いまさら
2026-04-16 21:46:17
3486文字
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♡ おしえて

宮トガの変な話

 胸にぽっかりと穴が空いていた。

「わっ! ごめん!」
 更衣室には誰もいないと思っていたので、ドアを開けた瞬間にトガシの着替えを目撃してしまった小宮は慌てて扉を閉めた。
「小宮くん? いいよ、着替えなよ」
 ドアの向こうから声がして、それでも小宮が入ってこないのに痺れを切らしたのか、がちゃりと扉が開いた。その隙間から顔を覗かせるトガシはどうしてかまだシャツを着ていない。
肌色が眩しい、目のやり場に困る、あさっての方向を見る。
「ふ、服着なよ」
 それだけ言うのがやっとだった。あさっての方向には廊下の天井が見える。壁際に蜘蛛の巣がかかっていた。トガシはまだ扉を閉めない。誰か来たらどうするんだ。君の裸が他の人に見られるなんて耐えられない。
 ちらりと視線を戻すとしっかりトガシと目が合って、そしてしっかり服を着ていないのも確認した。小宮はまた蜘蛛の巣を見た。
「さすがに裸では帰らないよ。でも、見たんだろ、俺の裸。ちょっと付き合えよ」
「ひぃっ」
 トガシは小宮の胸ぐらを掴んで更衣室に引き摺り込む。その直前に小宮が見た景色は蜘蛛が小さな蛾を捕食している様子だった。南無三。僕って仏教徒だったのか、と今際の際に気がついた。

 いや、大袈裟だ。トガシの裸を見たところで小宮は死ぬわけではない。死ぬほど緊張しているが。
「すみません、覗くつもりじゃなかったんです」
 小宮は更衣室の椅子に座ってひたすら自分の膝を見つめている。目の前に立つトガシを直視できなかった。
「どうして謝るんだよ。ここは共用の更衣室だ。誰も来ないと思ってたからちょっと驚いたけどさ」
「服、着ないの」
「いや、この際だから見てもらおうと思って」
 そう言うとトガシは小宮の前にしゃがみ込んだ。
「見て」
 トガシは子どもに指示するように優しく言った。小宮は恐る恐るトガシに視線を移す。
やはり、トガシの胸にはぽっかりと穴が空いていた。物理的に。それも、貫通している穴だ。穴の向こう側に、トガシの背後のロッカーが見える。
……初めて見た」
 二重の意味で。トガシの裸を初めて見たし、胸に穴が空いている人を実際に見たのも初めてだった。
「珍しいよね」
トガシは淡々と言う。
「みんな驚くからさー、面倒だし隠してたんだけど、小宮くんとは何だかんだ大会とかで一緒になること多いし、言っといたほうが楽かと思って」
「い、いつからなの?」
「いつだったかなあ、わりと小さい頃だった気がする。外で遊んでる間にどこかで落としてたみたいで、家に帰って気がついたんだけどどこ探してももうなくてさ。親にめちゃくちゃ怒られて散々だった」
「そうなんだ……
 そんな軽い感じなんだ、と思ったが言えなかった。だって好きな子が上半身裸で目の前にいて、どうすればいいのか分からない。
 小宮はトガシに恋をしている。が、付き合いたいという願望はなかった。大会で顔を合わせて、たまに食事に行って、それだけでじゅうぶん幸せなのだ。つまり、この思いを伝える気はなかった。
 自分はトガシに対して隠し事があるのに、一方的にトガシの秘密を知ってしまったのは、それも不可抗力もはいえ覗くような形で見てしまったのは、なんだか申し訳ない気がした。自分も何か彼に差し出すべきではないのか。
「あの……か、貸してあげようか」
「え?」
「心臓……
 言ってから、出過ぎた真似だったかもしれないと後悔した。トガシは驚いたように目を見開いている。ほら、やっぱり引かれている。
「あ、いや、」「いいの?」
 小宮が先の申し出を取り消そうともごもご言うのと、トガシが聞き返すのが同時だった。
「わあ、久しぶりだよ。ここに誰かの心臓を入れるのって。子どもの頃以来だ」
 台詞を続けたトガシの勝ちで、言葉に詰まった小宮の負けだ。
「あんまり親しくない人とはしないって聞いたことあるから、その、嫌だったら断ってよ」
「俺は君と親しいつもりだったんだけど?」
 トガシは当然のようにそう言って笑った。その笑顔に小宮の胸が跳ねる。こんなに元気なものを貸してしまっても大丈夫だろうか。しかし、自分から言った手前、もう引き返せない。
 小宮はおずおずと服を脱いで自分の胸に手を突っ込んだ。心臓を取り出すのは初めてなので少し手こずっているのを、トガシは観察するように見つめている。
「見られるとやりづらいよ」
「ごめんごめん、俺も久しぶりに見るから気になるんだよ。懐かしいな、小さい頃はよく貸してもらってた」
 心臓を掴んで、それを慎重に引き出すと、今度は小宮の胸にぽかりと穴が空いた。小宮の胸から出てきたばかりのそれはどくどくと脈打っている。それをトガシに手渡す際に手が触れて、心臓がぴょんと跳ねた。
「わ、元気だな」
「ごめん」
「なんで謝るのさ」
 トガシは丁重に両手で小宮の心臓を受け取って、手のひらの上の塊にはしゃいでいる。
「大きいね、最後に触ったのが子どもの頃だから、大人の心臓だとこんなもんか」
 トガシはしばらくそれを眺めた後、それを自身の胸の穴に近づける。
「合わないと吐いたりしちゃうけど、君のが悪いってわけじゃなくて、そういうものだから。俺が吐いても引かないでね」
「う、うん」
 トガシはゆっくりと小宮の心臓を胸の穴に押し込んでいく。少しずつ塊が飲み込まれて、直径の大きい箇所が入る瞬間に、苦しそうに眉を顰めた。
「やっぱり大きいな」
「ご、ごめん」
「今日あと何回謝るつもり?」
 小宮の謝罪に、トガシはふっと笑みをこぼして、そのおかげで力が抜けたのか心臓はじわじわとトガシの体に埋まっていった。全てが入り切ると、ぽかりと空いていた穴は塞がってそこは皮膚で覆われている。
「あは、めっちゃドキドキしてる。結構重いし。こんなの入れて走ってるの、みんなすごいなー」
 ドキドキしてるのは多分僕がトガシくんのこと好きだからです。とは言えるはずもなく、小宮はトガシが目を輝かせながら感想を言うのを黙って聞いているほかなかった。
「気に入ったなら、しばらく貸します」
「さっきからなんで敬語? 小宮くん明日もここ来る? 練習終わった後に返すのでもいい?」
 トガシが勢いよく問いを重ねるのに小宮は無言で頷いた。さっきから挙動不審だからトガシを前にするとわりといつも通りな気もする。
 明日もトガシくんと会えるんだ。小宮が密かに喜ぶと「あ! 今めっちゃドキッとした」とトガシが叫ぶので、文字通り心臓に悪い。
 トガシの胸の中に自分の体の一部があるのだと改めて思うと、なんとも言えない不思議な気分だった。こんな男の心臓があんな綺麗な人の中に入ってしまっていいんだろうか、と妙に焦る気持ちもある。
 貸すんじゃなかった、と後悔してもトガシはさっさと着替えて帰ってしまった。

