kurotera
2026-04-12 08:59:04
25159文字
Public 2025イノブレ本再録
 

To what do you offer your hand Ⅲ:祝福

2025年5月に発行したイノブレIB中心本の再録です。発行から一年になるので掲載。当時手に取っていただいたかた、ありがとうございます。
全部一気に乗せると恐ろしいほど長いので分割にしています。

【概要】
ぼくのかんがえたさいきょうのイノセントブレス本(非公式)
2022年に発行したイノブレ本と話が続いていますが読んで無くても大丈夫です。
要素/注意
九割捏造。好き勝手書いています。
流血描写とある程度のグロテスク描写。
カニバリズム描写あり。
展開の都合上、名前があるモブが出てきます。
時代考証がガバい。
今回はカップリングは想定していませんが、書き手はBL勢(ライ麦、ラビさん関連)。

なんでも許せる方向け。
合い言葉は「ぼくのかんがえたさいきょうのイノセントブレス」
コンセプトは「IBちゃんを曇らせたい」
書き手の趣味が爆発しました。

 ほら、――。ビスキュイをお食べ。
 何か困りごとは無いかい。なんでも言うのだよ、君の言うことは、なんでも聞いてあげよう。どうしてかって? そうしなければならないと、思うからだよ。
 可哀想に、ご両親を……。でも大丈夫だ、何も心配はいらない。君を飢えさせなどしないよ、そんなことをしてしまえば罰が当たる気がするんだ。
 大丈夫、君が悲しまないように――

 あれは、気味が悪いな。
 どうにも自分が自分で無くなってしまう気分だ。
 あの目。あの目だ、あの目がよくない。
 不愉快だよ。前にいた孤児院でもああだったのか?
 あれを私に近寄らせるな。子どもたちにもだ。
 ――早く出て行けばいいのだがな。


 首元でリボンタイを結んでいると、小さな寝癖を見つけた。それを撫でつければふと、琥珀色と目が合った。すぐさま目をそらすと、それも目をそらした。当たり前だ、鏡なのだから。
 壁に掛けていたマリアヴェールを手に取る。その薄い布一枚がハニエルにとっては安寧を司るものだった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 居間に降りればそこにはザドギエルがいた。こんなに朝早く起きている彼を見るのは珍しいと言いたげなハニエルの視線に苦笑いを浮かべ、ザドギエルは手元の紅茶を一口飲み、答えた。
「まだ少し痛くてね、起きてしまったんだ」
 前回の任務で彼が負った傷のことを思い出し、ハニエルは顔を曇らせる。しかしとうのザドギエルは涼しげな顔で、困ったなあと零すだけだ。
「サンダルフォンさんは……?」
「聖堂。朝のお祈りに」
「そう、ですか……
 穏やかな朝とは不釣り合いに憂いの表情を張り付かせているハニエルにザドギエルはそっと目を細めた。この仲間にとって、今の状況はお世辞にも楽観的とは言いがたい。ひどく、不安なのだろう。
「なあ、ハニエル。良い天気だし、散歩にでも行かないか」
「え……?」
「ここ数日、ずっと安静にしていたから、身体が鈍っちゃいそうだ。歩くだけなら大丈夫だろ?」
 ザドギエルが強請り、ハニエルが頷くと彼は嬉しそうに笑う。壁にかけた自分用の鍵を引っつかんで、行こう、とハニエルを促した。

