まばらな街灯に見放された路地裏の奥、先の見えない夜更けの片隅に、傷に塗れた影が落ちていた。蹲った人間の形を模したようなそれは、もはや輪郭の跡を残さないほどに切り刻まれ、醜い液体を垂らしている。
数刻前まで悲鳴を上げていたとは思えないほどの、凄惨な遺体。その沈黙を確かめるように、寄り添っていたひとりの少女が、地面に転がるナイフを拾い上げた。
しなやかな指が銀色の刃を閃かせて、驟雨にも似た血飛沫が舞う。濁った水音と爛れていく刺傷に、彼女は安堵を滲ませて微笑んだ。それから無機質な仕草で、執拗にナイフを突き立て続ける。澱んだ血液が勢いよく噴き出し、艶やかな長い髪が赤く汚れていく。
「ライア」
獣じみた二つの影を見下ろして、僅かに強張った唇を開く。名を呼ばれた少女──ライアは、弾かれたように顔を上げ、爛々と瞳を煌めかせた。
「ヴェラ!」
透き通った無垢な声が、眩い光を見つけたように跳ねる。
ぱっと華やいだその表情に、今日はこちらか、と息を吐いた。人を殺めた直後のライアは不安定になることが多く、どちらの人格が優位になるかは予測がつかない。幼い子供の振る舞いを見せることもあれば、ひどく錯乱して手がつけられなくなることもあるのだが──今回は、前者の状態に落ち着いているらしい。
地面に転がる屍にはすっかり興味を失ったのか、彼女が無頓着に血塗れのナイフを投げ捨てる。緩やかな弧を描いて落下していくそれが、真っ赤な地面に落ちるよりも先に──獲物に飛びかかる猫のように、一息に距離を詰めたライアが、ヴェラの身体に抱きついた。
折れそうな両腕が、逃がすまいと肋骨を囲う。しがみついた指先が、背中に食い込んで微かに沈んだ。甘えるように華奢な身体を擦り寄せられ、はぐれた鼓動の音が耳朶を揺らす。僅かな身動ぎさえ咎められそうな距離。鮮明な手のひらの感触に、胃の底が冷たくなるのを感じた。吐き気よりも強烈な嫌悪感が、体内で渦を巻いている。
引き攣りかけた呼吸を悟られまいと、委ねられた彼女の肩に手を回した。押さえつけるような仕草で、抱き寄せた身体に力を込める。初めから、こうするつもりだった。これは紛れもなく、己の意志だ。漏れかけた拒絶反応を抑えようと、震える指先を強張らせ、小刻みな吐息を殺した。
「ちゃんと、できたよ」
こちらを見上げる幼い隻眼が──ひとを殺すときにだけ現れる怪物が、ヴェラの承認を乞うように潤む。他人の命を奪った残忍な高揚感に、一滴の不安を垂らした表情。ヴェラだけを求めている、存在のすべてを賭している、甘やかな依存心が剥き出しの表情。
「いい子だ」
差し出された心臓の穴を埋めるみたいに、視線を合わせて囁きかける。温い頬を濡らした返り血を拭えば、彼女は擽ったそうに目を細めて笑った。小さな鈴を鳴らすように、上機嫌な声が揺れる。
──ヴェラは、いい子ね。
その響きの隙間を縫って、柔らかな音が脳裏を刺した。それを知覚した途端、理解が及ぶ間もなく、ぞわりと背筋が粟立つ。思考を巡らせるよりも先に、本能が警鐘を鳴らした。
ヴェラ。聞き覚えのない声が、狭い頭蓋の内側で反響する。悍ましいだけの幻聴だ、頭ではそう理解していて、それでも無意識に呼吸が浅くなる。ヴェラの身体を締めつける手の感触が、至近距離にある鼓動の気配が、軋むような頭痛を呼び起こす。
隠さなければならない。ライアに、知られるわけにはいかない。半ば反射のように、そんな直観が胸を衝いて──逸る鼓動を抑えながら、彼女の頭を引き寄せた。こちらに凭れかかったライアが、ん、とくぐもった声を零す。息がしづらいのか、ほんの少し苦しげな吐息を感じて、繕っていた表情が剝がれるのを自覚した。
「ライア」
彼女の耳元に顔を寄せて、唇だけで微笑みの形を浮かべる。冷めた表情を悟られまいと、ライアを抱いた左手の甲に、もう片方の手のひらも添えた。汚れた髪を撫でるふりをして、顔を上げさせないように、重ねた両手で頭を沈めて押さえつける。
まるで溺れかけているみたいに、しがみつく力が強まって──悍ましさに息を止めながら、嘲弄を込めて口角を上げた。止まない幻聴を塗り潰すように、化け物を飼い慣らすための呪文を、冷えきった音へと変える。
──君を、誰よりも愛してる。
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