kurotera
2026-04-14 07:11:59
14260文字
Public 2025イノブレ本再録
 

To what do you offer your hand Ⅳ:愛執

2025年5月に発行したイノブレIB中心本の再録です。発行から一年になるので掲載。当時手に取っていただいたかた、ありがとうございます。
全部一気に乗せると恐ろしいほど長いので分割にしています。

【概要】
ぼくのかんがえたさいきょうのイノセントブレス本(非公式)
2022年に発行したイノブレ本と話が続いていますが読んで無くても大丈夫です。
要素/注意
九割捏造。好き勝手書いています。
流血描写とある程度のグロテスク描写。
カニバリズム描写あり。
展開の都合上、名前があるモブが出てきます。
時代考証がガバい。
今回はカップリングは想定していませんが、書き手はBL勢(ライ麦、ラビさん関連)。

なんでも許せる方向け。
合い言葉は「ぼくのかんがえたさいきょうのイノセントブレス」
コンセプトは「IBちゃんを曇らせたい」
書き手の趣味が爆発しました。

「〝これは受くべき報いである 火と硫黄の苦しみよ 永遠の滅びよ〟」
 毒が炎となって敵対者を焼き尽くす。断末魔の声をあげながら魔の者が灰燼に帰すのを、柘榴色の瞳が冷たく見据えていた。
 今ので最後の悪魔だったようだ。このあたりを通りがかる旅人たちを襲っていた悪魔は殲滅した。町と町とを繋ぐ道に、いくらかの安全が取り戻されるだろう。
 踵を返す。もうここに用は無かった。

 馬車の窓から吹き込む風に独特の匂いを感じ取り、サマエルは目を開いた。それが潮風の香りであることに気づくのはすぐだった。
「すみませんねえ、いつもの道が崩れて回り道をするはめになって」
……かまわない」
 御者が申し訳なさそうに言えば、サマエルは首を振った。
 任務帰りだからよかったのだ。
 ――サンダルフォンが心配しなければいいが。
 むしろ、心配事といえばそれぐらいで、サマエルは見えてきた海辺の景色をぼんやりと眺め、物思いに耽る時間を楽しんでいた。
「あんた、『教会』の人かい?」
 不意に乗り合わせていた男に声をかけられ、そちらを見やる。にやにやと笑みを浮かべながら男はこちらを見つめていた。どこか品定めをしているかのような目つきは、サマエルを不快にさせたが、それを悟られぬように、頷いた。
「そうだが」
「そうかい。はん、金回りは良くなさそうだな。おまけに、回り道なんざ運が悪い」
……
「まあ、逆に考えればいいのさ。この馬車が向かう港町は、中々良いところだそうだぜ。数年前までは寂れた土地だったてえのに、最近じゃ魚がわんさか獲れるとか。そうして今じゃ一番の港町ってワケよ……不思議だろ? 何か秘密があるに違いねえ……金の匂いがする。商人としてはいてもたってもいられねえよ……おっと、神に仕えるお方は商人が嫌いだったか!」
「別に何も思うところはない」
「へへっ、お慈悲をどうも」
「お客さんがた、もうすぐ着きますよ!」
 御者の声に、再び窓の外を見る。ゆるやかな坂の先に、町と海が見えた。初夏の陽光が白い壁と、穏やかな海を照らしてきらきらと輝いている。
 確かに、活気のある町だ。建物の壁は白で塗られていて、それがこの町の陽気さを醸し出すのに一役買っているように見えた。
 町に入れば、子どもたちがはしゃぎながら駆けている。石畳の道を中心地に向かって歩けば徐々に人の往来が多くなっていく。通りを抜ければ、そこは船着き場だった。
「とっとと運んどくれ! 魚は鮮度が命なんだからね!」
 漁師達たちが荷揚げをしている木箱には溢れんばかりの魚が詰め込まれている。どれも銀色の身体を輝かせていて、素人目に見ても良い魚であることは分かった。
 周囲では、毎日海の荒波に揉まれているのだろう鍛えられた漁師たちが休みなく働いていた。
「あなたが、『教会』の方ですか?」
 荷揚げの光景を眺めていたサマエルに、若者が声をかけてきた。身なりよく着飾った若者が、人の良い笑みを向けている。
「ああ。貴方は?」
「ジャン。漁師たちのまとめ役を網元より仰せつかっています」
 手を差し出され、握手を交わす。この町は豊かで、良いところですので是非お寛ぎくださいと歓待の言葉を述べて、ジャンはそういえばと首を傾げた。
「宿はもうお決まりですか?」
「いや、聖堂に備え付けられた部屋を借りる。誰もいないようだが」
「ええ、数年ほど前までは神父様が赴任されていたのですが」
 そうか、とサマエルが相づちを打ちながら、忙しなく働く漁師達を目で追う。彼らは海上、船の上でも動きやすいような格好をしていた。皆、服に大きな魚の鱗のような装飾を身につけている。陽光を受け、奇妙な輝きで見るたびに色を変えているかに見えるそれを、サマエルは興味深げに見つめた。
「あれはお守りです。荒れ狂う海や、そこに住む魔物から身を守るように、と」
「俺は内陸の生まれで魚に詳しくはないが、綺麗な鱗だ。さぞあの鱗を持つ魚は美しいのだろうな」
「領主の奥方様が目にすれば、喉から手が出るほど欲しがるだろうぜ」
 サマエルとジャンの会話に割って入ってきたのは、馬車で居合わせた商人だった。あの品定めするような目でじろじろと漁師たちや、彼らが撮ってきた魚を観察していて、眼差しは落ち着きがない。
「その方は」
「馬車で乗り合わせた。商人らしい」
「ウーゴと申します。ちょっと網元にお目通り願いたいんですがね」
 商人――ウーゴが手を差し出すも、ジャンはその手を取らず、口元だけの笑みを浮かべて首を横に振った。
「このように水揚げの日なので、網元は忙しく充分なお相手が出来ないかと。またの機会に」
「へへっ、左様ですか。では町を見て回りますかね。いやあ、いいところだ……
 手を引っ込めつつ愛想笑いで肩を揺らしたウーゴが去って行く。その背中を見るジャンの眼差しには侮蔑の影が落ちていた。
「ああいった方が最近多く、困ります。豊かすぎるというのも考えものかもしれません。いや、いけませんね。北方地域はまだ飢えに苦しむ人々もいるというのに、これでは海に愛されていても罰があたってしまいます」
 暫く世間話を交わしてからサマエルはジャンと別れた。教えられた聖堂への道を歩いて行けば、ちょうど太陽が地平線に落ちるさまが見えた。何もかもがオレンジ色に染まっていく。海も、白い町並みも。綺麗だ、と思った。
……あいつが見たら、ここで絵を描き始めるだろうな」
 ぽつりと呟き、そしてゆるく首を振る。
 聖堂は海に面した低い崖の上に、建っていた。

