とむぢ
2026-04-19 01:02:42
10136文字
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グッドモーニング・スイートハート/A▲▽

朝の風景シリーズ A▲▽ver.
※捏造過多(過去とか)
※▲→←▽(まだ付き合ってない)(ドデカ感情向け合ってる)
A▽がお兄ちゃんっ子だしA▲は弟を愛してる

なんとなくA〼は食べるのが好きそうだったらいいなって。ところでヤドンのしっぽサンドってどうだ…?


 まずい、寝過ごした。クダリは信じられない思いで手首に巻いていたライブキャスターを凝視する。昨晩、全ての勤務を終わらせたクダリが鉄道員専用のシャワー室を使った後、仮眠室のベッドで目を閉じたのが0時半過ぎ。最近兄のノボリと同じタイミングで買い換えた最新型のライブキャスターで、朝の4時に鳴るようにアラームをセットしていたはず。それなのに現在の時刻は4時5分。5分も寝過ごした。駅で働く人間にとって5分という時間は大きい。とにかく遅れを早く取り戻そうと、クダリは仮眠室のお世辞でも寝心地が良いとは言い難いベッドから飛び起きた。仮眠用の寝間着を素早く脱いで、ロッカーの中に畳んであった制服に着替える。ネクタイとズボンのベルトに手間取った。その勢いでサブウェイマスターの証であるコートを急いで羽織り、鏡も見ずに制帽を被りながら仮眠室のドアを開けた。
 熱々のコーヒーが入っているマグカップを持った兄のノボリが、本当にすぐ目の前にいた。
「おはようございます。クダリ」
「っ!! お、はよう……ノボリ兄さん……
 危なかった。急に止まることが出来て良かった。寝起きのクダリはバクバクとうるさい胸を撫で下ろす。あのまま早足で自分のデスクへ向かっていたら、間違いなくコーヒーを持ったノボリと真正面からぶつかって、辺り一面大惨事になっていた。何よりノボリに火傷を負わせるところだった。万が一そんなことになったら、今日一日クダリは凹みに凹んで使い物にならなくなる。
「今もう一つ淹れてくるので、先にこちらのコーヒーを持って行ってください。クダリ用のミルクとシュガーも一緒に持っていきますので」
 棒立ちのクダリに自分が持っていたマグカップを渡し、ノボリは再び駅員室の隅にあるコーヒーメーカーが設置してある場所まで踵を返す。ちなみにマグカップは持参したものだ。職場のみんなもマイマグカップを家から持ってきて、名前の書いたシールを貼った状態でそれぞれ置いている。まだ頭が若干ぼんやりしていて反応が遅れたクダリは、どんどん遠くなる兄の背中に急いで声を投げ掛けた。
「待って、ノボリ兄さん! それくらい自分でやるよ!」
 弟の声に振り返ったノボリは、何やら楽しげな笑みを浮かべていた。その笑みの理由をクダリが聞く前に、ノボリがクダリの頭に手を伸ばす。ろくに鏡も見ずに被ったものだから、制帽が斜めにズレていたらしい。それをノボリが正しい位置に戻してやる。まだサブウェイマスターではなく、あどけない弟の顔をしているクダリを、ノボリがそれはそれは愛おしそうな目で見つめた。
「あなたはまず身嗜みを整えていらっしゃい。大方また自分の手を顔の下に敷いて寝ていたのでしょうけれど、頬にライブキャスターの跡がついていますよ」
「えっ!? うそ!?」
「はい、嘘です」
 語尾に音符マークでもついていそうな喋り方をするノボリが、クダリをその場に残して去って行く。空いている方の手で自分の頬を覆い、意図せず可愛らしいポーズを取って固まっていたクダリは、ぐぬぬと言わんばかりの顔でノボリの背中を見送った。いつも素直な反応を返してくれるクダリをからかうのが、ノボリの楽しみのひとつだった。正直なところ、クダリもクダリでノボリに遊ばれることを嬉しく思っている。しかしそんなことをノボリへバカ正直に打ち明けるわけにはいかないし、何よりプライドが許さないので、クダリはからかわれる度に一応悔しがるふりをするのだ。その強がりすら兄のノボリには見透かされていそうではあるけれど。
