Hnyanko
2026-04-18 20:20:01
7541文字
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セフレ悠アキ

カッコイイ悠真はいないし、ちょっと鈍感で酷いアキラくん

 最初から、そういう約束だった。
 重くならないこと。縛らないこと。面倒なことを言わないこと。

 互いの生活に踏み込みすぎない、都合のいい関係。そう言ったのはアキラだったし、悠真も、笑って頷いた。頷いてしまった、というほうが正しい。あの場で少しでも躊躇えば、この関係そのものが始まらないような気がしたからだ。
 だから、悪いのはたぶん最初から自分だった。

 朝の光がカーテンの隙間から薄く差し込んでいる。昨夜の熱がまだ抜けきらない部屋の中で、アキラはもう半分ほど身支度を終えていた。脱がせたはずのシャツに腕を通し、ひとつずつ釦を留めていく。昨夜、あれほど無防備に乱れていた人間と同じとは思えないくらい、静かで落ち着いた横顔だった。

「今日はもう戻るね。リンが起きる前に帰らないと」

 やわらかな声だった。少しだけ掠れてはいるけれど、いつもの声だ。昨夜、自分の名前を何度も呼んでいた声と地続きのはずなのに、あまりにも穏やかで、それがひどく遠く感じる。

 悠真はベッドの上で毛布を胸元まで引き上げた。

……ふうん」

 われながら可愛げのない返事だと思ったが、どうしようもなかった。喉の奥に引っかかっているものがあって、まともな声が出ない。

「なに、その返事」
「別に」
「別にじゃないでしょ」
「へえ。わかるんだ」

 嫌味っぽく聞こえた自覚はある。実際、そのつもりだったのかもしれない。アキラは小さく眉を寄せた。

「その言い方やめてくれる?」
「嫌味じゃないよ。感心してるだけ」
「嘘つけ」
 即答だった。
 腹が立つ。そういうところだ。迷いなく言い返してくるくせに、こちらが何に腹を立てているのかまでは、ちっともわかった顔をしない。

 いや、違う。わかった顔をしないのではなく、本当にわかっていないのだろう。だからこそ、そんな平然とした顔でいられる。

 昨夜、あれだけやさしく触れてきたくせに。名前を呼んで、抱き締めて、まるで大切にしているみたいな顔をしたくせに。

「拗ねてる?」
「拗ねてない」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあなに」
「知らない」

 アキラが呆れたように息をつく気配がした。

「知らないってなんだい」
「知らないものは知らないだろ」

 自分でもめちゃくちゃだと思う。思うのに、胸の内側がざわざわして、どうにもならない。言葉にすれば惨めになる気がするのに、黙っていたらもっと苦しくなる。

 アキラがベッドの端に腰掛けた。マットレスがわずかに沈む。その気配が近づいただけで、昨夜のことを思い出してしまう。触れられた場所が急に熱を持ったみたいになって、余計に腹が立った。

「悠真」
「なに」
「こっち見てくれないかい」
「やだ」
「子どもかな?」
「そうだよ。今すごく子ども。アキラくんのせいで」
「なんで僕のせいになるの」
「なるでしょ、普通に」
「悠真の普通は難しいな」

 普通なんて知らない。こういう関係も、こういう朝も、悠真には初めてだった。

 だから何が正しくて、何が過剰なのかもわからない。ただ、昨夜の熱を自分だけがまだ抱えたままでいるような、この置いていかれる感じが、どうしようもなく嫌だった。

……アキラくんってさ」
「うん」
「誰にでもこうなの」
「は?」
「こういうの。優しくして、触って、お互い気持ちよくなって、朝になったらはいおしまい、みたいな」

 一瞬、アキラの目が細まる。

「喧嘩売ってるかい?」
「売ってない。確認」
「全然確認に聞こえないんだけど」
「だって僕、知らないし」
「知らないって、何を」
「アキラくんの基準とか。慣れてる人の感じとか」

 言いながら、胸の奥がじくじく痛んだ。やめればいいのにやめられない。みっともないとわかっているのに、口に出さずにはいられない。
 アキラはしばらく黙っていた。立ち上がって距離を取ることも、呆れて切り捨てることもしない。ただ少し困った顔をして、こちらを見ている。そのことが、かえって残酷だった。

……僕、こういうの初めてなんだけど」

 ぽつりと零れた言葉は、自分でも思っていたよりずっと弱かった。

 アキラが目を見開く。

「え」
「え、じゃないけど」
「いや、ちょっと待って」
「待たない」
「待ってくれ、そんな大事なこと先に言ってくれないか」
「言えるわけないだろ!」

 思ったより大きな声が出た。

 部屋の空気がびり、と震えた気がして、悠真は自分の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。顔が熱い。今すぐ消えたい。