 数年間も放置された聖堂の居住室を軽く片付けた。次の都市へ向かう馬車がやってくるまでの数日を過ごすぐらいならば問題はなさそうだ。シーツは明日の朝のうちに洗って干せば、すぐに乾くだろう。
 干し肉と果物で腹を満たす。静かな夕食を済ませ、一日中馬車に揺られた疲れを感じながらサマエルは窓辺の椅子に腰掛けた。夜のやわらかな海風を頬に感じ、波の音に耳を傾ける。窓の下はすぐに海で、打ち寄せる音と引いていく音がサマエルの眠気を誘った。
 ――ふと、波の音に混じって、すすり泣きの音が聞こえてくる。
……?」
 閉じていた目を開き、サマエルは柘榴色の瞳を彷徨わせた。たしかに、女の泣き声が聞こえるのだ。この建物の中ではなく、窓の外から。
「誰だ?」
「きゃっ……
 椅子から立ち上がり、窓の下を覗き込もうとすれば微かな悲鳴が聞こえ、サマエルは慌てて椅子に座りなおした。暫くの沈黙ののち、口火を切ったのは窓の下にいるらしい女だった。
……どちらさまですか?」
「神に仕えている者だ」
「まあ、新しい神父さま?」
「違う。ここは数年前からずっと無人らしい。俺は宿を借りている巡礼者なだけだ」
 サマエルの返答に、女は小さく息を飲んだようだった。何を言うべきか、迷っているらしい。しかし意を決したのか、女は言葉を続けた。
「ではどうかそのまま……姿を見せられぬままお話をする無礼をお許しください。そしてどうか、貴方の主、慈悲ある神の名の下に、私のお話を聞いていただけませんでしょうか?」
 女の懇願に、サマエルは目を伏せて思案した。彼女は返答を待っているのか、黙している。
「お前の声がよく聞こえるように、窓を開けておく。俺はそばに椅子を置いて、そこに座ろう。お前が立ち去るまで俺は立ち上がらないし、窓から顔を出さない。……安心しろ」
 サマエルの言葉に女は嘆息し、喜びと感謝をそのままサマエルに告げた。
 そして、女は語り出したのだった。

 思い続けている方がいるのです。
 怪我をしてしまった私の傷を、慰めてくれました。こんな私にも慈しみを向けてくれる優しい心と、春の海風のように涼やかで穏やかなお顔に、私は一瞬で恋をしてしまったのです。
 ただ、私は卑しい身の上。あの方は尊い身分のお方。私もばかではありません。元から実り望めぬ恋だということは、分かっています。せめて私の、夜更けにうねる波のような寂しさと、それでもなお想っていることを知ってもらいたい。恐れ多くも私は、あの方のもとを尋ねて思いを告げました。
 すると、あの方はにっこりと微笑んで、こう言ったのです。

