黒竹
2026-04-15 20:43:44
20498文字
Public 魔法少女ノ魔女裁判
 

その手を離さないで

【レイヒロ】

 幕が下りてもなお、鳴り止まない拍手が舞台裏まで地響きのように伝わっていた。トリプルカーテンコールがいるかな、と誰かが冗談のように言う。レイアとしては悪くないと思ったけれど、演出家がスタッフに退場のアナウンスを流すよう促したので実現しなかった。
「出たかった?」
 ほんの少し残念そうな顔をしてしまったのを、共演者の一人に見つかって声をかけられる。小さく肩をすくめ、ごまかすように笑ってみせた。
「お客さんが喜んでくれるなら、それもいいかと思ったんですけどね」
 長丁場の舞台、それも激しい殺陣のあるアクション物だったので、役者たちはみんな疲労困憊だ。演出家はきっと彼らを休ませるために、無闇に板の上に戻そうとしなかったのだ。もっと観客に注目されたかったなんて本音を言えるはずがない。うまくごまかせたのか、共演者もまあね、と軽く頷き返すだけだった。
「お疲れ様、レイア! 今日の殺陣、今までで一番キレが良かったんじゃないか?」
「相変わらず見事な騎士っぷりだったな。気品があるというか……前は芝居にも少し生意気な調子が出ていたが、なんだか急に大人びたみたいだ」
 レイアを見つけて駆け寄ってきた共演者やスタッフに悠然と微笑みを返し、衣装のマントを外す。十五歳の少女にしてはかなりの長身で、それに見合った長い手足と恵まれた容姿を持つレイアに、誰もが好意的な目を向ける。それはいくつかは魔法の残滓だったかもしれないし、レイア自身の様々な努力のおかげかもしれないし、純粋な評価であるかもしれない。どれでも良かった。
 大判のマントを衣装スタッフに預ける。大きすぎて更衣室で着替える前に外す手筈になっているのだった。「いつもありがとう」マントが手を離れる瞬間、唇を寄せてそっと囁く。相手の頬が微かに紅潮したのを確かめて、レイアは内心で満足感を覚える。
「こちらに? ああ、ありがとうございます」
 背後から聞こえてきた声に思わず背筋が伸びる。慌てて楽屋の時計を見上げた。しまった、約束の時間がもう来ている。彼女が来る前に汗を流して舞台用のメイクを落として、きちんと改めて整えるつもりだったのに。
 振り返ると、中背の身体に清潔感のある制服を纏い、背中まで覆う長い黒髪をなびかせながら視線を彷徨わせている友人の姿があった。
「ヒロくん!」
「ん? そこにいたのか」
「ごめん、まだ着替えていなくて……ウィッグのままだしメイクも濃いから見つけられなかったかな」
 言いながらちょっと落ち込むレイアだった。彼女が自分を【見つけてくれない】のは、悲しい。
 スタッフに案内されてやってきた二階堂ヒロは、「すまない、人が多くて」少し驚いたような表情で謝罪してくる。演劇に詳しくないヒロは、舞台上で見ていた印象よりずっと人数が多くて戸惑っているようだった。
「それに君も、すごい汗だ」
「うう……ライトがけっこう熱いんだ。あの……あまり私に近づかないほうが……
 せっかくヒロが忙しい合間を縫って観に来てくれたのに。学校が終わってすぐに来てくれたようで、制服のままだし、あまり長い時間を過ごせるわけでもない。だからその分、いつもみたいに完璧な美しい自分で出迎えたかった。それなのにこの体たらくだ。スタッフに愛想を振りまいている場合ではなかった。そうだ、トリプルアンコールをしようかなんて冗談が出るほど舞台は盛況で、いつもより幕が上がっている時間が長かった。そのことを計算に入れなかった己のミスだ。
 伝えたところで、ヒロには「それは君がうっかりしていただけだろう」と正論を返されるのがオチで、ますます落ち込むことになるに決まっている。
「ヒロくん、すまないが少しだけ待っていてくれないか。すぐに準備をしてくるから」
「ああ、構わないが、外に出ていたほうがいいんじゃないか? 部外者がここにいては邪魔だろう」
「い、いや! その、今は外はちょっと」
「蓮見のファンが出待ちしてるんで、お友達もここにいたほうがいいですよ。トラブルになるかもしれないし」
 言いあぐねているレイアを見かねてか、二人の会話を耳に挟んだ共演者がヒロにアドバイスしてきた。ヒロはきょとんとしていたが、やがて納得したように頷く。レイアとしては自分から言い出すには微妙な話題だったので助かったが、それはそれとして、ヒロにそういう状況を知られるのがやや気まずい。
 そうなのだ、毎回毎回、一部の熱狂的なファンが舞台終了後にレイアと接触を図ろうと待ち構えているので、帰りはいつも厳戒態勢なのである。本当なら今日だって、ヒロと軽くお茶でも、なんて誘いたいのに、ひと気がなくなるまで待たないといけないせいでそれも叶わない。せいぜいが、こんなふうに終演後の楽屋裏で立ち話をするくらいしかできないのだった。
 ヒロは感心したように息を吐いてレイアを見上げている。
「本当に人気者なんだな」
「と、とにかく、すぐに戻るから待っていてくれ!」
 言いおいて、大急ぎでメイクを落とし、私服に着替えて身だしなみを整え、ヒロが待っている廊下に戻った。ヒロは今度はすぐに見つけてくれて、お、というように口元をほころばせた。
「いつもの君だな」
「う、うん。おまたせ」
 シャワーを浴びることはできないから、自慢のアッシュブロンドは普段より色が濃い。それが気になったのかヒロが手を伸ばして軽く前髪をつまんできた。ウィッグのせいで癖のついた髪を梳かれて心臓が跳ねる。
 舞台本番後の興奮が冷めやらないせいで頬に赤みが差していてよかった。ヒロはこちらの動揺には気づいていないようで、癖を直すのを諦めてあっさり手を離した。
 まだ撤収作業は続いていて、タッフたちが機材を運ぶ台車の低い音や、遠くで響く怒号に近い指示の声が混じり合い、終演後のバックステージ特有の騒々しさのせいで周囲は騒がしいけれど、会話をするのに困るほどでもない。
 レイアは一歩、吸い寄せられるようにヒロへと距離を詰めた。十代の少女としては完成されすぎたその美貌を、期待に潤ませて覗き込む。
「どうだったかな、今日の私の勇姿は。君の瞳に、私はどう映った?」
