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いしえ
2026-04-12 17:17:28
5074文字
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DC腐/まじコナ腐
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メモ/外在の体感、内在の実感 ―原作とアニメ、県境における救済の表現ニュアンス差異/ミサこめミサ
高明の県境ラストの台詞に凝縮されている、構図、演出、枠組み、台詞ニュアンスなどを総合した、原作とアニメとの救済ニュアンス差異について。
隻眼が明確に県境より前に置かれているところに、こめにおけるミサとの出逢いという救済、世界の転換をメチャメチャ確認されているのが最高だしデッッカいなと思います。
劇場版シリーズ/原作+アニメ、とではそれぞれ多少のパラレルワールドではあるのですが、隻眼を踏まえるならば、という視点を含みます。
・隻眼の話を含む。
・由敢の名が少し出る箇所がある(こめは由敢の強火ガーディアンであるという認識)。
以下、1~3に分けて、ざっくばらんにですがまとめています。
1.
まず本題の前に、隻眼と県境とを絡めての話、箇条書き。
・隻眼は、時系列的には県境より前に設けられている(大和警部の名を出された時の小五郎の反応からの判断)。これは、県境を経て、高明の内に、弟の生死について心境の変化があったためではないか。
隻眼では、展開上、高明が弟の死をほぼ確定事項に等しい妥当性のものと判断している必要があった。もしも、制作側が『県境を経た時系列ではこれが難しくなる』と判断したのであれば、県境が高明にもたらした救いがウルトラ巨大すぎてマジ泣ける。県境~~~~マジ救い
……
制作陣もそれをわかってらっしゃるのよね
………
・高明って由敢の幸せ絶対護るガーディアン強火なのマジいいよね。隻眼でもそこが輝いてる
……
由敢強火のこめ、ほんと泣かせるきみはミサと幸せで居てね
……
弟の死はほぼ確信している(もちろん、同じ理知性から、だからといってそれが確定事項と決めつけない側面も有しているが)のに、10ヶ月前に行方不明になったかんちゃんについては生きてると思ったのって、由を置いてかんちゃんが居なくなるとは思ってなかったんじゃないかと思うんですが、こめにおいて、弟が誰かのために生き抜くとしたらそれが自分であるという発想がまるでなくて、そこが高明らしくて泣かせるし、こめが県境で"ミッちゃん"と逢ったとき、『弟はこの幼馴染みの一人である山村ミサオのためにも生き抜いているのではないか』、とこめが思った部分もあるのかなぁ。
こめって、かんちゃんが由を置いていくことをぜったいゆるさないというか、認めなくて。それは、幼馴染み二人の幸を祈る気持ちによって。そんなこめだからこそ、ミサオの存在がデッッッッッカいのマジいいですよねぇ!!!!
2.
次いで、本題である救済ニュアンス差異について。ここにおいては、隻眼を切り離し、純粋に原作とアニメとの県境のみについて述べます。
県境のラストのこめのセリフ、原作だと"やさしいウソをつく選択をした"という印象の、さらっと軽やかに言ってる感じの印象を受けるんですよね。重さを意図的に除去している状態。
一方でアニメでは、こめにしては珍しく、かなり感情をにじませた声音になっていて。これがマジで好きで。原作の世界観も構図をそのままめっちゃ体現してて大好きだけど、アニメはアニメで、この感情を魅せるための演出がすごく丁寧で。
アニメでは、噛みしめこらえるように言ってるのがすごく印象的ですが、それが、"自身にも落とし込んでいる"のだという印象を与えるように感じます。
しかも、このこらえるというのが、決して自身の内のくるしみをこらえるそれではなく、弟だって生きているのかもしれないという発想を自分が自然抱けたことに対して、どこか他人事じみてさえ驚きつつものすごくすとんと腑に落ちている、その僥倖の色がめちゃめちゃ強いんですよね。良い意味でこめ自身が泣きそうなのをこらえているかんじ。そのダイナミックな世界の転換、変化、転回をかみしめていて、その心境の変化そのものを表現したのが、あの木洩れ日の演出であると感じます。
ミサオにおける悲しみが晴れるのと同じくして、それがこめにおいても光をきざしている
…
