような時が来る。キバナはそう信じている。だってそうでもしなければ、かつては子供だった大人達が今頃どうして生きていられるか。
(なあダンデ、早く大人になりたいな)
 いつかの駅で言い合った「早く大人になりたい」という願いがここまで切実なものになるなんて、キバナはまったく想像もしていなかった。それでも、願うだけならタダだろう。
 夜空に笑い声を響かせながら、もうダンデが泣くことがなければいいと、キバナはそう思った。

 ダンデが四度目の防衛を果たした年の深い冬の日だった。
 数年前のあの日から毎月の恒例となったキャンプは、今日もいつもと同じように行われる予定だった。テントを立てて、いつもの様にカレーを作り、いつもの様にバトルをする、そのはずだったのだ。
 成長期を迎えたふたりに合わせて大きく新調した一緒のテントに寝転ぶと、なぜだかいつも以上に静かな空間に違和感を感じる。どうしたんだと口を開こうとしたキバナは、ダンデの言葉に唖然とした。
「俺が強いのは俺のせいなのかな」
「は?」
 一瞬、意味がわからずに間抜けな声がまろびでる。あんぐりと口を開けたままダンデの顔を見た。今ダンデは何といったのだろうか。黙りこくったキバナの思考を正しく理解したように、ダンデは言葉を繰り返した。
……俺が強いのは、俺のせいなのかな、と言った」
 何でもない風を装ったダンデの声色は、装ったとわかる程度には強がりの色を乗せていた。
「なんでそう思ったんだ?」
……この間、たまたまソニアと会ったんだ。ほら、今はマグノリア博士のところで手伝いをしているだろ」
 ポケモン研究の世界は深く、博士どころか助手になるのだって並の努力じゃなれはしない。特にダイマックス研究の権威であるマグノリア博士の助手ともなれば、その座を狙う人間は数多だろうし、それこそ血の滲むような努力をしてもなれるかどうかだ。孫娘を特別に引き上げるような人ではないことはダンデも、もちろんキバナも十二分に知っている。それでも自分達と同い年の若いソニアがマグノリア博士の手伝いを許されたというのだから、それを聞いたときはちょっとしたお祭り騒ぎになったものだ。だがそんな彼女と会ったことが、何故さっきの言葉に結び付くのか。
「研究の成果とか、育成方法とか、そういう話をしていただけなんだ。でもそこに記者がたまたま通りがかって、『ぜひ取材を』って」
「え、アポ無しの取材はNGってローズさん言ってなかったか?」
「うん……俺もそう言って断ろうとしたんだ。でもどうにも押しが強くて」
「どこの会社だよ」
「えっと、——ってとこ……あ!でもローズさんがちゃんと対応済みだから、そこは安心していいぜ」
「そりゃよかったわ」
 聞き覚えがある社名にキバナは眉を顰める。自分がナックルジムのジムリーダーに就任した時から良くも悪くも(九割の確率で悪く)書き立ててくる大衆紙だ。そんな輩が声をかけてくるという時点で起きる未来は目に見えているが、ローズには報告済みだという言葉に少し安心した。キバナはローズのことがあまり好きではないが、彼が仕事のできる人間だということも重々承知している。彼が対処すればきっと悪いようにはならないだろう。
「なんだか嫌な予感がしてな。もういっそ無理にでも離れようかと思ったんだけど、そうする前にソニアが捕まってしまったんだ」
 ダンデはキバナの方に向き直る。まるで刺を飲み込んだみたいな様子で、浮かべた笑みは泣き出す寸前のように歪んでいた。
……『トレーナーとして将来有望だったソニア選手がトレーナーを辞めたのは、チャンピオンが強すぎたせいですか』」
……え?」
「『他にもチャンピオンと戦いトレーナーを辞めた選手はいますが、ソニア選手がトレーナーを辞めた理由を教えてください』。……三流のタブロイド紙が言うことだ、気にする方が間違ってるのはわかってるんだけどな」
 記者の言葉をそのままなぞったであろうダンデの声を聞いて、心の底から湧いて出たのは紛れもなく怒りだった。
 チャンピオンカップ準優勝にまで達したソニアがトレーナーを辞めた時、一番心を痛めたのは他の誰でもないダンデだ。「もうバトルはしない」とソニアから不定期開催のトーナメントの招待状を返された時、何でもないように振る舞ったとキバナは聞いた。そんなダンデがキバナの前で泣いた姿は、決して忘れることはないだろう。ソニアだって悩んで悩んで悩み抜いて、その末での決断だったことは想像に難くない。彼女がトレーナーをやめたあの日に呟いた言葉が真実だ。そんな二人に、そんなことを言ったのか。今目の前に件の記者がいたら左頬に一発入れているところだ。
