きなこ湯
2026-04-16 00:33:20
8685文字
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やり直しのレモン味


 カネブラ、初恋に浮かれるトキシンが好きな子とのファーストキスで大騒ぎする話。
 3rd・5択後を捏造しています。また、2ndトキシン本編のネタバレを含みます。


 文句の付け所のないくらい、ほとんど完璧な一日だった。いや、実際は途中で少し道に迷ったり、立ち寄る予定だったカフェが臨時休業だったり、そんなトラブルは多少あったけれど。それだって帰り道には笑い話にできたのだから、きっとこれも思い出の一つになるだろう。
 お前が俺の恋人になってから初めてのデート。その最後はもちろん、こうすると決めていた。具体的なシチュエーションにはいろいろと悩んだけれど、やっぱり二人きりで、それからとびきりロマンチックな場所がいい。

「もう少しだけ寄り道したい」とお願いして立ち寄った観覧車のゴンドラの中、ガラス張りの大きな窓からは息を呑むほど綺麗な夕焼けが広く見渡せる。神無町はすぐ近くに海があって、ゴンドラが高く昇ると港が見下ろせた。2ndライブの後、クリムゾンガードに連れ去られた彼女を追いかけた場所だ。

 あの日、俺は前から目を逸らしていた己の気持ちに初めて向き合った。――お前のことは、ファーターには渡さない。洗脳だったとはいえ、紛れもなく自分の意思だと思い込んでいた信仰心よりも、お前を手放すことへの堪えがたさの方が勝った。きっとお前を見つけたあの瞬間から、俺の人生は再び息を吹き返したのだと思う。

 ゴンドラの中は狭い。隣に座れば、すぐお互いの手が触れ合うくらいの距離。俺の恋人になったお前は、もう俺から逃げることもなく隣にいてくれる。だからどうか怒らないでほしいなと祈りながら、膝の上に置かれたその指先にそっと触れてみる。まっすぐな目が俺を見上げて、不思議そうに首を傾げてから――お前の方から、俺の手を握ってくれた。
 心臓がドキドキと高鳴って、呼吸が苦しくなる。意味ありげな沈黙がゴンドラの中を満たしていた。何か言わなければと思うのに、普段なら淀みなく形になる言葉が、喉の奥で詰まったまま出てこない。お前への気持ちはどれほど言い尽くしたって足りないほど大きいのに、たったひと言すらままならないなんて、本当にどうかしている。
 隣り合う腕が触れ合う。お前は俺を拒まない。繋いでくれた手を恐るおそる握り返して、それから、試すようにぐっと俺の方へと引いてみる。バランスを崩したお前は俺の方へと少し身体を傾けて、座る距離を近付けた。

 手を握るだけじゃない。ほんの少し顔を近付ければもう簡単に触れられる、お互いの呼吸の音すら鮮明に聞こえる距離。
 お前もその意味に気付いたらしく、その目が僅かに見開かれる。顔が赤く見えるのは夕焼けのせいか、それとも。

「ねえ。……目、閉じてほしいな」

 俺を見上げる瞳に浮かぶのは、きっと期待なのだと思う。だから、この胸の高鳴りは、俺の勘違いなんかじゃないはずだ。
 そう祈るような気持ちで囁くと、お前は視線を少し躊躇うように彷徨わせた後、そっと瞼を閉ざしてくれた。夕焼けを反射するその柔らかい頬に片手を添えて、ほんの少しだけ、俺の方に上向かせる。ピクリと薄い瞼の皮膚が震えて、それでもきちんと閉じたまま、俺を待っている。
 口の中に溜まった唾を飲み込んだ。

「ありがとう。……いい子だね」

 震えそうになる声をぐっと堪え、口元を結ぶ。
 その唇に触れる日を、一体何度夢に見たことだろう。人生にたった一度しかない、ほんとうに特別な一回目。これから先もお前を手放すつもりはないし、きっと何度でも愛情表現として繰り返すだろうとは思うけれど、この一回ばかりは絶対に二人きりの場所で、とびきりロマンチックにと決めていた。そうすれば、今日この瞬間が俺たち二人の中で永遠になるような気がするから。