 何はともあれこのまま突っ立っているわけにもいかない。時間が勿体ない。クダリはノボリに言われた通りコーヒーを片手にデスクへ向かった。勤務開始までに身嗜みを整える必要があるのは本当だ。どうりで目がシャキッとしないわけだった。コーヒーをデスクの上に置いてから、とりあえずコートもオフィスチェアの背凭れ部分に掛けて、クダリは簡易的な洗面台へ向かう。鏡に映る自分を凝視して、特に両頬をクダリは何度も確認する。もし本当に手首に巻いていたライブキャスターの跡がついていたりしたら格好悪い。尊敬するノボリと対になる白のサブウェイマスターとして示しがつかない。だが本当に寝起きのクダリをからかう為のノボリの嘘だったようで、クダリは一安心した。
 朝のスキンケアを終えて完全に目を覚ましたクダリが戻ってくると、ノボリが先にコーヒーを飲んで待っていた。デスクの上には昨日のうちに買っておいた二人分のサンドイッチが置いてある。今日の朝食だ。まだ肌寒いので、クダリは椅子に掛けておいたコートを再び羽織り、ノボリの隣に座った。ノボリが淹れてきてくれたコーヒーにミルク3つとシュガー3本を入れて、ウッドマドラーで混ぜると、冷めないうちに飲む。日勤のときも泊まり勤務のときも、目覚めの一杯は兄と一緒に飲むコーヒーと決めていた。
「どうぞ、クダリ」
「ああ……ありがとう、ノボリ兄さん」
 二つあるサンドイッチのうち、ノボリがたまごサンドをクダリのデスクの上に移動させる。ちなみにノボリは“ヤドンのしっぽサンド”という変わり種を選んでいた。新商品だ。クダリはどんな食べ物を買うときでもいつも食べている好きな味を選びがちだが、ノボリは食欲よりも好奇心の方が強いらしい。これまでに何度も食べたことのない味に挑戦しては、その豊富な語彙を用いて食レポをしていた。手袋を脱いだノボリは、クダリからの熱い視線を浴びながらペリペリと袋を破り、大きく口を開けてサンドイッチを頬張る。未知の味だとしても何の躊躇いもなく頬張るその姿は男らしい。格好良いとも思う。クダリは常に兄のノボリのことを世界一格好良いと思っている。自分の分のサンドイッチの袋を開けながら、純粋に興味が湧いたクダリは訊ねる。
「どう?」
 ヤドンのしっぽが食用として売られているのは周知の事実だ。ヤドンが生息していないイッシュ地方でもヤドンのしっぽは店に並んでいるし、他の地方ではヤドンのしっぽを食材に使った有名な郷土料理もあると聞いている。しかし、サンドイッチの具材としてヤドンのしっぽが合うかどうかはまた別の話である。暫く黙々と口に入れた分を咀嚼していたノボリが、全部飲み込んだあとで恒例の食レポを始めた。
「はい、普通に美味しいですよ。しっかりとした噛みごたえがあってブラボーです。バスラオの缶詰の味に若干似ているような気もしますね。噛めば噛むほど優しい甘みが口の中に広がります。ただ、一口頬張っただけでも結構な満足感があるので、もうお腹いっぱいになりそうです」
 この反応は、まぁ美味しくはあるけど別にまた買って食べたいほどでもないときの反応だ。本当に美味しくて口に合っていたら、ノボリのことだからもっとハイテンションになっていることだろう。ノボリの感想を何度も聞いているうちに、その食べ物のブラボー度合いが分かるようになってきたクダリが、ふと自分の手元にあるたまごサンドに視線を落とした。それからノボリにとある案を持ち掛ける。
「確かにちょっと朝から食べるには重そうだね。ぼくのたまごサンドと交換する? 一口食べちゃったけど、それでも良いなら」
「わたくしは全く構いませんが、寧ろよろしいのですか?」
「うん、ノボリ兄さんの食レポ聞いてたらぼくもそれ、食べてみたくなっちゃった」
 半分嘘で、半分本当だ。実際はノボリと何でも半分こにしたい気持ちの方が強い。幼い頃なら素直にそう言えただろうが、もうしっかり就職もしている大人なので、クダリはそれっぽい理由をつけることで己の願望を実現させた。ノボリからヤドンのしっぽサンドを貰うと、クダリはたまごサンドをノボリへ渡した。交換完了。早速ヤドンのしっぽサンドにかぶりつく。たしかに噛みごたえがあって美味しい。でも確かに、正直この味なら……