「すみません、ザドギエルさん……
「ハニエルの不安は分かるよ。俺だって……同じだ」
 庭園へと続く道への並木道を歩きながら、ザドギエルとハニエルはぽつぽつと言葉を交わしていた。
 加護の力を失ってしまったサンダルフォンのことを皆が気にかけているということは互いに分かっている。しかしこんな時にどうすればいいのか、分からない。彼に慰めの言葉や態度を向けるのも、何か違うのだと二の足を踏んでいる。
「オレ……皆に助けられてばかりで、……でも、今のサンダルフォンさんに出来る事ってなんだろうって考えても、思い浮かばないんです」
 ハニエルが吐いたため息は、鮮やかな緑の梢から香る爽やかさとは裏腹に重い。
 彼を気晴らしに誘ったザドギエルも、頭の中にある気がかりのせいでその表情に影を落としていた。
……ハニエル、ザドギエル」
 無言で歩いていた二人の背後から、声がかかる。聞き慣れた声にハニエルが振り向けば、そこには自分たちの修道女、シスター・ゴーが立っていた。
「やあ、シスター。おはよう」
「おはよう、ザドギエル。怪我の具合はどう?」
「まあまあだよ。それで、どうしたんだ?」
 先ほどまで二人の間で共有していた暗いものを隠すように、ザドギエルは声を明るくさせた。しかし、シスターもその顔を強ばらせていることに気がつき、ザドギエルは微かに片眉を上げた。
「シスター?」
……ハニエル、詰め所に来てほしいの。伝えることがあるわ」
「? 分かりました……
「シスター、俺も行っても?」
 何かを感じ取ったザドギエルはすかさず割って入り、シスターに問えば彼女は静かに頷いた。
……いいわ、許可します」
「ふざけるな! 俺は反対だ!」
 声を荒げて抗議するザドギエルを、キザキ神父は冷ややかに見つめた。
「この任務、お前たちが拒否する権利は無い。使徒ハニエルの単独任務は、決定事項だ。残るお前たち三人にも遠からず同じような単独任務が与えられるだろう」
「せめて二人だ。俺とハニエルに任務にあたる。それでいいだろ!」
「許可しない」
「シスター!」
……先ほどもお伝えしたとおり、私も反対です。危険すぎます」
 シスターの言葉にも首を横に振り頑なに態度を和らげないキザキ神父にザドギエルは苛立ちのまま悪態をつけば、シスターがたしなめた。一方、ハニエルは突如として言い渡された任務に狼狽しながらその琥珀色の瞳をキザキ神父へと向け、訊ねた。
「あの……任務って、どういう……
「ここから数日ほど離れた山間の村だ。我々『教会』が禁じている品を売る行商人が出入りしているという。君にはそれの調査をしてもらう。無論、その行商人が悪魔であるという可能性は否定しない。……悪魔であるならば、討伐しろ。それが任務だ」
「悪魔……
「君も使徒なら、悪魔の一匹や二匹、屠れるだろう?」
「どうして単独任務なんかをさせたがる。確かに、ハニエルの目は悪魔の弱点を見抜く。だが――
「教皇のご命令だ。使徒ザドギエル、これ以上言わせるな。さもなくば」
「ッ……分かりました!」
 今にも掴みかかりそうなザドギエルと、表情を動かさないままのキザキ神父の間に割って入るようにハニエルが声を上げる。
 これ以上ザドギエルが食ってかかって、罰則を受けることだけは避けねばならない。
「オレ、任務を受けます! もし悪魔がいて、村に害をなしていれば、討伐する。……それでいいんですね?」
「そうだ。それ以上は望まん。明日にでも出立しなさい。こうしている間にも、民に危機は迫っている」
 伝えることは伝えたとキザキ神父は詰め所を出て行く。その背中を睨み付けるザドギエルの青い瞳には、ありありと怒りが浮かんでいた。
「ごめんなさい、ハニエル」
「シスターは何も悪くない! あの石頭め、いつか……!」
「ザドギエル! ……駄目よ。あなたの為にも」
「オレは大丈夫です。……不安だけど、行ってきます。だからザドギエルさんも、もう怒らないでください」
 ハニエルが困ったように笑えば、ザドギエルは憮然とした顔で黙りこくった。キザキ神父が寄越したのだろう地図をシスターがハニエルに渡す。それを眺めたのち、丸めて懐に入れた。

 詰め所を辞した後も、ザドギエルの怒りは完全にはおさまっていないようだった。
「ザドギエルさん……
「分かってるさ、上の決定が覆らないことぐらい……でも、俺は心配なんだ。ハニエル、お前を一人で任務に行かせるだなんて……
「お前たち、どうしたんだ」
 不意に声をかけられ、ハニエルがそちらを向けばそこには、先輩と呼ぶべき使徒、アブディエルが怪訝そうな顔で立っていた。
「あ、アブディエル、さん……
……
 緊張した表情のハニエルと、警戒に満ちた眼差しを向けザドギエルの顔を、アブディエルは交互に眺めた。先日、風の噂で聞いたサンダルフォンの一件とはまた別の問題が彼らに降りかかったのだと確信して、アブディエルはゆっくりと口を開いた。
「言ってみろ」

