2026-04-17 20:01:55
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ふたりぼっち

雪の日の1912とその少し先の二人


 最後に深く眠ったのが、もう、いつだったか覚えてない。
 目が覚めたら何もなかった。
 なにも。
 だから、あの晩から深く眠れなかった、もう。
 もうずっとそうだと思ってた。
 
 なのに。

 迂闊にも私は、すっかりと寝入っていたのだ。
 はっと目が覚めて、隣にいたはずの利吉くんがいない。


 ❄︎


 昼のうち、雪の止み間を縫うかたちで、利吉くんがここよりもう少し高い場所へと連れていってくれた。
 見せたいものがあるのです、と。
 ご両親は雪がおさまっているこの間に、一度町へと降りた。長い冬をこの山深い場所で越すのには、たとえ備えがあっても町へも幾度かは行かなければならない。
 そういう時、利吉くんはずっと、一人で留守番していたという。こんなところで、とも思うけれどこんなところだからこそ、誰も来られもしないだろう。
 わたしが春に怪我を負って、利吉くんのご両親に拾ってもらったのだってご一家が暮らすここよりはもっとずっと、下がった場所だ。
 しかもこの深い雪の真っ白な世界は、手練れの忍びといえども相当に手強いはず。
 耆著があったとして、自分がいまどこにいるかわからなくなりかねないうえに、天気が変わりやすい。吹雪きでもすれば終わりだ。
 
 その前提があるうえで、この子はとてもしっかりとしているし、一人で留守番も納得がいく。
 ある程度は。
 だって利吉くんの持つ能力の高さ、優秀さによって一人で大丈夫なことと、たったひとりが大丈夫なこと、というのはまた違う気がしていた。
 かれの目は時折とてもさびしい。
 恵まれているくせに、と、思わなかったと言えば嘘になる。
 だからってこの子がそのまま、ひとりをさびしがっていてもいい、それをわたしが見ないふりをしてもよい理屈にはならない。
 恵まれた子どものさみしさに、目を瞑ることを選ぶのなら、わたしの命が、この世にまだとどまったその甲斐もない。
 何よりも、この子どもは寂しさを押し込めていつも堪えている。堪えながらわたしを気遣う。
 お兄ちゃん、と、わたしを呼んで。

 今日だって利吉くんは、『わたしとふたりきりではお兄ちゃんも退屈でしょう』などと言って連れ出してくれた。
 小さな身体と小さな手で、私の怪我の世話をしてくれたかれと一緒ならば、退屈なんてことない。だからそれも伝えはしたのだけど、そういうこの子の、わたしへの気持ちがうれしい。
 しかし氷ノ山の、膝近くまで埋まるほどの深い雪を登るのにはわたしはまだまだ経験が浅い。さすがに慣れず、かんじきも使う足でゆっくりと上った。
 山の頂上のほうばかり見て進んでいると、白く曇った空と、白い雪に覆われた山との境目が分からないほどに、視界が白一色だ。
 ここは。
 ここはまるで。
 いつか見た、海に似ている。
 そんなことを思ったりした。

 しばらく、雪が積もる林を行くと「ここです」と利吉くんが、私の手を取って引いた。
 ぱあっと、開けた場所に出る。
 するとそこは、夢幻の世界のようであった。
 うつつからとおくに離れた。
 真っ直ぐに伸びたはずの樹木が、山を吹き荒ぶ風の力により、撓んだまますっぽりと雪に包まれて、遠く峰の頂きまで幾つも幾つも立っている。
 その、どこか異形の生き物の姿のような柱の数々は、地上の冬では決して目にすることの叶わないものだろう。
 はじめて、この目に映るもの。かたち。
 ただただ真白く澄んで。
「きれいだねえ……
 出た声は、自分でも驚くほどに感嘆がこもっていた。
 感情が、大きく動き始めた。その実感はすでにある。
 ここのところ、食べればおいしいし、見ればうつくしい。
 そして。
「でしょう!」
 得意げな声を聞いて隣を見やると、白い息を吐き、まだ丸い頬と、鼻の先を真っ赤にした利吉くんがいる。
 そして、とてもうれしくて。
「ありがとう利吉くん」
 そう伝えると、ふたつのおおきなまなこがまたたく。それはまるで夜を彩る星々。そんなにも嬉しそうな顔をしてくれるから、わたしもいっそうにうれしい。
 木々も凍るような、とても冷たい氷の山なのに、こんなにもあたたかい。

