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いまさら
2026-04-18 12:11:05
3396文字
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意中の宇宙
森川とトガシ
『中学全国三連覇のトガシ選手、注目のインターハイは
……
』
朝食のパンを食べながらニュースを見ていた。アナウンサーの声とともに大雨の映像が流れる。白線に沿って並んだ選手が名前を呼ばれて手を挙げていく。アナウンスをかき消すほどの強い雨音。
こんなに降ってても試合があるんだ。
驚きで意識がしっかりテレビに向く。サッカー以外のニュースには興味がないし、いつもは時間を確かめるための時計代わりに見ているだけだ。
「早く食べないと遅刻するよー」
母親が台所から声をかけてくる。
「はーい
……
」
生返事。いつものことだった。食パンをかじろうと口を開けた瞬間、雨の中で破裂音、同時に選手たちが走り出す。赤いユニフォームが真っ先に飛び出した。速い。意識も視線も雨の競技場に釘付けになる。永遠にも思える十秒が少年の目に焼き付いた。
小学二年生に進級する際、森川は東京に越してきた。前の小学校から転校するのはそんなに惜しくなかった。学校は好きではない。それはどこにいても変わらない気がする。
上のきょうだいは転校を嫌がったが、転校してしまえばさっさとクラスに馴染んで夕食の席で楽しそうに学校の話をするようになった。夏休みに入った今も、友達の家と行き来して宿題をしたりゲームで遊んだりしている。
森川も友人がいないわけではないし、地域のサッカーのチームにも入っているが、それでもどこかつまらなかった。そして、これは多分あまり良くないことなんだろうと思っている。
今日はサッカーの練習試合だった。
森川はいつも三年生に混じってビブスを着せられる。一年生から三年生の中で一番上手なのだ。どのポジションもそつなくこなすし、走るのだって一番速い。三年生になったらきっと高学年のチームに入れられるだろう。
「今日どうだったの」
夕食の席で母親が聞いてくる。ええと、楽しかった、は昨日も言ったな。じゃあ今日は
……
「二点取ったよ!」
そう言い切れば、隣に座っていたきょうだいが「すごい!」と返してくれる。母も嬉しそうに頷くので、それで安心してオムライスを頬張ることができる。あとはいつも通りにテレビを見たりゲームをしたりして眠るだけだ。
夕方のニュースでは高校のスポーツの特集をしている。全国大会の結果や、競技によっては都大会の結果、野球、サッカー、バレー
……
その中に今朝も見たあの人の姿があった。雨に打たれて濡れた髪のままインタビューを受けている。言葉に淀みはなく滑らかだったが、森川の頭にはその声が意味を持った言葉として入ってこなかった。
二位なのに、嬉しくないんだ。あんなに速く走れても、楽しくないんだ。それだけは彼の表情や言葉の選び方から何となく分かった。
翌年の夏も翌々年の夏も地域のニュース番組で彼の顔を見た。一年に一度だけ森川の前に現れる人。いつもつまらなそうな顔をしている人。美しいはずなのにどこかぎこちなく走る人。
森川が小学五年生に上がる春休みにまた彼の顔を見た。大学に進学せず企業のチームに所属をする、そんな知らせとトガシが喋る姿が流れた。
あの人は陸上を続けることを選んだのか。森川は少し驚いた。よく分からないけど、プロになるってことだよな。
あらゆるスポーツのインタビューの場面を思い返す。ヒーローインタビューも、敗退のインタビューも、ドラフト会議も移籍も、引退会見ですら、活気に満ちた前向きなものが多かった。
しかし、彼は──トガシは違う。個人競技だからだろうか。それとも、一位じゃないから、自己ベストじゃないから? 明るく正しく話しているはずなのに、森川はそれを見るとなぜか寂しさに近い感覚を覚える。
だから、彼のことを覚えてはいても、それ以上知ろうとは思わなかった。そのくせ、学校やサッカーにつまらなさを感じたときはなぜかトガシのことを思い出す。楽しくなくても走っていていいんだ。いつの間にかその事実が森川のお守りになっていた。
