小さく息を整える。息を吸いながら、図書室へ向かっている理由を頭の中に反芻させる。彼女がリーグチャンピオンなら公式試合の記録が公開されているはずだ。当時の構成を検索して、そのチームについて考察する。もしかしたら同じポケモンはもう使ってこないかもしれない。しかし、彼女の得意とする戦法や癖を掴むには充分だ。
やることを頭上に掲げ直すと頭痛と吐き気がゆっくりと遠のいていった。今日は幾分か体調もいい。この調子でアオイの何から何まで分析しつくしてやろう。意気込んで歩みを再開させた矢先、角から飛び出てきた人影が肩にぶつかってきた。
「ひゃっ」
「っ!」
上がった短い悲鳴だけで、相手が誰なのか分かった。
「ご、ごめんなさいっ! 私よそ見してて……って、スグリ!」
「……アオイ」
視線が絡む。アオイのあわを食ったような表情がみるみるやわらいでいく。
「こんなところで会えるなんて、偶然だね。スグリもこっちで授業だったの?」
明るい声色にあたりの空気が華やいでいく。アオイはどこにいてもつくづく〝アオイ〟だ。ささくれだった心を逆撫でされたような気になり、目線を下へ落とした。
「私はね、さっきまで『はがねタイプ研究Ⅰ』の授業受けてたんだ。次の四天王戦に向けて勉強したくて。もしかして同じ授業受けてた?」
「違う。俺は図書室行く途中」
「図書室! そっか、こっちにあったんだ! 廊下歩いてても全然見かけないから、ブルベリにはないのかなって思ってたんだ~」
「校内図見ればどこにあるかなんてすぐ分かるでしょ」
「それもそうだよね。えへへ、うっかりしてた」
なぜ自分は律儀に応対しているんだろう。すっかりアオイのペースに飲まれていたことに気づいたスグリは自分の目的を果たすべく再び歩きだした。
「あ、待って!」
早足で進みだしたスグリにぱたぱたとアオイが並ぶ。
「私、図書室まだ行ったことなくて。よかったら一緒に行ってもいいかな」
よくない。今からきみの過去の戦績調べるからついてこないで。などと言えるはずもなく、スグリは黙って歩き続けた。横を歩くアオイの顔の眩しさが心底恨めしかった。
通い慣れた図書室の扉を開けた瞬間、隣のアオイが「わあ……」とため息をついた。
「ブルーベリー学園の図書室ってこんな風になってるんだ」
この学園はシアノ校長が細部までこだわりぬいた珠玉の設計をしている、と入学時のオリエンテーションで紹介されていた。図書室も例外ではなく、蔵書数はイッシュ随一だとか、生徒が集中して勉学に励めるような仕組みがどうたらとか、長々説明された記憶がある。普段は特に思うこともなかった空間だが、都会っ子のアオイが目を輝かせて見回す姿は、悪い気はしなかった。
「パソコンいっぱいある!」
「難しい課題出たときとか使う。専門的な論文も読める」
と言ってもスグリが読むのはバトル学や戦法に関することだけだが。
「へえ……後で見てみよ!」
アオイが使うとなると、今ここで彼女の戦績を調べるのは具合が悪い。朝から考えていた計画が台無しだ。
——なんでこうなるんだよ。
悪態をつきたいのを我慢してパソコンの並ぶ席から離れる。その後ろをなぜかアオイもついてきた。
ひと通り回れば満足するだろうと思ったのに、アオイは図書室の端の本棚を見終わってもなおスグリの後を追ってきた。それも、ひっきりなしにおしゃべりしながら。
「普段からよく図書室来るの?」
「……ときどき」
「そうなんだ。勉強はかどりそうだもんね、ここ。私も今度から来ようかな」
返事はせず、いつもの席に腰を下ろす。アオイも当然、というようにスグリの前の椅子を引いた。まさかここで勉強をはじめるつもりなのか、と目をやるとアオイはにこりと微笑んだ。