 あたたかくて、だからわたしは。

 小さくとも、確かなぬくもりを腕にしたそのしあわせに揺蕩ってあまりに深く眠っていた。
 慣れない雪の中を歩いたにしても緩み過ぎだ。
 そのぬくもりが腕の中から失われたことに気づけないなんて。
 それを知覚した時、ざあっと全身の血の気が引くのが分かった。指の先が冷たくしびれて、それは最早痛みに近い。
「り、きちくん」
 身を起こして、名を呼ぶ。
 呼びながら、考え得る限りでいちばん悪いことを、幾つも、幾つも頭の中に並べていた。
 汗が首を伝う。冷や汗。室内はとても冷たいからそこから肌が一層に冷えてゆく。
「利吉くん、」
 呆然と彼の名ばかり呼びながら、障子戸に手をかけ、ぱしんと勢いをつけて開くと、外に面した廊下に白い息を吐いた幼な子がそこにいた。
「あ、お兄ちゃん!」
 私の姿を見て、嬉しそうな顔でこちらに駆け寄ってくる。
 自分からも目一杯かれに腕を伸ばして、引き寄せて抱きしめた。
 冬が来てずっと雪深い。空も、雪を降らす雲が深く垂れ込めている。
 けれど今夜の雪はちらちらとうすく舞うだけのものだった。その細かな雪の粒が抱きしめた利吉くんの髪を飾っては消える。
 そのさまがこんな時もうつくしい。
 こんなにも胸苦しいのに。
「利吉くん……
「お兄ちゃん、?」
 腕の中へと、稚いぬくもりは確かに戻った。それでも震えが止まない。
 わたしはもう深く眠ってはいけない。
 なのに、寝入っていた。こんな大切なものを抱えていながら。
 手のひらに収まるほどの小さな頭をほとんど掴むようにしてかたく強く、わたしはあらためて利吉くんに抱き付いた。
「ごめんごめん、利吉くん」
「おにい、ちゃん、どうした、の、」
 う、と小さく利吉くんが呻く。
 腕に力が入りすぎてる。分かってる。薄く細い胸が軋んだに違いない。込めた力をすぐに緩めなければ。
 でも。
「ごめん、ほんとうに、ごめ、ん」
 思うのに腕も、全身も強張っている。
 このまま離せない。
 離したくない。
 お願いだから。
「お兄ちゃ、ん、だいじょうぶ、です、か……?」
 情けなくただ、ひとりごめんと繰り返す男に対して利吉くんはこちらのこめかみあたりに頬を擦り寄せて、気遣う言葉をくれる。
 繰り返し触れてくる、柔らかい頬、柔らかい髪。
 撫でてもらうことで感情と身体の騒めきが随分宥められたようで心の臓の拍も落ち着いてきた。
 そこでようやく、かれがこんなに何度も頬擦りばかりをしてくれるのは、わたしの腕が利吉くんの腕の自由を奪っているからだということにも気づく。気づけたことによってか、この身の強張りもふっと自然にほどけた。
……ごめん、ね」
「ううん、わたしこそ心配をかけてごめんなさいお兄ちゃん。黙ってひとりで、」
「いや、君はちっとも悪くなん、て」
 両肩を包むように掴んで訴えると、小さな両の手のひらがひたりと頬にあてがわれた。
「お兄ちゃん、お顔がこんなに、」
「いいんだ。大丈夫」
……ね、さきにお布団に戻りましょう……?」
「うん、ああ、そうだね。うん……
 利吉くんの手は、わたしの頬よりはぬくみがあったけれどそれでも冷たい。申し訳なさばかりの思いで利吉くんを抱き抱え、室に戻り障子戸をかたく閉じた。
 そうして、敷布団の上にかれをそっと下ろす。
 すると、利吉くんはわたしの腹のあたりへと抱きついてきた。
「利吉くん」
……厠に、行きたくて、でもお兄ちゃんを起こしちゃいけないって思ったの。でもそんなお顔、させてわたしは」
 よほどひどい顔をしてたのだろうな。面目がない。
 情けない。
……わたしが弱いばかりに、ごめんよ」
「いいえ。……ただこれからは、厠に、行きたくなったらお兄ちゃんを起こしてもいい?」
 情けないわたしに、きみはどうしてこんなにも。
……そうしてもらえると、たすかる」
「うん。それからねお兄ちゃん。冬の夜は星も、とてもきれいだから、次に晴れたらきっと一緒に見ましょうね」
 自分よりも小さな子どもに抱きしめられながら、その腕がほどけきらないよう注意深くゆっくりと膝をついた。
 顔を寄せる。
 鼻の先が触れるほどに。
「うん」
……あのねお山から見る星は、いつもきれいだけど、冬に見るすばるはとびきりなんです。星はすばる、と、昔のひとも言ったでしょう。だから、ここの、……この冬のすばるをお兄ちゃんにも、見せた、い」
「うん」
「きっと、一緒に。できれば、よばひ星も……は、春まで、に」
「うん……
「忘れないで。お願い、です」
 切実な声。
 たとえ一瞬であっても、きみが離れていったことでこんなにも、千々にこころは乱れて上手くまだ、少しととのわない。おさないきみに対して、大人のくせにちっとも取り繕えてない。そんな思いが、こうして互いに触れていることで強く通じてしまったのかな。
 もう、わたしたちが離れるときのことまでもを、きっと思わせてしまった。
 年が明けてまた春がきたらわたしは。
 わたしも、この子を寂しくさせる父上と同じ、教師の職を得る。ここをとおく離れて。
 そうしたら、さみしいと、きみはおもってくれるの。
 思わせてしまえるの。
 このわたしがきみを。
……忘れるもんか、決して」
「きっとですよ」
「きっと、絶対に……
 すり、とまた頬擦りをかれが。
 頬がゆっくり、しっとりとあたたかく濡れるのは一体どうしてだろう。
 と、きっとかれも同じことを、考えている。