「パンとヤドンのしっぽ、別々で食べたいかも」
「分かります」
 別にこれはサンドイッチじゃなくてもいい。最終的にその感想に辿り着いたクダリに、すぐさまノボリから短い同意の言葉が飛んで来た。目を合わせたノボリとクダリは瓜二つの笑顔を浮かべながら、穏やかな朝の時間を過ごす。
「寝過ごしたぼくが100%悪いのは分かってるんだけど、ノボリ兄さんも起こしてくれたら良かったのに」
 始発電車が発車するまでまだ時間はあるので、クダリはサンドイッチを食べながら切り出した。ゆっくりは出来ないけれど、少しくらい兄弟水入らずで話したい。エネルギーをチャージしたい。
「昨日、お客様同士のトラブルの対応に追われて大変そうにしていたでしょう? ギリギリまで寝かしておいてやりたかった兄心ですよ」
「トラブル……?」
 いつの間にかサンドイッチをペロリと平らげたノボリにそう言われて、クダリは目を丸くした。その数秒後、声を上げて思い出す。昨日の昼過ぎの話だ。ダブルトレインに乗車してポケモン勝負するはずだった1両目の客同士が顔見知りだったらしく、しかも運悪く過去に二人の間で金銭トラブルがあったとかで、ポケモン勝負そっちのけで取っ組み合いの喧嘩を始めた。いつも通り7両目で挑戦者を待っていたクダリは、騒ぎを知って先頭車両まで駆け付けた。2両目以降の車両でバトルを待機していた乗客に危害が及ばないように避難させたり、各ホームにいる駅員や他の車掌と無線で連絡を取り合ったあと、本来停まる予定のない駅に停車して二人を引きずり下ろし、何とかその場は収まった。ホームで待機していた駅員に警察も呼んでもらっていたので、クダリが警察に事情を説明し、解放されるまでダブルトレインは運転見合わせになった。おかげさまでダイヤが乱れまくったことは言うまでもない。そのせいもあって昨日は挑戦者とポケモン勝負ができなかった。ああ、そうだ、ポケモン勝負ができなかった!! 客同士のトラブルの対応に追われたことよりも、それが何よりもクダリは辛い。どうしてサブウェイマスターになったのかって、小さい頃から大好きな電車に乗りながら大好きなポケモン勝負がいっぱい出来ると聞いたからだ。昨日は一日中ボールの中でずっとスタンバってくれていたポケモンたちにも申し訳ない。
 ノボリの一言で昨日起こった出来事を鮮明に思い出し、クダリは苦笑を通り越して大笑いしそうになった。社会人になると、笑わないとやっていけないことが多くなる。しかし流石に朝の4時頃からいきなり声を上げて笑いだしたら怖いどころの騒ぎではないので、クダリは咄嗟に頬の内側を噛んで我慢した。ノボリ兄さんに引かれたくない。その一心だった。そんなクダリの頑張りを知ってか知らずか、おもむろにノボリはクダリの頬へ手を伸ばす。
「クダリに怪我がなくて本当に良かったです」
 喧嘩に巻き込まれて殴られていてもおかしくない状況だったはずだ。クダリが乗車しているダブルトレインでトラブルがあったと駅員から聞いたノボリは、仕事さえなければすぐに線路の上を走ってでもクダリのところへ行きたかったくらい、心配で仕方がなかった。手袋の布越しではないノボリの指の感触がダイレクトに伝わって、じわじわと頬に熱が集まっていくのが自分でも分かるクダリは焦った。これ以上ニヤけた面を晒すわけにはいかない。もう幼い頃みたいな、ずっとノボリの後をついて回っていた甘えん坊の弟は卒業するとクダリは決めたのだ。

 精神的にも自立して、兄のノボリを支えられるような立派な男になるとクダリが誓ったのが、ハイスクールに入学したとき。自らノボリ以外の人間とも積極的に付き合い出して、ノボリと一緒にいない時間を作る為に友人も増やして、ポケモン勝負以外の勉強だって頑張った。ITシステムやプログラミングといったコンピューターに関する知識や技術も学んだ。幼い頃から頭が良くて愛想も良くて手先も器用でポケモン勝負も強くて、とにかく何でも出来るノボリの双子の弟として恥じないように、成長と共にクダリは努力を続けた。興味がない話題を振られても笑顔で受け答えが出来るようになったし、違和感を抱かせることなく周りに合わせて生活する術も覚えた。