 問いかける声は、芝居がかった響きの中に、震えるような切実さを孕んでいた。誰よりも認められたい相手、自分のすべてを肯定してほしい唯一の存在を前にして、レイアの心臓は激しく脈打っている。
 至近距離で見下ろすレイアの瞳には隠しきれない期待が宿っている。しかし、ヒロは一切気圧される様子もなく、深紅の瞳でじっとレイアを見つめ返した。
「ああ……良かった、と思う」
「それだけ?」
 求めていた熱量との温度差に、レイアは思わず声を上げた。称賛の言葉を浴びるのには慣れている。だが、彼女が欲しいのは世界中の拍手ではなく、この少女の心からの感銘なのである。拍子抜けしてしまったレイアを見上げ、ヒロが困ったように眉を歪めた。
「なかなか興味深い題材だったな」
「そうじゃなくて、私の演技はどうだった? 準主役だったんだよ?」
 すげない返答が納得できなくて、レイアは必死に縋りついた。舞台の上で見せていた悠然たる騎士の余裕はどこへやらだ。
 ヒロは自身の内側で何かを探るように、その端正な顎に指を添え、喉の奥でかすかな唸りを漏らす。 
「そうだな……セリフにも感情が込められていたし、殺陣も素晴らしかったと思う。それと、君はやはり舞台映えするんだな、所作のひとつひとつが目を引く」
「そ、そうかい?」
 自分でも単純すぎると思うが、声が弾むのを止められない。しかし、ヒロの追及はそこで終わらなかった。
「ただ、ひとつ言わせてもらうなら」
 急に声のトーンが低くなり、ヒロの人差し指がレイアの胸を捉える。
 レイアの長身をもってしても、至近距離で対峙するヒロの眼光には逃げ場を許さないような鋭い圧がある。射すくめられたレイアがたじろぐ間も与えず、ヒロは静かに、しかし断固とした口調で言葉を継いだ。
「先程のカーテンコール、君は観客に夢中になるあまり、足元のケーブルを蹴りそうになっていただろう。舞台の安全管理を疎かにして、見栄えばかりを優先するのは良くないな。役者である前に、まずは一人の人間として規律を守るべきだ」
「うぐっ」
 そんなところは見なくていい……いや、それも見ていてほしいかもしれない。
 いつだって彼女に見ていてほしい。
 それは紛れもなく本心なのだけれど、困ったことに、それをいくら彼女に伝えたところで、真意が伝わることはないのだ。
 自分だけを見てほしい。その願いが【禁忌】に触れないものなんだと、どうしたら彼女に言えるだろう。



 帽子やサングラスはともかく、付け髭まで出てきたのでさすがに呆れ顔を隠せない。
 両手に掲げたそれらをアピールしながらワクワクしている橘シェリーを半眼で見つめつつ、やや大げさにため息をついてみせた。
「あのね……いくらなんでもそんな変装は必要ないよ。私はテレビにも出ているけれど、別に一歩外に出れば人だかりができるような大物ではない」
「えー? そうなんですか? なんだ、レイアさんって言うほどじゃないんですね」
……少し口を慎んでくれないか」
 慎むかオブラートに包むかしてほしい。唇を尖らせ不満げなシェリーにこちらとしては開いた口が塞がらない気分だ。
 シェリーが持っていた変装道具を横から奪い取り、遠野ハンナが眉をひそめる。
「だから言ったじゃありませんの、そんなの用意しなくていいって」
「いやいや、芸能人のお忍びといったら変装がお約束ですよ。なので、私の秘蔵のコレクションで協力しようとですね」
「何が秘蔵よ。それ、わたくしの誕生日パーティーに使うからって買ったやつじゃねーですのよ」
 誕生日いっしょにいたんだ、と思ったけれど微笑みの口元は動かさなかった。
 ハンナがシェリーのバッグにしまいこんでいる間も周囲が騒がしくなることはなかった。当たり前だ、さすがに出かけるたびに変装なんてしていないし、それで困ったこともない。まあ、見つかったら見つかったで、それも悪くない気がする。
 余計な小道具をしまってから連れ立って歩き出す。目的地は高級住宅街でひっそりと営業されているオーダーメイドの文具店だった。ヒロが資格を取るための勉強を始めたと言っていたので、応援の何かを贈ろうと思ったのだ。彼女の手には、すでに親友との思い出が詰まった万年筆があることは知っている。それを否定したいわけじゃないが、せめて並びたかったのだ、勝手な願いだと分かってはいるけれど。
「私が贈る万年筆が、彼女の綴る未来を一番近くで見守る……それくらい、望んでもいいと思わないかい」
「ユキさんでしたかしら。大魔女とエマさんのこと知っててそれやるの、けっこうな我侭ですわよ」
 手厳しいハンナの忠告には返す言葉もない。彼女たちを騙していた悪い魔女、と切り捨ててしまえば簡単なのだろうが、きっとヒロにとってはそんなに単純な話じゃない。そこに横から割り込もうというのだから、それは確かに我侭以外の何物でもないのだろう。
 ハンナはチャットツールのやり取りを見ていて、バイト先でもうすぐ産休に入る女性に贈るためのレターセットを買いたいからと同行を申し出てきていた。目的の店は昔気質の店主がひとりで店番をしていて、重厚な雰囲気も相まって少女が一人で入るにはなかなかハードルが高い。レイアは仕事関係の付き合いで何度か利用したことがあったから、それを聞いたハンナが飛びついたのだ。シェリーは「私も推理メモを取る時のペンでも買いましょうか」と気安い調子でついてきていた。
 文具店に到着したレイアは二人を従え慣れた様子でドアを開ける。ハンナが一瞬、空気の比重が変わったとでも言いたげに低く唸ったが、慌てて自分の口をふさいでいた。
「そんなに気負うことはないよ。店主だって失礼なことをしなければ気のいい人だ。ただし商品の扱いには気をつけて」
 苦笑しながらハンナに耳打ちをすると、彼女は急な接近に驚いたのか軽く飛び上がって頬を染め、レイアを見つけてから強がって「分かってますわよ」と言い返してきた。「ならいいけど」「だ、大丈夫ですから、離れてくださいまし……っ」レイアがかがめていた腰を上げる。ふと視線に気づいてそちらを見やると、わずかに表情を薄めているシェリーと目が合った。
