長い夏を終え、秋大会は好成績を納めた。先輩達からの叱咤激励をバットとボールで受けながら引退試合を済ませたその後、神宮大会までの中に組まれた練習試合だった。御幸先輩達が引退した後はスタメンマスクを被ることも多く、特に沢村先輩が先発の時は必ずと言っていいほど先輩の前に座ることができた。
「えっ」
7回表1死1塁、走塁の得意な選手が盗塁を試みていた。よくある場面のはずだった。
たった一文字、それをこぼす間に起きた出来事。ここから18.44m先の一等高い場所で誰よりも頭を下げてうずくまる投手。高いところから転げ落ちたボール。そのボールは俺が二塁送球をしようと思って投げたものだった。右バッター、この人が得意のインコースに投げられたそのボール。それを投げた、二塁手の小湊先輩へ向かって。それでもそのボールは届くことなく向かい合っていた沢村先輩に当たった。蹲りながら肩を抑える沢村先輩がどっちを抑えているかさえわからない。ただグローブをしていない手で抑えていることだけはわかった。
いつもなら、レーガスをつけていても走れる。そういう練習をしている。ただ今この瞬間は錘として機能していて、今すぐ駆け寄って確かめたいのにそれが怖かった。一歩も動けない。心臓の位置がはっきりとわかる。服の上からでもいつもよりずっと早く、鼓動しているのがわかる。耳元で心臓が動いているようで呼吸さえままならない。
踞らせた張本人でありながら一歩も近づかない俺はどれだけ薄情に見えただろう。ただ運び出されるその人を見つめることしかできなかった。
「おっ...!..お....む..くん!」
「奥村!」
小湊先輩と金丸先輩に呼び戻されれた時にはマウンドの上はすっかり綺麗になっていて、降谷先輩がその場所に向かっていた。
「大丈夫?」
「えっ、あっ、はい。沢村先輩は、」
「治療行ったよ。このまま病院に行くと思う」
「心臓ですか」
「違う」
「……どっち、ですか」
「右」
その言葉に息を詰めていたことを思い出して、まとめて息を吐こうとした。
「君がほっとする権利はないから」
「おい、小湊」
「今日はそこからでなよ。由井くんも向かってきてるし」
ベンチに目を向けるともう一つ、別存在も飛び出してこちらに向かってきていた。沢村先輩のためにも“できる”と叫びたかった。いや、今戻ってしまったら現実を突きつけられるようで恐れていたのかもしれない。でも、この場で俺の発言権はもうなかった。
「奥村、交代だって」
「......ああ」
バッテリーまるごとの交代。御幸先輩が引退してからはよくあった。ただ、この試合はその予定ではなかった。
「すみません」
戻って1番に出てきた言葉は謝罪だった。ただそれがどこに向いていた謝罪なのかはっきりしない。
「沢村もいつもと違って体を捻っていた。ワンテンポ遅れてしゃがんでいた。次もまたスタメンでマスクを被ってもらうつもりだ。切り替えろ」
「はい」
サングラスをかけていてもわかる威圧感のある目に、初めて萎縮する感覚を覚える。
奥のベンチに腰をかけて防具を外していく。そうすると目の前に飲み物が差し出された。よく見たことのある手で名前を呼びながら顔を上げる。
「拓」
思った通りの人が目の前にいた。
「光舟、切り替えろよ。沢村先輩から伝言頼まれた」
「あの人、大丈夫だったか」
「ここ通るときは笑ってた。光舟に大丈夫って言ってくれって」
「……そうか」
「光舟、大丈夫か」
「あぁ。沢村先輩の方が大丈夫じゃないだろ。また、怪我……」
向かい合っていた、拓の眉がゆっくり下がっていくのがわかった。そうだ、俺は、あの人に怪我をさせた。あの夏、あの夜、同室の先輩がどれだけ自分を責め立てていたのかも「ここで気がついてよかったよ」と、嘘で塗り固められいる言葉を部屋で向けられた俺が……。試合中、上から見たあの人の感情を考えて、勝手に”悔しいと思う“と断言しておきながら、再び同じ場所に立たせようとしてるのはきっと俺だ。
「光舟、大丈夫だ」
いつも安心する拓の声も、今日だけは不安を駆り立てるだけだった。
先輩が戻ってきたのは、練習試合を終えて監督の前に全員が整列したときだった。その姿を見た時に空気が冷える感覚も、周りの人が息を呑む音もはっきりわかった。白い布に腕を抑えるように胸全体に巻かれたバンド。俺自身はまた呼吸という動作がどうするのかわからなくなった。
「いや〜!ヒビが入ってしまったようで!仰々しいのですが安静にできなさそうって理由でガッチガチに固定されました!」
頭に左手を添え、笑いながら沢村先輩が入ってくる。それだけで一瞬で雰囲気が変わる。「この人なら大丈夫か」、なんてそんな空気を作るのが上手い。でも俺は、それでも俺は、その姿が痛みを伴って目の奥まで焼きついた。
ともに帰ってきた高島先生が監督に何かを伝えている。帰ってきたのは、沢村先輩だけで、誰もかけていなかったことに今更気がつくほど視野は狭まっていたようだった。
「右鎖骨の不完全骨折とのことだ。幸い、ヒビ程度だそうだ。全治3〜4週間。利き手では無いから冬合宿からは合流できるだろう。それまでの試合は沢村抜きで戦うことになる」
”この時期は毎年不運だな“なんて声がきこえてくる。不運で片付けられたらどんなによかっただろう。
「沢村にはベンチから外れてもらう予定だ」
「去年の御幸先輩みたいなことに!そんな!ボス!」
手をバタバタと振ってアピールしている。右は動かさないようにしているし動かせないのだろうが左手と連動して僅かに動いてしまっていた。
「今でさえ安静にできていないぞ」
そんな指摘はごもっともで、“あっ“と言った先輩はたちまち静かになっていた。
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