千代里
2026-04-19 14:26:20
14517文字
Public 千影とシリルの話
 

【オリジナル創作】ネモフィラの話・1話【千影とシリルの話】


【注意】
この話はいずれ書こうと思っているOC創作の中で、話が思いついた所から書きだしたという感じがあります。
具体的に言うと、1話・2話を飛ばして3話目から書いているイメージです。
(主人公たちの出会いが1話、ある程度交流を重ねるのが2話のイメージなので、このお話の彼らはそれなりに交流が済んだ後という形になってます)

できるだけ細かい設定は地の文などで書いていますが、そのあたりの未完成感をご了承の上、お読みください。

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 なにかひとつ古いもの、
 なにかひとつ新しいもの、
 なにかひとつ借りたもの、
 なにかひとつ青いもの、
 そして靴の中には六ペンス銀貨を。
  ――マザー・グースより
 ***
 
 廊下の向こうから微かに聞こえてくる、賑やかな話し声。朗らかな声音と楽しげな会話に、珍しいこともあるなと千影は廊下の半ばで足を止めた。
 遥か東方の島国から、遥か西にあるこの異国の地に来てから、はや数ヶ月。千影はもっぱらこの広い屋敷で静寂ばかりを味わっていた。
 
 なぜ、東洋の島国出身の自分が異国の辺境の屋敷で生活しているのか。
 その理由は、千影本人ではなく、彼の母親にあった。どうやら、彼女はこの屋敷の所有者である西国の貴き身分の出身だったらしい。
 どのような経緯があったのかは不明だが、ある日を境に行方知れずになっていた彼女は、実は東の島国にて愛する人と結ばれ、子を産んでいた。
 その事実を知った彼女の親戚が、千影の母を追って東国までやってきたのが事の発端だった。
 しかし、千影の両親は彼が物心ついて間もなく、病にて早逝している。
 母親は息子に多くを語らなかったため、千影は自身に西洋の血が混じっていることは知っていても、己が遙か西方に親戚がいるなどと考えたこともなかった。
 故郷の者とは全く異なる雪のような白い髪と、鮮やかな飴色の瞳。そして、千影という名前に添えられた聞き慣れない発音のミドルネーム。
 それだけが、千影にとって彼を西へと繋ぐ唯一の繋がりだった。
 しかし、ある日、千影のもとに現れた紳士は、母親が語らなかった『真実』をつらつらと語って聞かせた。
 遠い西の異国にいた母が何故東方の島国にたどり着けたのか。その経緯だけは語らなかったものの、紳士は母の名や容姿を知っていたので、嘘をついたわけではないのだろうと分かった。
 これを逃せば、自分は母に連なるルーツを知る機会を永遠に失う。幸い、身寄りがない千影を育てたのは、その地域ではやや珍しい教会の孤児院であり、いくらか外国語の教育にも熱心だった。おかげで、千影は拙い外つ国の言葉ではあったが、どうにか紳士と通訳を挟まずに会話することができた。
 躊躇はあった。だが、近いうちに孤児院を出なければならない年齢になっていた自分が、この先どう生きるのかを悩んでいたこともあり、千影はこの選択を好機と捉えた。
「だって、あなたがここにわざわざ来てくれるなんて、今を逃せば次はないでしょう?」
 そう尋ねると、紳士は正直に頷いた。自分がどんな扱いを受けるのか不安ではあったが、千影は素直に彼の手をとることにした。
 そして、なぜ紳士が自分のような見ず知らずの人間を引き取ったのかを、千影は母の故郷に辿り着いてすぐに知った。
「私の親戚には、君と同い年ぐらいの男の子がいるのだがね。体が不自由なので、君に彼の面倒を見てもらいたい」
 その男の子が過ごす屋敷は、母も幼い頃を過ごした場所だという。だから、当初の目的も一応叶っているわけなのだが、実際は紳士が建前として用意しただけだったのだろう。
 紳士だけではなく、彼の家に連なるものは、体が不自由な身内を遠ざけようとしていた。
 それは、世話をするという、ごく当たり前のことに関してもそうだった。つまるところ、千影はこの家のはみ出し者の世話を体よく押しつけられたのだ。
 
 幸いなるかな、出会い方や経緯は決して穏やかとは言えないまでも、千影は押しつけられたはみ出し者――シリル・オールディスという同い年の青年とは、それなりに馬が合っていた。