「ねえ、今どんな勉強してるの?」
きみの研究。とは言わず。
スグリは鞄から紙の束を取り出した。
「……今日は勉強じゃない。部員が提出したチーム構成の添削やる」
「わ、すごい! そっか、スグリ、部長だもんね。すごいなぁ」
朗らかな声を無視して机に紙を広げる。その強すぎる好奇心に任せて覗き込んでくるかと身構えていたが、予想に反して彼女は何もしなかった。ニコニコ笑ってスグリを見つめ続けている。鉛筆の一本も出さないまま、明るい視線をスグリに注ぎ続けている。
「自分の勉強だけじゃなくて他の人のアドバイスもしてるなんて、さすがだね」
「……」
「スグリ、綺麗な字書くんだね」
「……」
「あ、そうそう。グレープアカデミーの図書室はね、エントランスが図書室と自習室も兼ねてるんだよ。壁一面が本棚になってるの。だから学校に入った瞬間、いーっぱいの本に囲まれて、圧巻~って感じなんだ。でもエントランスの真上は校庭になってて、そこでバトルとかもやるんだけどね、たまにポケモンの技で揺れることがあるんだ。大きいポケモン同士が本気でバトルしたらあそこの本たちみんな落ちてきちゃうのかなってたまに考えたりするんだけど、スグリはどう思う?」
「俺は、」
「うん」
丸い目がまたキラリと瞬く。純粋で美しい輝きに、無性に憤りを覚えた。
「……あのさ」
「なぁに?」
やわらかな微笑みが心を逆撫でる。下唇を噛み、どうにか舌打ちを堪える。
「ここ、図書室なんだけど。おしゃべりしたいんならどっか別の場所に行けば」
苛立ちが露骨に声ににじんだことに、スグリ自身驚いた。しかし飛び出てしまった言葉はもう取り返せない。満開の笑顔は一瞬のうちにしなびてしまった。
「そう、だよね。スグリ、忙しいのに邪魔しちゃったね。ごめん。図書室案内してくれて、ありがとう」
謝罪とお礼と口早に告げ、アオイが席を立つ。泣き出しそうになるのを必死で堪えてるような貼り付けた笑みがまたどうにも腹立たしくて、スグリは今度こそはっきりと舌打ちをした。
ドブ底に落っこちたような気持ちを引きずったまま、どうにか一仕事終えた。散らばった紙をまとめなおす。いい加減アオイもいなくなった頃だろう。ようやくやりたいことが進められる。ため息をつきかけたそのとき、
「ええっ⁉」
聞き覚えのある声が受付のあたりから聞こえてきた。思わず耳をそばだててしまう。
「本の貸し出しにもBPいるんですか?」
「はい。といっても返却時にお返ししますが。こうでもしないといつまで経っても返却しない生徒がいたもので」
「そんな……」
立ち上がったついでに声の方向を窺う。困った表情の司書と項垂れたチョコレート色の頭が見えた。オロオロと惑う人に歩み寄ってしまったのは、ほとんど衝動だった。
「BP足りないの」
声をかけるとアオイはパッと面を上げた。かすかに潤んだ瞳はスグリを捉えた直後、ばつが悪そうに伏せられた。
「う、うん。大型の子用のフード買い足したらすっからかんになっちゃって」
後先考えずに買い物してBP不足に陥る。ブルベリ生にありがちなミスだ。しかし、そんな下らないミスをアオイがするのは少し意外だった。図書室の場所も知らなかったくらいだから、ろくな校内案内を受けていないのかもしれない。
——だとしたら、少し……。
同情しかけた心にブレーキをかける。そんなものに何の意味も価値もないことなど、自分が一番よく知っていた。
アオイの手から本を奪い取る。
「え? え?」