だがキバナの口からは心のうちに浮かんだ言葉は出ない。出せないという方が正しいかもしれなかった。これがもしダンデが普段の調子であったなら「気にするな」と肩を叩き、明日朝早くに起きて気晴らしにバトルでもしようと声を掛けるだろう。きっといつもならそれが正しい対応で、でも、だからこそ今のダンデにそれを言うことはできない。だってダンデは、彼がそう言った通り、そんな言葉は気にしない方がいいなんて分かりきっているのだ。キバナだってジムリーダーになった当初は勝手が分からず色々と迷惑をかけたものだけど、少し経てばどんな言葉を受け取って、どんな言葉を聞き流せばいいのかなんて嫌でも学ぶ。ダンデもチャンピオンになってから、ローズであったりオリーブであったりから色々と教えられているだろうし、そんなことは心得ているだろう。それでも、そういう知恵を学んでいても今回のように深く傷つけられることだってある。だとすればそれは「気にするな」で流していいことではないのだ。
「わかってるんだ、けど、」
 ダンデの普段よりも少し忙しない呼吸音が耳に付く。
……ソニアがな、痛いって顔をしたんだ。……ここ、ここをな、抉られたみたいな顔」
 ダンデは左胸の心臓のあたりを強く握りしめ、すんと鼻をすする。
「一瞬だったから他にはわからなかっただろうけど、俺にはわかったんだ。……だって俺たち、ずっと一緒に旅してきたんだぜ」
 知ってるよと、心の中で呟いた。ダンデとソニアがどれだけ長いい時間を共にしてきたか、キバナはダンデから何度も聞いた。ジムチャレンジに参加する前から、それこそ赤ん坊の頃から一緒にいたと。
 一緒に大きくなって、一緒にトレーナーになって、一緒にジムチャレンジに参加した。そんな二人が道を別つ姿は、大衆には大層悲劇的でドラマティックに写るだろう。ああ腹立たしい、勝手に娯楽にされて勝手に消費される身にもなれというものだ。キバナは舌打ちの代わりに、軋む音が鳴る程強く歯を噛み締めた。
「彼女は俺のライバルだったけど、大切な友達でもあって、」
……
……俺は、バトルが楽しくて、勝てればもっと楽しくて、だから強くなりたいし、トレーナーならみんなそうだって思って、」
……ダンデ、」
「でもそのせいで、みんなや彼女のことを傷つけていたんだとしたら、楽しいはずのバトルを俺のせいで楽しく出来なくさせてたんだとしたら、」
「ダンデ、それ以上は、」
「キバナ」
 ダンデの口から彼自身を傷つける言葉を聞きたくなくて止めようとした言葉が、ダンデのキバナを呼ぶ声によって遮られる。止めてくれるなと意思を込められた悲痛な声が、キバナの声帯をきつく締め付けた。
「どうすればいいのかわかんないんだ」
 静かに、けれども確かに揺らいだ声と共にダンデの目から涙がこぼれた。一滴溢れればあとはもう堰を切ったように、枕代わりのクッションに染みを作る。
「今まで、けっこうたくさん頑張ったんだぜ。カメラの前でたくさん笑って、スポンサーさんといっぱい話して、リザードン達との時間削れちゃったけど、でも俺、チャンピオンだから、バトルは楽しいんだってみんなに伝えるのも俺の役割なんだって」
……
……でも、記者も、ネットでもみんな言ってるんだ。俺がバトルしたら、強すぎるって、戦えないって、……ッおれ、のせいで、楽しく思えないって、」
 無理やり引き上げていた口角が強張り、ヒュッと高い音が鳴った。
……っ全部、ぜんぶ、俺のせいって!」
 絞り出すように吐き出された言葉は、数年以上池の底に溜め込まれた泥濘のように重かった。
「バトルが楽しめないのも!トレーナーを辞めるのもッ!みんながあきらめるのは全部俺のせいって、俺が強すぎるせいって!……っなんだよそれおかしいだろ!」
「っ……!」
「俺が、強いのは!俺が頑張ったから!強くなれるくらい努力したから!負けたの俺のせいにするなよ!みんながま、負けたのは!俺のせいじゃないしっソニアや他の奴らがトレーナー辞めたのも!俺のせいじゃない!なんでおれが!なんっ、で、おれのせいにッするんだ!」
 うずくまるように体を丸めたダンデは、力が入り過ぎて白くなった手で頭や首を掻き毟る。過呼吸のように荒れた呼吸はこちらまで苦しくなってしまいそうで、体を起こしてその背を擦っても乱れた息が整うことはない。
「おれ、俺はっバトルしたいッ、だけなのにっ!おれ、は!」
「ダンデ!傷ついちゃうよ、なあ!」
 指に絡まる長い髪が、指先と首筋に滲む赤が酷く痛々しい。どうにかやめさせようと腕を掴むが、そんなもので止むような気配は到底無く、幾つも傷が増えていく。
「お、おれのせいじゃっない!ちがう!俺のせ、じゃッ、」
「ダンデッ!」
 ビリビリと震えるほどの大声にダンデの肩が跳ねて、体を掻き毟る手が止まる。笛が鳴るような呼吸音がテントに充満して、重々しい空気に心臓が潰されそうだった。
……痛いよ、ダンデ。痛いからやめよう」
 はたして痛いのは体だろうか、それとも。何とも言わず、髪を掴んだままの手にそっと指を這わせ、絡んだ菫色を解いていく。いったいどれだけ強く力を込めていたのか、ちぎれた髪がはらはらと落ちて薄手のキャンピングマットレスに何本も線を描いていった。
……って、だって、」
 グローブを纏っていない生身の手が、再び彼自身を傷付けようと動くのを優しく握ってとめる。傷付いた項を守るようにぎこちなく撫でると、行き場を失った左手がキバナの服を弱々しく掴んだ。
「ッんなの、……っれの、せ、じゃ、ない、……ッ!」