 だが、はみ出し者の彼が一人暮らしている屋敷は、決して賑やかとは言えない環境であった。
 召使い兼客人として送り込まれた千影と、数名の住み込みの召使いたち。時々見かける通いの使用人たち。ごくごく稀にやってくる客人。それが、この館にいる人間の全てだ。
 そして、オールディス家に忠実な召使いたちは、主人であるシリルの前では極力姿を見せないようにしている。使用人同士のお喋りなど、地下の使用人たちが過ごす場所ならいざ知らず、表のこちらでは当然あり得ないことだ。
 だというのに、楽しそうな会話の残滓を千影の耳は拾い上げている。いくらか声量を抑えようとしているらしいが、気の置けない間柄なのか、時々声が弾んではっきりと笑い声が耳に届くときもあった。
「使用人の人たちが話しているのかな。それとも、シリルに客人でも来ているんだろうか」
 この邸――妖精の王冠(フェアリークラウン)と名付けられた、緑豊かな田舎に建てられたマナーハウスにも、人が訪れることがある。
 しかし、今日はそんな予定は聞いていないが、と千影はゆったりとした足取りで声の元へと向かう。なお、ゆっくり歩いているのは、以前に小走りで廊下を通ったら叱られたからだ。
 向かう先の部屋は応接間ではない。それならば、客人ではなく、シリルが暇つぶしを兼ねて使用人の誰かと話しているという可能性もありそうだ。
 小さく咳払いしてから、少し開けられた扉に近づき、
「シリル様?」
 声をかけると、話し声がぴたりとやんだ。
 一言断りを入れると、「入っていいぞ」と少し不機嫌そうな少年の声が耳に入る。
 了承も得たのだからと、千影が一歩足を踏み入れればたのは、昼下がりの日差しをたっぷりと取り込んだ居間だ。
 かつては、都会の喧噪から逃れた貴人たちが過ごしたのであろう、広々とした空間は、現在の住人の数と比べるとがらんとしていて、どこか物寂しげであった。
 それでも、先ほどの話し声の残滓が飛び交っているかのように、いつもよりもどこか雰囲気が明るく感じられる。
 座り心地の良さそうなマホガニー材の椅子、細かな彫り細工が見事な暖炉、繊細な細工が施された飾り棚。
 場の空気を乱さないように選び抜かれた絵画は、植物の図柄の壁紙の上、いつも通りのすまし顔で並んでいる。
 だが、千影が呼びかけた友人――シリルは、居間の美しさに似つかわしくない、渋い顔で彼を出迎えた。
「千影。どうしてこんな所に来たんだ」
 来なければいいのに、と遠回しに言われているが、この程度の皮肉でたじろぐほど千影も繊細ではない。それに、シリルのどこか皮肉交じりの話は彼の癖のようなものだと、出会って数日で千影は理解していた。
「それは、シリルの方がよく知っているんじゃないか? 廊下に聞こえるほどの声で盛り上がっていたら、足を向けたくもなるよ」
 どうやら、客人が来ているわけではないことはすぐにわかったので、取り繕った言葉使いを幾らか軽いものに切り替える。
 千影が視線を向けた先――シリルの向かいの椅子に腰を下ろしているのは、時折り館の中で見かける使用人の一人だ。お仕着せを纏った彼女は、来訪者である千影を目にすると、まるで焼けた地面の上に座ったかのように素早く立ち上がった。
「も、申し訳ございませんっ! シリル様からは、お許しはいただいていたのですが……私、その」
 使用人如きが仕事もせずに、椅子に座って主人と雑談している。それが到底許されることではないのだと分かっているから、彼女はすぐさま非礼をわびようとしたのだろう。
 だが、そもそも千影は使用人がどこで休んでいようと、主人と何を話していようと咎めるつもりはなかった。
「俺に対して、そこまで畏まらなくてもいいですよ。聞いているかと思いますが、客人と言っても半分はシリルの従者みたいなものですから」
 先ほどよりも丁寧に、聞き取りやすいようにゆっくりと話すと、横合いからシリルに小突かれた。
「なあ、千影。前から思っていたんだが、俺に話しかける時と年長の女性に話しかける時で、随分と話し方が違うんじゃないか?」
「女性と年長の方には敬意を持って接しよと、家庭教師の方に教えてもらったからね」
「主人にも、と言ってなかったか?」
 不満げに唇を尖らせる友人に、千影は肩をすくめて見せる。
 千影より頭ひとつ分は小柄なこの友人は、本当にそのような態度を取られたらひどくご機嫌斜めになることを、千影はよく知っていた。
