みかんネットみたいなものに洗顔フォームを二センチ絞り出し、少しの湯を垂らしてからネットをごしごしこすり合わせると、ふわふわの泡が立った。それを顔に塗りつける。全力でごしごしこすり洗いしたくなるが、それは美容的には絶対NGらしいので、そうっとそうっと撫でるように洗う。普段は頭から足の先まで同じ石鹸で洗っている身には物足りない。
泡をよーくすすいだら、ペーパータオルで顔を抑えるように拭く。使い込んだボソボソのタオルで拭くなんてもってのほからしい。ボソボソタオルのほうが吸水性は絶対に良いと思う、という感想は胸にしまっておく。姉から命じられれば黙ってその命に従うのが弟というものなのである。
そこまで終えて洗面所を出ると、姉がダイニングテーブルの上に化粧道具一式を揃えてスタンバイしていた。その物量に慄く。どう考えても、人間の顔の皮の面積には過剰な量だ。
今更ながら怖気づいて棒立ちになった弟に気づいて、姉は有無を言わさずその腕を引いた。
「ちゃんと言ったとおりに洗った? ほら早く座って。保湿はスピード勝負なんだから」
半ば無理やり座らされた一之倉の顔に、ぴしゃぴしゃと何かが塗りつけられていく。せっかく洗った顔にまた何かを塗るというのがもうよくわからないが、口には出さなかった。いま口を開いたら、謎の液体を飲み込んでしまいそうだ。
「あんた、普段はお手入れしてない割に肌キレイねー。やっぱ屋内競技で日焼けしないから?」
「……適度な運動のおかげ?」
「なーにが適度よ。あんたの大学、厳しすぎて『親には見せられない練習』って言われてるらしいじゃん」
その呼び名は初めて聞いた、と言いかけたところで、新たな液体が頬に塗りつけられる。反射的に目と口を閉じた弟の返事など気にかける様子もなく、姉は手と口を動かし続けた。
「ファンデじゃなくて、下地とパウダーだけにしよっか。今日、汗かくようなことする予定ある? あ、やっぱ今のなし、ちょっと弟のセクシーな感じの話は聞きたくないかも。あんた、昔は私がおしめも取り替えてやったのに、いつの間にかでっかくなっちゃってさぁ、あ、これは図体の話よ、下ネタじゃなくて」
液体やら粉やらを顔のあちこちに塗りたくられ、鉛筆のようなもので線を引かれ、刷毛でくすぐられ、固いダイニングチェアに据えた尻が痛くなってきたころ、ようやく姉の手と口が止まった。仕上がりチェックを終えた姉が、重々しく頷く。
「うん、我ながら良い出来」
じゃーんという効果音付きで差し出された鏡には、化粧をした姉とほぼ同じ顔をした自分が映っていた。
「おお……」
「カツラはさすがにないけど、あんたも髪伸びてきたし、帽子かぶればイケるでしょ。映画館ってロビーもちょっと薄暗いし」
仕上げ、とばかりに姉のキャップを被せられる。身体のゴツさはいかんともしがたいが、自分よりだいぶゴツい松本と並べばカップルに見えるだろう、たぶん。
「サンキュ。映画のカップル割引、使ってみたかったんだよね」
「まぁかわいい弟の頼みですから。別に女装しなくたって、堂々とカップル割り使えばいいと思うけどね」
テーブルいっぱいに広げていた化粧品を特大のポーチに放り込みながら、姉がなんでもないことのように言う。姉から命じられれば我を押し殺してでもその命に従うのが弟というものであり、弟のことは世間の荒波に抗ってでも肯定するのが姉というものなのである。少なくとも一之倉家にとっては。
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