「だって、アキラくん、セフレとか言うし。重いのなしとか言うし。そんなところで『実は僕、はじめてです』なんて言ったら、なんか、すごい、うわってなるじゃん」
「うわってならないよ」
「なるかもしれないだろ!」
「ならないって」
「今さら言うなよぉ……

 ほとんど八つ当たりだった。
 わかっている。わかっているのに、止まらない。今さら知らなかったみたいな顔をされるのが腹立たしくて、情けなくて、息が苦しい。
 それでとうとう、言わなくていいことまで口をついた。

「僕の童貞奪ったくせに!!」

 しん、と静まり返る。
 言った。言ってしまった。

 最悪だ。最悪すぎる。今すぐ床に穴を開けて埋まりたい。むしろ掘る。自分で掘って埋まる。
 アキラは瞬きを二回してから、片手で顔を覆った。

……それは、ずるい」
「なにが」
「その言い方」
「ずるくない! 事実だし!」
「事実だけども……
「だってひどいじゃん!」
「なにが」
「なにがって、全部だよ!」

 もう止まれなかった。言葉が溢れて、ぐちゃぐちゃの感情のまま喉を突き破ってくる。

「アキラくんだけすっきりした顔してるのも、僕ばっかり変なのも、僕が朝からこんな情緒ぐちゃぐちゃなのに、アキラくんは『戻るね』で終わらせようとするのも! しかも昨日あんなに優しかったくせに! あんなの勘違いするに決まってるだろ! 何回も名前呼ぶし、あんな顔するし、抱き締めるし、好きでもない相手にあんなことする!?」

「悠真」
「するの!? ねえ!」
「しないよ」

 あまりに即答で、逆に息が詰まった。

「しないんだ!?」
「しないよ」
「じゃあなんなの!? なんで僕にはするの!」

 ほとんど悲鳴だった。

 その瞬間、自分が本当に聞きたかったことが何だったのか、ようやくわかった気がした。責めたいわけじゃない。ただ知りたかっただけだ。どうして自分なのか。どうして身体だけの約束で、あんなふうに触れたのか。

 喉が熱くて、うまく息が吸えない。
 アキラは少しだけ視線を落とし、それから静かに口を開いた。

……最初は、セフレのつもりだった」

 その一言で、何かが綺麗に切れた。

「は?」

 自分でも驚くほど低い声が出た。
 アキラはわずかに言い淀みながら、それでも続けた。

「だから、恋人とかそういうのは今は無理だって、最初に言っただろ。僕としては、その……割り切った関係のつもりで」
「割り切った」
「うん」
「関係」
……うん」

 数秒、きっちり黙ってから、悠真はベッドの上に転がっていた枕をひったくった。そのまま勢いよくアキラへ投げつける。鈍い音を立てて枕がアキラの胸にぶつかった。六課の緑一点は投擲まで天才らしい。思わず尻もちをつく。

「えっ」
「えっ、じゃないけど!?」

 自分でも声がひっくり返っているのがわかる。

「なにそれ! 今さら何!? 知ってたけど! 知ってたけど改めて言われると最悪なんだけど!」
「落ち着いて」
「落ち着けるわけないだろ!!」

 胸の奥が、ぐちゃぐちゃに掻き回されていた。

 知っていた。そんなことは最初から知っていたのだ。重くならないこと。期待しないこと。面倒を持ち込まないこと。アキラはちゃんと最初に線を引いていた。それをわかっていて、笑って頷いたのは自分だ。

 それなのに、口に出されるとこんなにも痛い。

「セフレのつもりだったって何それ! 言い方!! もっとなんかあるだろ! オブラートとか! やさしさとか!!」
「いや、だって事実を……
「事実なら何言ってもいいと思ってる!?」
「思ってないさ!」
「思ってる! 今完全に思ってた!」

 アキラが何か言い返しかける。その前に、悠真のほうが止まらなかった。

「僕、そんな、なんか、気軽に抱いていい相手みたいだった!? うわ、こいつちょろそうだな、とりあえず身体からいけそうだな、みたいな!?」
「思ってない!」
「じゃあ何!!」
「悠真がいいと思ったからだよ!」
「それ雑!!」
「雑じゃないって!」
「雑だよぉ……!」

 語尾が情けなく揺れた。目の奥が熱い。泣くな、と思う。ここで泣いたら本当に終わる。いや、もう十分終わっている気もするけれど、それでも。
 なのに、アキラは少しだけ困った顔をしたまま、こちらを見ていた。突き放しもしない。呆れもしない。そのことが、余計にやるせなかった。