 シリル・オールディス。それが目の前にいる少年の名前だ。
 本来なら伯爵の父を持ち、嫡男として子爵位を持つ彼にはロードとつけるべきなのだろうが、本人は貴族的な仰々しい呼び名を嫌っていた。
 彼が嫌うことは他にもある。
 吊り目がかった大きな瞳や小柄な体躯は傍目から見ると女性のようにも見えるのだが、彼は自分が女と間違えられることを心底から忌み嫌っていた。
 一つにまとめた朽葉色の髪を軽く振り、シリルは片手で千影にも座るように促す。示されるままにシリルの隣の椅子に千影が腰を下ろしたのを確認してから、シリルは会話を続けた。
「さっきの千影の質問だが、話していたのは彼女のことだ。もう暫くしたら、彼女はミス・メアリー・ベイカーから、スミス夫人になる。そのことで、色々と話していたんだ」
「ということは、ご結婚されるのですね。それは、おめでとうございます」
 姓が変わるという話と、シリルの説明を受けて真っ赤になった初々しいメイド――メアリー・ベイカーという名らしい彼女の様子に、千影はすぐさま何を示唆されたのか察した。
 お祝いの言葉に、メアリーはブロンドの後れ毛をいじりながら、「ありがとうございます」と笑みを返す。
「そのスミスという幸福な旦那様は、この屋敷の人なのですか」
「いいえ、千影様。屋敷からいくらか離れたところにある村の農園の者です」
 妖精の王冠邸の周りは、田舎というだけあって広大な緑地とうっそうと茂る森がある。その中でも、緑地の部分にはいくつかの農場に貸し出され、様々な農作物を収穫し、いくつかはこの邸の食卓へと届いていた。
「馬車で半日と少しはかかる距離とお伝えした方が、千影さんには分かりやすいでしょうか」
「そうですね。でも、馬車で半日以上となると、メアリーさんはこの屋敷のお仕事を続けられないのではないでしょうか」
 通いの使用人もいると聞くが、流石に馬車で半日以上もの距離を毎日走ってくる者はいないはずだ。
 使用人として従事している女性は、結婚してからも続ける場合もあるが、結婚と同時に辞める場合もある。メアリーの場合はどちらだろうと千影が視線で問うと、
「流石に新婚の女性を夫から引き離すほど、俺も外道じゃない。新しい人員はミセス・スポットがもう探しているし、見つからなくても、こんな小さな邸のハウスメイドが暫く少し減っていても、大した問題じゃないさ」
 どうせ誰も来ないんだから、と呟くシリルに、千影はなんと答えたらいいか分からない。
 もし、千影の親戚に体の不自由な者がいたら、心配で週に何度も訪問しただろう。だが、そのような千影の常識はここでは通用しない。
 千影の胸を過った苦い感情など知らずに、シリルはメアリーへと向き直る。
「メアリーには、随分世話になったな。昔から丁寧に仕事をしてくれていたし、俺が今の状態になってからも、こんな田舎にまでついてきてくれた」
 言いつつ、シリルの視線は自分の左足に送られる。
 とある日を境に思うように動かなくなったという、彼の左足。
 その保養のためという名目で辺境の邸に過ごしているこの年若い主人は、自分が事実上、家から追放されていることをもう知っている。
 そして、千影にはその事実をどうすることもできない。できるのは精々、メアリーと同じように、彼と暮らしを共にすることだけだ。
「も、もったいないお言葉です、シリル様。幼い頃から、随分と目をかけていただき、過分なお気遣いに、ええと……
 メアリーは慌てたように言うものの、途中で舌がもつれてしまい、言葉はくぐもったまま途中で切れてしまう。
 すると、シリルはくつくつと喉の奥を震わせるように笑い、
「堅苦しい話し方、苦手なんだからやめていいってさっきも言っただろ。千影がいるからって、そんなに緊張しなくてもいいんだ」
……すいません。ミセス・スポットからは直すように言われたんだけど」
 今までどうにかつっかえながらも使っていた丁寧な言葉遣いを崩し、いくらか訛りの混じった言葉がメアリーの唇からこぼれる。その方がずっと話しやすいのだろう、先ほどよりも彼女の発音はずっとなめらかになっていた。
「シリルはメアリーさんが辞めることになるから、あれこれ話を聞いていたのか?」
「別に今まで知らなかったわけじゃない。前々から、メアリーが辞めることは知ってたぞ」