 たしかに僕たちは、神がおさだめになった決まりでは結ばれぬ間柄。
 しかし神もお前の想いと寂しさを一笑に付すほどむごくはあるまいよ。
 お前が私の言うお役目を果たしてくれたならば、それを神がまことの献身であるとお認めになれば、その時にはきっと、君の望みは叶うだろう。

 その言葉を聞いた私の心をなんとあらわせば良いのでしょう。そう、暗い海の底にひとすじの光が差し込んだ時に似たものです。私はその言葉に光を見いだし、彼の言うお役目に身を捧げました。お役目はとても辛いものでした。しかし私には、あの方と結ばれたいという一心しかなかったのです。

「ただ……
 女はそこまで一息に語った後、黙した。サマエルは目を伏せながら、女の言葉を待っている。ざん、と波の音は止むことなく、響いていた。
「随分長い間、そのお役目に身を捧げてまいりました。しかし、神はいっこうに、私に恋の許しをお与えになりません……それがつらくて、月の眼差しが細いうち、神に見られぬよう泣いていたのです」
 女は再び、さめざめと泣き出したようだった。サマエルは、窓の傍で小さく首を傾げ、訊ねた。
「何故、許されないと?」
「だって、あの方がおっしゃるのです」
……
「私、たまらずあの方に一度聞いたのです。いつになれば、神は私の献身をお認めになるのかと。すると彼はあの美しいかんばせに悲しさを満たして言いました。君と結ばれたいのはやまやまなのだが、お前の働きを聞きつけてやってきた欲深き者が多く、それが僕と君とを阻んでいるのだ。そうしてこういった不届き者たちがやってくるのは、神が未だお前をお許しになっていないからだ。もっともっと、お役目に励みなさい。……そう、おっしゃったのです」
…………お前は、どう考えているんだ? お前が好いている相手の考えでなく、お前の心だ。俺は、お前がどう考えているのかを聞きたい」
 サマエルの言葉に女は驚いたように息を飲んだ。
 そしてやはり、しばらく黙したのち。
……身が、張り裂けそうです。もはや神は私をお許しにならないのでは、とも思えてきます。しかしそのような事、あの方にはとても言えません。そんなことを言うのはお前の不信心が強いからだ。そんな体たらくでは、いよいよ僕とお前は結ばれないだろう。そんな事を言われる気がして、ならないのです。……ああ、巡礼者である貴方にこのような事を言ってしまうのも、不信心でしょうか?」
「俺はそうは思わない。誰にだって、苦しみはある。……言うに言えないものを、何か、別の誰かに零してみたい時は誰にだってあるだろう。俺はそれが、不信心であるとは思わない」
 サマエルの言葉に、女は声をあげて泣きじゃくった。この哀れな女が心のうちにため込んでいたものが溢れている。サマエルはふと、そう感じた。
「貴方のようなお優しい方は、はじめてです。貴方がこの教会の神父様であれば、私の苦しみはどれほど和らぐでしょうか……
……もうこんな夜更けだ。波に足をとられないうちに帰るといい」
 そう言えば、女はそれ以上は何も言わなかった。サマエルの言葉に従い、帰ったらしい。穏やかな波の音だけが鳴り止まない。サマエルは、ちらりと地平線を眺めたあと、静かに立ち上がった。