 もっとたくさん話を聞いてやればよかったと、キバナは泣きたくなる程後悔した。壊れたラジオみたいにおんなじことを繰り返す彼は、もうそれしか言葉にできることがないのだろう。たとえキバナが気晴らしに外に連れ出していたとしても、それで多少なりとも溜まっていたものを晴らせていたとしても、言葉にして発散させなければ心の隅の残り滓は少しずつ底に溜まっていく。ずっと溜め込んできた粘度の高い濁った感情は、音となって出る前に喉にへばり付いてダンデから離れようとしないのだ。
……ダンデ、キバナの言葉聞いてくれる?」
 小さく、本当に小さく頷いたダンデに、きっともうこれは必要ないと手をゆっくり離す。引き攣った声を上げて泣くダンデに覆いかぶさるようにして、力一杯抱き締めた。
「オレ様もすごいいやなんだけどさ、本当にやなんだけどさ。……でもたぶん、そういうこと言う奴はさ、今までも沢山いたと思うし、これからも沢山出てくると思うんだ」
 ダンデは小さくうずくまる体をさらに縮こめようとする。もうこれ以上自分を傷付ける外界に脆いところを晒さないように、ちいさく、ちいさく。チャンピオンではないただのダンデがとる自分の守り方はあまりに幼くて、鳩尾の辺りが締め付けられるように痛くなる。
……でもな、それでもな、そんなのダンデのせいじゃないよ。キバナは知ってるし皆わかってる。全部ダンデのせいなんて間違ってるし、そんなの絶対おかしいんだよ」
 きっと今すぐ傷を癒すことなんてキバナにはできやしないし、そんな魔法が使えるならとっくの昔に使っている。それでもせめてその傷を覆うかさぶたになれるように、必死になって言葉を紡いだ。
「ダンデ、お前のせいじゃない。これは誰のせいでもないんだよ」
 これ以上傷に傷が重なりませんように。少しでも治りが早くなりますように。これ以上、大切な彼が傷付きませんように。そんな祈りをのせた言葉を、ダンデのためにただ紡ぐ。
……もういっかい」
 もういっかいだけ、いって。顔を伏せたままか細く呟く。ダンデが欲するのなら、何度だって繰り返そう。キバナの言葉でいいのなら、それをお前が欲するのなら、いくらだって手放しで渡そう。それだけが今自分にできる全てだ。
「お前は悪くない、お前のせいじゃない。全部をお前のせいにするなんて、そんなのオレ様が絶対に許さない」
 抱き締めた体から漏れ聞こえる嗚咽を、言葉を繰り返しながら聞いていた。

 泣き疲れて眠るダンデの横にあらためて寝転がる。ライトに手を伸ばして明かりを絞ると、はっきりと映し出されていた彼の輪郭が夜に溶けるようだった。
……ごめんな、ダンデ」
 起こさないように囁き声で発した言葉は、眠る彼には届かずに霧散する。
……ッおれ、のせいで、楽しく思えないって、』
 泣きながら苦しいと訴えるダンデに、それは違うと断言できなかった自分が悔しい。確かにダンデとのバトルは他のものとは一線を抜きん出る程、いっそ燃え尽きてしまうのではないかと錯覚するぐらいに熱く、楽しく、この瞬間が終わらなければいいと思ってしまう。そのくらいキバナはそれを愛している。そしてそれと同時に「早く終われ」と切に願う程辛く苦しい時間でもあるのだ。別にダンデと戦うことが嫌なわけじゃない。ただ、ダンデの強さは他とは明らかに格が違いすぎるのだ。卓越したバトルセンスと常人とは一線を画す成長の振り幅は、すぐに周囲を置いていく。追い付こうと必死に駆けてもそれを振り払うスピードで先に行く。焦がれて手を伸ばしても追い付けないそれは、はたしてどれほどの絶望か。この歳でトップジムリーダーにまで上り詰め、チャンピオン戦に毎年挑戦するほどの実力者であるキバナですら時折そう感じてしまうのだから、他の人間がどうかなんて火を見るよりも明らかだろう。
……でもお前、なんにも悪くないよな」
 キバナは赤く腫れてしまったダンデの目元を指でなぞる。
 弱いのは、勝てないのは、楽しく思えないのは、そんなものあくまで個々人の問題だ。他人のせいにするのは勝手だが、自分の感情でしかないそれを当人にぶつけていい訳が無い。ましてやこうなった元凶でもある記者はダンデに挑みもしておらず、ただダンデという存在を食い物にしようとしかしていないだけの存在だ。自分のものでもない他人の感情を利用できるだけ利用するその根性は、反吐が出る程憎たらしい。「かわいそうに君の才能はあいつのせいで潰されたんだよ君が今辛い思いをしているのはあいつのせいなんだよ」。そもそもその考え自体が彼らのプライドに泥を塗りたくっていることに気付いているのかいないのか。全力で挑んで負けた彼らに対して向ける言葉が『チャンピオンが強過ぎたせい』?ふざけるのも大概にしろ。ダンデと彼らの試合は、そんな一言で済ませていいものなんかでは無いはずだ。
……諦めた奴らの気持ちなんてわかんないんだけどさ、キバナには」