「ああ、シェリーくんも気をつけて。ガラスペンなんかもあるし、万が一壊してしまったら、たぶん君たちの財布では足りないからね」
「その場合はレイアさんの財布につけてもらうので心配ありませんね」
「どうしてそうなるんだ……
 危うい気配をまったく勘違いしたレイアと噛み合わない会話をしつつ、シェリーはレターセットを探しているハンナの隣に行ってしまった。首を傾げならも、まあいいかとレイアは店主に万年筆の相談に向かう。
 重厚なオーク材のカウンターに並べられた万年筆の中から、レイアはヒロの凛とした佇まいにふさわしい、深い濃紺の一本を選び抜いた。光の加減で星屑のように微かな輝きを放つその軸には、職人の手によって彼女の名前の刻印が精密に施される。
 一方、ハンナは溜息が出るほど高価な手漉きのレターセットを、財布の中身と相談しながら血を吐くほどの覚悟で購入し、シェリーは結局「あ、これ、有名なミステリー小説のトリックに使われた凶器と同じ装飾ですよ」などと物騒な理由で真鍮製のペーパーナイフを選んでいた。探偵が凶器を欲しがってどうするのだろう。
「ふむ。良い買い物をした。私の審美眼に狂いはなかったようだね」
 満足げに包みを抱えたレイアが、店を出てすぐの角にあるテラス付きのカフェを指差した。瀟洒しょうしゃな住宅の並ぶ一角においてもひときわ洗練された佇まいをした、隠れ家的なカフェだった。
「二人とも歩き回って疲れていないかな。付き合ってくれたお礼にお茶でもどうだい?」
 ハンナがレイアの指先を追ってカフェを眺め、その目を猫みたいに丸くさせていった。興味を惹かれたことがありありと伝わって来て、レイアが思わず口元を緩める。
 こっそりと隣のシェリーの裾を引き、耳を寄せさせるハンナ。こういうのは聞こえないふりをするものなんだろうけれど、できるのは【ふり】だけであって、仕事柄耳の良さには自信のあるレイアにははっきりと二人の会話が聞こえてしまう。
「あの、シェリーさん……この前読んだ漫画で、ああいうお店が出てきて……
「入ってみたいですか? 私は構いませんよ」
……パンケーキ、半分こしていい……?」
「もちろんです」
 なんとも微笑ましいやり取りだった。本当に少女漫画みたいだ。きっとハンナには憧れのシチュエーションがあるんだろう。シェリーも快く引き受けていて、実に仲睦まじい。
 薄いもやみたいなものが胸に広がるのを自覚する。レイアはそれをため息で吐き出した。
「じゃあ行こうか」
 レイアは優雅な足取りで店へ入り、椅子を引かれるままに腰を下ろした。だが、メニューを開いたハンナの顔が、見る間に青ざめていく。
「コ、コーヒーだけでわたくしのバイト代、一時間以上が吹っ飛びますわ……!」
「いや、気にしなくていいよ。私が奢るから」
「だそうです。ハンナさん、遠慮なく高いやつお願いしましょう!」
「君は少し黙っててくれないかな?」
 まあ遠慮されなくても困りはしない。レイアとしてはこの価格帯の店に慣れているし、むしろ会食などで付き合わされる店に比べたら良心的とさえ言えた。
 店内は静かで、邪魔にならない程度の音量でクラシック音楽が流されている。革張りのメニュー表も色褪せや染みなどなく清潔に管理されていた。これで味も良かったら完璧だ。ヒロも気に入ってくれるんじゃないだろうか。今度、どうにかして時間を作って誘ってみようか。それとも勉強の邪魔をするなと怒られてしまうかな。
 考え事をしている間も、目の前の二人は揃ってメニューを覗き込んでいる。「シェリーさん、これどんなのか分かります……?」「これは私の推理によると……」小声でなにやら話し込んでいるが、注文が決まる気配がない。
 しばらく見物していたレイアだったけれど、ようやく二人がどうして注文を決められないのかに気づいた。
「ああ、もしかして写真がないからどんなものなのか分からないのかな。良ければ教えてあげよう。どれが気になっているんだい?」
 親切心で告げたことなのに、レイアの言葉を受けたハンナの首がかっと赤くなる。
「け、結構ですわ! 単純にどれにしようか迷っているだけですからっ。どんな料理か分からねーわけじゃねーですわ!」
「? そうなの? それは失礼。そうだな、コーヒーならこのへんが酸味が少なくて飲みやすいね。紅茶はこのあたりかな。パンケーキはいる? これは生クリームとカスタードをたっぷり使っててボリュームがあるから、君たちでシェアするならちょうどいいんじゃないかな」
 メニューを指し示しながらひとつずつ勧めていくと、ハンナは食い入るようにメニュー名を見つめながらふんふんと頷き、それから背もたれに深く戻ってふんぞり返った。
「ま、まあ? レイアさんがせっかく勧めてくださったんですから、それにしましょうか。ね、シェリーさん?」
「ハンナさんが食べたいものでいいですよ」
 異論はないようだったので、レイアが店員を呼んで三人分をまとめて注文する。ハンナはメニューに書かれている金額を頭の中で足していって、合計額にめまいを覚えていた。
「あなた、こんなのホイホイ食べに来られますの……?」
「もっと庶民的なカフェにも行くけど、仕事仲間とはこういう感じのところが多いかな」
「はあ……
 なんともはや、別世界の話だと言わんばかりのハンナ。本来であれば一緒にお茶をするどころか、出会うことすらない二人だった。方や、華やかな芸能界で活躍する人気俳優、方や、親の庇護すらまともに受けられず日々の食事にも窮していた少女。価値観が合うわけがない。
「持つものと持たざるものってやつですわね」
 漫画かなにか覚えたのだろう言葉を呟くハンナに、レイアの片眉が軽く上がる。それは確かにレイアも否定しきれないが、言われて嬉しい言葉でもない。
 注文していたものが到着して、そこで一旦会話が途切れる。レイアは自分用に頼んだ紅茶を口に含み、鼻を抜ける香りの良さに満足そうに頷いた。いやな渋みもなく、香りも馥郁ふくいくとしていて後味も良い。たまたま目について入ったカフェだったけれど大当たりだった。
「ハンナさん、苺どうぞ」
「え、でも、苺はひとつしか乗ってませんわ。あなたも半分食べなさいな」