 ハニエルが事の経緯を語れば、アブディエルはなるほどと頷き、難しい顔をさせた。 
「単独任務、か……いずれはそういった命令を受けるとは思っていたが、お前たちの経験からして時期尚早に思えるな」
「俺たちが決めたんじゃない」
「分かっている。……教皇も何をお考えになっているのか……。しかし、ザドギエル。どうしてお前がそんなにも怒っている?」
「そ、それは……オレとザドギエルさんがよく二人で任務をしているから……オレが戦闘に向いていないって、知っているから、です……
 アブディエルの問いに恥じ入るようにハニエルが答える。
「俺の血は悪魔に対して効果てきめんだが、無限じゃない。ハニエルの眼は悪魔の弱点を見抜く。相性がいいんだ。ハニエルが多少戦闘が苦手でも、問題ない。俺が……悪魔を殺すからな」
「なるほど、合理的ではある」
「で、でも! オレ……!」
 ハニエルが声を上げれば、アブディエルは軽く目を見開いた。俯く後輩をまじまじと見つめれば、ハニエルは唇を震わせ、首を振る。
「オレ、このままじゃ駄目なんです。弱いままだったら……ザドギエルさんやサンダルフォンさん、皆を危険に晒してしまう、から……だから……オレ、一人でも任務が出来るようにならないと……
「ハニエル……
「だから、この任務……受けるべきなんです」
 ハニエルの言葉に、ザドギエルは視線を彷徨わせた。何かを言いかけ、しかし結局曖昧に頷くのみであった。これ以上、変えようのないことに怒りを露わにしても、ハニエルを傷つけてしまう。ようやく怒りを飲み込み黙りこくるザドギエルは目を瞑る。
 アブディエルもハニエルの覚悟を汲み取ったのか、ひとつ頷いた。
「その覚悟があるのなら、行けばいい。お前に神の加護があらんことを」
「は、はいっ。ありがとうございます、アブディエルさん! ザドギエルさん、行きましょう、用意を手伝ってくれませんか?」
「分かった……行こうか」
 礼を伝え去って行く二人の姿を見送るアブディエルに、ラグエルが歩み寄る。小さくなっていく後輩の背中をちらりと見て、仲間に首を傾げた。
「どうしたの?」
「ハニエルが単独任務を命じられたらしい」
「へえ、無事に帰ってこられるといいね」
「それは本人次第だ。一人だろうが、二人だろうが、力の無い者から死んでいく。そういうものだろう、俺たちは」
「まあね。……でもさあ、アブディエル。そう言うわりにはめちゃくちゃ心配ですって顔してる」
「うるさい」
 苦虫を噛みつぶしたようなアブディエルの顔に、ラグエルが笑う。しかしすぐに表情を戻し、何かを思案する素振りを見せたかと思えば、踵を返して歩き出した。
「どこに行く」
「ジェイ神父のとこ。俺にも単独任務が来てるっぽいし、行ってくるよ」
「了解」
 任務の内容も聞かずに了承するアブディエルに、ラグエルが笑みを深めた。こういうところが、寧ろ信頼を置けるのだ。ラグエルは常々、そう思っていた。
 寄宿舎に戻った二人が、既に帰っていた三人に事の顛末を語れば、やはりいの一番に声を上げたのはラジエルだった。
「単独って、そんなのいいのかよ!」
「いいわけないだろ。……シスターもかなり掛け合ってくれたみたいだが」
「ハニエル……
 ハニエルへと眼差しを向けるサンダルフォンの表情には、明日から一人で任務へと赴く仲間を案じるさまが見て取れた。他の三人も同じような思いを抱きながら、ハニエルを見つめている。
 自分に注がれた眼差しに、ハニエルは小さく息を飲んだ。僅かに俯き、膝に置いた手をぐっと握りしめ意を決したように顔を上げ、サンダルフォンをじっと見据えた。
「オレ、大丈夫です。きっとこの任務を乗り越えなければこの先……五人で一緒に戦うことなんて出来ない……そんな気がするんです。だから、行きます。……無事を祈ってくれませんか、サンダルフォンさん」
……そんなの、当たり前じゃないか」
 ハニエルの決意に圧されたように、サンダルフォンが頷く。
 三人ももう、何も言えなかった。
 