「でも、ちゃんと私の口から、シリル様に私のことを話せたのは嬉しかったわ。このまま、何も話せずにお別れになってしまうんじゃないかって、心配だったの」
 今までの緊張交じりの声が幾らか和らぎ、落ち着いた声音でメアリーは嬉しそうに声を弾ませる。
「俺も、メアリー本人から話が聞けて良かったよ。これまで世話になったから礼の一つくらいは、直に言いたかったしな」
「そんな、紹介状を書いてもらっただけで十分よ!」
 驚いたように目を丸くするメアリーに、シリルはいたずらっ子のように口角を釣り上げる。そうすると、屋敷の若き主人は年相応の子供に早変わりする。
「どうせなら、もっと豪華な品でも贈った方がよかったか?」
「シリル様、揶揄うのは程々にしてちょうだい。昔からの悪い癖よ」
「そもそも、何を贈るにしてもシリルが稼いだお金で得たものじゃないだろうに」
 千影から至極もっともな言葉を投げ込まれて、シリルは唇をひん曲げる。
 実際のところ、彼は一応貴族の一員なので、治めている土地から得られる地代が彼の収入とも言える立場ではある。
 だが、数ヶ月前まで金銭を得るために働いていた経験があった千影にとって、お金とは自分が汗水流して得るものという感覚が拭えないのだ。
 水をさされたシリルは、改めて一つ咳払いすると、
「そういえば、メアリーはサムシングフォーは用意したのか? 花嫁には必要なものなんだろ」
「サムシングフォーって?」
 聞き覚えのない単語に、千影が首を傾げる。西に渡ってそれなりに月日は経ったものの、まだ時折こうやって知らない単語や文化を耳にすることがあった。
「結婚式の時に花嫁が身につけると幸せになるって言われている、おまじないみたいなものだよ。日本には、そういうのはないのか?」
「俺の知る限りは、特にはなかったかな」
 その手のことを教える前に母が早世してしまったので、千影にとって結婚式や花嫁という単語はいまだに未知の領域にあった。
 すると、メアリーがくすりと軽やかな笑顔を浮かべ、すうと小さく息を吸ってから一つの歌を口ずさんだ。
 
 Something old, something new,
 something borrowed, something blue,
 and a sixpence in her shoe.
 
 紡がれたのは、独特の韻律を踏んだメロディ。同じ言葉を何度も繰り返すそれは、千影もこの地で何度も耳にした子供向けの童謡に似ている。
「これって、前に教えてくれた、ええと……
「マザー・グースだな。その一つにこういう歌があるんだよ」
 シリルは、以前千影に同じような童謡を教えていた。千影も、言語こそ違えど、似たような数え歌や語呂合わせの歌を幼い頃に口にしたことがある。いわば、それの西洋版というわけだ。
「古いもの、新しいもの、借りたものと青いもの。そして靴には六ペンスの銀貨を。私も、少しずつ準備していたのよ」
「それは、花嫁が身につけるものなら何でもいいんだよな」
「そうよ、シリル様。新しいものは、新調した手袋を。古いものは、お母さんのベールを借りることにしたわ」
 サムシングフォーのために品々を集めていく過程を思い出したのか、メアリーの顔に嬉しそうな朱が走る。
 馴染みのない文化に千影は驚くばかりだったが、シリルの方は慣れたものなのか、何やらすまし顔でメアリーを見つめていた。
「他には、何を用意したんだ?」
「借り物については、同じメイドのアンナから、ハンカチを貸してもらったの。返さなくていいなんて言われたけれど、同じ村の出身だから、休暇に帰ってきた時に返すつもり」
「そうなると、確かあと一つ……えっと」
「何か青いものが足りないってことか」
 指折り数えていた千影に代わって、シリルが教える。
「青いものだから、リボンか何かにしようと思うのだけれど、なかなか仕立て屋に行く都合がつかなくて。多分、ぎりぎりになってしまうわ」
 困ったような笑みを浮かべているが、メアリーにはそこまで大きな焦りは見られなかった。最悪、家のどこかにある端切れなどでも代用できると思っているのだろうか。
 この様子なら結婚式とやらも間近だろうに、随分と楽観的だなと、千影が少し不審に思っていると、
「あー……それなら、今のメアリーに丁度いいものがあったな」
 小さな咳払いと、常になく少し上擦った声に、千影は声の主である屋敷の主人を見やる。