 次の夜も女はやってきた。
「巡礼者様は」
「サマエル」
「サマエル様、素敵なお名前……
……で、なんだ?」
「サマエル様は、恋をしたことはありますか? 胸にもりを貫かれ、そこから熱が広がるような心地を抱いたことは?」
 女がうっとりとした声でサマエルに訊ねれば、若者は首を横に振った。そしてその仕草が、窓の下にいる女に見えないことに気がつき、悟られぬように苦笑した。
「無い。だからお前が抱く苦しみを理解出来ているかと聞かれれば自信が無いな……笑うか?」 
「いいえ、こんなにも私の言葉に耳を傾けてくれる慈悲深い方を、どうして笑えましょうか。ただ、貴方が実りの日をいつまでも待つ苦しみを知らぬのは、一方でしあわせであり、また一方でふしあわせであると、私は言えます。私は、その日を待ち続けるからこそ苦しいのです。胸を貫いた銛が、いつまでも抜けないままに私の心を苛んでいる……これもまた、しあわせであり、ふしあわせなのです」
 女は詩を歌うかのように語った。しかし声を沈ませ、諦められるのならば、どれほど晴れやかでしょうかとも、呟いた。
「諦めたいのか」
 サマエルの問いかけに、女は答えなかった。答えを迷っている。そんな気配が窓の外から感じ取れ、サマエルは小さなため息を吐いた。それは、昨晩から感じていた考えを口にするきっかけになった。
「お前はもう少し、自分の気持ちに素直になるべきだ。お前が好いている奴は、お前の優しさに甘えきっている。何も言わず、従うばかりのお前が、都合がいいんだ。それは本当に優しいと言えるのか? 俺は、腹立たしく思うが」
 サマエルの声色には微かな苛立ちが含まれていた。窓の下にいる女を悲しませている、会ったことのない男に対する怒りだ。
 いっそ不満をぶちまけてやればいい。本気でそう思ったが、女の様子からしてどだい無理であろう。分かってはいるが、言わずにはいられない。サマエルの言葉に女は黙した。長い沈黙が二人の間に流れ、その間にも波の音は絶えない。
 やがて、窓から何かが投げ入れられた。かつん、と硬い音をさせ床に落ちたそれを見れば、魚の鱗が落ちている。船着き場で見た漁師たちが身につけているものと、同じ物のように見えた。
「慈悲深いサマエル様、どうかそのままお聞きください。どうか、この町にいらっしゃる間はそれを肌身離さず持ち歩いてください。それが、貴方を守ります。明日、明後日は日の沈まぬうちに、どうかこの聖堂へとお戻りください。窓を閉め、私のために神にお祈りをしていただけませんか。この哀れな女を赦されよと」
 サマエルの言葉を待たず、女は去ったようだった。サマエルは立ち上がり、投げ入れられた鱗を拾った。それを月の光にかざし見る。不思議な輝きを放つ、美しい鱗にサマエルは思わず、嘆息した。

 朝早くから聖堂の祭壇で祈りを捧げ、それから町へと出た。この豊かな港町の住人は相変わらず朗らかに、繁栄を喜んでいる。
 初夏の陽光は町並みを輝かせ、白い壁は花やリース、陶器製の魚や色ガラスで飾り立てられていた。ふと見上げれば塀の上で猫がうとうとと微睡んでいる。
 ここは飢えや悪魔というものに長らく無縁なのだろうと、理解出来た。
 散歩のていで暫く町をうろついていると、あの商人――ウーゴに出会った。町の朗らかさとは裏腹に、どこか顔色が悪い。居心地悪そうに、周囲をきょろきょろと見渡すさまが不審に思えた。
「どうした?」
「ああ、『教会』の旦那。いやちょっとな、そうだ、今、いいか。あんたになら話してもいいかもしれん」
 声を低くさせたウーゴに連れられる。ぶらぶらと当てもなく歩いたウーゴは人気の少ない水路にかかった橋の上で立ち止まった。
 そしてやはり、きょろきょろとあたりを見渡して、欄干にもたれかかった。
「この町、気味が悪いぜ」
「何かあったのか?」
「歩いていると、誰かに見られている気がするんだ。あたりを見ても誰もいないのが気持ち悪いんだよ。なんだかじっとりとした、嫌な気分だ」
 ウーゴはため息を吐きその頭を分厚い手のひらで撫で、何かを思案する素振りを見せ、再び口を開く。
「たしかに、ここの奴らの暮らしぶりはいい。他の港町や、北方の連中が羨むぐらいにな。だが、俺に言わせりゃ……なにかおかしいぜ」
「おかしい?」
「上手くは言えねえが、嫌な空気だ。俺ぁ、自慢じゃねえがちょっとした修羅場はいくつか越えてきた。その勘がよ、告げているんだ。ここは触れちゃなんねえってな……たしかに、儲けはあるだろうが、きっとろくでもねえやつだ」
 苛立たしげに欄干を指でこつこつと叩きながら、ウーゴは呻いた。綺麗に飾り付けられた白い壁が続く家々を忌ま忌ましげに見つめ、やがて大きなため息を吐いた。
……旦那、俺は明日ここを離れるよ。馬車はあと数日待たなきゃなんねえが、歩きを選ぶ。旦那もそうしたほうがいいぜ」
 言いたいことは言ったと去りゆくウーゴの背中を見送る。
 人目を避けるように路地へと消えていく彼から目を離し、サマエルはしばらく水路を眺め、やがてその場を離れた。