 ❄︎




……なんてことも、ありましたねえ」
「あったあった」
 幾つかの春を越えて、幾度目かの冬を迎えた。
 わたしたちはふたたび、氷ノ山でふたりきり。
 山を覆う雪がうっすら光るように仄明るい夜の中で、凍る白い息を吐きながら、空を見上げている。
 この冬のすばるを。
「きみと見るすばるはやっぱり格別だ」
「ええ、それはわたしももちろんです。で、それはそれとして、……そろそろ、お兄ちゃん」
 軽い調子で言う、彼の眼差しには真剣がこもっている。
……ほんとうにいいの」
「あなたこそ」
 うすく笑う利吉くんの唇からこぼれる白い息が、風によって横へ流れてゆく。高い位置に長く結われたかれの髪。茶の混ざるその黒い髪も白い雪に映えながら揺れる。
「なにを。わたしの心は、あの頃にはもう決まっていたよ」
「それはわたしだって……だから早く、早く大人になりたかった。あなたに、少しでも」
 赤くなった指の先が、わたしの手を取る。
 ぎゅっと握り返す。
 わたしは、きみにもうすこし子どもでいて欲しかった、くらいだけど。
……じゃあ行こうか」
「ええ」
 手に手を取って雪の中を進む。

 深い眠りが近い。

 たったふたり。
 ふたりきりで。