それは、昼休みのことだった。
志音は、薄暗い影になった廊下の隅に、女子三人がたむろしていることに気づく。それだけなら何も思わないのだが、よく見ると、珠華と、彼女といつも一緒にいるダンス部の二人だ。けれど、談笑している様子ではない。ロングヘアの女子と、ボブヘアの女子が、珠華を壁際に追い詰めて何か言っている。二対一の構図だ。志音は眉をひそめた。曲がり角から少し顔を出して、こっそり様子を伺う。彼女たちは友達同士のはずだ。いつもあの三人で固まっていた記憶があるのに。
助け舟を出したほうがいいだろうか。いや、自分が行ったところで、解決になんてならない。むしろ、悪化するだけだ。話はよく聞こえないけれど、おおかた予想はつく。十中八九、自分に関係することなのだろう。
最近、珠華はあの二人ではなく、自分と一緒にいることが多い。変わり者の一匹狼とつるんでいれば、それは他の二人にとっては気に食わないはずだ。
自分が、他のクラスメイトのように並みの社交性があれば、なんの問題もなかったのに。そう自分を恨めしく思う。あるいは、もう少し早い段階で何かしら対処していれば、と。ここ一週間、あの女子二人の冷たい視線に気づいていないわけではなかったから。もう、このまま一緒にいないほうがいいのではないか、なんて考えもよぎって、何度も珠華を突き放そうと考えた。けれど結局、「私と関わらないほうがいいんじゃない? このままじゃろくな目に遭わないよ」なんて、言えなかった。珠華と一緒に過ごす時間が、確実に自分の学校生活の中で大きな割合を占めていることは否定できなかった。自ら手放すには、そのつながりはあまりに惜しかったのだ。
珠華に何かを言っている女子の顔は醜く歪んでいて、見知らぬふりをして、そそくさと通り過ぎる生徒たちがいる。なんだかその光景に、嫌な既視感を覚えて、思わず志音も目を逸らしてしまう。
今でも、ありありと思い出す。大きな大きな支えが、急になくなったこと。人々がそれらしい情報を鵜呑みにして、あっという間に、悪意に満ちた噂が広がっていったこと。わけもわからず渦中にそのまま巻き込まれて、傷つけられたこと。昨日まで普通に喋っていた子が、急に自分を仲間外れにしたこと。本当に気持ちを向けたかった人に、想いを馳せる余裕もなかったこと。そうして想いを消化できず、今でも燻らせたままなこと。一連の出来事が、今の捻くれた自分をつくり出してしまったこと。
もうそんな経験はこりごりだった。だから、私には、関係ない。そう思いこむ他ない。それに、珠華は他人だ。少し話したことがあるだけで、一つだけ共通点があるだけの。そう思って、志音は回れ右をしようとする。しようとして、やはりできなかった。思い返す。あの日、一人は寂しいよと笑っていたのを。本当は、本当は同盟に入りたかった自分の手を引いてくれたことを。
でも、体は簡単には動いてくれない。きつく握りしめた手は汗ばんでいて、足は棒のようだった。動け、動けと願っているのに。
そして、その呪縛を解いたのは彼らだった。
「お、星野だ。やほー」
そう言って彼らは、廊下をこちらに向かってきてすれ違いざまに手を振ってきた。蛍と琥珀だ。パッと、頭の中の電球が光った気がした。珠華たちには気づかないでそのまま通りすがろうとした二人を、急いで呼び止める。目を丸くした二人に構わず、蛍のシャツの袖を握りしめた。
「おねがい、助けて
……!」
どうか、珠華を。私の、友達を。
「
……?」
志音は件の女子三人を指差した。彼女らを見て、蛍は眉をひそめる。
「三海だよな? どうしたんだ、あれ」
「
……わからない、でも、どうにかしなきゃって。
……多分、私のせいだから」
「自分で、助けにいかないのか?」
蛍は不思議そうに首を傾げた。女子同士の諍いはよくわからないし、そもそも珠華と以前から面識はあっても親密な交流があるわけでもない。
「俺は事情を知ってるわけじゃない。だから、」
そんな急には、と蛍は口ごもった。
「じゃあ、どうしたら
……このまま、見て見ぬふりをした方がいいっていうの
……?」
志音はそのままずるずると座り込んでしまう。袖を握りしめられたままの蛍が、引っ張られてよろける。
「うぉ、落ち着けって」
「僕たちで動画を撮れば、証拠になると思います。あるいは、脅しの材料になるかも」
静かにそう言って、琥珀はスマホを取り出した。おとなしそうで気弱そうな雰囲気とは裏腹に、彼は冷静だ。蛍は志音の肩を叩いた。
「とりあえずお前が行ってこい。もしマジでやばくなったらすぐ行くから、な?」
「
……うん」
*
「最近珠華さあ、付き合い悪いよね」
「えっ」