 緊張と期待で指先が甘く痺れる。そっと、音もなく重ねたお前の唇はすごく柔らかくて――頭がくらくら溶け出しそうなほど、甘い匂いがした。決して、酸っぱいだけのレモンの味なんかじゃない。とろりと甘くて、やわらかくて、ただ触れているだけなのに、頭の奥がふわふわする。
 いつまでも触れ合っていたい気持ちに後ろ髪を引かれつつ、ゆっくりと顔を上げる。お前もそろりと目を開けて、上目遣いで俺の顔を見上げた。その気恥ずかしさの入り混じった眼差しを、間近に見下ろした瞳孔の模様すら、きっといつまでも覚えているだろうと確信めいた予感を抱く。

「ふふっ……キス、しちゃった。お前が俺を拒まないでくれて、本当に嬉しいな……

 そう言葉にしてから、またドキドキと胸が息苦しくなる。お前のまっすぐな視線すらどこかくすぐったく思えて、思わず隣にある身体を両手でぎゅっと抱き締めた。お前の頭ごと抱き込むようにしてしまえば、少なくともその視線は遮られる。
 急に抱き寄せられたお前は驚いたように声を上げた後、次第に手探りで俺の背中に腕を回した。綺麗な手が、ぎゅっと俺を抱きしめ返してくれる。腕の中で頭が少しだけもがいて、ちょっと苦しい、とくぐもった声が呟いた。

「ごめん。……でも、もうちょっとだけこうさせて。お願い。今は……その。俺の顔、まだ見ないでほしくて」

 これでは緊張していると正直に打ち明けているも同然だが、お前は小さく頷いて、俺の腕の中に収まるように身動ぎした。

 しばらく、ゴンドラの動いて軋む鈍い音ばかりが響く。
 その中でも、俺の胸元に頭を押し付けられるような体勢だったからだろう。お前は大人しく俺に抱き締められたまま、トキシンの心臓の音が聞こえる、と呟いた。

「そりゃあ、まあ。俺だって、やっぱり緊張するよ。だって……

 だって、ファーストキスなんだし。
 今さら具体的な言葉にするのも気恥ずかしくて、何となく言葉尻を濁す。人生にたった一度しかない、はじめてのキス。俺だけのお前になることを選んでくれたから、今日という日が訪れたのだ。そう改めて考えると、心の底から嬉しさが滲み出てくる。胸の奥からじわじわと染みてくる幸せには際限がなく、いつまでも心臓が高鳴ったままで落ち着かない。
 大きく息を吸い込んで、ため息を呑み込む。ちらりと腕の中からこちらの様子を窺ったお前は、俺の顔を見上げて目を見開いた。背中に回っていた片手が離れ、今度は俺の頬を優しく撫でる。

……え? ううん、さすがに泣いてないよ。でも、その……なんだか、噛み締めちゃってさ。お前が、本当に俺のものになってくれた証みたいで……うん、泣きたくなるくらい嬉しいのは、本当かもしれないな」

 心の模様を素直につぶやくと、腕の中からは微かに笑い声が聞こえてきた。お前はなぜか呆れたような目で俺を見上げていて、トキシンは大袈裟だ、と眉尻を下げている。

 その態度に、些細な違和感が引っかかった。
 確かに彼女はいつも落ち着いていて、取り乱すようなことは少ない。けれど、照れ隠しでつっけんどんな態度になったり、ちょっとわがままだったりする、そういう可愛いところはあるはずだ。だから……きっとお前も俺と同じくらい、ドキドキして、緊張しているものだと思っていたのに。

 ――初めてキスをした後の反応にしては、さすがに少し落ち着きすぎではないだろうか?

「いや……べつに、大袈裟なんかじゃないだろ。だって、その……っ、……お前は緊張しないの? 俺は……こうやってお前とくっついてるだけでも、すごくドキドキする……ん、だけど」

 彼女のことは前から好きだった。神無町で再会して、その美しい手に焦がれる心を根拠に、お前こそが俺の運命の人だと信じていた。けれど、本当の意味でお前のことが好きなのだと理解してからは――自分でも抑えることのできない、持て余すほど溢れてくる感情の強さに、俺自身が振り回されてしまうことがある。
 お前のことが好きだと思う。唯一無二の、運命の人。何があっても、手放したくない人。離れるなんて考えられない、大好きな人。お前を目の前にするとどうしようもなく胸が高鳴って、心がざわめいて落ち着かない。歯の生え際がむず痒くなって、噛みたい、なんて剥き出しの欲望が先走りそうになる。

 その落ち着かない緊張と、触れ合うことで満たされる幸福感こそ、俺がお前を愛している証拠なのだろうと思っている。けれど……もしかして、お前は違うのだろうか?