 ただ一つ、クダリにとって大誤算があったとすれば、それはノボリが甘やかし上手すぎたことだ。あれは甘やかしのプロ、いや甘やかしの鬼だ。ハイスクール時代に一度だけ、人付き合いで無理をしすぎたクダリがストレス過多でぶっ倒れた日があった。そんなときに付きっきりで看病してくれたノボリの兄成分を過剰摂取してしまい、それはもう凄まじいことになった。涙腺が馬鹿になったみたいにドバドバと涙が止まらなくなって、体調が元に戻るまでノボリに抱き締めてもらわないと眠れなくなった。それ以来色んな意味で、急にめちゃくちゃ無理をするのはもうやめようとクダリは心に決めた。早く変わろうと焦ったところで、人はちょっとずつしか変われないのだから。

 今思い出しただけでもあまりに情けなくて泣きたくなる過去もあって、未だにクダリはノボリに触れられると、幼い頃の自分が顔を出しそうになるから困ったものだった。愛おしそうに頬を撫でてくれる優しいノボリの手が離れていかないようにギュッと掴んで、そのまま擦り寄って甘えたいのを、クダリはグッと我慢する。流石にもう成人したから。双子揃って同じ職場だけれど、きちんと就職もしたから。いつまでも兄にベッタリなんて、絶対良くないに決まっている。それらしい理由を何度も並べながら、クダリはいろんな感情の色が溶け合って蕩けそうになる思考を頑張って白一色に塗り直す。一旦リセットする。
(ああ、ぼくってば本当に、まだまだノボリ兄さんがいないとダメな弟で恥ずかしいな)
 兄に心配をかけさせるのは悪いことだと思いつつ、兄に自分のことを自分以上に心配してもらえる幸せも噛み締めながら、クダリがノボリの手をそっと払う。
「大袈裟だなあ、ノボリ兄さんは……
「わたくし、そろそろクダリの手料理が恋しくなってきました」
「唐突だなあ、ノボリ兄さんは!?」
 本当に唐突だったから思わず大きな声を出してしまったクダリだが、どうやらノボリは自覚なしだ。急に違う話をしたつもりはないらしい。そうだ、兄は何だって出来るけど、ちょっとだけ天然が入ってるんだった。しかし、そんなところも弟のクダリからしてみれば美点に思えた。だって完璧すぎるよりも、どこかちょっとズレてるところがある方が、親しみやすいではないか。食べ終えたサンドイッチの袋を足元にあるゴミ箱に小さく丁寧に畳んで捨てるノボリを目で追いながら、クダリはノボリの思考を察した。ああなるほど、確かにそういえば最近家で料理をしていない。ギアステーションに泊まり込む勤務が続いたのもあって、忙しくて今日みたいな簡単な食事しか取れていない。遠回しに、店で買って食べる味に飽きたと言いたいのだろう。元々新しいもの好きで、好奇心が旺盛な人だから。料理はノボリも出来るけれど、自立=兄離れを頑張りたいクダリが率先して炊事を担当していた。
「クダリの焼くポットパイが今いちばん食べたいです、毎日でも食べたいくらい美味しいので」
「パイなんてオーブンがあれば誰にでも焼けるのに。それとも夜ご飯のリクエストのつもり?」
「おや、分かりませんか? たった一人の可愛い弟を必死に口説いているんですよ」
「あはは、なんでまた急に。変なノボリ兄さん、ぼくを口説いてどうするのさ」
 またいつもみたいにからかわれているのだと思い、照れくさそうな笑みを浮かべたクダリが席を立つ。さっきはノボリが二人分のコーヒーを淹れて来てくれたので、今度はクダリが空になった二人分のマグカップを片付ける。一度も振り返ることなく遠のいていく見慣れた白い背中を見つめていたノボリは、張り詰めていた糸を自ら鋏で切って、オフィスチェアの背もたれに深くもたれ掛かかった。誰も聞いていないことを良いことに、小さく息をつく。
「思ったより長期戦になりそうですねぇ……