 ダンデの赤くなった鼻をつつくと、むず痒そうにしわが寄る。そんな等身大の自分と同い年であるただのダンデの姿を見ていると、ふと大声で叫びたくなった。お前らは何を見てるんだ、こいつもただの子供なんだぞ、目の前に在るものも正しく見れなくなったのか、ダンデが今までどれだけ頑張ってきたのかなんて、テレビやバトルを見ているなら知っているだろうに。
 考えれば考えるほど悔しくなって、こらえる間も無く涙が出てくる。頬を滑り落ちる滴は、ダンデと色違いのクッションになんの抵抗もなく吸い込まれていった。
「ッ……ぅ、うー……
 嗚咽で起こさないように声を抑える。ああ悔しい、ままならない。子供であることがこんなにももどかしいのは初めてだ。
(オレ様が大人だったら、ダンデのことを守れるのに)
 キバナはまだ子供だから、ダンデを傷付けるものから守ってやれないし、まだ子供だから傷付いたダンデにすぐに駆け寄ってやることもできやしない。ダンデの笑顔を曇らせたくないのに、ずっと楽しくバトルをしていて欲しいのに。ああ、ままならない、ままならない。
……ダンデ、」
 子供のキバナが子供のダンデにできる事、それは一体なんだろうか。そんなの考えるまでもなく、最初からひとつに決まっている。
「大丈夫、大丈夫だよ。今までだってこれからだって、キバナがお前のそばにいる」
 起こさないように小さくちいさく潜めた声は、ダンデに届かなくていい。きっと今のダンデにこの言葉が届いたら、彼の重荷になってしまうから。愛すべき幼馴染が、いつか戦ったトレーナー達がバトルから離れていくその現実を、ガムを吐き捨てるように簡単に擦り付けられた彼が聞けば、きっと必死になってキバナの傍にいようとするだろう。離れないように、壊れないようにと躍起になってしまうそれはまるで、産まれたばかりの雛が初めて見たものを親と思い込む刷り込みのようだ。それはきっと彼の枷になる。だからこんな言葉はむしろ届かない方がいい。
……な、ダンデ」
 届かなくていい、知らなくていい、そのまま走り続ければいい。そうやって支えることこそが、キバナにできる最高で最大の献身だ。きっと人が聞けば、そんなことする必要はないと言うだろう、何をそんなに必死になってと笑うだろう。そんな事はわかっている。わかっているが、キバナがやりたいのだから仕方がない。
「ずっと楽しくバトルしようぜ。ずっとそばにいるからさ」
 だってキバナは、ダンデが楽しくバトルをしていてくれれば、笑顔でいてくれるのであれば何だっていいと思うのだ。
 ダンデの頭を優しく撫でると、まだ少し強張っていた顔にふにゃりと笑みが浮かぶ。眉間のしわがすっかりとれた表情はあどけなく、憑き物が落ちたようだった。

(なぁんてこともあったよな)
 遠くなったあの日を思って、キバナは小さく笑みを浮かべる。
 ジムチャレンジもまだ遠い5月の晴れた日、穏やかな日が差す静かなカフェ。年季が入った椅子にもたれると、キィ、と小さく椅子が鳴いた。
 ナックルシティの奥まった場所にあるこのカフェは、老いた店主が長く営む地元の人間が集う憩いの場所。キバナのお気に入りでもあるこの場所で、陽のあたる窓際のラウンドテーブルを共に囲うのはダンデとソニアだ。ソニアが研究をするにあたり宝物庫の管理をしているキバナの協力は不可欠で、通い詰めることも少なくない。そんな彼女とバトルタワーに缶詰のダンデ、そしてジムリーダーとして日々鍛錬を積んでいるルリナに久々に集まろうと声を掛けたのはキバナだった。
「ルリナ、残念だったね。モデルの仕事入ったって」
 あの子こういうところ好きそうなのに。残念そうに肩を落とすソニアの目の前にコルクのコースターが置かれ、その上に琥珀色に透き通るアイスティーがそっと置かれる。ダンデにコーヒーを、キバナに紅茶を差し出したのは優しげに笑みを浮かべた店主だ。
「いつか連れてきて差し上げてください。その時は、とびきりのおもてなしをしますから」
 店主はソニアの言葉にウインクをひとつ返すと、「ごゆっくり」と残してカウンターの中へ戻っていった。
……良いお店ね。私も好きよ、ここ」
「だろ?オレ様のお気に入り。人にあんまり教えないけど、お前らは特別」
「ははっ光栄だ」
 少しくたびれたような顔色のダンデは、しかしその表情は朗らかだった。今日はもう職場には戻らず明後日まで休みだという彼は寛いだ様子でコーヒーに口を付ける。
——それじゃあ、次のメッセージにいこうか』
 カウンターの端に置かれたラジオから聞こえてくるのは、一年ほど前から始まったナックルシティローカルのラジオ番組だ。『ミスター』と呼ばれているラジオDJは声以外の露出が一切なく、知名度が高いというわけではない。だが時折紹介される地方や年代のボーダーを超えた音楽や、ラジオを聴いた人にそっと寄り添うような言葉でじわじわと人気を博し、世代を越えて愛されている。今は番組に届いたメッセージを紹介しているらしい。
『「こんにちは、ミスター」。やあ、こんにちは。「突然ですが、僕はトレーナーをしています。手持ちのポケモン達が僕を信じてくれて一緒に戦ってくれるのが誇らしいし、いつか一緒に世界を旅して、最強のトレーナーになるんだって目標もあった」……へぇ、いいじゃないか。素敵な目標だ』