両者の相救い合う手の取り合いが、あそこに在るんですよね。
隻眼での描写を別として考えたとき、もともとの原作県境の描写では、かんちゃんを信じたように
…
というか、かんちゃんについて信じなかったように、こめが弟についても生存を信じたい気持ちが元々幾らかはあったようにも感じました。スマホの届いた意図から察する妥当性を考えたとき、ほぼ無いに等しくても、弟の死を認めたくなかった身内としての情の部分や、妥当性が高くとも推論を確定事項と決めつけるのは危険であるという理知性の側面もあるのかなと、ミサオに向けた言葉のトーンでは感じました。理性と情から、弟が100%亡くなっているとも100%無事とも決めつけていない状態。
原作での印象のやさしいウソというのは、スマホの件については少なくとも今はミサオに隠すつもりである、という点についてであると感じます。100%無事とは言い切れない状況であるという意味でのウソをつくことであって、弟の生存を想定することそのものがこめにおいてのウソということでは決してなくて。自分の信じたい状況についての共有であると感じます。
ミッちゃんヒロちゃんが山であそんでいたあのころ、即ち両親も健在でなにもかもが平穏だったあのころの日常を、こめは、ミサオと出逢いそこに見ているように原作では感じます。ミサオと居ると、ひととき、平穏のあのころに戻れる
――
原作のトーンには、その意での救いであることを感じます。居場所、時間、空間としての救いなんですよね。それがラストの台詞のコマ構図のつくりそのものに体現されているよう感じます。あの木洩れ日なかの笑顔のふたりの構図そのまんまなんですよね。
一方でアニメでは、こめにとっての救済が、こめ自身の内、コアの部分の変化や気付き、というものであると感じます。
原作でこめの得ている救いのニュアンスは、自身とミサオとの両名の居る場、時空そのものに生じる、外在的なもので、平穏だったあのころの日常へのタイムスリップという体感であると感じます。取り巻く外在からこめ自身のほうへと矢印の向いているもの。
アニメでの救いのニュアンスは、こめの内在に生じる、時差での実感であるように思います。それがあたたかい波紋のように、外の世界へと広がるものと感じます。内なる変化が外へと向くかんじ。
原作とアニメとでは、救済の作用の矢印が、内と外とにおいて真逆の方向であると感じます。ですがどちらも、救いの体験なのです。
原作では、木洩れ日のなかの一コマ、という構図がそのまま、救済という居場所、時空を表現しているよう感じます。一方でアニメでは、光のさす瞬間というあのシーン演出が、そのまま、救済の実感が内在的変化を生じさせる、転換の瞬間をそのまま表現しているよう感じます。
原作は救いの時空の体感、アニメでは救いの実感の瞬間。救済体験のニュアンスに、この差異があるように感じます。
いずれにせよ、この県境が明確に隻眼より後に置かれているところに、こめにおけるミサとの出逢いという救済、世界の転換をメチャメチャ念押し確認されているのが本当に最高だなと思います。デッッッッカい
………
幸
………
3.
隻眼の話に戻り、ヒロとこめとのシーンについて。それを踏まえると更に県境デッッカいよねの話。
隻眼内でのヒロの言葉は、こめ本人が『そうであればいいのになあ』と思っている内容で。こめは、ヒロは死んだと考えるのが妥当と、だれよりわかっていて。だからこそ、だからこそ『けれど実はあのスマホは、死を偽装したことを意味するのではないか』と、思い"たい"気持ちもあって。加えて、『全てにおいて、たとえ妥当性の高い推論があっても、それが必ずしも事実とは限らないため、推論を闇雲に信じ込まない必要も、理知性のひとつとしてある』と考えていることも事実であるため、こめは、身内としての感情と、在りたい理知性の一側面の二者から、弟が100%亡くなっているとは思っていないとも思うのです。
隻眼でのヒロとこめとのシーンについては、以下のように感じています。