「せっかく丸ごと乗ってるんですから、半分にしたらもったいないですよ。私はいいですから、このままがぶっといっちゃってください」
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……
 シェアしているパンケーキを前に、それより甘いかもしれないやり取りが繰り広げられている。シェリーが切り分けてあげたり、ハンナはハンナでシェリーの頬に飛んだクリームを拭ってあげたりしていて、こちらは無糖の紅茶しか口にしていないはずなのに胸焼けがしそう。
「レイアさん、そういえば今度は有名な演出家の舞台に出るんでしょう?」
 パンケーキをもぐもぐしながら言われて、レイアは「うん?」と軽く相槌を打った。
「ああ、よく知っているね。オーディションに受かってね。役名付きとはいえメインじゃないからみんなには言わなかったけど」
「ココさんが騒いでましたわよ。なんでも伝統のある有名作らしいじゃねーですの。その見た目でお金持ちで有名人なんて、とんでもねーですわね、あなた。なんでも持ってて羨ましいですわ」
 さっきのもやがまた生まれてくる。胸の中に広がっていくそれを深い呼吸で制御しようと軽く目を伏せる。
……そうでもないさ」
「どこがですのよ」
「本当だよ。君だって、私にないものを持ってるじゃないか」
 レイアの低い言葉にハンナは訝しげに眉をひそめるばかりだった。そんなものがどこにあるんだ、と本気で不思議がっている顔だった。
 ああ。記憶の中にしかない、経験していない過去の景色を思い出す。
 本当に、分からないものなんだな。持っている側は。
 遠野ハンナがいともたやすく手に入れたそれは、きっと彼女自身はどれだけ貴重かなんて分かっちゃいなくて、けれどそれを持たざるものがいくら訴えたところで届かないんだろう。あの時の自分がそうだったように。命を奪われるしかなかったように。
 だからといって、彼女を傷つけたいなんて思わないけれど……
「シェリーくん、そのお皿のベリーソースをつけるとさっぱりしておいしいよ」
「そうなんですか? どれどれ、はい、どうぞ」
「あなたが食べなさいよ……んん、ほんとですわ、うめーですわよこれ」
 シェリーのフォークに刺さったパンケーキを頬張ったハンナが目を輝かせる。その平和な光景を眺めながら、レイアは口の端からため息が洩れるのを止められなかった。
 きっと彼女は彼女を裏切らない。
 きっとずっと、そうなんだろう。
 なんでも持ってる蓮見レイアは一番ほしいものだけなくて、それを与えてほしいと思う相手は、きっとそれだけあげられない。



 ハンナたちとの穏やかな時間は、嵐の前の静けさだったのかもしれない。
 一大チャンスのはずだった。ミーハーなココが騒ぐほどの有名作への出演はレイアにとって魅力的な出来事だった。それこそ、もしかしたらこちらをちっとも見てくれない人が、自分を見てくれるようになるんじゃないか、なんて。
 その期待がいかに浅ましいものだったか思い知らされるまでに、大した時間は必要じゃなかった。新たに決まった舞台の現場は、これまでの『若手人気俳優』としての甘えが一切通用しない過酷な戦場だった。
……蓮見、止まれ。今の動き、何だ?」
 演出家の低く冷徹な声が、広い稽古場に響き渡る。レイアは数センチの狂いもなく、指定の位置でピタリと動きを止めていたはずだった。だが、演出家の老練な瞳は、彼女の表面的な完璧さを許さない。
「形はいい。見栄えも素晴らしい。だが、中身が空っぽだ。君はなにを演じているつもりなんだ? ただ観客に美しく見られたいだけの、自意識に塗り固められた目立ちたがりやの性根が隠せてないよ」
 なにひとつ言い返せない。当たり前だ、それこそが蓮見レイアが舞台に立つ理由なんだから。これまではうまく隠せていた。魔法の力もあったけれど、それ以上に努力していたという自負があるし、どの舞台にも真剣に取り組んでいたと胸を張って言える。だけれど、【性根】と言われてしまえば、そこをごまかすことはできない。
「すみません。もう一度お願いします」
 震える声を抑え、レイアは再び定位置につく。だが、動けば動くほど、自分の所作が白々しく感じられた。
「だめだ、身が入ってないよ。オーディションの時はもっと動けてたと思うんだけどな……
 演出家の訝しげな声にレイアは頭を下げるしかない。
「ちょっとそこの君、代わってあげて。蓮見は下がって見てなさい」
……はい」
 別の役者がレイアの立ち位置につく。板を下ろされるのは最大の屈辱だ。レイアは奥歯が割れそうなほど食いしばりながら稽古場の隅に下がり、代役が生き生きと演じている姿を眺めた。
 身が入っていない。我ながら理由が明確すぎて嫌になる。
 鞄の奥、丁寧に梱包されたままの小さな箱。あの文具店で、ヒロのために選び抜いた深い濃紺の万年筆。それをまだ、渡せていないのだった。稽古が始まって以来、レイアのスケジュールは稽古で丸一日埋まることが珍しくなく、学校に顔を出すことすらままならない。ヒロに連絡を入れようにも、先日エマに勉強を教えなければならないと伝えられたせいもあり、画面を見つめるだけで指が止まる。あちらはあちらで忙しいようだし、こちらもただ渡すだけじゃなくて、きちんと場を設けて特別感を出したい。
 いっそ稽古を抜け出してヒロに会いに行きたいとまで思うが、他ならぬヒロに言われた言葉を思い出して踏みとどまる。役者である前に、まずは一人の人間として規律を守るべきだ。
 約束も果たせず、ただ品物だけを抱え込み、稽古場と仕事場を往復するだけの自分。今の私は、ヒロの瞳にどう映るだろう。きっと、一人の人間として「正しくない」と断じられるに違いない。
……情けないな」
 休憩に入った稽古場の隅で、レイアは長身を丸めるようにして床に座り込み、乾いた笑いを洩らした。
 手持ち無沙汰になったせいかいつもより飲み物の消費ペースが早く、気づけばペットボトルが空になっていた。新しいものを買ってこようと、財布を取り出すためにバッグを開ける。
「ん?」
 バッグに入れておいたスマートフォンが点滅しているのに気づいた。なにかメッセージが届いているようだ。返信できるか分からないが、とりあえず内容だけ確認しようと画面をつけてみる。