ちょっと話したいことがある、と言われて廊下に連れ出された矢先のことだ。「いつメン」にそう言われ、珠華はたじろいだ。そういえば、最近彼女たちとあまり遊んでいない、気がする。
「そうそう、あの星野さんと仲良さげだよね」
「っ、志音は関係な__」
そう言いかけて、はたと珠華は気づく。関係なくない。むしろ、直接的な理由だ。
だって、同調以外許されない、空気を敏感に読み取らないといけない、そんな空間よりもずっと、志音たちといる方が楽しかったから。
「ご、ごめん。でも」
言い訳の言葉を必死に紡ごうとすると、遅れて気づく。冷たい真っ黒な目が二組、こちらを見下ろしていることに。失敗してしまったのだ、と悟る。
「なあんだ、残念。せっかく親友ができたと思ったのに。珠華は私たちのこと、そこまで大事じゃなかったんだね」
「私たちといる時よりずっと楽しそうだもん」
ねえ、と彼女は首をもたげて体の重心を変えた。サラサラな黒髪が、肩の上を滑る。
「私たち、友達だよね? 部活も同じなんだよ? また一緒にカフェとかカラオケとか、ライブ行ったりしてくれるよね?」
そう言って彼女は一歩踏み込んだ。珠華は思わず硬直する。
うん、と頷くだけ。今やるべきことは、それだけだ。今まで通り、彼女たちとも仲良くすればいいだけ。でも、珠華は首を縦に振れなかった。
目線を逸らすことができなくて、体も動かなくて、パニックになっていると、第四の少女の腕が珠華と彼女たちの間に伸びた。
志音だ。
「
……!」
けれど、珠華には、自分を庇うその腕が、微かに震えているのがわかった。あの志音でも、怖いことってあるんだ、と漠然とした感想を抱く。
ロングヘアの彼女は、目を細めて乱入者を見る。
「星野さん? どうしたの?」
「
……」
「何か用?」
「
……」
志音は何も言わない。いや、言えないのかもしれない。
痺れを切らした彼女は苛立たしげに言う。
「ねえ星野さん。珠華は私の友達なの。だから関わらないであげて? 珠華もおんなじタイプに見られたら、かわいそうだよ」
志音にしてみれば、向こうから絡んでくるのだが。というツッコミは入れないでおく。代わりに、ようやく出たかすれた声で、つっけんどんに志音は言う。
「
……私が誰と仲良くしようが、あんたには関係ないでしょ」
「普段誰とも絡まないくせに、珠華が優しくしてくれたから、友達できたんだって勘違いしちゃったんだ。だから助けてあげなきゃって? 珠華いい子だもんね、わかるよ」
「そっちこそ、
……そっちこそ、珠華の友達っていうなら、もっと珠華のこと見てあげなよ!!」
彼女の、秘密の一つも知らないくせに!
志音の突然の大声に、ボブヘアの女子がぎょっとする。隣のロングヘアの彼女は、いよいよ感情を隠さなくなっていく。
「根暗が、何生意気言ってるの? ていうか、話しかけてもないのに割り込んできて何様?」
ガンッ、と鈍い音を立てて背中を冷たい壁に押し付けられた。掲示物を留めている画鋲が、背中に食い込んで痛い。
「
……っ」
「あはは、びびってやんの」
けらけらと笑う彼女らに、いつの間にか、影が二つ、迫っていた。男子が
――蛍が、無言で彼女の手首を掴む。
「ひっ?!」
そこで初めて、彼女は蛍と琥珀の存在に気づいた。
「おいおい、俺の仲間に何してんの?」
「だ、誰。女子会に口挟まないでくれる?」
彼女は強がるように笑った。彼女の腕を掴んだまま、蛍は片眉を吊り上げる。
「俺は二年五組、小湊蛍。こっちは__」
「僕の自己紹介は今はいいから」
蛍は琥珀を指差すが、本人が遮る。蛍は軽く肩をすくめた。そして普段の楽しそうなトーンとは想像のつかない圧で、二人組に凄んだ。
「お前たち、次やったら先生に言うからな」
ハッ、とボブヘアの女子はその言葉を笑い飛ばす。
「別に? 好きにすれば。告げ口とか、正義感振りかざして優等生気取り? いい子ぶっててダッサ〜」
「俺はいい子だぞ! 事実!」
「そういう話じゃないでしょ蛍」
ボソ、と呆れげに琥珀が呟いた。
蛍はニヤリと笑う。
「なあ、知ってるか? うちの
――五組の今川先生、めっちゃいじめっ子に厳しいんだぜ。下手したら退学かもな? 何、別に、報告するのが当事者たちの担任じゃなくってもいいだろ」
と、示し合わせたかのように琥珀がスマホを取り出した。
『普段誰とも絡まないくせに、珠華が優しくしてくれたから、友達できたんだって勘違いしちゃったんだ。だから助けてあげなきゃって? 珠華いい子だもんね?』
『根暗が、何生意気言ってるの? ていうか、話しかけてもないのに割り込んできて何様?』
そのビデオが再生が終わると、彼女の顔が青ざめた。
「ちょっと、盗撮? 別に仲良く遊んでただけなんだけど」