 少しずつ外掘を埋めて弟に愛を伝えてきたつもりだ。でも少し遠回りしすぎたのかもしれない。クダリからは何でも出来る格好良い自慢の兄だと思われているようだが──それは兄としてはとても喜ばしいことだが──実際はそこまで胸を張れるような人間ではないと、ノボリは自己を評価している。勿論自虐しているわけではない。自己評価が低いわけでもない。寧ろ高い方だ。ポケモン勝負の腕だって、特にシンプルな駆け引きが楽しいシングルバトルでは誰にも負けない自信がある。両親からも愛されて育ち、評判の良いスクールにも通わせてもらい、スクールでも職場でも人間関係に恵まれ、何不自由なく暮らしてきた。ただ、そんなノボリの唯一とも言える弱点が、弟のクダリだと言っても過言ではなかった。
 品行方正に育ったノボリの心の中に生まれて初めて誰にも言えない複雑な感情が生まれたのは、ハイスクールに入学してすぐのことだった。小さい頃からずっと好きだったダブルバトルを、ノボリの手を借りずに一人で戦えるように上達しようと、クダリが必死に勉強し始めたのだ。それまではダブルバトルと言えば、二人でタッグを組んでやるものが当たり前だったのに。いつしか一人前の自我を持ち、兄離れを試みようと頑張るクダリを、ノボリは誰よりも近くで見てきた。勉強と特訓と改良を続けたダブルバトルだって、今ではクダリがイッシュ地方で一番と言っても過言ではないほど強くなった。その成長を喜ぶべきだと、もっと応援してやりたいと思う反面、クダリを何がなんでも手放したくない気持ちが、ノボリの中で日に日に強くなっていった。
 正反対に見える二つの白と黒の感情は、ノボリの中に線引きされた状態で明確に存在し続けていた。いつかクダリが特別な誰かを見つけ、それを兄である自分に報告されたとして、上手に笑って祝福してやれる自信が、今のノボリにはない。先ほど頬に伸ばして触れた手を、今にも蕩けそうな表情をしたクダリに弱々しく払われたとき。そのまま抱き寄せなかった自分を褒めてやりたいくらいには、ノボリもそろそろ限界だった。日々の勤務で疲れているのも多少は影響しているだろうけれど、ノボリの強い理性も徐々に崩壊しつつある。
(あなたは知らないでしょうけれど。わたくしは駄目な兄ですよ、クダリ)
 こんな兄で申し訳なく思っているが、愛しい片割れを手放すつもりはない。白のサブウェイマスターとして頑張る弟の背中を、同じ黒のサブウェイマスターとして支える。そしてここぞと言うタイミング──必要な瞬間が来れば、前後不覚になるくらいどろどろに甘やかすことを繰り返す。その“タイミング”は、待つのではなく作るものだ。きっちりと、確実に、いくら長期戦になったとしても、最高の目的地へと辿り着く為に線路を敷いていく。
「ノボリ兄さん、もう始発まで時間もないから一度ポケモンたちをボールから出してくるよ。昨日は一度もバトルが出来なかったからストレスも溜まってるかもしれないし。ノボリ兄さんも行く?」
 マグカップを洗って戻ってきたクダリがそのまま駅務室の外に向かおうとするので、ノボリは切れていた糸を再びピンと張りなおす。微笑を浮かべて立ち上がると、1ミリだって身長差のないクダリと目を合わせた。
「ええ、ご一緒します。そのまま他の皆さんとも合流し、乗務前の点呼も済ませてしまいましょう」
 
▼▽

 ノボリとクダリが同時にモンスターボールを軽く投げ、手持ちのポケモンたちを出していく。目に見える変化はないか間近で見たり、遊ぶようにして触れて違和感はないかを探したり、手からポケモン用おやつをあげて食い付きを確認したりして、ポケモンたち全員のコンディションを確認する。バトル施設で働くポケモントレーナーの義務だ。昨日はバトルで暴れることが出来なかったシビルドンが、不満を零すようにクダリの腰周りにまとわりついている。足元でデンチュラもピットリとくっついていた。隙あらばシビルドンを押し退けて、クダリに抱っこしてもらおうと狙っているのだ。クダリのデンチュラは厄介なことに、今の姿に進化しても自分はまだバチュルの大きさだと思っている節がある。今日のクダリは何に触れても静電気が起こることだろう。でんきタイプが手持ちにいると帯電体質になるのはポケモントレーナーあるあるの話だ。つい先日、同じライモンシティで働くでんきタイプのジムリーダーであるカミツレとも、似たような話をした。
「そうだよね、ぼくも早くみんなとダブルバトルがしたいよ」