「えっ、あっ、ヒロくん!?」
 聞こえるわけもないのに思わず声が出てしまった。思いがけない相手からのメッセージにスマートフォンを取り落としそうになる。
 届いたメッセージをじっくり読んでみれば、ここ数日エマと自宅で勉強をしていたが、今日は親の知り合いが来るせいで騒がしくなりそうという話だった。そこでレイアの家に二人で訪れてもいいかという確認をしてきている。いつもお茶会をするときには自宅を提供しているので、その延長みたいなことだろう。
 夜でも構わなければ、と手短に返信し、帰宅時間を伝える。ちょうどヒロもスマートフォンを手元に置いていたようですぐに返信が届いた。それから何往復か繰り返し、約束を取り付ける。
 思ってもいないタイミングで会えることになってしまって気が逸った。エマも一緒だし、目的は単に集中できる場所がほしいというだけだったが、こういう時にヒロが自分を頼ってくれたのが嬉しい。
 稽古での調子を取り戻せるほどではないにせよ、やや調子が上向いたレイアは、地道な反復練習をこなし、本読みを手伝ってもらったりしながらその日の稽古を終え、食事の誘いもすべて断ってまっすぐに帰宅する。
 いそいそと出迎えの準備を整えて、息抜きのためのお茶とお菓子を用意してヒロたちを待ち構えた。約束の時間になり、二人が玄関先でインターフォンを鳴らす。
「いらっしゃい! ヒロくんもエマくんも久しぶりだね」
 弾む声を抑えきれないままに二人を歓迎すると、友人たちはやや呆れた様子で頷いてきた。
「こんばんは、レイアちゃん。急にお邪魔してごめんね」
「いいんだよエマくん。うちは部屋も空いているし、好きなように使ってくれて構わないよ」
「すまないな。しかし、次の試験はエマの進級がかかっている。どうしても落とすわけにはいかないんだ」
「うう、ごめんね、ボクが不甲斐ないばかりに……
 エマはかなり無理をして今の学校に入ったという話だった。ヒロも日常的にフォローしているようだが、いかんせん、試験は本人の努力次第だ。根を詰めないとどうしようもない状況もある。レイアは穏やかに頷いて、構わないさ、と二人をいざなった。
 客間に案内し、飲み物を置いて部屋をあとにする。レイアとしてはもう少し二人と話がしたかったけれど、そんな呑気なことを言っていられる状況でもなさそうだった。邪魔をしないよう、自室に戻って舞台の台本をめくり始める。
 それにしても、これはまたとないチャンスだ。帰り際にでも時間をもらって、ヒロに万年筆を渡そう。別にこれは純粋な応援の気持ちなのだからエマの前でも問題はない。でもできれば二人っきりがいいな。
 扉を閉めて自室に戻ったものの、活字が躍る台本の内容は一向に頭に入ってこなかった。客間の方からは、時折ヒロがエマを諭すような低い声が、微かな生活音に混じって聞こえてくる。
 レイアはデスクの引き出しにそっと手をかけ、そこにある濃紺の万年筆が収まった箱の感触を確かめた。渡すタイミングを計りかねて、指先が落ち着きなく箱の角をなぞる。
 それから一時間ほど経った頃だろうか。控えめなノックの音が静まり返った部屋に響いた。
「レイア、入ってもいいだろうか」
 聞き間違えるはずのない、凛とした声。レイアは弾かれたように立ち上がり、意識して優雅な所作を作りながらドアを開けた。
「ああ、ヒロくん。どうしたんだい? 勉強の方は順調かな」
「すまない、集中しているところを邪魔しただろうか。実は、エマのシャーペンの芯が切れてしまってな。予備も使い果たしたと言うので、もし持っていれば貸してほしいんだが」
 彼女には珍しく遠慮がちな態度だった。エマ自身が訪ねてこなかったのは、それだけ時間が惜しいということだろう。今頃、数式か単語の暗記でもしているだろうか。
「ふむ、そういうことか。もちろんあるよ、予備ならいくらでも。少し待っていてくれないか」
 レイアはデスクの引き出しから文房具のストックを取り出し、芯のケースを手に取った。同じ場所に例の箱が収まっているのが目に入る。つい先ほども指でなぞっていた重厚な包装の。
 心臓が不規則なリズムを刻み始める。今、この瞬間こそが、待ち望んでいた「二人きり」の好機ではないか。
「はい、これを。……それと、ヒロくん。少しだけ、時間をくれないかな」
 芯を手渡す際、レイアはあえて芝居がかった動作で彼女の視線を繋ぎ止めた。魔法がなくてもこれくらいはできる。不思議そうに首を傾げるヒロを部屋の入り口に待たせ、レイアはデスクから例の小箱を取り出す。
「君に、渡したいものがあったんだ。本当はもっと早く、稽古の合間にでも届けるべきだったのだけれど……。私の不徳の致すところで、こんなに遅くなってしまった」
 恭しく差し出された箱を、ヒロは慎重な手つきで受け取った。包みをほどき、中の万年筆が照明の下で星屑のような輝きを放つのを目にした瞬間、彼女の深紅の瞳がわずかに見開かれる。
「これは……万年筆か? ずいぶん、良いもののようだが」
「君が新しい目標のために、血の滲むような努力をしているのは知っている。これは、その戦いに挑む君への、私からのささやかな献身だよ。君が綴る言葉のすべてが、輝かしい勝利へと繋がるようにと願ってね」
 レイアは努めて堂々とした態度で、騎士が忠誠を誓うかのように告げた。「大げさだな」ヒロはレイアお得意の大口上に軽く苦笑を浮かべながら、万年筆の軸に刻まれた自分の名前を見つめ、それからレイアをまっすぐに見上げる。
……君の期待に応えられるよう、規律を持って励むことにしよう。大切に使わせてもらうよ、レイア」
 ヒロの口から出たのは、相変わらず堅苦しい、けれど誠実さに満ちた言葉だった。その言葉が、数日間の焦燥で乾ききっていたレイアの心を、何よりも深く潤していく。
 彼女の手には、まだあの親友との思い出が宿る万年筆があるだろう。けれど、今この瞬間に彼女が受け取ったのは、間違いなくレイアが贈った【今】を共に歩むための一本だった。
──ああ、ヒロくん。私がそれがたまらなく嬉しいんだ。
 これだけだ。それ以上は望むべくもない。
「コーディネーター、だったかな」