 シリルがウェストコートから取り出してきたものを見て、得心の声が出そうになるのを彼は何とか堪えた。
……ああ、なるほど。そういうことだったのか)
 シリルがメアリーに差し出したのは、シンプルな青のリボン。おそらくは絹製と思しきそれを、シリルは「仕立て屋が測りに来たついでに買ったんだけど、要らなくなったから」などと、下手くそな嘘と共にメアリーに渡している。
(最初から素直に渡せばいいのに。お世話になった人に贈り物をするだけなのに、こんなにも場所や時機に気をつかうなんて、貴族というのは面倒なことがたくさんあるんだな)
 単にシリルの性格によるものもあるのだろうが、それを踏まえても身分の差とは厄介なものだと、千影はここに来て何度目になるか分からない感情を抱く。
 メアリーは一介の使用人だ。そして、貴族にとって、自分と同じ立場ではない者は、そもそも同じ人間として見ていない場合すら、ままあるらしい。
 これは西洋に限った話ではないが、千影は自分が『平民側』であったからこそ、身分のことを意識するたびに違和感を覚えていた。
 だが、千影を何をどう思おうと、貴族とそれ以外の間には確かな一線がある事実は変わらない。
 目に見えないこの一線を不用意に踏み越えれば、途端に周りからは白い目で見られる。踏み越えた側も、踏み越えられた側も――この場合は、メアリーもだ。
 この辺境にある邸の中ではうるさく言う者もいないだろうが、それでも他の使用人がなんと思うかは別の話だ。
 だから、周りに他の使用人がいない場面を選び、シリルの命令で話し相手をさせているという体裁を取りつつ、婚姻に関するおまじないに基づいて、ちょっとした不用品を押し付けるという言い訳まで作っているのが、シリルなりの精一杯の誤魔化しなのだろう。
……本当に、もらってもいいの?」
「いいさ、別に。青のリボンなんて、いっぱい持ってるからな」
 早口で言い訳を並び立てるシリルには、自分の発言が『間違って買った』という言い訳を破綻させているとは気がついていないようだ。
 メアリーの方も、驚きながらも、まるである程度予測していたかのように、主人からの贈り物を受け取っている。
 この様子から察するに、メアリーもまた、シリルが自分のために何か贈り物を用意していると、予測していたのだろう。そして、それが彼がよく身につけている青いリボンだろうということも。
 だから、彼女は敢えてサムシングブルーを用意しなかった。古なじみながらの、言葉にならない縁が生み出したやり取り。そればかりは、新参者の千影が割って入れないものだ。
「メアリーさんの式には、誰が来る予定なんですか」
「私の両親と祖父母、それと親戚を何人か考えているわ。アラン……夫の方は、彼の両親と、その親族を呼ぶ予定よ。後は、近所のお世話になったことがある人たちとか――
 そこで、ふとメアリーは言葉を途切れさせる。何か物思いに耽るような様子は、幸せが約束された花嫁にはあまり似つかわしくない。
「何か気がかりなことでもあるのか? 招待客の親戚の誰かに、悪い噂でもあるとか」
「いえ、そういうことじゃないわ。ただ、彼女が来てくれたら嬉しいのだけど……って」
「彼女? メアリーさんの親戚の方ですか?」
 千影の質問に、メアリーはゆっくりと首を横に振る。
「親戚の者ではないわ。でも、小さい頃に何度か見かけた覚えがあるの。私が遊んでいるときに、いつも遠くから見守ってくれていた、綺麗なブロンドの女性だった」
 メアリーは、まとめていた自分の髪からこぼれ落ちたブロンドヘアを、そっと指でつまむ。
「だから、村の誰かだとは思うのだけれど、物心ついた時に母に聞いても、そんな人はいないって言われてしまって。その時の母は、何だか慌てたような言い方をしていたから、もしかしたら、私に教えたくないと思うような人物だったのかもしれないわね」
「メアリーが小さい時に、村からいなくなった人か、或いはたまたま一時期村に滞在していた人か、ということですね」
「そうね。どうしてか、彼女のことが妙に忘れられなくて。……今でも、ふと時々思い出すの」
 だが、元々村に住んでいた人物ならいざ知らず、一時期的に滞在していただけの人物なら、メアリーの結婚のためにわざわざ顔を出すとは考えにくい。
 メアリーにとっては印象深い人物だったとしても、本人が同じ気持ちかどうかは別の話だ。