 香る薫風に、愛馬の足取りも軽い。
 聖都から旅立って二日経つ。新緑が鮮やかな草原をハニエルは馬で駆けていた。荷は僅かな食料のみ、細身の剣を背に、今のところ旅路は順調だった。
「そろそろ宿に入らないと……
 地平線に沈みかけた太陽を見やり、やや疲れを見せ始めた愛馬の首を撫でる。
 軽くいななき、主人に応えようとする小さな愛馬に大丈夫ですよ、と声をかけた。地図によるとこの先、旅人のための宿場町があるらしい。そこを越えれば山岳地帯にさしかかり、目的の村があるという。
 暫く馬を進めれば、地図通り宿場町の灯りが見えた。日も沈めば危険も増す。そこで宿を確保することにした。

 人気の少ない小さな宿を選んだ。
 とはいえ、他の宿と同じく酒場も兼ねており、先に宿に入っていた旅人が数人、賑わいを見せている。無愛想な宿屋の主人に宿賃とは別に幾ばくかの貨幣を渡せば、好きなところに座りな、とぶっきらぼうに言われ、隅の席へと座った。
 マリアヴェールを深く被り、誰とも目を合わさないように俯きがちに食事を待つ。
 酒場の真ん中を陣取る先客が、酒を酌み交わしながら笑い合っている。旅の疲れをねぎらい、また明日から始まる道のりを相談しているようだった。
 女給仕が食事を持ってくる。パンとスープ、干し肉を炙った簡単なものだ。パンをちぎり、一口食べる。
「あれ、ハニエル君?」
「えっ……
 声をかけられ、振り向けば立っていたのはラグエルだった。挑発的ともとれる赤い瞳を物珍しそうにハニエルに向け、こんなところでどうしたのかと首を傾げている。
 慌ててハニエルが立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。初めての実戦任務でザドギエルと共に教えを受けたのが、彼だ。その時からハニエルは彼が、ほんの少しだけ苦手であった。
「その……任務を命じられて……
「一人で? てっきりザドギエル君と一緒なのかと」
「ひ、一人です……単独任務を、キザキ神父が」
 へえ、そう。ハニエルの返答にラグエルは笑みを深めた。後輩の向かいの席につき、女給仕が持ってきた食事を受け取れば、エールを一口飲んだ。
「じゃあ、今回は誰にも頼れないね」
「うう……はい……
 先輩の言葉にハニエルが呻く。いざ言葉にされると一層不安になり、懐に仕舞ったものを無意識に触れればラグエルはそれを目ざとく見つけ、首を傾げた。
「あ、あの……ザドギエルさんがナイフを貸してくれて……
「へえ、あいつが?」
 ハニエルが銀製のナイフを懐から取り出す。ハニエルの手よりもやや大きめのもので、柄には天使の姿があしらわれていた。本来の持ち主の血液が入ったカートリッジを装填しているらしく、柄の小窓からは赤いそれが揺れているのが見えた。
「なるほどね、奥の手ってわけだ」
 ナイフをくるりと回してからハニエルにそれを返す。それの冷たい感触が手のひらに伝わるのを感じつつ、琥珀色の眼を彷徨わせた。
「本当はザドギエルさんの物です……でも、ザドギエルさんはオレの任務に持って行ってほしいって」
「ふうん……あいつの考えてることなんて分からないけど、自分が生き残る手段の一つを君に貸したってわけ」
……
 ナイフを懐に仕舞ったハニエルがそのまま俯き、黙りこくるのをラグエルは観察するように眺めている。そしてふと、思い至ったように呟いた。
「不思議なんだよね。ハニエルくんがどうして使徒でいるのか」
……どういうことですか?」
 怪訝な顔をさせるハニエルに、だって、とラグエルが笑みを深める。きろりと赤い眼差しを輝かせて、顔を強ばらせている少年をじっと見据えた。
「君、誰にだって愛されるでしょ。その目で――
「この目がなければ!」
 ラグエルが言いかかった言葉にがたりと立ち上がり、叫ぶ。椅子が倒れる音と少年の声に酒場が静まり帰ったが、しかしすぐによくあることと、喧噪が戻ってきた。カウンターで貨幣を数えていた主人も片眉をあげたが、何も咎めてこない。
「この目がなければ……オレは、もっと……