 『最強のトレーナー』と聞いたダンデの体がピクリと揺れる。その様子にキバナとソニアは顔を見合わせて笑う。きっとダンデは、このメッセージを送った誰かと戦いたいと考えているに違いない。それぐらい彼の思考はバトル一辺倒だということは、キバナもソニアも、きっとガラルに住む人々なら誰だって知っている事だ。
『「すごく楽しかったんだ。相棒達とこのまま駆け抜けていけたらどんなに良いんだろうって。そして、まだ見ぬポケモンとの出会いを夢に見るほど想いを馳せたりもした。……でも最近、悩んでいることがあります」。ふむ、どんな悩みかな?』
悩みとはなんだろうか。ポケモンの育成方法か、はたまた技の構成か。この番組にメッセージを送るということは、このトレーナーはナックルシティの人間だろう。直接話に来てくれれば相談に乗るのに、キバナは独りごちた。
『「自分と一緒にトレーナーになった友人達が、僕より先に進んで行きます。追いつこうと必死に走っても、その背中に触れることすらできないくらいにどんどん、どんどん先に行く。たくさん考えて、どれだけの戦術を試しても、彼らに届くことがない。次第にバトルが楽しめなくなって、それでも彼らは僕と戦った後に笑顔で握手を求めてくる。楽しかったね、また戦おうねと言ってくる。……僕はそれが、とても辛くてたまらない」』
 続けられた言葉は確かにキバナの琴線に触れた。首に走る赤い筋と赤く染まる幼い指、はらはらと地に線を描く紫の髪、涙で荒れて赤く腫れた瞼、引きつった悲鳴。脳裏に焼き付いたそれらは決して忘れることのない、思い出と言うにはあまりに痛ましい記憶。幼いソニアに、そしてダンデに記者が言った言葉は、言い換えればこれなのだ。
 動揺を隠しながらふたりを窺うと、彼らは寂しそうな、あるいは懐かしむような表情でラジオに耳を傾けるばかりだった。
『「僕は彼らがいい人達だと知っていて、僕が追いつけないのは僕のせいだと知っている。だからなおさらどうにも辛くて、どうすればいいのかわからない。彼らに曖昧に笑うことしかできない。あんなに楽しかったはずのバトルが、つらくていやなことに変わっていくことが怖くて仕方がない。ねえミスター、貴方はこういう時どうやって自分の心を落ち着かせていますか?」……メッセージをどうもありがとう、愛すべき僕の隣人』
 落ち着いたテノールがキバナの鼓膜を震わせている。先程思い返された痛みとはまた違う、柔く締め付けるようなそれがキバナを覆った。
 メッセージの彼が持つその感情はキバナにだって持ち得るものだ。追い付けない痛みと、現実を理解してしまう苦しみ、好きが嫌いに塗り替えられていく恐怖。きっと今まで懸命に、それこそ全てを振り切ってまで相棒たちと共に駆けてきたのだろうに。
『そうだな、まず僕は君を……えよ……と思う。なぜか……、自分が本……い時、人……なか………………
……調子が悪いな。すまないねぇ」
 ザザッ、と砂嵐のような音が聞こえて、急にラジオの音声が途切れる。店主がラジオのつまみを回したり、軽く叩いたりしているがどうにも治る気配がない。見るからに年季の入ったそれは、どうやらもうそろそろ役目を終える時期に来ているようだった。
……いつだったかなぁ、私にトレーナーを辞めた理由を聞いた記者がいたでしょう」
 しん、と静まった場にソニアの声と、窓の外から子供達の笑い声が広がった。声変わり前の高いそれは、まるであの頃の自分達のようだと揺れる思考の片隅で思う。無邪気にバトルをできていた頃、しがらみにも何にも囚われず、ただがむしゃらに駆け抜けることができていた頃。あの頃は良くも悪くも、こんな未来が待っているとは露も思わなかった。
「確かにあの人が言った通り、やっぱりやめた理由の中にダンデ君はいたんだよね」
 やめてくれと喉まで迫り上がってきた声を既の所で止めたのは、先の言葉を望むようなダンデの視線。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。どうして彼はそんな目をしているのか、やはりキバナには見当がつかない。だって先に続く言葉はきっとダンデの心を抉る言葉だ。遠い子供のあの日、泣いて喚いて拒絶した刺だ。それを今更、どうしてダンデは欲している。
「ダンデ君とのバトルで、私が私に見切りをつけちゃったっていうのは嘘じゃない。ダンデ君のバトルを見て、私はこんなに楽しむ事はもうできないとも思ったし、……きっともうダンデ君には追いつけないって、そう思っちゃったの」
 カラリ、カラリ、カラリ。
 高い音を立てながら、ストローと共にアイスティーの氷が回る。初夏の陽射しが氷の中で乱反射して、壁やテーブルに光の筋を映し出した。
「私にはもしかしたら、皆が言うように才能があったのかもしれない。バトルを続けていれば、いつかダンデ君やキバナ君、ルリナやネズさんみたいに、トレーナーとして優秀な成績を修められてたかもしれない。……それでも、いつかっていう想いだけで走っていけるほど、人の心は簡単じゃないでしょう?」