「村の住人かどうかも分からない人のことで悩んでも、仕方ないわね。どこか遠くにいる彼女に、今の私の気持ちが届くように祈っておくわ」
「ええ。きっと、メアリーさんの幸せは彼女にも伝わっているでしょう」
 千影の言葉に背中を押されるように、メアリーは大きく頷く。シリルから貰ったリボンを胸に抱くようにして、彼女は深く息を吐き出す。
「こうして、ここでシリル様や千影様とお話できるのは、あと少しだけと思うと、少し残念な気持ちもあるのだけれど……
 ゆっくりと視線を巡らすメアリー。
 ハウスメイドとして、彼女は今まで何度もこの部屋を磨き、整え、掃除してきたのだろう。
 無論、この部屋だけではない。彼女の私室である屋根裏部屋はもちろんのこと、地下室から庭、廊下、書斎に応接間。数多くある部屋にメアリーの足跡は深く刻まれている。
 所詮は仕事のためとはいえ、彼女にとっては最早生活の一部でもあった場所。
 これまで深く己自身を根ざしてきた屋敷から離れるのは、めでたい理由があってのことと雖も、メアリーには手放しに喜べるだけのことではないようだった。
「千影様は、私の幸せが彼女に伝わると言ってくれたわ。でも、ここでシリル様にお仕えする日々も、私にとっては確かに幸せだったの」
「ハウスメイドを揶揄うような、意地悪なご主人様でも、か?」
「靴を泥だらけにして帰ってくるような、困ったご主人様でも、よ」
 揶揄い交じりの物言いのシリルに、メアリーもまた、窘めるような笑みを返す。そうすると、不思議とメアリーはシリルと大きく年の離れた姉のようにも見えた。
 腰を下ろしていた椅子から、メアリーは立ち上がる。それは、この場を辞去することを示すだけでなく、彼女の従者としての日々に近く別れを告げるための瞬間が来たと告げているかのようでもあった。
「この国には沢山の貴き身分の方がいて、その数以上に多くの使用人がいる。その中でも、私は最も素晴らしい方に仕えることができたと、胸を張って言えるわ」
「あなたにそこまで言ってもらえるほど、立派な主人をできていたかは分からないが――
 自分に臣下の礼をとる一人の女中のために、シリルもまたソファから立ち上がろうとする。足の悪い彼を支えるため、千影はそっと彼に手を貸した。
「メアリー・ベイカーが仕えた者として、恥じない主人であり続けるよ。……メアリーと俺自身にかけて」
 胸に手を当て、静かに告げるシリルの姿に、メアリーはぎこちないながらも礼(カーテシー)をしてみせる。
 貴人に向けるには拙いものではあったが、それが彼女なりの最上の礼であることは、シリルにも千影にも十二分に伝わっていた。
 
 ***
 
「それで、結局メアリーさんを引き留めていたのは、あのリボンを渡したかったからってことなんだろう?」
「分かっているなら、いちいち俺の前で口にしなくていいだろう」
 本人も回りくどいと感じていたのか、シリルはどこか気まずげに千影に背を向ける。今の二人は、居間から書斎に移り、先ほどの話の続きをしていた。ここならば、使用人たちがうっかり会話を耳にする可能性も低いからだ。
 書斎といっても、以前住んでいた住人が残していった本があるだけで、蔵書の殆どはシリルには関わりのないものだ。今ではもっぱら、二人で話をしたり、時折シリルが千影に英語やら歴史やらを気まぐれな教える部屋として利用されている。
「俺も、何かメアリーさんに渡した方がいいかな」
「止めておけって。一応客人の扱いになっている千影に贈り物なんてされたら、彼女もどうしたらいいか分からなくなるだろうから」
「でも、シリルからは貰っていたじゃないか」
 千影としては、沢山話したのは今日が初めてであっても、これまで自分の住まう環境を整えてくれた彼女に、御礼の一つでも送るのが当たり前ではないかと思っていたのだ。
 だが、シリルはゆっくりと首を横に振る。
「俺と彼女は、それなりに付き合いがある。だから、彼女も受け取ってくれたんだと思う」
 足が痛むのか、彼は書斎のソファに腰を下ろしてから、言葉を続けた。
……メアリーと俺は、俺の足が悪くなる前からの付き合いなんだ。メアリーがまだ十二か十三かぐらいの年頃だったかな」
 元々、違うお屋敷で通いの使用人をしていた母の姿を見て育ったからか、メアリーは自然と使用人としての道を選んだ。