……なんだか、お前は余裕だね。ちょっと悔しいな。俺と同じように緊張してくれないの?」

 一度気になった以上、どうしても見過ごすことはできない。ふと浮かんだ微かな不満をそのまま口に乗せると、お前は困ったように適当な相槌を打つ。それから少しだけ置いて、べつにこれが初めてじゃないし、と呟いた。

…………えっ?」

 これがはじめてじゃない。
 これって何が? キスをするのが?
 初めてするキスじゃなかったから緊張しない?

……は? え、なんっ……なんで⁉︎」

 抱きしめていたお前を一度引き剥がし、その両肩を掴んで正面から顔を見返す。恥じらいなんて一瞬でどこか遠くへ吹き飛ばされていた。今もっとも重要なのは、お前が何気ない素振りで言ったことの真意を確かめることだ。
 突然のことで驚いたように見開いたお前の瞳に、俺をからかおうといった意地悪な気配はない。どうやら、下手な照れ隠しやたちの悪い冗談ではないらしい。いや、それではさっき言ったことが事実になってしまうのだが。

「いや、お前……はじめてじゃない、って……そ、それ、」それってつまり、と問いかける声が震える。「――俺以外の男と、キスした……ってこと?」

 つまり、そうなってしまう。
 俺はお前の人生のすべてを把握しているわけではない。特に、あの1stライブで再会するより以前のことは今でもよく知らなかった。お前にはお前の交友関係や経験があっただろうし、それはべつに責められるようなことではない。
 けど。
 でも。

……浮気……?」

 頭の中に浮かんだ言葉がそのまま口から滑り出てくる。え? だって、それって浮気じゃないか?
 お前はぎょっと口元を曲げて、いきなり変なことを言うなと声を張り上げた。付き合ってまだ一週間も経ってない! と、正気を疑う目で俺に訴える。その主張は正しい。もしたった数日間で他の男に靡かれていたなら、さすがに俺もショックで立ち直れない。

「そ、そうだね、ごめん。うん、そうだよな……ちょっと気が動転してたみたいだ。大丈夫、お前を疑ってるわけじゃないよ。いきなり変なこと言ってごめん。で……でも、その……俺たちの家に来てから、お前にそういう人はいなかった、よね……? だから俺、お前に…………っ、元彼がいた、とか……少しも考えたこと、なくて……

 浮気ではないとすると、そういうことになってしまう。
 それが事実なら俺に口出しする権利はない。過去のことは今からどうすることもできないし、今のお前はちゃんと俺の恋人なのだから。
 しかし。理屈の上ではわかっていても、胸の内側にぐるぐると黒い靄がかかって重くなる。――お前に、昔の恋人がいた。手を繋いで、隣を歩いて、優しく笑いかけられて――それから、この唇に触れた男が、この世で俺以外にも存在する、だなんて――

 怪訝そうに眉をひそめ、お前がわずかに首を傾げる。甘い香りと感触の残る、その唇に自然と視線が吸い寄せられた。俺にとっては初めてだった、お前の唇の感触を、俺以外にも知っている男がいる。

……その元彼って誰?」

 気がつけばそう訊ねていた。
 お前は呆れたようにため息を吐く。それから、昔付き合っていた人もいない、と首を横に振った。

「え……えっ⁉︎ いやっ、じゃあ……誰と⁉︎」

 浮気ではなく、元彼でもないのなら、残る可能性は――お前のことが好きな男から強引に迫られた、とか?
 なんと今の家には、お前のことが好きな男が俺以外に四人もいる。ネィトは口達者な上に強引だし、クレハは末っ子気質でわがままなところがある。癇癪混じりで騒ぐビャクヤは俺たち兄弟でも宥めることが難しいし、ヨルは口が悪くて乱暴なところがあるから、優しいお前は脅されたら抵抗できないかもしれない――混乱した頭が、ありもしない光景を次から次へと自動で再生する。

 島から帰ってきて、3rdライブがあって、お前が俺の手を取るまでには少し時間が空いていた。その間のお前はまだ誰のものでもなかったから、そこで起きたことなら、それは浮気ではないかもしれない。
 それでも、と納得できない気持ちが膨らむ。さすがにそれはルール違反ではないだろうか。俺だって、お前に選ばれるまでは手に触れるだけで我慢していたのに――俺はちゃんとファーストキスだったのに!