 私の心が追い付かなかったのよ。そう言って笑うソニアとは対照的に、ダンデは苦虫を噛んだような渋い顔でコーヒーを啜った。
「すごい顔してるね、ダンデ君」
……まあな」
「でも勘違いしないでほしいのはさ、そんなのはダンデ君のせいじゃないってことね」
 ソニアの言葉に、キバナは思わず目を瞬かせた。コーヒーの水面に落ちていたダンデの視線も驚いたようにソニアに向いて、困惑げに揺れる。
「責められるって思った?」
……正直に言うと、そうだな。それを覚悟していたよ」
「ラジオのメッセージでも言っていたじゃない。『僕が追いつけないのは僕のせいだと知っている』って」
「それは……
「バトルが楽しめなくなったのも、強くなることをやめたのも、他の誰かのせいじゃない。確かにやめた理由の一つではあるから、あの言葉は私に刺さった。でもそんなのは理由の中の小さな一つでしかないのよ。私は研究がしたかった。バトル以上にしたいことができた。……私が生きる道は私が決める。どれだけ苦しくっても嫌になっても、私が選んだ道なんだから全部私のせいにするの。ダンデ君のせいになんてしてやらない」
 ダンデを真っ直ぐ見据えるソニアの目は、ダンデを通して記者の男を見ているようだった。呆気にとられた様子のダンデに、ソニアは視線を緩めた。
「私は別にバトルが嫌いになったわけじゃないんだよ。ワイルドエリアにフィールドワークに行けば野生のポケモンと戦うことだってあるし、そういう時のためにパルスワン達の体がなまらないようにトレーニングだってしてる。そういうの、すごい楽しいなって思うよ。私だってトレーナーだったもん」
 そうだ、ソニアもトレーナー『だった』。改めて言われる事実はキバナにだってじわりと滲むように痛いのだ。ダンデも多分、そうだろう。
……ダンデ君のせいじゃない、嫌いにだってなってない。ただ好きでいるために、トレーナーの私は走るのをやめただけなんだよ」
「好きでいるため」
「そう、好きでいるため」
 繰り返される言葉をさらになぞるソニアは、キバナに視線を一瞬やる。
「ダンデ君だけじゃなくてね、私、みんなの背中を見続けてた。キバナ君もルリナも、みんな私が追う目標だった。追いつこうってずっとずっと走って、それだけしかやってこなかったツケが回ってきたのね。楽しかったうちはいいけど、いつからか辛くなって、どうしたらいいのかがわからなかった。……当たり前よね。私、他のことを知らなかったんだもの」
 幼い自分が見ていた世界は狭かったのだと、彼女は自嘲気味に笑った。
「でもそんな時におばあさまの仕事に触れて、研究の世界を知って、私はその世界で走りたいと思った。生きたいと思った。……だから、もう歩こうって決めたの。研究者としてまた走り始めるかわりに、トレーナーの私はゆっくり歩こうって、ただ楽しもうって」
 喋り過ぎたと、アイスティーで喉を潤す彼女は晴々とした様子だった。
……あの時、君は傷ついた顔をしただろう」
「私だって複雑だったのよ。バトルをやめて研究に専念したのに思った通りの結果は出ないし、おばあさまが認めてくれるレベルまでどうしたって届かない。それなのに私の周りはどんどん先に行っちゃう。私ひとり取り残されたって焦ってたところにあんな質問されちゃ、ナイーブにだってなるわ」
 ソニアは唇を尖らせると、沈むように椅子にもたれかかる。
「だってせっかく見つけた私の夢を、世間は逃げ道として見てたんだもの。ものすごく悔しいし悲しかった。……それに何より、絶対に認めさせてやろうって思ったわ」
 ひたすらに目標を追い続け幾年越しに叶った彼女の悲願は、歴史を変える程の大きな波でこのガラルを飲み込んだ。ガラルが誇る偉業とも言えるそれを認めない者がいるのであれば、一度会ってみたいものだ。
……いつ言おうか、ずっと迷ってたの。言えるわけないとも少し思ってたわ」
「そうなのか?」
「だって、いくら貴方のせいじゃないって言ってもこんなこと言われたらいやじゃない。……私はあの言葉に傷つけられたけど、ダンデ君だってそうだった。何か言葉をかけたかったけど、でもあの時の私はダンデ君に何か言っていい立場じゃなかったでしょう。……さっきのラジオがいいタイミングだと思ったの」
 手慰みにコースターに吸われず溜まった水滴を指でなぞる。白く細い指には小さくペンだこができていた。
「傷付けた?」
「いや、刺が抜けた気分だ」
「そう、それならよかったわ」
……ただ、寂しいと思うぐらいは許してくれよ」
 続けたくとも続けなかった言葉がダンデの喉の奥に飲み込まれるのを、キバナは懐かしそうに見守った。形にしたかったはずのその言葉は、届いてしまえばソニアの枷になるものだ。夜の闇の中で届かないでくれと願った独白じみた誓いのように。
 今日のダンデは、あの日のキバナだった。
……たぶんね、研究者の私がトレーナーの私を追い抜いたら、トレーナーの私はいつか歩くこともやめて、ゆっくりと死んでいくんだわ。それはきっと、トレーナーとして上を目指し続ける人にとっては理解し難くて、寂しかったり、悲しいことのように感じるかもしれないけど……
