いまさら
2026-04-20 17:56:55
6160文字
Public
 

不可能図形

トガシと財津

 迷い込んでしまった、という様相だった。
 人の行き交う空間でそのひとだけは目的もなくただ困ったようにその部屋を彷徨っている。
 もちろん、こういう来館者は少なくない。連れの付き添いで、とか、チケットをもらったから、とか。
 目的なき来館者たちも、部屋の中で何か興味をひくものを見つければすぐに放浪者をやめ、その瞬間から鑑賞者に変わる。その様子を見るのが好きだった。各人の意識を狭くて薄暗い〝見知らぬ部屋〟から〝今自分が立っている世界〟に連れ戻すのに成功した作品が何だったのかを観察するのも楽しみのひとつだ。
 だから、そのひとをここに連れ戻す絵は何になるのかを追っていた。職業柄、こういった場でのひとの動きを気にかけてはいるが、そのひとは妙に目を惹いた。
 まず、そのスーツ姿。ここがビジネス街やどこかのオフィスであれば違和感はない。しかし、今から営業に向かいます、といわんばかりに髪を撫でつけ、ネクタイを締め、革靴を履いている若い──スーツを着るにはやや幼いといってもいい──男性が立っているのは美術館だ。
 そして、姿勢の良さ。道を探すように辺りを見回して、所在なさげにしているのに、まっすぐ伸びた背筋。自身がこの世界に存在していることに対して疑いがない。そんな印象を受ける、堂々とした立ち姿。
 佇まいと仕草が一致していないから目を惹くのかもしれない。
 いずれにせよ、どこか似つかわしくない場所にその男性は立っていて、空間から浮いた姿がやけに気になる。
 平日の昼間でも館内は人が多かった。日本でも名の知れた作品がいくつか来ていて、大多数の人間の目当てはそれだ。かくいう自分もそのひとりだ。
 ここで働いているわけではない。ここと似たような別の施設に勤めている。客として、そしてひとりの学芸員として展示を見に来ているというわけだ。
 今日は友人と展示に訪れていた。この友人がまた面白い。美術に興味がないからこそ出てくる質問が新鮮で参考になる。作品について聞かれたことをひそひそと小声で説明すると、ちゃんと面白がってくれるところもいい。
 さて、勝手に他の客に注目するのは失礼だと分かっているが、やっぱり彼は目を引いた。そもそも、入場列(平日なのに列ができているのには驚いた)で自分たちの前に並んでいたときから気になっていたのだ。今日ここに並んでまで見たい絵があるのか、スーツ姿ということは仕事の合間に来ているのか、それとも転職活動の面接か。そんなことを考える。
 それなのに入場した彼の様子といったら、まるで迷子のようだった。ここにいるのは不本意で、元の道に戻りたいが戻り方が分からない。そんな様子で周囲に合わせて順路を進んでいく。
 展示の目玉である有名な絵画も彼の心の琴線には触れられなかったようだ。人が溜まっているから、という理由でなんとなくそこに留まってぼんやりと絵を見つめている。次に日本にこの絵が来るのは何年後になるか分からない。だから今こぞってみんな見にきているのに、彼はそんなことお構いなしのようだ。
 この絵は自分たちの目的のひとつだったので、相変わらず友人の質問に答えたり各々の感想を述べたりしながらしばし絵の前にとどまった。その絵から離れるときにはもう彼の姿は消えていた。
 そこを過ぎると絵も人もまばらになって、あとはもう出口に向かうだけだ。長い時間をかけて回ったのでここを出たらどこかで休もうという話になった。疲れていたので、あとの絵は流し見でもいいか、と思いながら館内を進んでいると、スーツの彼がいた。
「あのひとだ」
 友人がそう呟く。やはり誰が見ても──少なくとも自分と友人にとっては──どうも気になる存在らしい。
 男性はひとつの絵の前に立ち止まっていた。いや、立ちすくんでいるという方が正しいだろうか。絵の前には彼しかいなかった。他の客は絵の存在が見えていないかのように素通りして、少し離れた隣の額縁に意識を注いで、また進んでいく。
 男性の気を引いた絵はどんなものなんだろう。友人と目配せしてそこに向かい、遠巻きに額の前に止まる。
 暗い絵だった。暗いというのは、モチーフではなく、色遣いの話だ。
 闇の中に山羊がいて、そこだけ白く浮いていた。遠くから見ると、光って見えるかもしれない。そんな明暗の乗せられた絵。
「羊だ」
 友人が言う。
「え、山羊じゃない?」
 そう言い返すが、羊と言われると確かにそうも見えた。友人も同じ反応だった。
「山羊に見えてきた」
「羊かも」
 もっと近くで見ようと絵にやや近づくと、そこで男性がこちらに気付いて、譲るように身を引いた。会釈をして額の方に一歩踏み出す。
 不思議なことに、近くで見るといっそう山羊か羊かの判別がつかなかった。絵の横にあるプレートには画家の名前と描かれた年代が載っている。題名は記載がない。
「不思議な絵ですね」
 思わず、本当に思わず、男性に話しかけていた。体が勝手に動いたような感覚だ。声を出してから自分が話しかけてしまったことに気付いて、慌てて謝る。
「すみません、突然」
「いえ、こちらこそすみません、邪魔してしまって」
 男性は愛想よくそう言って、再度視線を絵に戻した。
「この絵が妙に気になって。美術のことは何も分からないんですが」
 感慨深げに述べる男性に対して友人が「同じくです。美術は分からないけど、この絵は不思議です」と同調した。
「この動物も、羊なのか山羊なのか分からないし」
「どっちなんだろうと確かめようと思って近くに来たら、余計分からなくなりました」
 事情を伝えると、男性は驚いたように絵の白い部分を見た。
「なるほど……それは考えもしませんでした」
 今度はこちらが驚いた。この絵に惹かれる要素のひとつに、男性は引っかからなかったらしい。
「言われてみればどちらにも見えますね。でも、どちらでもなくて、山羊にも羊にも見える別の生き物なのかも」
 男性はしげしげと絵の中の動物を観察する。興味の対象がモチーフではないのだとしたら、彼は何に惹かれてここに立っているのだろう。

