【スタゼノ】楽園

スタゼノワンドロワンライ第250回お題「イルカ」「クジラ」
紛争地から帰国したスタンリーがゼノと水族館に行く話。

 クラゲの舞う水槽越しに見た、淡く揺らいだゼノの表情は、映画のワンシーンを思い起こさせた。だからなのかは知らないが、俺は思わず言葉をなくしてしまった。夕暮れ時の、人混みが消えてゆく時間帯の水族館。そんな場所に何とはなしに入り込んだ俺達は、ほとんど言葉を交わさずに水槽の並ぶ廊下を歩いていた。
 それでも、ゼノは時折何かを思い出したように海の生物について語った。例えばこの水族館が北米に誇る展示物であるクラゲについて――体の九十五%以上が水分で、ほとんど呼吸をしないこと、つまり細胞表面から直接酸素を取り入れていること、ターリトプシス・ドーナツなど一部の種類は、老化すると若返りのプロセスに入り、実質的に不死身と言われるほどなこと――について喋った。俺は久しぶりにゼノの頭の中から波のようにあふれ出る情報に触れたことで、何となくあぁ、戻って来たのだと思った。自分の国に、戻って来たのだと、そう思った。
 俺が最近まで滞在していた国にも海はあったが、残念ながら、そこで呑気に遊ぶ時間はなかった。砂だらけの風が舞い、家畜すらそれをやり過ごすしかなく身を縮めて固まる国。そんな所で俺は長期任務について、いくらかのメダルがついてくる程度の戦果を上げた。でも、今は懐かしい国の水族館にいる。海水の中をふわふわとクラゲが舞う、そんな水族館に。
「イルカを見ている時間はなさそうだね」
 ゼノはそう言うと、左手にはめた腕時計をとんとん、と叩いた。俺が部下に行進を合図する時と似たような手つきで、でもそんな悲壮さはなく気軽に。俺はそれに今回失った部下を思って、でもじきに何もかもどうでも良くなった。ここは戦場じゃない、俺は国に戻ってきた。そう、ここは戦場じゃないのだ。
「ショーの時間はとっくの昔に終わってんよ、せんせ」
「でも水族館デートといえばイルカじゃないか。それとも、明日は海に出てホエールウォッチングでもするかい?」
「こんなに汚れた海でも見られんの?」
「さぁ? あいにく僕は海獣の専門家じゃないから」
 俺達はそんな軽口を叩いて、クラゲが漂う水槽の合間を歩く。不死に近い生き物、繰り返しを生きる生物。俺はそれが羨ましいのだろうか? 老いが怖いのだろうか? いつか必ず来る、銃を握れなくなる日が恐ろしいのだろうか? ゼノを守れなくなる、そんな日を今から恐れているのだろうか?
 そんなことを考えている俺を尻目に、ゼノは水槽近くのパネルの前に立ち、のんびりクラゲを見つめている。俺はというと、まだこの国での日常に慣れることが出来ず、静かな空間に慣れることが出来ず、というか、あの戦場で絶えず響いていた、砂嵐の音が耳にこびりついているようで常にいらいらしていた。でも、ゼノはそんな俺を見ることもなく、水槽をじっと眺めていた。まるで、セックスを焦らす時みたいに。そしてそれは、幸いなことに俺の空想でもなかった。
「スタン、君ってそんなにファックしたいのかい? さっきからクラゲじゃなくって僕ばかり見てる」
 ゼノは吹き出すように笑い、水槽越しに目を細めた。笑顔が歪む、でも、透き通った水は、透き通った生物は、ゼノをゆらゆらと美しく彩る。銀色の髪、まろみを帯びた白い頬、きつくネクタイが締められた首元、黒いスーツに包まれた痩せた肩、俺がずっと守りたいと、触れたいと思っていたもの全て。
「そりゃあしたいね。でも焦らされんのにも慣れてんよ」
 戦場じゃあ、あんたの写真と左手だけが恋人だったしね。
 俺はここが禁煙じゃなきゃな、と思って、唇を触った。するとゼノは再び笑って、「またその仕草だ」と言った。「さっきから、ずっと僕にキスしたいみたいだ」って、余裕たっぷりに。
……っ」
 確かに、あんたとキスがしたいと思っていた。ずっと、それこそ空港で再会した時からずっと。でも、俺はちゃんと待ての出来る男だった。――それにここは俺達の地元だ、あんたの知り合いがいつ見ているとも知れない。あんたの親父さんとか、お袋さんとかが見ている中でキスなんて出来ない。俺達はまだカムアウトしておらず、それは成功するとも思えなかったから。
「いいよ、キスしても」
……遠慮しとく」
「本当に? 君は物欲しそうなのに」
 ゆらゆら揺れるクラゲが、ゼノの表情を分かりづらくする。あんたは何を考えてる? 俺と同じ気持ち? 早く隠れてファックしたい? それとも、人前でキスしたい?
 ゼノが静かに近づいて来る。足音は、床に敷かれた絨毯で消えてしまう。
 俺達は太陽の下じゃなく、人工の明かりの下で唇を重ねる。確かにここは俺達の地元だったが、閉館時間を知らせるアナウンスが流れる水族館の中じゃあ、誰も二人を咎めなかった。好奇の目を向ける者もいなかった。
 でも、俺はゼノに口付けながらも、俺達はまだ太陽の下ではあんたに触れられないのだと悟った。今はまだ駄目だ、俺が特殊部隊にいる間は駄目だ。ゲイだって公表したら、いつ背後から撃たれるとも知れない。それにあんたのキャリアを俺との関係で邪魔したくはない。でもだったらいつ、俺達は正式なパートナーになれる?
「さぁ、早く部屋に行こう。もう待てないよ、スタン」
 ゼノが無邪気に笑う。俺もぎこちなく笑う。俺達は閉館する水族館の出口に向かう。そこかしこから聞こえるのは、耳に馴染んだ訛りの母国語だった。
 確かに、ここは戦場じゃなかった。でも、戦地で思い描いていた、憧れていた楽園でもなかった。俺達はまだ、何もかもを失う、そんな覚悟すらなくお互いを思っていた。


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