 賑わう市場から果実と水を買ってから、日の暮れないうちに聖堂へと戻った。
 あの苦しみのなかにいる女の言うとおりに窓をぴったりと閉め、カーテンで覆う。蝋燭の灯りだけが部屋の輪郭を浮かばせている。
 ひそやかな闇の中で、サマエルは椅子に座り十字を切った。
 祈る。
 あの哀れな女のくるしみを神が少しでもすくい上げればいいと。
 言うに言えぬ心の内で、孤独なものを抱いている者に安らぎの光が差せばいいと。
 友を思う。サマエルは、祈りの中でひとつ、悔いた。
 何故、あの時に手を差し伸べられなかったのか。
 孤独に沈みゆく彼の手を、握ってやれなかったのか。
 傷つけるのを恐れたのではない。傷つくのを恐れていたのだ。
「主よ、赦されよ」
 小さく呟く。赦されよ。
 この毒に染まった手を、いまいちど、隣人に差し伸べることを赦されよ。

 何事もなく一夜を過ごし、聖堂で朝の祈りを済ませたあとでサマエルは町に出た。
 昨日までと違って、町には奇妙なそわつきがあった。すれ違う人々は落ち着きがなく、通りがかった家の前では昼を預かる女たちが顔を寄せ合い言葉を交わしている。
……流れ着いた……あの……
「なれない……まあ、……だけどね。……気味が……
 彼女は偶然通りがかったサマエルの姿を見るなり、すぐに口を閉ざした。こちらを窺うように視線を寄越し、より一層声を落として話を続けている。昨日までの朗らかだった人々の落差をサマエルは奇妙に思いながら、町の中心部、船着き場へと歩いた。
 異様な空気の理由は、すぐに判明した。漁船が行儀良く並ぶ船着き場に、人だかりが出来ている。初めてこの町に来た日に見たような、大漁を喜ぶような騒がしさではなく、何か不吉なものを人の群れは抱えていた。
「どうした」
「ああ、旅の巡礼者さん。ええと、その……見ないほうが、よろしいかと……
 一人が口ごもるのを無視し、サマエルが人混みをかき分けて群れの中心に進み出る。
――……」 
 そこにはあの不遜な商人のしかばねが横たわっていた。頭のてっぺんからつま先まで濡れていて、恐怖で歪んだ表情は彫刻のように顔に刻まれている。
「サマエル様」
 やってきたサマエルに気づいたジャンが、気遣わしげに声をかけてきた。そして地面に転がっている不幸な商人をちらりと見やり、首を横に振った。
「どうやら昨晩、舟を盗み出して海へと繰り出したみたいです。ただ舟の操り方を知らなかったのでしょう。波に煽られて海へと落ちたのか……あれを見てください」
 苦々しく語りながら、ジャンは彼の腹を指さした。そこには食い破られたような穴があった。そこに詰まっていたはずの臓物は、まるで最初からなかったかのように失せている。
「鮫にでもやられてしまったのでしょうね。欲に目がくらんでしまったか……しかし、我々にも慈悲はあります。共同墓地にて弔わせましょう。ほら、皆もいつまで見ているんだ。早く木の板を! 運び出すんだ!」
……
 ジャンの言葉に漁師たちが木の板を持ってくる。物言わぬ犠牲者の身体をそこに乗せ、運んでいくのを皆が見送った。
 その表情には形容しがたいような、強いて言うならば哀れみ、そういったものが浮かんでいた。
「鮫というのは、人の腹だけを食うのか?」
「いいえ、あいつらは何でも食います。気まぐれに、食べたいところを」
……そうか」
 サマエルのふとした疑問にジャンが答える。その返答に小さく頷き、海へと視線を向けた。明るい青を湛えた穏やかな海は、静かに水面を揺らしている。
 船着き場に満ちた不穏な空気はやがて漁の準備をする漁師の声の慌ただしさに、かき消されていった。