 
 声を震わせるハニエルをラグエルはじっと見つめていた。感情を昂ぶらせた少年の言葉を待っているようにも、寧ろ反対に無関心なようにも見える。
 結局、言葉を続けさせることが出来ずにハニエルはいつものように俯いてしまった。
「す、すみません……こんな……あの、オレ、もう寝ます。おやすみなさい、ラグエルさんに神のご加護がありますように」
 逃げるように立ち去るハニエルの姿を見送る。そして何事もなかったかのようにラグエルは目の前のパンをちぎり、口に放り込んだ。

 朝早くに宿を出た。
 ラグエルには結局会っていない。彼にも任務があるのだろう。
 昨夜のやりとりを頭の隅においやり、ハニエルは愛馬に跨がった。
「行きましょう。早く村に着かないと、です」
 主人の言葉に従うように、愛馬は駆け出す。夜のうちに雨が降ったのだろうか、野に住まう草花は艶やかに濡れていた。

 駆け続け、幾度目かの太陽が沈みだした頃合いで景色が変わった。なだらかな坂道にさしかかって、木々が増えてきている。少しばかり、涼しくなった気もする。
 地図を見ながら慎重に進んでいく。もしかすると明日の明け方には村にたどり着けるかもしれない。どこかで野宿をするよりは、このまま夜通し進んだ方が――
「うわああああああッ」
「ッ……!?」
 男の悲鳴が周囲に響き渡るのを聞くと同時、ハニエルは愛馬から下り、駆けだした。男が腰を抜かし、へたり込んでいる。それを下級悪魔が嘲笑い、彼を害そうとして闇から降り立つのが見えた。
「〝邪な骨を散らせ、骸は捨て置かれ、お前は恥辱を晒すであろう〟!」
 聖句を唱えれば目の奥に熱が灯る。剣を抜き立ち向かってきた少年に、悪魔も気づいたらしい。豚面を忌ま忌ましげに歪め、吼えればその手には炎が揺らめいた。今にも放たれようとするそれにもハニエルは恐れることなく、そのまま悪魔へと斬りかかる。放たれた火を剣で叩き落とし、地を蹴った。
「はああああッ!」
 一閃は僅かに届ききらず、悪魔を両断するには至らないようだった。傷を負わされた悪魔が憤怒に吼え、もう一度火を放つ。魔力で不規則に襲いかかってきたそれが、ハニエルのマリアヴェールを焦がした。
 ――まずい! ――
 火がうつったヴェールを咄嗟に外す。これ以上はさせないと一歩踏み込み、全力で剣を振り下ろした。今度こそ渾身の一撃は悪魔を捉え、その身に灯った黒い火ごと両断し、悪しき者を地面の染みへと変えた。
「はあっ……
「あ、ああ……
 地面の染みを見つめ、ハニエルは肩で息をしていたが男の怯えた声を耳にし、我に返ってそちらに振り向いた。そしてすぐに、己の軽率さを悔やんだのである。
「貴方が私を救ってくださったのですか!? なんと……貴方は神の御遣いに違いありません!」
 自分を救った者の顔を見た男は叫び、少年に縋り頭を垂れる。平伏し祈りを捧げる彼の勢いに、ハニエルの顔がひくりと引きつる。
「いえ、あの……オレは……
「私は近くの村に住んでいる者です。どうかお礼をさせてください! さあ、こちらです。どうか貴方の可愛らしい馬の手綱を引かせてください!」
「お気遣い無く、です! あなたの村に用事があってやってきたので……
「なんということだ! 私は主より貴方を村へと導く使命を仰せつかったのか! さあ、さあ、行きましょう! 皆に知らせなければ……
 興奮した様子で先導する男から目をそらし、地面を見やる。そこには黒く焼け焦げたマリアヴェールが、土に塗れてくしゃくしゃになっていた。拾うことを諦めて、ハニエルはゆっくりと息を吐き、愛馬の手綱を握りしめた。