 ◇

 人の多い美術館でそのひとは妙に目を惹いた。
 まず、そのスーツ姿。ここがビジネス街やどこかのオフィスであっても違和感を覚える。長い髪を無造作に束ねているくせに、仕立ての良いスーツと革靴。それが妙にさまになっている。
 そして、姿勢の良さ。全ての道を把握しているように自信に満ちた足取りと、まっすぐ伸びた背筋。自身がこの世界に存在していることに対して疑いがない。そんな印象を受ける、堂々とした立ち姿。
 佇まいと仕草がきれいに一致しているせいでかえって目を惹くのかもしれない。
 いずれにせよ、どこか似つかわしくない場所にその男性は立っていて、空間から浮いた姿がやけに気になる。
 今回の展示では日本でも名の知れた作品が多くあり、大多数の人間の目当てはそれだ。かくいう自分もそのひとりだ。
 ここで働いているわけではない。昔、ここと似たような別の施設に勤めていた。元学芸員の客として展示を見に来ているというわけだ。
 今日は友人と展示に訪れていた。この友人がまた面白い。美術に興味がなかった頃とはまた違う視点から出てくる意見で議論を深められる。
 さて、勝手に他の客に注目するのは失礼だと分かっているが、やっぱり彼は目を引いた。そもそも、入場列(昨今はどの美術館でも平日も列ができることが多い)で彼が先頭の方に並んでいたときから気になっていたのだ。今日ここに並んでまで見たい絵があるのか、スーツ姿ということは仕事の合間に来ているのか、仕事のスーツというわけでもなさそうだし何かお呼ばれでもあるのか、それとも自由な職種なのか。そんなことを考える。
 ようやく入場して友人と絵を見ながら進んだ先にまだ彼がいるのには驚いた。自分たちよりもずっと先に並んで入場していたので、展示室で見かけるとは思わなかったのだ。絵の前に立ち止まって、気が済むまで眺めると次の絵に移る。そんな鑑賞の仕方だ。
 展示の目玉である有名な絵画も彼は同じように眺めていた。十年ぶりに日本で公開される絵だ。多くの人は他の絵の鑑賞に割いた時間よりも長い時間をその絵の鑑賞に割く。それなのに、彼はそんなことお構いなしで、他の絵を眺めていたのときっかり同じくらいの時間だけそれを眺めるとあっさり次の絵に移る。
 この絵は自分たちの目的のひとつだったので、相変わらず友人の質問に答えたり各々の感想を述べたりしながらしばし絵の前にとどまって、しばらくしてからその場を離れた。そこを過ぎると絵も人もまばらになって、あとはもう出口に向かうだけだ。長い時間をかけて回ったのでここを出たらどこかで休もうという話になった。疲れていたので、あとの絵は流し見でもいいか、と思いながら館内を進んでいると、スーツの彼がいた。
「あのひとだ」
 友人がそう呟く。やはり誰が見ても──少なくとも自分と友人にとっては──どうも気になる存在らしい。
 男性はひとつの絵の前に立ち止まっていた。絵の前には彼しかいなかった。他の客は絵の存在が見えていないかのように素通りして、少し離れた隣の額縁に意識を注いで、また進んでいく。
 彼の気を惹いた絵はどんなものなんだろう。友人と目配せしてそこに向かい、遠巻きに額の前に止まる。
 暗い絵だった。暗いというのは、モチーフではなく、色遣いの話だ。
 闇の中に山羊がいて、そこだけ白く浮いていた。遠くから見ると、光って見えるかもしれない。そんな明暗の乗せられた絵。
「羊だ」
 友人が言う。
 そこですべてを思い出した。十年前にも同じ絵を見たことがあるはずだ。
「え、山羊だよね」」
 そう言い返すが、羊と言われると確かにそうも見えた。友人も同じ反応だった。
「羊の絵って結論が出たんじゃないっけ」
「いや、山羊だったかも」
 もっと近くで見ようと絵にやや近づくと、そこで男性がこちらに気付いて、譲るように身を引いた。会釈をして額の方に一歩踏み出す。
 やっぱりあのときの絵だ。相変わらず不思議なことに、近くで見るといっそう山羊か羊かの判別がつかなかった。絵の横にあるプレートには画家の名前と描かれた年代が載っている。題名は記載がない。
「不思議な絵ですね」
 思わず、本当に思わず、男性に話しかけていた。体が勝手に動いたような感覚だ。声を出してから自分が話しかけてしまったことに気付いて、慌てて謝る。
「すみません、突然」
「いえ、こちらこそすみません、邪魔をしてしまいましたね」
 男性は愛想よくそう言って、再度視線を絵に戻した。
「この絵が妙に気になって。美術のことは何も分からないんですが」
 感慨深げに述べる男性に対して友人も「分かります」と同調する。
「この動物も、羊なのか山羊なのか分からないし」
「どっちなんだろうと確かめようと思って近くに来たら、余計分からなくなりました」
 事情を伝えると、男性は驚いたように絵の白い部分を見た。
「なるほど……それは考えもしませんでした」
 今度はこちらが驚いた。この絵に惹かれる要素のひとつに、男性は引っかからなかったらしい。
「この動物は山羊と羊、どちらでもある、という可能性はないでしょうか」
 男性はしげしげと絵の中の動物を観察する。興味の対象がモチーフではないのだとしたら、彼は何に惹かれてここに立っていたのだろう。