「ん? ああ、私の進路か? そうだな、今のところは」
 きみ風に言えば世界の調停者さ。ヒロが冗談じみた口調で言う。彼女が目指しているのは世界に対する正義の執行だった。挑戦しようとしている資格も、そのために必要なものだ。世界中を駆け回り、正義を貫く執行者として。
 それを後押しするということは、蓮見レイアが二階堂ヒロを諦めるということだった。
 元々、手に入るはずもない相手だった。最初から彼女は蓮見レイアを見ていないし、これからも蓮見レイアだけを見ることなんてないんだろう。
 だからつまりこれは、白旗みたいなもので、彼女の正しさに屈服するしかない、蓮見レイアの浅ましい執着だ。
「おっと、引き止めてしまってすまないね。エマくんが待っているだろう? 早く持っていってあげて」
「あ、ああ。……レイア?」
 訝るようにこちらを覗き込んできたヒロを遮るように、彼女の肩を掴んで部屋のドアのほうを向かせる。そのままヒロを部屋の外に押しやると、「なあレイア……」なおも話しかけてこようとしたヒロを無視してドアを閉めた。
 閉じたドアに額を押し付け、深く深く息をつく。
「まったく……情けない」
 蛇口が壊れた水道みたいに、せきを切って溢れ出す涙を拭いもせず、レイアは自嘲たっぷりに呟いた。
 二階堂ヒロは桜羽エマのためにつきっきりで勉強を教えるし、世界を飛び回って正義を貫くし、それが正しいと疑いもしないし、誰もがそれを認めるだろう。
 それなりに人生経験を積んできた自負はあった。芸能界に身を置いているせいもあり、子供時分では経験しないようなことをしたり、見たり、色々としてきた。目的のためならなんでもした。
 なのに、今まで経験したことがない痛みのせいで涙が止まらない。
「あぁ──初恋だったのかなあ」
 全身がきしんでその場にうずくまってしまいそうだった。そうしないのはプライドだけだった。あの万年筆をヒロは大切にしてくれるだろう。世界中に連れて行って、あらゆる場所で彼女の言葉を綴るだろう。それでいい。それで充分だ。
 出会ったときにはもう、彼女には一番大切な相手がいて、絶対に曲げられない信念があった。どうしようもなかった。知っていた、そんなこと、最初から。
 コンコン、と控えめだが芯の通ったノックの音が、静まり返った自室に響く。
「レイア。……芯の礼を言い忘れていた。それと、少し話がある。開けてくれないか」
 ドアの向こうから聞こえるヒロの声に、レイアはびくりと肩を揺らした。
 拭っても拭っても溢れる涙が、端正なラインで削ぎれた頬を伝って床に落ちる。鼻をすする音さえ聞かせたくなくて、レイアは必死に呼吸を整え、精一杯の演技を声に乗せた。
「ああヒロくんかい? あいにくだが、今は取り込み中でね。用件ならそこで聞こうじゃないか。それとも、私のこの美しい顔を見られないとさみしくて仕方ないのかな?」
 いつもの、自信に満ち溢れた芝居がかった口調。だが、その声は微かに震え、鼻声であることを隠しきれていない。
 ドアの向こうでヒロが息を呑む気配がした。
……君、泣いているのか?」
「まさか! この私が? 冗談も休み休み言いたまえ。少し、次の台本の台詞を練習していただけさ。悲劇のヒロインのね。……さあ、エマくんが待っている。戻るんだ」
「嘘をつくな。君との付き合いも長くなってきた。本心かどうかくらい聞き分けられる」
 ずいぶんな傲慢だった。こちらの本心なんて知りもしないくせに。
 ヒロの口調に、いつもの【正しい話】をしようとするときの厳格さが混じる。
「いいから開けるんだ、レイア。目の前の友人が苦しんでいるのを無視して、何が正義だ。そんなのは私の規律に反する」
「くどいよ! 君に……君に何がわかるっていうんだ……!」
 ついに感情が決壊し、レイアは怒鳴るように叫んだ。
 ヒロが目指す正義の後押しをしたのは自分だ。彼女を世界へ送り出すための祝福を贈ったのも自分だ。それが彼女への献身だと信じて。それらは圧倒的に正しい行いだった。けれど、その正しさが自分をどれほど孤独にするか、ヒロにだけは知られたくなかった。
「いいから放っておいてくれ! 私は……一人で平気なんだ。だから……
「良くない。そういうのは、良くないな」
 低い、断固とした声が届く。直後、ガチャリとドアノブが回された。
 レイアは慌てて体重をかけてドアを抑えようとしたが、鍛えられたヒロの踏み込みの方が一瞬早かった。
……っ、開けるなと言っているだろう!」
「問答無用だ!」
 力任せに、だが躊躇なくドアが押し開けられる。
 抵抗しきれずによろめいたレイアの視界に、廊下の照明を背負ったヒロのシルエットが飛び込んできた。絶望的な気分だった。救いなんてない。少なくとも彼女の手に救済の色はなかった。
 泣き腫らした顔と乱れた髪をヒロが見上げてくる。新進気鋭の人気俳優として守り抜いてきた【蓮見レイア】が、無残に剥がれ落ちていた。
 ヒロは立ち尽くすレイアを深紅の瞳でじっと見つめ、一歩、そのパーソナルスペースへと踏み込む。
……ひどい顔だな」
……見ないでくれ」
「おや、君の口からそんな言葉が出るとは意外だな」
 やや皮肉げな笑みを浮かべ、ヒロが肩をすくめる。ああそうだ、彼女はこういう挑発的な態度をよく取る。その姿が好きだった。自信満々に衆目を操り、場を支配して、まるで物語の主人公にでもなったよう。
 蓮見レイアは、二階堂ヒロのそんな姿に憧れたのだ。
「正しい話をしよう、レイア。君が私にくれたこの万年筆には、君の想いがこもっていると言ったな。ならば、それを受け取った私が、贈った本人の涙を無視して勉強に戻れると思うか? そんな道理は、この世のどこにもない」
 その言葉は、レイアが差し出した贈り物と同じように、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも重かった。 完璧に塗り固めたはずの虚飾が、ヒロの断固とした正義によって一枚ずつ剥がされていく。レイアは観念したようにふっと肩の力を抜き、自分よりも頭半分ほど背の低い少女の肩に、熱を持った重い頭を預けた。もう、不格好な芝居を続ける気力はどこにも残っていなかった。