 船着き場の桟橋に立つ男を見つけ、女は姿を現した。もうすぐ月が満ちるので、海もざわめいている。太陽とまではいかないがその光は強く、二人を照らしていた。
「ジャン」
 おずおずと女が男を呼べば、彼――ジャンは彼女に向かって微笑んだ。
 その眼差しを受けただけで、やはり胸を銛で貫かれるような切なさを女は覚えてしまうのだった。
「よく働いてくれたな。きっと神様もお喜びになるだろう。明日、明後日に漁師たちを寄越すから、お前はいつも通り、あいつらを助けてやってくれよ」
 上機嫌なジャンの言葉に、彼女は俯いた。目の前の水面はゆらゆらと揺れて、いっそう女の心を惑わせた。いつもとは違うその様子に、ジャンは怪訝そうな表情をさせて、首を傾げた。
「どうしたんだ。なにかあったのか?」
……ねえ、ジャン。私、もうこんな事をしたくないわ」
「なんだって」
「町に立ち寄った人を餌にして、魚たちの〝卵〟にするだなんて……ジャン、本当に神様はこのような事をお望みなの? 私はたましいの無い人魚だけれど、こんな恐ろしいこと、本当に神様がお望みであるのかを考える頭はあるわ」
 女――人魚は意を決して、思い人に問いかけた。彼に諭され、数年間続けてきたことだったが良心の呵責は確かに彼女の心の中で、泥のように積み重なっていたのだ。
 見て見ぬふりをしてきた罪にいよいよ耐えきれなくなり、彼女は目の前の男の良心を信じ、訊ねたのだった。 
 しかし、人魚の願いも空しくジャンの顔は彼女の言葉を聞くなり、みるみるうちに怒りに歪んだ。ままでも、いつまでこんな事を続ければよいのかと、この人魚が聞いてきたことはあったが、こんなにもはっきりと、己に課せられた働きに疑問を抱きぶつけてきたのは初めてである。驚きと怒りに、ジャンは声を荒げた。
「お前は不信心で、たましいの無い愚かな人魚であるくせに、神に愛された人間に口答えをするのか!? ついこの前までそんな事を一言も言わなかったくせに、いったいどうしたんだ!」
 男の剣幕に、人魚は小さく悲鳴をあげて、細い肩を強ばらせた。怯えきって答えない彼女を睥睨しながらも男は思案し、そしてはっと、目を見開いた。
「まさか、もう一人のやつに会って、ほだされたのか、あばずれめ!」
「ち、違うわ! 私、あの人の姿すら見ていないもの! 私が愛しているのは貴方だけです。でも、私は私のしていることが、本当に恐ろしくて……!」
 恐ろしさに泣き出してしまった人魚の姿に、ジャンは我に返ったようだった。
 頭が血にのぼって暴言を吐き散らした己に拙い、と顔をしかめてすぐに、彼はぎこちない笑みを人魚へと向けた。
 そして目の前で泣きじゃくる彼女に、つとめて優しく語りかけた。
「すまない、酷いことを言ってしまったね。お前の不安はようく分かるさ……でもね、いいかい。神様は見ておられる。お前の行いも、心のうちも、全て見ておられるよ。これ以上、お前が不信心を重ねてしまえば、神様はお怒りになって見捨ててしまうだろう。僕にはそんなこと、耐えられない……だからお願いだ。お前は今までどおりに、僕たちが送り出す〝餌〟を海の魚たちに与えておくれ。それだけで町は豊かになり、いつまでも栄えるんだ。そうすれば、いつかきっとお前の望みは――
「なるほどな」
 ジャンの言葉を遮ったのは女ではなく別の、低い声だった。驚いて二人がそちらを見れば、月夜の中、柘榴のように深く赤い双眸を、マリアヴェールの奥から炯々と輝かせた巡礼者が佇んでいた。
――なんで、ここに」
「夜風に当たりたくなった。海の音を聞いて歩いていれば、ジャン、お前の姿を見かけた。それだけだ」
 声を震わせ聞いてきた若者に、サマエルは淡々と答えた。しかしその瞳には、侮蔑と、怒りがありありと浮かんでいた。
 不遜ともいえる巡礼者の態度にジャンは再び、顔を真っ赤にさせ、しかしどう言い繕えばいいのかも分からず、口をぱくぱくとさせている。
「それで……俺も〝餌〟にするのか?」
 サマエルの問いに、二人の所業が全て詳らかになってしまった事を悟り、ジャンは狼狽した。だがすぐに、身体を突っ伏し、サマエルに平伏したのである。
「お許しください! すべては、すべてはこの人魚に脅されてやってきた事なのです! 町を訪れた旅人を生贄として捧げなければ、この海で漁を出来なくしてやると脅されて……我々もこんな非道な行いなどやりたくなかったのです! どうか、我ら町の者をお赦しになり、この悪魔めを巡礼者様のお力で討ち滅ぼしてください!」
 人魚を指さしつつジャンが叫ぶ。サマエルがちらりと海面を見ればそこには顔を真っ青にさせて男の裏切りを見つめる人魚がいた。おとぎ話で伝え聞く通りの、美しい人魚だ。しかし、どこかやつれ、憂いに心を蝕まれているような表情は彼女の美しさに影を落としている。
 清らかな海面の下に見える彼女の尾ひれは、ぼろぼろに傷ついて見えた。
……さっき、お前は彼女に随分と酷く当たっていたようだが」
「この悪魔が! そうさせているのです! 私を貶めて全ての罪を押しつけようと、邪知を働かせているのです! 信じてください、あの悪魔は魚のひれを持ち、私は貴方と同じ足を持っている。信じるに値するのはどちらであるか、明らかでしょう! あの化け物の言葉を信じる道理が、いったいどこにありましょうか!」
 ジャンは興奮した様子でサマエルに訴えた。よもや人では無い人魚の言い分を、神に仕える巡礼者が聞き入れるなどあるまいと言いたげに、男は口元に引きつった笑みを浮かべている。
 サマエルは冷ややかにジャンを見つめたあと、もう一度人魚を見た。己が想いを向けている男が口にした心無い言葉に打ちひしがれ、涙を流し嘆いている。サマエルは、小さな息を吐いて、続けた。
……だ、そうだ。あんたは今、どう思っている」
「わ、わたし……この人が、好きで……愛していて……
「やめろ、気色の悪い! 魚に好かれて喜ぶ馬鹿がこの世にいるものか! どれだけ純粋ぶっても、お前が犯した罪は無くならないぞ!」
「お前の罪も無くならない」
 サマエルが断じると同時、男の眼前に現れたのは巡礼者の瞳と同じ色の鱗を持つ蛇だった。サマエルの身に巻き付き、男へと牙を剥いている。
 ヒッ、とジャンが声を上げ、その場に尻餅をつく。その醜態を見つめる柘榴色の瞳は、静かな怒りを放っていた。
「待ってください、違うんです、悪魔はこいつです! 僕は……僕は、悪くない!」
…………
「あなたは神に仕える身であるというのに、どうしてこんなにも簡単なことが分からないのですか?どう考えても魚の尾を持つ化け物の方が、悪いでしょう! そう、化け物は神によって罰を与えられ、滅ぼされるべきです、ええ、確かに僕は旅人を捕まえ、生贄に差し出しました。だって、仕方がなかったんです! この町を栄えさせるために、そうしなければならなかった……それに、僕は殺していない、悪くない! この気色の悪い化け物が全て悪いんです、彼女が、悪魔なのです!」
「俺にはお前こそが悪魔に見える。どうにも救えなさそうだ」
「くそッ、分かったぞ。さてはお前も、悪魔の一味なんだな? 信徒を騙る悪魔め、その醜い蛇を操っているのが、何よりの証拠じゃないか……お前が被っている人間の皮の下には、蛇が蠢いているに違いない! 悪魔め、いまに神による罰が下るぞ!」
 ほとんど半狂乱といった様子で、ジャンは叫んだ。目の前のサマエルを指さし、罵り、そして赦しを乞う。
 自分でも何を言っているのか、分かっていない彼の姿を睨み、サマエルは己の中で静かな怒りが渦巻いているのを感じながら、やがて口を開いた。
 黙れ、と。
 その気迫に言葉をなくしたジャンに、赤い蛇は今にも食らいつかんとしている。しかし、サマエルの理性はこの人間の喉元に牙を突き立てることをよしとしなかった。
「俺の蛇がお前の喉を食いちぎらないうちに、失せろ!」
 一喝すると同時、悲鳴をあげながらジャンが逃げ去る。眠りに沈む町へと消えていくのを見届け、サマエルは人魚に向き直った。
……余計なことをした。すまない」
 沈んだ声で謝るサマエルに、人魚は泣きはらした顔を上げた。波の音だけが二人の間を揺蕩っていたが、やがて人魚は静かに首を振った。
……いいのです。いっそ、よかったのです。そうでなければ私は、いつまでも彼の言葉のまま、罪を重ねてしまっていたでしょう。神があなたを遣わしたのは、私をお救いになる為だったのです」
「もう旅人を殺すのはやめろ。悔い改め、在るべき場所で人間に交わらずに、静かに暮らせ。……そうでないと、次こそ神はあんたを罰する為に、俺を遣わすだろう」
「貴方の言葉に従います。たましいの無い私にも、慈しみの手を差し伸べてくださった貴方の言葉に、従います」
 人魚の言葉に、サマエルは僅かに笑みを浮かべた。そしてふと思い出したように懐に手を入れ、彼女が窓から投げ入れたあの美しい鱗を差し出したのだった。
「お前の鱗なのだろう? 町の漁師たちのものは、取り返せそうにないが……
 月の光を受けて輝く己の鱗を、人魚は受け取った。それを大事そうに胸に抱き、サマエルに感謝の眼差しを向ければその尾びれを捩らせた。
 彼女の身体は波間に消えて見えなくなり、サマエルは静かな輝きで輪郭を作っている海原を暫く見つめてから、踵を返した。
 静まりかえった町を抜ける。
 月明かりは白い壁に巡礼者の影を映したが、それを見咎める者は誰も居なかった。