「小宮くんお疲れ。終わったら昨日の更衣室に来て」
 練習が終わって人が引けた後、トガシは小宮に告げてトラックを去っていった。小宮もその後を追う。
「これありがとう。やっぱり俺には重かったよ。今日はあんまり上手く走れなかった」
 トガシは着替え終わった後に小宮に心臓を返した。自身の一部との一日ぶりの再会。手のひらの大きさほどしかないくせに、胸に一日これがないだけで、体が軽すぎて動きにくかった。
「それに、心臓って慣れないとうるさいんだな。ずっと動悸がするから俺、死ぬんじゃないかって思ったよ」
 トガシがそう言うと、小宮が手に持つ心臓がまた跳ねる。
「トガシくんが僕の心臓を持ってると思うと、なんだか落ち着かなくて、そのせいかも」
「いくら俺でも人から借りたものをなくしたりしないよ」
「そうじゃなくて……
 そうじゃなくて、君のことが好きだからだよ。
「なに?」
「なんでもない」
「あ、戻してるところ見たい。見せて」
 急かされて、小宮は心臓を胸に戻していく。穴の空いた部分に心臓を当てがると、それはすぐに胸に入って穴は一瞬で塞がった。
「やっぱり持ち主だとスムーズかあ」
 トガシはつまらなそうに言って、自分の胸を見下ろす。更衣室の壁が穴から覗いている。それを見たのは昨日が初めてなのに、どうしてかトガシにはよく似合っていて、これが彼なんだなと思える。
「また貸してあげる」
「ありがとう。じゃあ明日は?」
「えっ」
「冗談。いや、冗談っていうか。何も貸し借りしなくても君に会いたいなと思っただけ。あの、意味分かる?」
 戻ってきたばかりの心臓が大きく跳ねた。