 待ち切れずにクダリの足からよじ登ってきたデンチュラを両腕で抱きかかえながら、手持ちのポケモンたち一匹一匹に声を掛けるクダリのもとへ、シャンデラが腕の炎を怪しく揺らしながら近付いていく。シャンデラがまだ野生のヒトモシだった頃にゲットしたのはノボリの方であり、シャンデラ的にも親はノボリだと認識しているのだが、クダリにもよく懐いていた。シャンデラがデンチュラに構うクダリに気付いてもらおうと、腕の炎を激しく燃やす。それが視界の隅に入ったノボリが、ギギギアルの歯車の動きに異常がないかを確認しつつも、いつも通り静かにシャンデラを呼ぶ。
「シャンデラ、こちらへお越しくださいますか?」
 親であるノボリに呼ばれたシャンデラは、Uターンをするとノボリのそばまでゆっくりと移動した。シャンデラとは元来、人の生気を吸い取ろうとするポケモンだ。自分たち人間は彼らのその強大な力を借りてポケモンバトルをしているのに、都合の悪い力は否定してやめさせるなんて事は出来ない。だが元はと言えばシャンデラを手持ちに加えると決めたのは自分なのだから、クダリではなく自分の生気が吸われて然るべきだと思うのもまたノボリの兄心であった。
 双子の弟であるクダリを大切にしたい純粋な兄としての感情と、クダリを自分のものにしたい一人の男の浅ましい感情。その両方を抱えて物思いに耽ていたせいで気付くのが遅れた。さっきまでこちらに背を向けてポケモンたちと戯れていた筈のクダリが、いつの間にやら目と鼻の先までやって来ていた。至近距離でクダリは屈み込んで、俯きがちだったノボリの顔を覗き込む。
「ノボリ兄さん、もしかして顔色悪い? 大丈夫?」
 流石にびっくりして後退り、クダリから物理的な距離を置こうとするノボリの手を、すかさずクダリが掴んで引き止めた。
「待って、逃げないで。ノボリ兄さんはいつもそうやって不調を隠そうとするんだから、ぼくにくらい見せてよ」
……クダリ……
「しかもノボリ兄さんは完璧に隠し通すからタチが悪いの、知ってた? まぁ完璧なところを除けばぼくもノボリ兄さんのことを言えないけど……そういうところもぼくたち似てるのかもねって、駄目なところは似ちゃいけないのか」 
 自分で自分の言葉に呆れながら困り顔で笑って、クダリが掴んでいたノボリの手を離す。隠し通せないほど調子を崩していると分かれば、ノボリのことだからすぐに周りに報告して休むという選択肢を取れるだろう。礼儀正しいノボリはいつも周りに迷惑が掛からない方法を選ぶ。無理をしてぶっ倒れたことのある自分とは違うのだからと、クダリは自分自身を納得させようとした。
……ん? あれ?)
 珍しく何も反応を返さずに、ニコリともせずに、まるで放心状態みたいに突っ立っているノボリを見たクダリの表情に、焦りが目立ち始める。クダリの背中によじ登って引っ付いていたデンチュラも、今のクダリと似たような顔付きでノボリを見ていた。手持ちのポケモンがトレーナーに似るのか、それともトレーナーが手持ちのポケモンに似るのか、どちらが正しいのかは諸説あるけれども。
「もしかして本当に体調悪い!?」
……いいえクダリ。ご心配くださりとても有難いのですが、わたくしは頗る絶好調ですよ」
「本当かなあ!? なんか今日いつもより突拍子もない発言するな〜って思ってたんだよね。朝の体温ちゃんと測ってる?」
「ええ勿論、義務ですから。平熱でしたよ。そもそも熱があるなら今ここに立っていません」
……疑ってるわけじゃないんだけど、本当に大丈夫?」
「大丈夫だと言っておりますのに……弟が信じてくれなくてお兄ちゃん悲しいです」
「出た! ノボリ兄さんのそれ怪しいんだよなあ!」
 ノボリが自分のことを“お兄ちゃん”などと自称するときは大抵何かを隠しているか、単にクダリで遊んでいるか、その二択だ。双子の騒ぎを聞きつけた他の駅員たちが、なんだなんだとぞろぞろとやって来て、タイミング良くそのまま点呼の流れとなった。
 本当に駄目なところも全部そっくり似ていたら、どれほど良いか。言葉には出せなかった思いを胸に秘めて、二人はそれぞれ自分の持ち場へと向かうため、白と黒のコートを翻した。