小学校の卒業が近づいて、クラスでは中学の部活の話になる。皆思い思いに新生活への憧れを募らせている。
「森川もサッカー部だろ?」
クラスメイトからそう聞かれて、少し戸惑った。サッカー部に入るつもりはなかったが、ここでそれを伝えるのにはいくらか勇気が要る。でも、このときはきっと森川も浮かれていた。森川だけでなくクラス全体がそうだった。
寒さがようやく落ち着いて、もうすぐ桜も咲きそうだ。教室の窓から見える空は真っ青で、ぬるい教室に吹き込んでくる風は涼しい。すべてが穏やかであたたかい春の午後だった。それなのに、今この瞬間に森川が思い出したのはあの豪雨だった。
「
……
俺、陸上やるかも」
気づけばそう答えていた。かも、というのは己の意志の曖昧さでもあるし、ある種の予感のようでもあった。自分は思った以上にあの雨に囚われていたらしい。森川はそのことに驚いていた。
周囲の反応は様々だ。悔しがるものもいれば、納得するものもいる。
顔には出さないが安心しているやつがいるのも森川は知っている。サッカーの試合で露骨にパスを回されなくなった時期があった。表立った行動はなかったが、練習中に強く当たられたり、自分だけ遊びに誘われなかったり、そんな些細な違和感に森川はもう辟易としていたのだ。
サッカーを辞めるのは既に決めていた。でもそれは陸上がしたいからではなかった。しかし、陸上をするというのは良い考えかもしれない。
「お母さん、タブレット貸して」
帰宅して、動画サイトで彼の名前を検索する。一年に一度だけ見ていたあの顔がここにはたくさんあった。あの雨の日の動画もあったし、それより昔のものもある。
ひたすら彼の走りを見た。コメント欄には好き勝手な言葉が並んでいるが、どうだってよかった。一位じゃなくても、調子が悪くても、ただトラックの上に彼が立っていることが森川の慰めになった。どうしてそう思うのかは分からない。会ったこともない、よく知らない人間のどこにこんなに惹かれているのだろう。
「あら、トガシくんじゃない」
「トガシくんって。友達じゃないんだから」
森川が笑って返すと母は苦笑する。
「そうね、でもニュースなんかで見かけるからなんだか勝手に親しみを感じて。それにしても陸上の動画なんて珍しいね」
「うん。中学、陸上部に入ろうかなって」
そう言って窺うように母を見た。
サッカーは続けないことは両親に伝えてある。これまで試合の送迎や練習の準備などをしてくれてありがとう、とも言った。それが簡単なことではないと少しは理解しているつもりだ。というのは、今度高校生になるきょうだいから口酸っぱく言われているからだ。
サッカーを辞めるならちゃんと親に言うこと、これまでどれだけ労力を割いてくれたかも考えて感謝を伝えろ、自分も親もサッカークラブでのいじめのことを心配してるから嫌な事をされたら家族の誰かに言え、等々。
「そっか、走るのも速いもんなあ。いいね、それでトガシくんを見てたんだ」
母は屈託なく──恐らくそう見えるように──笑って見せた。
「うん」
森川は照れくさくなって相槌のみ返した。タブレットの画面の中で赤いユニフォームの彼が走り続けている。
中学生になり、森川は陸上部に入った。個人競技の部活の雰囲気はサッカーのクラブとは異なるように感じるが、部員同士の仲は悪くなさそうだった。百メートルのトラックではパスを回さなくていいし、孤独が許されている。それが森川にとって気楽だ。
朝練があるので、小学生の頃よりも朝食の時間は早まった。パンをかじりながらニュースを眺める習慣は変わらない。
『日本陸上競技選手権大会の出場者が決まりました』
そんな声がして、意識がテレビに向く。地元の選手としてまたあの人が取り上げられて、インタビューを受けている。
「相変わらずつまらなそうだなあ」
彼が本心ではどう思っているのか森川には知る由もない。いつか会えたら聞いてみたい気もするし、何も知らないまま彼の走る姿だけをお守りにしていたい気もする。
「いってきます」
玄関のドアを開けると雨が降っているので一応傘を掴むが、それを差すつもりはない。森川は雨中の十秒を思い出しながら朝練に向かった。
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