 村にはすぐについた。入り口では大勢の大人たちが松明を持ってたむろしている。男がおうい、と声をかければこちらに気がついたのか、皆が振り向いたのでハニエルは思わず軽く顔を背けた。
「遅かったじゃないか、トビー。道に迷ったんじゃないかって、皆で探しにいこうとしていたんだぞ」
 男――トビーに声をかけたのは老人であった。村の中心人物たる振る舞いで、落ち着かない様子のトビーを宥め、そのわけを訊ねた。トビーは顔を明るくさせ、入り口で待つハニエルを指さした。
「御遣いさまが来たんだよ! 化け物に襲われていたところを、助けてくだすったんでさぁ! ささ、御遣いさま! そんなところで立っていないで、こちらへ!」
 ――……ヴェールのないまま、人と目を合わせるなんて。
 ひゅ、と喉が引きつる。村人たちはトビーの声に躊躇いを見せるハニエルの様子を怪訝そうに見つめている。ただ、最初にハニエルと目を合わせた男、トビーだけがハニエルを御遣いだと崇めたてている。
……誰だ? ここいらの者じゃなさそうだが、もしかして盗賊……
「いや、それにしては身ぎれいだ。追い剥ぎにあった貴族かもしれん」
「どちらにせよ余所者じゃあないか。どうする?」
「お前たち、なんてことを言うんだ! 御遣いさま、とんだご無礼をいたしまして……大丈夫です、手をひいてさしあげましょう! ああ、なんという光栄!」
 トビーがハニエルの手を強くひけば、されるがままに村人たちの前へと立たされた。
 身を強ばらせ、俯くハニエルの姿を見て、疑念の眼差しを向ける村人を恐れていると思ったのかトビーは大丈夫です、顔を上げてくださいとしきりに促す。
「あ、あの、オレ……
「御遣いさま、どうか顔をおあげください。あなた様のお顔を見れば、きっと彼らの疑念も晴れましょう! さあ、ささ!」
 いよいよ進退窮まり、ハニエルは恐る恐る顔をあげた。強く瞑っていた目をゆっくりと開けば、何人もの人間と、目が合った。その皆がすべて、ハニエルの琥珀色の瞳と目が合った瞬間、ぼうっと呆けた顔をさせる。そしてすぐさま、笑顔を綻ばせた。
 ――主よ、お赦しください!
 ハニエルは胸の内で主に許しを乞うた。己がこの地を離れるまで、彼らはこの魔眼のとりことなる事を悟ったのだ。己の瞳が行使した力が恐ろしく、かたかたと身が震える。この魔眼は、こんなにも強い力を持っていたか。
 呆然と立ち尽くすハニエルを見た村人達はさっと顔を青ざめさせ、華奢な少年に膝をついたのだった。
「おお……、御遣い様……!」
「御遣い様がいらっしゃった! とんだご無礼を!」
「疑念を向けし我らをお赦しください!」
 お赦しください、お赦しください。村の人々が口々にハニエルに赦しを求めている。どうすればいいのか分からず、あの、と震える声しか出せない。もう遅いので、皆さん家に帰っては、と提案しようとハニエルは口を開き。
「何が御遣いだよ。うさんくせえな」
 異様な熱気で少年を歓待する人々に冷や水を浴びせかける声に、我に返ったハニエルがそちらを見る。胡乱なものを見るような眼差しを向ける黒髪の若い男が一人、立っている。しばらくの沈黙ののち、村長が声を上げた。
「テオドール、お前はなんと罰当たりな! 神の御遣いであらせられるぞ!」
「神の御遣い? オレにはそうは見えないがな。ただのちっちぇガキじゃねえか! いったいどうしたってんだよ、皆、おかしいぜ」
 そう嗤う若者はハニエルと同じぐらいの年頃に見えた。切れ長の双眸がハニエルを睨み、見定めている。しっかりと目は合っているのに、他の人々のように魔眼のとりこになっているようには見えなかった。
「あの……あなたは……
「申し訳ございません、御遣い様! テオドールは私の息子です。しっかりと言い聞かせますので、どうかお怒りになりませぬよう……!」
「ち、違うんです……怒ってなんかいません! と、とにかく……オレは巡礼の旅をしているんです。出来ることなら聖堂を宿としてお借りしたいのですが!」
 必死な様子で伝えた言葉に、ざわついていた村人たちが静まりかえる。何も聖堂でなくても、私の家は、いや俺の、と手を上げる村人たちに首を横に振り、ハニエルはぎこちなく微笑んだ。
「神に仕えるものとして、皆さんのお手を煩わせません……なので、聖堂をお借りしてもいいですか?」
「なんと慈悲の深い方……もちろんです。今の聖堂には専属の神父がいませんので、是非お使いください! そうだ、誰かに世話係をさせましょう!」
 村長の提案に、村人がこぞって進み出る。皆、ハニエルの世話をする事は誉れ高きことであると信じているような表情をさせていた。
「どうしてもというなら、テオドールさんがいいです!」
「は? なんでオレが!」
 ハニエルの唐突な名指しにテオドールが目を見開き、苦々しい顔を向ける。誰が好き好んでと背を向け去ろうとすれば、彼の父親でもある村長が確かにと頷いた。