 ◇

『すみません。先ほどお二人がお話しているのを聞いてしまったんですが、美術にお詳しそうですよね。気になることがあって。聞いてみてもいいですか』
『いえ、詳しいというほどでは。でも、答えられそうなことだったらお答えします』
『ありがとうございます。すごく初歩的なことで申し訳ないんですが、油彩、というのは油絵のことですよね』
『ええ』
『絵具はどういったものが使われるんでしょうか』
 それから少し絵具について説明をすると、彼は興味深そうに頷いて話を聞いている。
『それでこんな色が表現できるんですね』
『ええ、今のような技術がない時代から、人々はあらゆる素材で絵具を作ってきました』
『なるほど、絵具に動物の血や骨が使われることはありますか?』
『骨は現在でも染料に使われることがあります。わりと一般的です。でも、血は油絵とは相性が悪いはずであまり使われることは……
 質問に答えながら、どうしてか冷汗が流れた。目の前の絵の闇が途端に立体的に見え、真っ黒だと思っていた闇はその中でもさらに数段階の影を重ねていることに気がついた。
『あの、今の質問は……
 質問の意図は何だったのか。スーツの男性を見上げると、彼は絵に視線を注いだまま答える。黒い目がこちらを見ないことに安心する。
『いえ、他の絵と色が違って見えたので気になって』

 ◇

「油彩、というのは油絵のことですよね」
「ええ」
「絵具はどういったものが使われるんでしょうか」
 それから少し絵具について説明をすると、彼は興味深そうに頷いて話を聞いている。
「なるほど、絵具に動物の血や骨が使われることはありますか?」
「骨は現在でも染料に使われることがあります。わりと一般的です。でも、血は油絵とは相性が悪いはずであまり使われることは……
 十年前にまったく同じ絵を見てまったく同じ会話をした記憶がある。自分も友人もそれを思い出している。だから、話題を変えようと、別の返答をしようと焦った。それなのに、あのときと一言一句同じ質問に、こちらも一言一句同じ返答をしてしまう。まるで口が勝手に動くように。
「あの、今の質問は……
 質問の意図は何だったのか。スーツの男性を見上げると、彼は絵に視線を注いだまま答える。
「いえ、他の絵と色が違って見えたので気になって……
 あのときはここで会話が終わったはずだった。しかし、今、目の前の男性は絵を見つめながら続きを喋る様子がある。それを止めなければならない気がするのに、金縛りにあったように体が動かなかった。
「この絵、明らかに違うものが混ざっているように見えませんか」
 そう言って微笑む顔に乗った感情は読み取れない。ただ、真っ暗な瞳孔だけが妙に印象に残った。

 男性はそれだけ言うとわざとらしく時計を見て去っていった。取り残された自分たちは狐につままれたような心地だ。呆然としながら展示室を後にして、思ったよりも疲れたので友人とも解散した。
 スマホを取り出して電話帳を開く。かつての同業者のページを探す。あとは向こうで判断してくれればいい、そう思いながら電話をかけた。
 しばらく──本当にしばらく経って、一件の報せが届いた。あの絵から血のような成分が検出されたと。詳細な研究はこれから進めるという。
 興味こそあるが、もう関わりたくもないと思った。
 彼らには何が見えていたのだろう。思い出せるのはあの場に似つかわしくない奇妙な風貌と、真っ黒な瞳。あの目には自分たちとは違うものが見えていたのかもしれない。