 肩を掴む手に思わず力が入る。痛い、と小さくつぶやいた声で我に返って力を緩めた。ショックなことは確かだが、お前を責めたいわけじゃなかった。ただ、驚きの波が引いて残るのは、どうすることもできない悲しさばかりだった。

「そっ……か、そう……なんだ」

 過去は変えられない。それに、目の前にいる今のお前は他でもない俺がいいと選んでくれた。どんな時でもまっすぐこちらを見てくれる眼差しは、あの1stライブの日、俺が見つけた頃のそれとはずいぶん違う。だから、お前の心を疑うつもりも、お前のことを責めるつもりもない。

 ただ――ただ、胸の奥にぷつんとひとつ穴が空いたように、身体の内側が冷たくなる。痛い。悲しい。苦しい。どうすることもできないと理屈の上ではわかるのに、そんなのは嫌だと泣き喚きたい気分になる。
 俺の抱える思いが大きいぶん、お前にも同じだけのものを返してほしいと願ってしまう。これは俺の身勝手なわがままだ。ただ、一度自覚した冷たい気持ちにうまく蓋をすることができなかった。

――……お前の、最初の男がよかったな……

 人生でたった一度きり、特別な一回目。だからこそ、その相手は他の誰かではなく俺であってほしかった。所詮過去の男とはいえ、その初めてばかりはどうやっても覆すことができない。たとえこれから何度繰り返して上書きしても、お前の一番最初だけは手に入らない。今、お前が選んだのは紛れもなく俺なのに。ただ初めてだったというだけで、俺以外の男が、お前の中に残り続けることができる。それが、ああ、どうしようもなく――

「嫌、だなぁ……

 観覧車は天辺を通り過ぎ、下降し始めたゴンドラが揺れる。夕日は沈み、東の空はすでに夜の気配を漂わせていた。
 お前の顔を直接見ることができなくて、視線が窓の外や自分の足元ばかりをうろうろと迷う。肩を掴んでいた手を離し、代わりに自分で両手を握った。左手の冷たさがじわじわと右の手のひらに伝播して、お前に触れた温かさをあっという間に遠ざけてゆく。

 ふと、冷たくなり始めた俺の手に、綺麗な手が重ねられる。
 ハッとして顔を上げると、息を呑むほど近くにお前の瞳があった。咄嗟に退くも、狭いゴンドラの中ではすぐ壁に背中がつく。俺が動いた拍子に座席が大きく揺れて、お前が俺の膝の上に乗っかってきた。

「ぇ、うわっ……! っと、大丈夫?」

 反射的にお前の身体を受け止めて、その顔を覗き込む。バランスを崩したらしいお前がもう一度まっすぐに俺を見て、そのどこか不満げな瞳にどきりとする。すらりとした白い指先が頬に垂れた髪を耳にかけて、それから、俺の方へと伸ばされて――

――っん、ぅ……っ⁉︎」

 焦点が定まらなくなるくらい、お前の顔がすぐ鼻先にある。
 半ば強引に重ねられた唇の感触は、さっき触れた時よりもぎゅっと少し固く強張っていた。甘い匂いでいっぱいに満たされて、肌の触れ合う部分が熱くて、それ以外に何も考えられなくなる。
 視界の外で綺麗な手が動いて、俺の首元に添えられる。手探りでその手を重ねると、お前は薄らと目を開けて、ゆっくり顔を離した。どうしても、その口元に視線が落ちる。柔らかくて、甘くて、俺のものであるその唇に。しかし、今は不満げにへの字で結ばれていた。

 やがて、お前は平べったい目で俺を見上げたまま、ぽつりとつぶやく。

……えっ?」

 ――トキシンがはじめてだよ。

 小さな唇がそう動くのを見届けて、お前の声を口の中で噛み砕く。トキシンがはじめて、ということは――俺が、お前にとってはじめてキスした相手という意味だろうか?

「い……いや。ごめん、ちょっと待って。……えっ? どういうこと? 俺がはじめて、って……え?」

 再び混乱した思考がまとまらない。お前は俺を呆れた様子で見上げ、小さくため息を吐いた。それから、やっぱり忘れてるんだ、と続ける。

「忘れて、る……? ご、ごめん。それ、どういう意味?」

 お前は平べったい半目のまま、前にもトキシンにキスされたよ、と繰り返した。クリムゾンガードから庇って大怪我しながら帰ってきた日のことと続いた言葉に、ようやくその日の光景が脳裏に蘇る。背中に負った怪我を癒すために、お前の血を飲んだ俺は、その後クオリアで封じ込められていた記憶の大部分を思い出して――それで、お前の秘密を思い出して、お前との運命を確信して――