惑うアオイに構わず、本の裏面に貼られたバーコードを受付端末にかざしていく。鋼タイプの専門書とダブルバトルの戦法に特化した本、『おともだちと もっとなかよくなるには』と書かれた明らかに幼児向けの薄っぺらな本。本が終わったら今度はスマホをかざした。軽やかな電子音が鳴り、ディスプレイに『貸出完了』の文字とスグリの学籍番号が表示される。
「これでいいでしょ」
「よくありません! 借りる本人の支払いでなければお貸しできないって、ご存じでしょう?」
「俺が借りて、俺が読んで、俺が返す。何の問題もないでしょ」
「ま、又貸しも、ちょっと」
「俺が読むって言ってる」
しつこく食い下がってくる司書を睨み返す。スグリがチャンピオンだからなのか、押しに弱いタイプだったからなのかわからないが、司書はそれ以上何も言わなかった。
借りたばかりの本たちを抱えて図書室を出る。その後ろをアオイが早足で追いかけてくる。今日のアオイはまるで生まれたてのアチャモみたいだ。ちょろちょろくっついてきて、鬱陶しい。
「スグリ!」
歩調を緩める。瞬きの間もなく、アオイが隣に並んだ。廊下の死角に入ったところで立ち止まり、抱えていた本をすべてアオイに押し付けた。
「読み終わったら教室の俺の机に置いといて」
丸くて大きな目が本とスグリとを見比べる。自分が読みたかった本なんだから早く受け取ればいいのに。スグリは本をさらにぐい、と前に突き出した。ひとつ瞬きをしてから、アオイはようやく本に指をかけた。
「ありがとう。あとでちゃんとお礼するね」
「お礼したいんなら、一秒でも早く俺のとこまで来て」
「もちろん! ばっちり勉強して、明日にでもネリネさんに勝ってみせるから!」
「ならいい」
アオイの頬がまろく綻ぶ。花が咲くような笑顔、という言葉のお手本のようだった。面倒ごとが片付いたことに安堵したスグリは、そのまままっすぐエレベーターへ向かった。あんなやり取りをした後に図書室に戻れるほど無神経ではない。アオイも自室へ戻るのか、同じ方向へ足を進めている。
「スマホ、買ってもらったんだ。カバーはブルベリのオリジナル? かっこいいね」
デカデカと校章が描かれたカバーなんかかっこいい訳ないのに。どうやらアオイは独特のセンスの持ち主のようだ。
返事をするより先にエレベーターが到着した。乗り込み、自室のある階のボタンを押す。アオイは両腕で本を抱えたままだ。同じ階に用があるのか、或いはアチャモごっこを続けるつもりなのか。足元が揺れ、エレベーターが下降を始める。唸り声のような駆動音が狭い空間を支配する。そんな中、隣からコホン、と小さな咳払いが聞こえてきた。
「そういえば、メッセージアプリって何使ってる? やっぱりゼイユと同じやつ?」
「使ってない」
「え」
「これ、学園から借りてる端末だから。そういうのできない」
「借りてるって、」
「スマホ持ってない生徒用の貸出スマホ。ブルレクの写真撮影とBPとLPの支払い機能しか使えない。あとはさっきみたいな認証とか、教室変更とかの一斉メッセージの受信だけ。個人的なメッセージとか電話は無理。当然ロトムも入ってない」
「そ、そっか。そうなんだ……。え、えへへ。スグリもスマホ買ってもらえたんだって早とちりしちゃった」
棘の含んでいないはずの無邪気な言葉が心臓に突き刺さる。こめかみが痛い。——イライラする。タイミングよくポン、と鳴った到着音が福音に思えた。
早足で男子寮入口に突き進むスグリの隣を、アオイは食い下がるようについてくる。
「じゃあスグリと連絡取りたいなってなったらどうしたらいいんだろ」
アオイに自分と連絡を取る意味などあるのだろうか。まさか、手の内を探るのが目的? しつこくついてくるのもそのため?