「だいたいさぁ、アキラくんが悪いんだよ」
「なんで」
「なんでじゃないだろ! セフレのつもりの相手にあんなに優しくする!? あんな、なんか、すごい……だ、大事みたいに触る!?」

 言ってから顔がさらに熱くなる。何を言わせるんだ。何を思い出させるんだ。昨夜の指先の熱も、抱き締められたときの腕の強さも、全部まだ身体の奥に残っているのに。

 そこでようやく、言葉が一度だけ途切れた。

 その隙間に落ちた沈黙が、耐えられないほど痛い。

……僕ばっかり、好きみたいじゃん」

 最後の一言だけが、拍子抜けするほど小さかった。

 さっきまであれだけ喚いていたくせに、その一言がいちばん本音で、いちばん隠したかったところだった。

 部屋が静まる。

 アキラは何も言わなかった。その沈黙に耐えきれなくなって、悠真は毛布に顔を埋めた。

「僕ばっかり、あれこれ覚えてて……触られたとことか、言われたこととか、いちいち嬉しくなって……朝になって帰るって言われただけでこんなになるの、意味わかんないし……それでアキラくんは、最初はセフレのつもりでした、って……そんなの、僕がばかみたいじゃん……

 声が掠れる。

 しばらくして、ベッドがもう一度沈んだ。アキラが近づいたのだとわかる。

……ねえ」
「知らない」
「知らない、じゃなくて」
「今の僕に話しかけないで。繊細なんだから」
「さっきまであんなに大声だったのに」
「大声だから繊細じゃないとは限らないだろ!」

 反射的に言い返すと、アキラはとうとう少しだけ笑った。馬鹿にする笑いではなくて、どうしようもなくて零れたみたいな、やわらかい笑い方だった。

 それが余計にむかつく。むかつくのに、ほんの少しだけ安心してしまう自分が、もっとむかつく。

……最初は、って言っただろ」

 アキラがゆっくり言う。

「最初はそういうつもりだった。でも、ずっとそのままじゃない」
……証拠」
「証拠、好きだね」
「今の僕は海よりも疑り深いから」
「知ってる」

 毛布の端に、そっとアキラの手が触れた。引き剥がすわけでもなく、ただそこにいると伝えるみたいに、静かに。

「セフレのつもりの相手に、あんなに名前呼ばないよ」
……うそ」
「嘘じゃない」
「そういうこと、誰にでも言ってそう」
「言わないさ」
「ほんとに?」
「ああ、ほんと、に」

 即答だった。そのことに、胸の奥がまたずきりと痛む。痛いくせに、嬉しい。嬉しいくせに、まだ簡単には信じてやれない。

「じゃあ、なんでそんな平気そうな顔してるの」
 それが、たぶんいちばん聞きたかったことだった。
 アキラは少しだけ目を伏せた。

「平気そうにしないと、困るから」
「困ればいいじゃん……
「困るよ。僕だって」

 その言葉に、悠真は息を詰めた。

 アキラくんが、困る。自分だけじゃない。その事実は、思っていたよりずっと深く刺さった。

「僕は君みたいに、すぐ口に出ないだけ」
「出してよ」
「無茶言うなあ」
「無茶でも。僕ばっかりこんな、全部見せてるのやなんだけど」

 半泣きで睨むと、アキラはほんの少し困った顔をしたあと、小さく息を吐いた。

……好きだよ」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、悠真は固まった。

「ただ、今すぐ恋人だとか、そういう形にする自信がなかった。リンもいるし、先生のこともあるし、誰かを背負う余裕なんてないって、そう思ってた。だから最初に線を引いた。でも、君といるうちに、たぶんもう、その線は意味なくなってた」

 鼓動がうるさい。さっきまであれだけ騒いでいたくせに、今度は何も言えない。

 アキラの指先が、そっと頬に触れる。

「そんなに不安になるなら」

 低い声が、すぐ近くで落ちた。

「もう、セフレって言うのやめる?」

 悠真は固まった。呼吸が一拍遅れる。胸の真ん中に、まっすぐ手を差し込まれたみたいだった。

……それ、どういう意味」
「言葉のままだよ」
「言葉のままって、どのへんまで」
「悠真」
「だって、そういうの曖昧にされると困るし……また僕だけ期待して、あとから違いましたとか、やなんだけど……
「曖昧にしたくないから言ってるんだよ」

 額に、こつんと額が触れる。近すぎて表情はよく見えない。代わりに、声の震えだけがわかった。

「最初は、ほんとに割り切るつもりだった。でも、今はもう違う。君が誰かと同じなら、こんなに困ってない」

「困ってるんだ」
「すごく困ってる」
……それ、ちょっと嬉しい」
「嬉しい?」
「だって、僕だけぐちゃぐちゃなの嫌だし」
「悠真、性格悪いね」
「アキラくんにだけだよ」