「良い考えです! この不信心者に御遣い様の教えをお与えください! さあ、テオドール。よいな、くれぐれも御遣い様に失礼の無いように」
「ハニエルです。お願いなので、そう呼んでください……!」
「ハニエル様! なんと神聖な響きでしょう! 分かりました、さあ、この馬鹿息子になんなりと、ハニエル様」
……おい、行くぞ、ハニエル」
「様をつけんか!」
「いい、いいですから! 行きましょう、テオドールさん!」
 テオドールに連れられ、村の奥にあるという聖堂へ愛馬を伴い向かう。すっかり夜も更け、あの村人たちから離れればしん、と静寂が二人を迎えた。突如としてやってきた少年の世話をしろと半ば無理矢理仰せつかったのにうんざりとした様子で、テオドールは聖堂の傍ら、神父のために建てられた小屋の扉を開いた。入ってみれば暫く使われていなかったのか、少し埃っぽい。
 ようやく緊張が緩んだハニエルが、安堵の息を漏らしたと同時、その肩をテオドールが引っつかみ、ハニエルを床に押し倒した。
「ッあ……!?」
「親父たちに何をした? 答えろ!」
 ハニエルを床に押しつけ、低い声で問い詰める彼の、切れ長の双眸は疑念と怒りを孕み鋭く輝いている。床で背中を打った痛みに顔をしかめながら、ハニエルは必死に首を横に振った。
「オレ、何も……!」
「嘘をつくな! どう見てもおかしくなってるじゃねえか! 元に戻しやがれ、さもないと……!」
「出来ないんです!」
 ハニエルの叫びに、テオドールは肩を揺らした。琥珀の目からぼろぼろと涙が零れているのを見て、ぎょっとした顔をさせる。ごめんなさい、と赦しを乞う姿に向けていた威勢を削がれ、テオドールは彼の肩を掴んでいた手の力を抜いた。
……ごめんなさい、しばらくここに居させてください……皆さんを傷つけることは決してしませんから……
「その言葉、本当だな? よし、それならオレがお前を見張ってやるよ。もし変な素振りを見せたら……いいな、オレはお前を殺してやる」
 テオドールの言葉にハニエルが頷く。怯えたように身体を震わせる少年の姿に、ばつが悪いと若者は顔を背けた。
「薪をとってくるから、部屋を片付けておけよ」
 翌朝になると、村人たちがこぞって聖堂へとやってきた。
 中には久しぶりに神に祈りを捧げにきたという者もいて、各々の手には籠いっぱいの、神やハニエルへの捧げ物が持たれていた。
「ハニエル様、どうかお祈りをさせてください。皆、貴方さまに神の光を見いだし、祈りを捧げたがっています」
……はい……
 村長に聖堂へと促される。気乗りがしないのを悟られないように顔を強ばらせるハニエルの傍に、テオドールが立った。
「親父、世話役の仕事をとるなよ」
「お前が不甲斐ないのがいかんのだ。ハニエル様のお心を不愉快にさせてはおらぬだろうな?」
「だ、大丈夫です! テオドールさん、とっても優しいですよ……!」
 彼を庇うようなハニエルの言葉に、テオドールは舌打ちをする。とっとと行こうぜ、と客人の背中を軽く叩き、促した。
 皆、熱心に祈っていた。この村に悪魔の影など無いように思えてくるほどだ。
――御身の加護が、皆に等しく吹き渡りますように」
 かくあれかし。ハニエルの声に従うように信徒たちの声が小さな聖堂に響く。
 どうか、お守りくださいと神に祈る。悪魔から、オレの魔眼から、この人たちをお守りください。一心に祈るハニエルの姿に、この方はまさに神の御遣いなのだと、村人たちは酩酊にも似た崇拝を抱かずにはいられないようだった。
「この礼拝堂には曰くがありまして」
 祈りの時間が終わり、皆がそれぞれの仕事に向かった後もハニエルとテオドール、村長は聖堂に残っていた。村長は誇らしげに、この聖堂についての逸話を語り始めた。
「ここから少し離れたところの、小さな塔をご覧になりましたか? あれは昔、聖人様が戦禍と疫病から村を守ってくださるようにと神に祈りを捧げるために作った塔なのです。あの中には小さな部屋があり、聖人様はそこから一歩も出ることなく日夜祈りを捧げたと伝わっています。ゆえに今も、その加護が村を守り、さらにはハニエル様、あなたという御遣い様をここに遣わせた……これが奇跡と言わずなんでありましょうか。どうか末永く、この村に留まってくださいますようお願いしたく……
……あの、オレは……
「ハニエルは巡礼者だ。あんまり無理を言って困らすなよ、親父」
 うんざりとした声でテオドールが釘を刺す。またお前は、と非難し始める父親に肩を竦め、腰掛けていた長椅子から立ち上がった。
「ほら、行くぞハニエル。もう昼だ……薪割りをしねえと」
「は、はい。あの、さようなら、村長さん」
「ハニエル様、よい一日を。テオドールが何か無礼な事を言えばお叱りくだされ」
「は、こんなひょろっちい奴に叱られるもんかよ」
 村長にひらりと手を振り、テオドールが聖堂を出る。
 ハニエルも一礼し、その場を辞した。