 小さい頃から母親の手伝いをしていたことが功を奏し、前に働いていた屋敷が使用人の雇用を見直すと言ってメアリーを解雇した際も、すんなりと紹介状を書いてもらえたらしい。
 住み込みの仕事で、しかも仕える相手は貴族ということもあって大変緊張したようだったが、持ち前の明るさと機転が利く所を認められ、自然とオールディスの家の使用人の座に収まったようだ。
「とはいっても、俺もその頃は家庭教師が張り付いていたから、そんなに彼女と話したことはなかったんだけどな。ただ、自分と同い年くらいの女の子が仕事をしているって知ったときは、当たり前のことだって分かっていたのに、少し不思議な感じがしたんだ」
「さっきの話の様子だと、何度か声をかけたりしていたのか?」
 どっちかというと、ちょっかいを出したという表現の方が正しそうだが、友人の名誉のために千影は敢えて曖昧な表現を選んだ。
 もっとも、シリルも幼い自分の態度は自覚していたようで、「そんな可愛げのあるものじゃなかったけどな」と顔を片手で覆っていた。
「当時の俺は十歳かそこらの悪戯坊主だったんだから、まあ……分かるだろ。その年の子供がすることなんて、碌でもないってことぐらいは」
「あいにく、俺は『女の子には優しくしなさい』と、小さい頃から母にも神父様にも言われて育ったからね」
「お前、本当、そういうところの行間を読まないなあ!」
 もしシリルの足が自由だったなら、彼は落ち着きなく子供のように足をばたつかせていたかもしれない。その証拠に、自由に動かせる右足のつま先が落ち着きなく宙を掻いていた。
「だから、メアリーには正直嫌われてるもんだって思ったんだよ。俺も、パブリックスクールへの入学が近づいていた頃からは、忙しくて使用人に構っている時間なんてさっぱりだった」
 全寮制の学校に通うようになれば、使用人とも距離を置くことになる。本来ならば、シリルの人生にメアリーが交差するのは、そこまでのはずだった。
 だが、片足の自由が無くなったことが、シリルの人生を逆転させた。
 今まで不自由な体を持って生まれた者など、家系に一人もいない。なのに、ある日を境に片足に不自由を抱えた少年に対して、家族は不審の念を抱いた。
 千影の持つ常識ならば、そのような子供がいたら不安と心配こそすれども、拒絶するような真似をするのはあり得ないのだが、どうやらシリルの親戚や両親は千影とは正反対の考えを持っていたらしい。体に欠陥を抱えるような者は劣った人間として、その血筋を残すことすら認めないという、千影にとってはあり得ないと思える言葉すら当然のものとして飛び交っていたようだ。
「結局、療養のために住む場所を変えるってなったのは、千影も知ったとおりだ。その時、使用人をどうするかって話になったとき、殆どの使用人は俺のお供は嫌がった。だから、ここに着いたときにメアリーがいたことを知って、驚いたんだよ」
 ハウスメイドは、普段から館の主人の目には付かないように仕事をしている。だが、このような小さな館で、お目付役も少ないような場面では気も緩む。
 何気なく目にした、見覚えのあるブロンドのメイドの姿を見て、シリルは思わず声をかけた。
「メアリーは、俺が目をかけてくれた、と言っていたけれど、とんでもない。ただの悪戯小僧の俺のことを気にかけてくれたのは、彼女の方だったってことだ」
「そういう理由なら、確かに君だけが彼女に贈り物をするのは、確かに自然なことだな」
 シリルの言うとおり、千影が渡したらメアリーは面食らっていただろう。
……家族同然、とまでは言えないけれど、世話になった相手にはどんな身分の者が相手でも、相応の礼はしたいんだ。住む所は違っていても、千影だってそうだろう?」
 何気なく話を振った矢先、シリルは見つめた先の友人の表情に一瞬走った強張りを目にして、遅まきながら己の発言の失態に気がつく。
 目の前の友人は、故郷から遠く離れて過ごしているだけでなく、世話になった相手に十分な別れを告げることもなく、船上の人になったと聞く。
 本人は、まるで何事もないように振る舞っているから忘れがちだが、今の千影は、世話になった相手に礼を言いたくても言えない状況に置かれているのだ。
 そして、その原因が自分にあることをシリルも知っている。
 たとえ、それが親戚の誰かが、面倒な従者役を遠縁にあたる千影に押しつけようと勝手に決めたからで、シリルが望んだわけではなかったとしても。