「けど?」
……けど、私にとってはきっとそれが一番幸せなことなのよ」
 いつかくる日を想って笑うソニアの髪が、午後二時の日差しに溶けるように揺れた。
「いつかトレーナーの私が消えて、チャンピオンカップ準優勝のトロフィーと遠い思い出だけが残って、『ああ、あんなことがあったな、懐かしいな』って思える日が来ることが、私にとっての一番の幸せ」
 ソニアが望むものはあまりに淡く、眩しいもののようにキバナには感じた。
 終わりが来ることを予感して、それを幸せだと受け止める。そうなるためには、一体どれほどの棘を飲み込まねばならなかったのか。
……君にとってあの日々は、苦しいものだったか?」
 まるで、愛を与えられていることはわかっていて、それでも言葉が欲しいのだと乞う子供だとキバナは思った。ダンデは苦々しい表情ではなく、優しい笑みを浮かべていた。
「苦しいことだけだったら、こんな風には思えないよ」
 一番大切だから思い出にしたいの。ダンデの意図がわかっていると眩しく輝くものを見たように目を細めるソニアに、キバナは笑った。
……相変わらずいい女だよ、ソニアは」
 本当にいい女だと、紅茶で湿らせた口から心の底から思った想いが溢れ出る。一瞬でも彼女の言葉を遮ろうとした自身を恥じるくらいに、キバナはソニアの言葉に尊さを感じていた。
「賢明さは人生を生きる糧となるというが、正しくそれだな」
「ふふ、ありがとうキバナ君。でも、貴方もよ」
「ん?」
「賢明な人。考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となるわ」
「んんん〜?」
 ソニアの言葉にキバナは思い切り首を捻る。自分はそんなことを言ってもらえるほど、彼女の前で何か良いことをしただろうか。
「オレ様はなにもやってないよ。ただのキバナでいただけさ」
 そう、キバナはキバナでいただけだ。いつだって自分の思うままに、自分のしたいことをする。このガラルは法が治める土地だからルールに則った行動はするが、その上でキバナは自分がやりたいと思ったことしかしないのだ。
……そういうところだろうな」
「ねぇ」
「えっなに、何がだよ」
 顔を見合わせて笑う二人に、キバナは自分だけが追いつけていないと困惑する。何がそういうところなのかと問いかけても答えないので、つまらないといった体で口を尖らせた。
「ていうかソニアちゃんさぁ、オレ様が事情知ってる体で話してない?」
「キバナ君が知らない訳ないと思ってたから。……え、知らなかった?」
「本当にどういうことそれ。いや知ってたけど」
 ほらねと笑うソニアに首を傾げ、まあいいかと紅茶をまた一口。覚めて少し渋味の増したそれにミルクを足すと、淡い薄茶が水面を染めて、水面が反射する光が鈍くなる。優しく、柔らかくなったそれにキバナは笑みをこぼした。

 ナックルユニバーシティに用事があるというソニアと別れ、キバナはダンデとナックルシティの中をゆったりと歩いていた。
「そういえば、ナックルの中をこうやって歩くのは初めてかもしれない」
「あぁ、お前が歩くと散歩にならないもんな」
 今でこそ落ち着いているが、確かにチャンピオン時代は凄かった。立ち止まれば人混みで溢れ、歩けば人の群れも移動する。そんな様子ではなるほど確かに散歩は無理だ。
「あ、じゃあちょっとこっち行ってみるか」
「ん?どこ行くんだ」
「いいからついてきてよ、いいもの見せてやるからさ」
 キバナが足を踏み入れたのは、旧市街と呼ばれる古い建物がひしめき合った地域だった。苔だったり、遥か昔に起きたという戦争で焼けた跡が残る石造りの建物の狭い路地を歩くと、頭上から「キバナ様」と声がかかった。上を見上げると、窓際に小さな子供を抱えた老婦が腰掛けていた。
「お勤めですか」
「いいや、散歩さ。彼に我らが誇る美しい街を見てもらおうと思ってね」
 キバナがちらりと視線を後ろにやると、老婦は合点がいったように顔を綻ばせた。
「あぁ、それはいい。どうか見てやってください。遥か昔からガラルと我々を見守ってきてくれた、私たちの愛する歴史ある街です」
……あぁ、ありがとう。そうさせてもらうよ」
 老婦に抱えられていた子供が、ふたりに小さくふくふくとした手を振る。それに応えるように手を振り返し、また歩みを進めた。
 入り組んだ道をだいぶ歩いて少し急な階段を登ると、一気に視界がひらけて眩しさに目を瞬かせた。
 視界を白く飛ばないようにゆっくりと目を開くと、眼前に広がる光景にダンデは息を飲んだ。
——あぁ、確かにこれは……
 そこにあるのは、春よりも幾分も近い空から降る光で、美しく赤く染まる街。
「綺麗だろ」
 立ち尽くすダンデの横に並んで、キバナは街を眺める。
「夏の夕焼けが一番綺麗で、一番長く美しくナックルを染めてくれる」
 あとはもう言葉は邪魔になると、キバナは口を閉ざした、美しいものを感じるのに言葉が必要なほど、お互いに幼くはないのだから。