 言い返すと、アキラがくすりと笑った。その笑い方がやわらかくて、胸の奥がじんわり熱くなる。

「じゃあ、もうやめようか」
……なにを」
「セフレって呼ぶの」

 心臓がまた跳ねる。その先にある言葉を、悠真はもちろん知っていた。知っているけれど、自分から言うにはまだ少し怖い。認めてしまったら、取り返しがつかないくらい嬉しくなってしまう気がするから。

……じゃあ、なんて呼ぶの」
「なんて呼ばれたい?」

 試すみたいな問いだった。

 悠真は唇を噛み、少しだけ視線を逸らす。言えるわけないだろ、と思う。思うのに、言わなかったら伝わらないのも、もう嫌というほど知っている。

……こいびと、とか」

 消え入りそうな声だった。

 さっきまであれだけ騒いでいたくせに、その一言だけやけに小さくなるのが自分でも情けない。けれど、アキラは笑わなかった。ただ目を細めて、ひどくやさしく頷いた。

「うん。じゃあ、恋人」

 その瞬間、悠真は完全にしおしおになった。

「うわ……
「うわ?」
「だって今、言った……
「言ったね」
……だめだ、なんか、急に、うれしい……

 声に出した途端、ふわっと涙が込み上げてくる。なんで泣くんだ。ほんとうに情緒が終わっている。さっきから終わりっぱなしだ。

 アキラが少し慌てたように覗き込んでくる。

「え、泣くほどかい?」
「泣いてない、これは、その……感受性豊かなだけ……
「そうだね。豊かすぎるね」
「うるさい……

 言い返す声に、もう力はない。さっきまでみたいにぎゃいぎゃい騒ぐ気力はなくて、ただ恥ずかしさと嬉しさでへにゃへにゃになってしまう。

 アキラの腕が背中に回る。今度の抱き方は、宥めるためというより、離したくないから抱いているみたいな力加減だった。それがどうしようもなく嬉しくて、悠真はそっとその服を握る。

……ほんとに、恋人?」
「うん」
「期間限定とかじゃなくて?」
「違う」
「気分で言ってない?」
「言ってない」
「途中でやっぱ無理とか言わない?」
「たぶん重いとは思う」
「は!?」
「でも、もう知ってるから」
「なにを」
「悠真が重いくらい好きってこと」

 また顔が熱くなる。そういうのを、さらっと言うな。こっちはそれでいちいち致命傷を負うのに。

……っ、ずるい」
「お互いさまだろう?」

 指先が目尻に触れる。泣いていないつもりだったのに、やっぱり少し滲んでいたらしい。拭われると、それだけで余計に恥ずかしい。

「そんなに嬉しい?」
……うれしいよぉ……

 つい、本音が漏れた。

「だって僕、アキラくんだけがいいし。最初から全然割り切れてなかったし。だから、恋人って言われたら、うれしいに決まってるだろ……

 語尾がまた泣きそうに震える。

 アキラは困ったように笑いながら、それでもひどく大切そうに悠真の頭を撫でた。

「じゃあ、言ってよかった」
……もっと早く言えたでしょ」
「そこを突かれると痛いな」
「ばか」
「うん」

 あっさり肯定されて、悠真はぐずぐずのままアキラに寄りかかった。

 ほんとうは、まだ少しだけ不安はある。今すぐ全部が解決したわけじゃない。アキラにはアキラの事情があるし、自分だって好きになったら重くなることくらい、もうわかっている。

 それでも、この腕の中で恋人だと言われるなら、たぶん今はそれで十分だった。

……ねえ」
「なに」
「今だけでいいから、もう一回言って」
「恋人?」
「それもだけど」

 アキラは少しだけ考えるふりをして、それから悠真の額に口づけた。

「好きだよ、悠真」

 ああもう駄目だ、と思った。

 悠真は観念したみたいにアキラの胸に顔を埋める。

……僕も、だいすき」

 くぐもった声は、たぶんちゃんと全部伝わっていた。頭の上でまた小さく笑う気配がして、そのたびに胸の奥がくすぐったくなる。

 どうせ最初から、全部手遅れだったのだ。

 身体だけで済ませるつもりなんて、どちらにとっても、きっと最初から無理だった。少なくとも悠真は、最初の一度でとっくに駄目になっていたし、アキラのほうだって、思っていたよりずっと前から、線のこちら側に来ていたのだろう。

 だからこれは、始まりというより確認に近い。

 身体を預けたときには、もう遅かった。
 心まで持っていかれて、ぎゃいぎゃい喚いて、それでも最後には大好きだと言ってしまうくらいには。