『こめの内には、弟に生きていてほしいという、個人としての願望もある。けれどこめの理性、理知性、ことさらに刑事として在ろうとする姿勢のひとつが、その願望よりも妥当性の高いと見なす推論があり、こめの生き方としては、身内としての感情よりも、妥当性の高い推論を、可能性としては高いものと判断する。同時に、それがいかに妥当性を高く有しても、必ずしも事実とは限らないともその理知性の一側面から思ってもいる。こめは情熱・情と理知性とを兼ね備えた人物である。あの局面でのヒロとのシーンにおいては、願望よりも、理性がこめを生かしたが、それは、自身が生死の淵で弟をみたことに弟の死を確信するという文脈ではなく、弟の言葉にきちんと矛盾を解したところにある。だからこそこめは、こめがヒロに願うようにこめの生存を願う者たちのために、生き抜くことができた』、というシーンであると感じました。即ち、こめの生存を願う者たちの元へとこめが戻れたのは、こめの有する美点、それによる。同時に、こめは、あのシーンにて、『弟が自分に生きていてほしいと思っている、と自分は思うことができている』と、自らの深層心理、潜在意識を感じ取ったようにも思います。これは、『こめが弟の生存を願うのと等しく、その鏡写しのように弟や両親、仲間もこめ自身の生存を願っていることをこめが感じ取る』ことを意味し、これによりこめは、自身に願いを向けるひとたちを介して、自分の抱く身内への祈りも、あってもいいと思えたんじゃないかなーと感じます。
隻眼のヒロとこめとのシーンの構造により、『ヒロにおいて、こうだったらいいのになあ』が『こめがああならないといいのだが』を現実にしない上で、こめの持つ、情だけでも冷静さだけでもないその併存がとても光り、だからこそ、こめがヒロ(への願い)ゆえに亡くなるような事態を避けられて。赤壁でも垣間見られたような、こめの情熱ゆえの身の危うさから彼をまもるものとしての、理知性の働きが在るんですよね。
だからこそ、なんですが、県境、デッッッッッッッッッッッッカいよね!!!!!!!!!!! 隻眼は原作県境寄りかなと思いますね。
劇場版シリーズと原作とは完全に同じ世界ではないのですが、昨今は共通する部分もありますし、隻眼を踏まえて述べると、という視点からもう少し。
原作県境では、『ヒロがこうだったらいいのになあ』が、たとえシュレディンガーの猫だとしても現実たり得る世界を、こめは、ミサと在る場所に、築いていて。こめは、両親の時と異なり、弟について、死を自身の目で直接確認したわけではない。それを実際に見たという者がたとえそう話そうと、それが真実と確認するすべはない。だから、こめは弟の死を事実と決めつける気はないし、可能性に偏りあれども、生きているともいないとも、どちらとも言える状態であるとも思っている。そして、その開かずの箱を、ミサオと共有することを選んだんじゃないかなと思います。
その箱のなかのヒロの生を身内のように願う幼馴染みと一緒に、ヒロの生を信じ願うことを選択した。つまり、『こめは、ヒロはああである可能性が高いが、こうだったらいいなと思っている。どちらも100%の可能性ではなく、確認するまではどちらでもあると言える。だから、いずれはヒロのスマホについてミサオに明かすかもしれないけれど、少なくとも今は、あのころの長野、あのころの県境の秘密基地のままで居たい。今はその時間の延長線上に空間を置く選択をした、というのが、県境での出来事である』、と受け取りました。
一方でアニメの場合は、隻眼を踏まえるならば、『隻眼で理知によりヒロの死を理解していることを確認しているこめであっても、だからこそその体験を経ていっそう、身内の生を祈り願う気持ちも抱いていていいのだと隻眼にてヒロにも言ってもらえたようで静かにゆるやかに実感の尾をひいていて、そして県境にて、同じ気持ちをもっとおおっぴらにためらいなく出せるミサオと接することで、ああ、やはりそうした気持ちでいてもいいのだと、その祈りについて堂々としていいのだとミサオにも言ってもらえたようですごくうれしくて励まされて救われて、背中を押されて、胸を抱きしめられて、こめはすごくゆるされたようで泣けてきている』というかんじがします。それが、あのこらえた声に出ている、と受け取れます。
ざっくばらんに行き来しましたが、隻眼を踏まえても踏まえなくても県境デッッッッッッッカいし、ビフォア県境に明確に置かれている隻眼に画面外の、そして時間軸上の県境を明瞭に感じるのがメチャメチャメチャメチャでっっっっっっっっっかいな!!!!!!!!!と思いますね。
ミサこめミサは救い~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!ですねぇ!!!!!!!!!!!
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