――あっ」

 確かにその時、お前の唇にキスをした。
 ……ような、気がする。

 一度思い出すと、曖昧だった記憶が鮮やかに蘇ってくる。確かにそうだった、と、俺は指先で自分の口元をなぞった。いつもは無愛想なお前に自分から「血を吸ってもいい」と許されたことや、ずっとわからなかったお前の大事な秘密を思い出して、普段とは比べられないほど気分が高揚していた。それで……あの時、俺は勢いでお前の唇に……

……え、あ、うわ……! ほ、本当だ……! 俺、お前にキスしてる!」

 そうだよ、と冷たい声が視界の低いところから聞こえてくる。
 つまり、と、改めて頭の中で状況を整理する。俺はずいぶん前にお前とキスしていて、お前がはじめてキスをした相手は俺で、だからこの数分間の俺は一方的な勘違いで空回りしていた、ということで。

「う、うわ〜……! は、恥ずかしい……! 俺、勝手に落ち込んで最悪だ……!」

 叶うなら今すぐ穴を掘って埋まりたい。思わず頭を抱えて項垂れると、視界の外で、お前が軽やかに笑う気配がした。笑われて当然だろう。せっかくのデートで、それも最高の思い出にすると決めた日だったのに。
 それでも。今は、情けないとわかっていても安堵が勝った。

 恐るおそる顔を上げる。お前は相変わらず呆れたような表情を浮かべていたが、ゆるく細めた目尻は優しい。

……うん、落ち着いたよ。かっこ悪いところ見せてごめん。その……嫌いにならないでくれる?」

 手を取って訊ねると、お前は浅く頷いた。今さらこんなことで幻滅しない、なんて続いた言葉には引っかかるところもあるけれど、俺を見つめるお前の瞳の柔らかさに、ひどく安心した。

「ふふっ……でも、本当によかった。お前は、俺の運命の人だから……お前の全部、俺のものであって欲しいんだ。だから……うん。この綺麗な手も、唇も全部、もう俺以外の男に触れさせたらだめだよ。……わかった?」

 左手で綺麗な手を包んで、右手で柔らかい頬を撫でる。笑顔を浮かべていたお前はわかりやすく顔を赤くして、目を丸く見開いた。ゴンドラはかなり下降して、夕陽が差し込んでくる角度でもない。だから、この赤色はお前の心の表れだ。
 手のひらから伝わってくる体温に、また胸が高鳴る。このままもう一度触れたい――そう思ったところで、ゴンドラが大きく揺れる。

……あ。そっか、もう降りる頃か。なんだかあっという間だったな……

 窓の外に地面が近づいてくる。降り口の近くにスタッフが立っていて、順番にゴンドラの鍵を開けている姿が見えた。あと二、三個先でこのゴンドラも交代の番だろう。
 大人しく座席に座り直して待つ間、お前は繋いだ手を離さなかった。

 やがて、ゴンドラの鍵が開かれる。俺が先に降りて繋いだ手を引くと、お前は足元を確認しながら続いてきた。

「ねえ。家に帰るまで、この手、繋いだままがいいな。……だめかな?」

 そう訊ねると、お前は繋いだ手を握り返して頷いた。俺から逃げていかないその信頼に、またぎゅっと胸が締め付けられる。
 少し歩いてゆくと、周囲の人通りは少なくなった。繋いだ手をほんの少し引き寄せると、お前は疑う素振りなく隣を歩く距離を近付ける。今だと思い、俺は少し前から胸に秘めていたお願いを口にした。

……あの、さ。家に帰ったら、やり直させてほしいんだ。その……お前とした、最初のキス」

 さっきは、お前の答えを待つより先にゴンドラを降りてしまった。でも今は、俺たちを急かすものは何もない。お前も逃げ場のないことを察してか、繋いだ手を僅かに強張らせた。
 言葉にならない曖昧な相槌がいくつか口の端から溢れて、それから、俯きがちに頷く。髪の隙間から見える耳は薄らと赤くなっていた。

「ふふっ、ありがとう。じゃあ……ほら、早く帰ろう?」

 はじめてのキスは最高の場所で、とびきりロマンチックに――とは、いかなかったかもしれないけれど。あの日のことも、今夜のことも、きっと俺たちの中で永遠になる。そんな予感に胸を高鳴らせながら、俺は繋いだ手をそっと握り返した。