「もし、」
珠華が上擦った声で、言葉を絞り出した。五人の視線が、一斉に集まる。
「もし、これから、志音にちょっかい出さないって約束してくれるなら、志音のことを悪くいうのはやめてくれるなら、それは消す。このことは誰にも言わない」
舌打ちが一つ、小さく聞こえた。
「わかったわよ。約束します、これでいい?」
彼女たちは髪をなびかせ、踵を返す。
「
……もういい、珠華なんて」
去っていく二人の背中を目で追って、蛍がぼそりと呟く。
「三海が星野に取られたみたいで悔しかったとか、まあ
……そんな感じか? 女子ってわかんねぇなー」
「三海さん、星野さん、大丈夫ですか?」
琥珀が声をかけるのと同時に、三海はその場にへたり込んだ。足に力が入らない。
これからどうしよう。もう、前のように一緒にいることなんてできない。それに、同じ部活なのに、明日からどんな顔をして行けばいいのか。
うつむいて、乾いた声でつぶやく。
「ねえ志音、人と関わるのは嫌なんじゃなかったの? 三人とも、ばっかみたい
……。たいして付き合いもないのに、わざわざ首突っ込んで来るなんて」
「うん。あんな面倒ごとに巻き込まれるから、人付き合いはめんどくさい」
彼女はそっけなく言い放った。その態度は、相変わらずみたいだ。なら。
「じゃあ、なんで助けてくれたの」
志音はしばらく黙っていた。珠華がもう一度訊こうと口を開きかけた時、ようやく、聞き取れるかどうかの小さな声で、彼女は囁くように呟いた。
「
……同じ思いを、してほしくなかったから」
その背中は、ひどく寂しげに見えた。
志音について、実のところ、珠華はよく知らない。いつか、その痛みを教えてくれる日は来るのだろうか。
珠華は志音と目を合わせた。
「助けてくれて、ありがとう。嬉しかったよ」
志音は青の目を大きく見開く。そしてふいとそっぽを向いてしまった。
「見捨てちゃ行けないと思った。__それだけ」
その言葉で、ああ、この人は優しい人なのだ。と気づく。普段あんなに冷たい態度のくせに。
はーあ、と珠華は大きくため息をついた。それは憂鬱からくるものではない。胸の支えが取れた気がして、スッキリ息が吸えそうだったから。
気分が落ち着いてくると同時に、申し訳なさが生まれてくる。
「
……ごめんね、巻き込んじゃって」
「? なんで謝るんだ? 俺たち仲間だろ」
なんでもないように蛍は言った。
同じ部活でもないし、蛍と琥珀に関して言えば同じクラスでもない。たった一つだけ、大きな共通点があるだけの人たち。それだけで、仲間だなんて、言ってもらえるらしい。
けれど志音が言い返す。
「仲間っていうほどじゃないでしょ、まだ」
ガーン、という効果音が聞こえてきそうな顔で蛍はうなだれた。まだ親密度が足りなかったか
……と呟いている。その様子がなんだかかわいそうに思えてきて、珠華は付け足す。
「知り合いではあるよ、大丈夫!」
「うーん、微妙なランクアップ。
……待って、俺信頼されてないの?」
ショックを受ける蛍に、ぶふ、と琥珀が吹き出した。つられて、珠華も笑い出した。
「あはは、ごめん、冗談だって。ありがとうね、小湊くん」
「ふ、ふふ
……」
少しずつ笑い声は増えて、五人分になる。理由もなくおかしくなってしまって、すべてがどうにでもなりそうで、いっそう止まらなくなる。
良かった、と志音は心の中で噛み締める。
蛍たちがいて、よかった。
もう、あの時とは違うのだと、その温かさに胸がいっぱいになる気がした。
一人は、さみしい。
知っている、それくらい。知っていた。分かっていた。その感情は、見ないふりをしていた。でもそれ以上の何かが、志音の心を覆って剥がれなかったから。
珠華をきっかけに、彼らに混じることになるとは思わなかったけれど、もしかしたら、その偶然に感謝するべきなのかもしれない。
こんな自分でも、許されるだろうか。孤独を自ら選んで人と交わることをやめていた自分が、もう一度誰かと繋がることを。
願ってもいいだろうか。どうせ所詮人間は人間なのだと諦めていた自分が、もう一度居場所を手に入れることを。
あまやどり同盟に加われば、雨の紡ぎ人だという母の知らない一面を知ることができるかもしれないという思いも、もちろん嘘ではない。
けれど、何よりこの人たちなら、殻に閉じこもっていた自分を受け入れてくれるかもしれない。何かが、変わるかもしれない。そんな希望を抱かせてくれたから、見てみたいと思ってしまった。
本当は心のどこかで願っていた、こんなふうに自分が誰かと一緒に笑いあう光景を。
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