……俺は知ってたよ、キバナ」
 夕日を見始めてから少し経ち、突然話し始めたダンデにキバナは黙って耳を貸した。喫茶店での話があったのだ、何をと聞くのは野暮だろう。
「君がどうにも俺に知られたくないと、そういう風だったから知らないふりをしていたけど……。でも、もういいだろ」
 俺はもうチャンピオンではないから。
 呟かれた言葉はただの事実のはずなのに、キバナの心を少し揺らした。
「確かに俺には才能があったんだろうな。他人よりも自分や相棒達に合った努力の方法を見つけることが早かったし、バトルにしろなんにしろ頭の回転が速いっていう自負もある」
 ダンデの視線の先にある街の片隅のコートでは、いつかジムチャレンジに臨むであろう年端もいかない子供たちがバトルをしている。子供が持つ高い声で発される拙い指示を遠く聞きながら、ダンデは「でも、」と続けた。
……それでも、才能だけで生きていけるほど人の心は簡単ではないだろう」
 ソニアの言葉をなぞったであろう言葉は、確かにダンデの本心だった。
「俺は努力はできても、他人の悪意であったり企みであったり、そういったことから心を守る方法なんて知らなかった。……平和なガラルの片田舎には、そんなもの存在していなかったから」
 ジムチャレンジに参加せず、穏やかで澄んだハロンの中で羊飼いとして生きていた方が、きっと人生の幸せの総数は多かったのだろう。そう思ってしまう程度には頂の世界は淀んでいた。
「君が挑んでくれたから俺はここに立ち続けられた。君が俺を連れ出してくれたから、俺は俺を忘れなかった。君が俺を傷付ける俺を止めてくれたから、治らない傷にはならなかった。……君が言葉をくれたから、俺は今日まで走っていられた」
 ダンデはキバナに向き直り、キバナの手を握った。愛おしむような、包むように優しい手つきはキバナの胸の奥を強く締め付けた。
「俺はちゃんと人だったよ、キバナ。君のおかげで人だった」
 人々に望まれるまま偶像に成り果てるでもなく、人のまま、身を焦がさんばかりの光の中を走り続けられたのは、他でもないキバナのおかげなのだと。
「そうか、知ってたか」
「ああ、知っていた」
……人だったか、お前は」
「ああ、人だった」
……まだ、」
 ダンデの顔を見ることができなくて、石造りの足場に視線を落とす。
「まだいるか、オレは」
 目の前の彼の優しい声に促されるように、キバナは浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。
……いや違うな、待ってくれ」
 勝手に自分に課していたそれをさも相手が欲していたかのような言葉に変えた瞬間、やけに陳腐で嘘くさいものになってしまった気がして首を振る。これはキバナがダンデに捧げたものだ、自己満足の成れの果て、最高に勝手で最高に美しい独り善がりの献身にそんな言葉は似合わない。
「まだいてもいいか、オレは」
 浅くなった呼吸の先に出た言葉はあまりに小さく、そして震えていた。
 報われたいなどとは思うことも考えることもしなかった。キバナがしたことは完全なる自己満足の類であって、それを他者に求めるのはあまりに傲慢だと、そう思っていたから。古ぼけ、言葉を届けることもできなくなって役目を終えようとしていたラジオのように、いつかそうやってキバナも己を捧げたまま終えるのだと。
 そう思っていたのに。
(お前が、そんな言葉を渡すから)
 己の愛する者の一部になれたということが、いったいどれだけの幸福か。
「君がいるから俺だったんだ」
 キバナの熱くなった手を優しく握る、自分よりも小さい、でも大きく手。カサついて、荒れて、傷痕だらけのトレーナーの手がキバナの手を離れて、そのまま頬を撫でた。俯いていた顔をあげると、美しい黄金の目がキバナをしかと見据えていた。
「君がいなくちゃ、俺は俺ではないだろうな」
……そうか」
 そうか、と。噛み締めるでもなく、だが投げ捨てるでもない様子で幾度と呟く。
 自分がいなくては、彼は彼たりえないのか。きっと衆人が聞けば「そんなことはない」と首を横に振るだろう。キバナもそれはそうだと言うだろう。
(それでも、お前がそれを望んでくれるのなら)
 キバナが望んで、ダンデが望んだ。それ以上に何を必要とするものか。
 頬に添えられた手に手を這わす。無骨な手だ。キバナが愛してやまない男の、愛しい手だ。
「なあ、ダンデ」
 じわりと視界が滲んで紛らわせるように手に擦り寄ると、彼の親指が目元を拭って、それが少しくすぐったい。
……ソニアが『終わりをいちばんの幸せ』とするのなら、)
 キバナのいちばんの幸せは、きっと今ここでこうやって始まることがそうなのではないかと思う。
……オレも、ダンデがいるからオレだった」
 ゆっくりと紡がれたキバナの言葉に、ダンデはひどく嬉しそうに笑った。
 断言などできないけれど、いつか昔を思い出した時、今この時が一等幸せな時として思い出されればいい。
 いつか来る未来に想いを馳せて、キバナは近づく唇に目を閉じた。