訝しみながら彼女を見やる。アオイは大切なものを守るかのように借りたばかりの本を胸元で抱き締めていた。
「スマホが無理ってなったらやっぱり手紙とか? でもせっかく同じ学校にいるんだから、直接お話しした方がいいよね」
あのアオイがコソコソ手の内を探るような真似をするだろうか。強くてかっこよくて、誰よりもキラキラしていて、オーガポンに選ばれるくらい特別なアオイがそんな姑息な真似をするなんて、あり得るのだろうか。
——でも、おれを仲間はずれにした嘘つきだよ
急に頭の中に割り込んできた声に悪寒が走る。誰の声だ。幻聴? いや、ゴーストポケモンの悪戯の方が現実的か。思考がグルグル巡る下で、鼓動が場違いに大きく響く。気がつくと男子寮の扉はもう目前に迫っていた。
「えっと、だからさ、」
足を止め、彼女をちら、と見る。アオイもタイミングよくこちらを見たのか、すぐに視線がぶつかった。やわらかな目元が朗らかに緩む。スグリはどこか居心地の悪さを覚え、即座に目線を自分の足元へ落とした。
「俺と話す意味なんてあるの」
「もちろんあるよ! だって」
「こっちの手探ろうったって、そうはいかないから」
「っ、そんなことしないよ! そんなのしたら勝負のワクワク減っちゃうでしょ」
——そんなこと? 俺はきみの試合を見て、図書館通いつめて調べて、徹底的な対策まで考えてるのに。きみは、〝そんなこと〟って言うんだ。
腑が捩れそうな苦しみが込み上げてくる。悔しさをどうにか拳に押さえ込む。そんなスグリに構わず、アオイが続ける。
「私たち、友達でしょ。学校のこととか勉強のこととか、いろんなお話ししたいよ。それに、まだピクニックだってできてないし」
「俺はしたくない」
自分の足を見つめたまま、冷たく突き放す。息を呑んだ小さな音にそっと横目をやると、アオイは目を見開かせて硬直していた。今度は心臓が痛くなったけれど、無視して言葉を吐き続ける。
「おしゃべりとかピクニックとか、そんな無駄なことする暇あったら早く俺のとこまで来てよ。そんなこと、俺と戦った後にいくらでもやればいいでしょ」
棘まみれの言葉をアオイにぶつける。グローブの革が手のひらにミシミシと食い込んでいく。さすがのアオイも堪えたのか、小さな口を真一文字に結んでいた。
ここまで突き放せば、さすがのアオイだって諦めてくれるだろう。
鈍く痛み続ける頭と胸を引きずったまま寮の扉へスマホをかざそうとする。しかし、それよりも素早く何かがスグリの腕を捕らえた。
「戦って、それが終わったら、おしゃべりもピクニックもしてくれる?」
沈んだ声が問いかける。顔を上げると、真剣な表情に顔を引き締めたアオイがこちらをまっすぐに見つめていた。
——戦った後のことなんて、そんなの……
口に出しかけて、咄嗟に飲み込む。代わりに吐き出したのは、ひどく雑な言葉だった。
「……勝手にすれば」
勝負さえしてくれたら、その後アオイが誰と何をしようがスグリには関係ない。
腕を下へ振ると拘束は簡単に解けた。振り払われたにも関わらず、アオイの瞳の中には眩い星が蘇っていた。
「私、早くスグリと戦えるようにもっと頑張る。残りの三天王も早く倒して、早くスグリのところに行く。だからスグリもちゃんと待っててね」
力強い笑みには闘志がみなぎっていた。初めて出会ったあの日。一瞬にしてスグリの心を焼いた、あの表情だった。
——どうして。なんで。なんでいつも、そんな眩しいんだよ。
歯を食いしばる。目を背けたくなったのを堪え、精一杯強い顔を返す。
「楽しみにしてる」
「うん!」
アオイの明るい声が弾ける。さっきまで泣きそうな顔をしていたのに、もう何事もなかったかのように笑ってる。表情がコロコロ変わってついていけない。
「そうだ! ね、スグリ。おしゃべりはダメでも、一緒に勉強するのはどう? 分からないとこ教えあったりするのはお互いのためになるでしょ。この後特に予定なかったら、二人で鋼タイプ研究会やろうよ」
さっき突き放されたばかりなのに、何で諦めてくれないんだろう。
「……俺、今日はもう自分の部屋戻るから」
目の前にある『この先男子寮』の看板を指差す。再びアオイが硬直した。——今度は純粋に驚いてる顔だった。
「それともまさか、俺の部屋までついてきたいとか言わないよね」
「ち、ちがっ、違うよ! そんな、そんな……」
アオイは大袈裟なくらい顔を真っ赤にして後ずさった。さすがにそのあたりの分別はついているようだ。
「もう行く。俺のとこ来るまで、話しかけてこなくていいから」
「あ、」
今度こそスマホを認証端末にかざす。画面が緑色に光り、自動ドアが開く。中に入ってしまえばわずらわしい思いから解放される。大きく一歩踏み出し、扉の内側へ入った。このまま扉が閉まれば息苦しさも終わると思っていたのに。
「今日は本当にありがとう! スグリと色々お話しできて嬉しかった! またね!」
身体が勝手に後ろを振り返る。扉が閉まる寸前に見えた彼女は、来た道を小走りで戻っている最中だった。
やっと静かになった。
一人になってようやく自由になれたのに、心は未だにざわめいている。
「……くそっ」
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