 漁師たちは、それを見て言葉を失った。
 異変を感じてやってきた女たちも、その光景に悲鳴をあげ、神に祈ったのだった。
「こ、これは……
 網元が眼前、停泊している舟と舟の間にひしめきあう魚たちの死骸を凝視し、どういうことかと狼狽した。舟と舟の間だけではない、船着き場の桟橋一帯を魚の死骸が覆い尽くしている。こんなことは町が出来て以来初めてだと老人は震える声で叫んだ。
「ジャン、どういうことだ。〝餌〟はきちんとやったんだろう!?」
……や、やったさ……でも……
「どうした、何があったんだ。お前は海の精霊とやらと話せるとあんなに自慢していたじゃないか。まさか、海の精霊の機嫌を損ねるようなことをしたのか!?」
「ち、違う! 僕は悪くない……ッ、あいつが、あいつが悪い……蛇が……!」
 声を震わせて弁明するジャンに、町の人間はどうなっているのだと疑念の眼差しを向けた。そも、海の精霊とはいったい何なのか、数年前、突如ジャンの口から告げられた存在に対する疑いが、彼らの中で泡のように浮かび上がった。
「本当に海の精霊なのか? こいつ、漁が下手だからって悪魔と契約したんじゃ」
「違う! 僕があいつを使ってやった――!」
「もし、そうなら神がお怒りになったのでは」
「こんなに沢山の魚の死骸、神の怒りとしか思えん」
「違う、違うんだ! 僕はあの女に騙されたんだ!」
「なんてことを……不信心者め!」
「こいつを吊るして神に赦しを乞うべきだ! さもないと町が滅んじまう!」
「海が元通りになるように、罪人をいかだの帆柱に括り付けて、海へと流せ!」
「やめろッお前たちだって町が栄えて喜んでいたじゃないか! 離せ、何をする!」
「いかだを用意しろ、桟橋へこいつをつれていけ!」
 漁師たちの手がジャンの身体を掴む。住民たちの怒りと恐怖に染まった表情を見て、ジャンは慌てふためきながら抵抗したが、漁師たちの手はそれを許さなかった。
「分かった、悔い改める、悔い改めるさ! いやだ、助け、離してくれ、離せって言ってるだろ、なんで僕だけが、いやだ、こんないかだで沖に流されたら――
「主よ、我々を許したまえ」