「夢を見るよ」
 掠れた声で、レイアは心におりのように溜まっていた独白を洩らす。
「夢?」
「馬鹿馬鹿しい夢さ。……あの牢屋敷で、私とヒロくんがみんなを殺して回るんだ。みんなが魔女になる前に一人残らず。そして、私とヒロくんだけが、二人で……
 それは血にまみれた、けれどこの上なく静謐で独占的な願望だった。 愛しい相手に見初められて事をなし、世界の終わりの中で二人っきりで最後の時間を過ごす、甘美な夢。誰の邪魔も入らず、彼女が自分だけを見てくれる、地獄の形をした桃源郷だった。
 口にすればするほど、現実の彼女が背負う「正しさ」から遠ざかり、下らなすぎて笑えもしない。高潔な彼女が、あんな凄惨な終わりを救済だと判じるはずがないのだ。だとすれば、それは自分に都合がいいだけの卑怯な幻で、だからきっと、醜い執着が形を変えただけの願望なのだろう。
 まったく、救いようがない。
「なんだ、それは」
 ヒロも笑えなかったようで、一笑に付すどころか唾棄しそうな声で応じてきた。「私がみんなを死なせるような真似をするものか」
「分かっているよ。だから、今のは私の懺悔みたいなものだということだよ」
……なにを言ってるんだ?」
……君は、実に鈍いなあ」
 丁寧にアイロンがかけられた彼女のシャツは少し固い。それがまるで彼女の堅物さを表しているようでおかしかった。
 額を肩に押し付けたまま、レイアはすべての体力を使い果たしたかのように、倦み疲れた細長い息を吐く。
「全部君のせいだ」
「だから、何が言いたい」
「ヒロくんが好きなんだよ」
 一拍の静寂。そこでやっと、ヒロが動揺してくれた。掴まれていた腕に力がこもり、彼女の呼吸がわずかに乱れる。世界の調停者たろうとする少女を揺さぶることができたという事実に、レイアは痛みを伴う小さな達成感を得た。
 沸騰したように耳が熱くて顔を上げられない。ヒロもまた、縋り付いているレイアの額を引き剥がそうとはしなかった。
「君が? 私をか?」
「さっきからそう言ってるじゃないか」
「いや、しかし……
「気にしなくていいよ。君がエマくんを大事に想っているのは知っているし、夢のことだって応援したい。それは本当だよ。本当なんだ」
 「私の勝手な我侭なんだ」好きな人が自分を見てくれないという現実は、もう飽きるほど経験してきた。つらいけれど、どうしたって慣れてしまう。みんなが私を見てくれるのに、私を見てほしい人は私を見てくれない。ずっとそうだった、ずっと。それが一人から二人に増えただけだ。
「ああでも……ほんの少しだけ、気にしてくれたら、うれしいかな」
 この頼りない想いが、君の微かな邪魔者になったらいいだなんて、君は怒るだろうか。
 ぐっと勢いをつけて顔を上げる。うまく笑えていると思う。
「さあ、この話はもうおしまいだ! 急に妙なことを言ってしまって悪かったねヒロくん、心置きなく勉強に戻ってくれたまえ」
「おい、レイア……
「エマくんが待ってるだろう? ほら、早く戻って」
「待てと言っている!」
 肩を掴もうとした手を逆に捕まえられた。両手首を拘束するように強く掴まれ、レイアはそこからなにかがせり上がってくるようで、きつく奥歯を噛みしめる。
「私はまだ返事をしていないじゃないか」
「っ、そんなの、聞かなくたって分かってる。君が一番大事な目を離せない人はエマくんじゃないか」
 最初から、真似事の万年筆なんかで代わりになれるなんて思っていない。皮肉のつもりで渡してみたけれど、それはやっぱり蓮見レイアの意味しかなくて、桜羽エマの意味にも月代ユキの意味にもならなくて、それを言葉にされてしまうのはあんまり悲しいから、もう一刻も早く終わらせたいのに。
「努力する!」
……は?」
 唐突な宣言に思わず間の抜けた声が出てしまった。表情もさぞかし間抜けていただろう。それなのに、こちらを見つめるヒロの双眸は真剣そのものだった。
「そうだ、私はエマに贖罪をしなければならない。一生をかけてだ。エマを守りたいし、エマのためにできることはなんでもする」
「ほら……っ」
「けど!」
 手首を掴む力がさらに強まって、それと呼応するように瞳の光もその彩度を増していった。
 紅い、鮮やかな光がレイアを射す。
「君の手だって離せない」
「なっ」
 ヒロの返答は、あまりにも彼女らしかった。恋の告白に対する答えとしては情緒に欠けるかもしれないが、誠実さだけはこれ以上ないほどに詰まっている。彼女にとって「努力する」とは、生半可な気持ちで口にする言葉ではない。自身の規律にその事実を組み込み、生涯をかけて向き合うという誓いに等しかった。
「ど、努力って、なにをさ……?」
「ああ……そう、だな……
 ヒロはどこか答えにくそうに口ごもり、「君を想うことを、かな……」考え考え、たどたどしく出された答えにレイアの肩が落ちた。
 なんだ。
 なんだ、それは。
「君……それはまるで告白だ」
「そのつもり、だったのだが」
 怒ったようにも見える表情ではあるものの、真意はその正反対だということは明確だった。ヒロが両手の力を少しだけ抜き、上目遣いにレイアを見上げてくる。
「もしかしたら君は知らないかもしれないが、私は、君の顔がかなり好きなんだ。じっと見ていると気恥ずかしくなる程度には」
「そ、そうなの……?」
「ああ、だから、その、前に舞台の招待を受けた時も……君をきちんと見ることができなくてまともな感想を伝えられなかった。すまない」
 そうだ、あの時、彼女は舞台の感想はほとんど言わなかったのに、コードに足を引っ掛けそうになった時の話はやけに具体的に言い連ねていた。あれは、要するに顔を見ていられなくてレイアの足元ばかりに注目していたせいか。
 ヒロはゆっくりと手首の拘束を解くと、レイアの背中に腕を回した。ためらいがちな、けれど確かな重みを持ったその抱擁に、レイアの心臓はさらに激しく跳ねる。
「見ての通り、私はこういう人間だから、君を一番にすることも、君だけを見ていることもできない。ただ、君を想うよ。どこにいても、いつであってもだ」