……悪かった。口が滑った」
「そうやって、気を遣われる方が困るな。別に、俺は里心がついて泣き濡れて暮らしているわけでもないんだから」
 寧ろ、理由があってのことではあるが、かなり恵まれていると千影は自負している。
 自分の母親が、千影にとっては名も知らぬ貴族の縁戚だったらしい、というだけで、千影はシリルの客人としての破格の扱いを受けている。千影はシリルにとっては遠い親戚に当たるわけだが、未だに千影はその事実を我がこととして受け止められずにいた。
「それに、俺は母さんのことを知りたくて、自ら望んでここまで来たんだ。だから、シリルに謝られる理由はないし、俺なりの決意をそんな風に気遣われても、やっぱり困ってしまうな」
……それなら、いいんだが」
 それでも何か言いたげな友人に、千影はもう一度「大丈夫」と繰り返す。
 まったく、この友人は先ほどまでは遠慮無くこちらに小言をぶつけたり、冗談を交わしたりしていたのに、時折このように真面目くさった態度を見せるのだ。
 足のこともあってか、時々捻くれたことも言うけれど、根は悪い人間ではないのだろう。それが分かっているから、千影はシリルという人間を友人として受け入れられたのだ。
「それに、俺がどこに行ったとしても、俺の気持ちは距離なんか関係なく、皆に届いているさ。メアリーが言っていたようにね」
 そこまで言って、千影の言葉がふつりと途切れる。微かに伏せた瞳には、やはり少しばかりの寂寥が混ざっているようにも見えたが、再び顔を上げたときの彼は、いつも通りの朗らかでさっぱりとした笑顔を見せていた。
「どこにいたって、俺は俺なりに胸を張って、正しいと思える自分であり続ける。そう信じていられるなら、今の俺はそれだけでいいんだ」
「何というか、千影は本当……哲学書にでも書いてありそうなことを、平気な顔で言うよな」
 ご立派なことで、と言いながらもシリルの口元にひかれた笑みには嘲弄の気配はない。
 普段は建前やら羞恥やらが邪魔して口に出来ない言葉を、あっさりとそれらのハードルを飛び越えて形にしていく。そんな友人を、純粋に羨ましいと思い、同時に薄く線引きをしている。そんな複雑な意味合いが混じった笑みだった。
「さて、まだ日が高いことだし、庭でも巡っておくか。ちょっとは外の空気を吸っておかないと、医師にあれこれ言われるからな」
「気温も以前よりは上がってきて、散歩にはうってつけの季節になったものな。コートをとってくるよ」
 身支度の準備のために立ち上がる千影の背中を、シリルは幾らかの躊躇が混じった視線で見送る。
……本当なら、あいつは自分の故郷で、自分の国の言葉を話して、自分が過ごしたい相手と一緒にいられたんだろう)
 そうして、彼の言う『正しい自分』とやらでいられて、周りから尊敬や感謝の念を向けられていたのだろう。
 けれども、今の千影の献身を褒める者はいない。どれだけシリルを支えようと、従者として完璧に振る舞おうと、館の外を出れば千影の扱いは底辺まで落ちる。
 たとえ母親に貴族との縁があっても、千影の父親は東国の名も無き平民だ。
 幸い、千影は東国の面影が薄い顔立ちをしているが、彼の血筋を知る親戚は、面と向かって「アジア人との混血」と揶揄する者もいる。
 使用人の中には、千影を自分たちと同等か、ひょっとするとそれ以下の人間なのに、何故彼だけ好待遇なのかと嫌悪の目を向ける者もいる。
 見知らぬ地で、慣れない言葉を必死に研鑽し、馴染まぬ文化を体に染みこませるのが並大抵のことではないだろうと、彼を賞賛する者はいない。
 できるとしたら、それは今最も彼の近くにいるシリル自身になるわけだが。
「俺がいなかったら、あいつはここには来ずに済んだかもしれないのに」
 インクをぽつりと垂らしたように、心のどこかで染みが走る。
 メアリーの結婚を純粋に喜んでいたときの胸の高まりは、今はすうっと静まっていた。
 それは、未だ日が高くとも、少しずつ冷涼な空気を帯び始めた、窓越しに見える夕暮れの庭の空気とよく似ていた。
 
 ***
 
 穏やかな春の昼下がりを過ごした、その数日後。
 二人の少年の耳に、青天の霹靂となる報せが飛び込んでくる。
 それは、メアリーの元から、シリルの渡した青のリボンだけが消えてなくなったというものだった。