「お許しください、神様、どうかこのいかだを町に押し戻してください!」
 男は喉が破れんばかりに叫び続けた。一心に神への許しを乞い続けたが、それもむなしく風は筏をぷかぷかと沖合へと運んでいく。
 強い日差しが、若者の肌をじりじりと焼いている。澄み切った青い空を海鳥が鳴きながら飛んでいくのを見て、お前でもいい、僕を帆柱に縛り付けているこの縄を解いてくれと願ってみるが、海鳥は眼下のものに何の興味も示さず、風のゆくまま自由を謳歌していた。
 ――足下の、簡素ないかだを見る。そこにはジャンが漁師たちに渡していた、人魚の鱗が散らばっていた。この罪人を乗せる時に、漁師たちは身につけていたそれを、悪魔の物と忌ま忌ましげに彼に投げつけたのである。燦々たる陽光を受けて、それは目映く輝いていた。
 筏が波に揺られていくうちに太陽は沈んだが、明るい月の光が海の黒々と染まった輪郭を浮かび上がらせた。夜になっていよいよ、男は気が狂った。いつ訪れるかも分からない死への恐怖で、彼の顔はくしゃくしゃに濡れ、真っ青になっていた。
 縄で身体を帆柱に括り付けられ、罪人と筏を波という死神の手が弄んでいる。
 不意に、大きな波が筏を襲った。すべてばらばらになり、帆柱も男をくくりつけたまま、海面を叩いた。逃れることも許されないまま、波間に揺られるたびに男は帆柱とともにくるくると回る。
「だ、だれかっ、これをほどいてくれ! 助けてくれ!」
 海水をたっぷりと飲みながらもジャンは叫んだ。今は海を背にして息が出来ている。しかしそれも時間の問題だ。
 鮫がやってきて、帆柱ごと食いちぎるかもしれない、このままもっと流されて、弱り果てた末に死ぬかもしれない、波の気まぐれが、帆柱をひっくり返し、男の顔を海に押しつけるかもしれない。
 誰もいない海原で、よぎる死の予感に精神を錯乱させながら泣き叫ぶ。
「どうか赦してください!」
 叫んだと同時、ふと縄が緩んだ気がして、ジャンは己の身体を見た。波が奪い取った縄が遠くにある。手足が自由になる、帆柱がゆらゆらと己の傍で浮いている。
 助かった。赦された――
 神の慈悲か、安堵した男の手を、誰かの手が引いた。
 強い力に男は抵抗すら出来ないまま、海中へと引きずり込まれていく。男の声は、泡となって浮かんでは弾け、音にすらならない。
「ああ、神様! 奇跡よ、この日をずっと待っていたの!」
 海の底へと深く深く、二つの影は落ちていく。
 あの美しい鱗たちも、それを追うように闇へと沈む。
 海面には、筏の残骸、帆柱と縄だけが静かに波に揺られていた。