 ヒロの口から紡がれたのは、甘い愛の囁きとはほど遠い、あまりにもストイックな宣誓だった。それは、等身大の欲望にまみれた俗物の蓮見レイアにとっては、眩しすぎるほどに崇高な愛の言葉だ。形もなく透明で、どこまでも実体が見えなくて、だからこそ、どうしても心の底から信じることができない。彼女はそれができる存在だと知っていてなお。
「そんなの、どうやって証明するっていうんだ」
 縋るような、あるいは突き放すようなレイアの問いに、ヒロはわずかに口角を下げた。
「む……
 正解のない難問を突きつけられたかのように、わずかな迷いがヒロの瞳に一筋走った。彼女は思案するように視線を巡らせ、やがて何かを決心したように、レイアをまっすぐに見つめ返す。
「あー……レイア、少し目を閉じてくれないか」
「目?」
 戸惑いながらも、レイアは言われたとおりに瞼を閉じた。視界が遮られ、窓の外を通る風の音や、自分の心臓の音だけが鋭敏に響き始める。
 不意に、部屋着の襟元をくっと強く引っ張られた。ヒロの指先の感触が首筋に触れ、それに抗う術もなく、レイアの長身がゆっくりと下がる。なにごとかと訝り、思わず目を開けそうになったその瞬間、唇になにか柔らかいものが触れた。
…………
 指先一つ動かせず、思考さえも白く塗りつぶされる。呼吸を忘れて硬直している間に、その柔らかな何かは名残惜しげに離れていき、代わりに鼻先をかすめるほどの間近で、小さな吐息が聞こえた。
……こうしている間は、さすがに君のことしか考えられないが、どうだろうか」
 生真面目な口調が逆におかしみを感じさせて、レイアが思わず笑声を洩らす。
「よく分からなかったな。もう一度してみてくれないか」
「証拠の提示は一度で充分だ」
「そういうところ、本当に融通が利かないな、君は」
 レイアはおかしそうに肩を揺らし、まだ熱の残る唇を指先でそっとなぞった。情熱的な口付けとは程遠い、羽が触れるような短く淡い接触だけのキスだった。けれど、規律を何よりも重んじる二階堂ヒロが、その場の感情に流されるのではなく、ひとつの証明としてそれを選んだという事実がレイアの胸を甘苦しく締め付ける。
 ヒロは唇を引き結び、心なしか頬を強張らせながらも、逸らしようのない視線でレイアを見据えていた。
「不服か? だが、今の私にできる最大限の提示だ。これ以上の【特別】を軽々しく扱うのは、私の流儀に反する」
「いや、構わないよ。これで充分だ」
 レイアは目を細め、愛おしさを隠そうともせずに微笑んだ。
 彼女にとって【特別】がどれほどの重みを持っているか知らないはずがない。それは命と同等だ。特別な相手のために命を投げ出すほどの苛烈さを持つ彼女がそれを提示してくれた。これ以上があるだろうか。
 それは、彼女がこれから救おうとする何千、何万という人々の中から、たった一人の【個】を切り出した証左に他ならない。
 レイアは一歩踏み出し、今度は自分からヒロの額に、慈しむように自分の額を軽く押し当てた。
「ヒロくん。私は君が好きだ」
……さっきも聞いた。証拠は一度でいいと言ったはずだ」
「証拠じゃないよ。儀式さ」
 君を捕まえて離さないための。悪戯に囁いてヒロの腰を抱きくるむ。肩越しに呆れたようなため息が聞こえた。
「そうか。では失敗しないよう気をつけてくれ」
「私にばかり責任を負わせないでくれないかな。ともに力を合わせよう」
「言っただろう。私は最大限の努力をする。あとは君次第だ」
「なら大丈夫じゃないか」
 クスクスと喉を鳴らして笑い合い、レイアはようやく身体をゆっくりと起こした。密着していた体温が離れ、夜の空気が肌を撫でる。
「はー……目が腫れてしまって情けないな。冷やしておかないと明日の稽古に響きそうだ」
 鏡を見なくても分かるほど、瞼は熱く、重い。明日の稽古場で演出家の厳しい眼に晒される自分を想像して、レイアが自嘲気味に呟いた。だがその声に、先ほどまでの悲壮感は微塵もなかった。
「それじゃあ私はそろそろ戻る。さすがにエマが心配してるだろうからな」
「ああ」
 ヒロが踵を返して部屋を出ようとする。華奢な背中、揺れる長い髪。視界から消えようとする彼女の後ろ姿を目にした瞬間、レイアの中にあった抑制の糸が、呆気なくぷつりと切れた。
 背後からその身体を捕まえ、有無を言わさぬ勢いで引き寄せる。驚きに目を見開くヒロの唇を、今度はレイアの方が半ば無理やり奪った。先ほどの羽が触れ合うような淡いそれよりも激しい、いくぶん暴力的な触れ方だった。
 呆然と立ち尽くす彼女の頬を両手で包み込み、レイアはその瞳を真っ正面から見つめてやった。逃げ場を塞ぎ、自分という存在をその脳裏に焼き付けるように。
「愛してるよヒロくん。お願いだから、本当に離さないで」
 溢れ出しそうになるのを堪えていた新しい涙が、再びじわりと浮かんでレイアの瞳を潤ませる。
 それはひどく叙情的で、ありえないほど美しかった。



 客間の机に向かい、複雑な数式が並ぶ応用問題が解けなくてうんうん唸っていると、ようやくヒロが戻ってきた。待ってましたとばかりに、エマはこれ幸いとペンを持ったまま手を上げる。
「あ、ヒロちゃんおかえりなさい。レイアちゃんどうだった? 大丈夫? やっぱり急に押しかけちゃったの迷惑だったかな」
 不安げに尋ねる親友に対し、ヒロの反応はどこか空恐ろしいほどに淡々としていた。
「いや、大丈夫だ。エマが心配するようなことは何もなかった」
「そっか、良かったぁ。それでね、ボク解けない問題があって……ヒロちゃん?」
 ドアを閉めたヒロがこちらを振り返った瞬間、エマは思わず言葉を切った。
「どうしたの、顔真っ赤だよ?」
「なんでもない。さあ、勉強の続きをしよう。今はそれが正しい」
 きっぱりと言い切り、ヒロは機械的な動作で椅子に座る。だが、その指先がわずかに震え、手にした万年筆を握りしめているのを、隣のエマが見逃すはずもなかった。
 どう見てもその状態が正しくなさそうであることは一目瞭然だったが、今のヒロを追求すれば何かが決定的に壊れてしまう予感がして、エマは大人しく口をつぐみ、問題集に視線を落とした。
 当然だが、隣に座る親友から発せられる尋常ではない熱気が気になりすぎて、そこからの勉強はまったく手につかなかった。