「ごめんなさい」
 テオドールの振り下ろす斧が薪を真っ二つに割る。気持ちの良い音が空に吸い込まれていくのに、ハニエルの声は重い。
「なにが?」
 客人が置く薪に斧の刃を叩きつけながら、テオドールは問い返した。日々の労働で慣れているのか、淀みなくそれを割っていく。
「その……
「何に謝ってんのかはっきりさせねえなら、謝るんじゃねえよ」
……テオドールさんは不安ですよね。オレが村にやってきた途端、あなたの家族や村の人たちがおかしくなったから……
「そりゃあな。まあ、元々ここの奴らは馬鹿みたいに素直なんだ。腹立つぐらいにさ……慣れちまったよ」
「慣れた?」
 テオドールの言葉にハニエルが首を傾げる。薪が真っ二つに割れれば、ふう、と青年は息を吐いた。
「半年ぐらい前か……行商人が村にやってきたんだ。あれはここいらの奴じゃねえ、そいつが見たことのない品を持ってきてな。……なんだったか、カイチュウデントウ? 家にあるんだけどさ。手のひらぐらいの筒で、光を閉じ込めておけるんだよ」
 テオドールが語る品物に、ハニエルが目を丸くする。その表情を見て、しまった、とテオドールは顔を顰め、その声を低くした。
「『教会』には内緒にしておいてくれ。その商人が言うには、『教会』が許していないもの、らしい」
「それって……
「どうにもその行商人は、『教会』がお嫌いなようでね。オレたちが見たこともないような品を持ってきては『教会』がいかに民に知恵を与えず、支配しやすいようにしているか、それで民が苦しんでも何も思いやしないかなんて語っていくんだ。一ヶ月に一度は必ず来て、決まってそうする。親父たちも、そいつの言葉にそうかもしれないって思い始めて……だからだよ、久しぶりに祈りに来たって奴がいたのは。そんなオレ達を『教会』が知ったら……
「オレ達、そんなこと……
「どうだかな。あんたには言うが、オレにとっちゃあどっちも胡散臭えよ」
 あきれ顔のテオドールは言葉を続ける。
 その声色には諦めといったものも混じっていた。
「皆自分の頭で考えやしないのさ。むしろオレはおかしい奴扱いだ」
 今し方真っ二つにした薪を拾い上げ、割った薪の山に放り投げる。からん、と軽い音をさせてそれが転がったのを眺めながらハニエルは、テオドールが語った行商人が、キザキ神父が言っていた目標なのだと確信した。
 そして、家族や村人たちに同調も出来ず、どこかひとり孤独な立ち位置にいるテオドールへと憂えた眼差しを向けた。
「でも、テオドールさんはオレのことを信じてくれました」
 ハニエルの言葉にテオドールは憮然とした顔をさせた。言葉を探すように唸り、絞り出すように口を開く。
「勘違いすんな。お前を信じたわけじゃねえ。今だって、おかしいと思ってるんだ……あの行商人に言われて『教会』を悪く言い始めていた親父たちが、お前が来た途端にまるで奇跡みたいだ、神の御遣いだってお前を崇め始めたんだ。どう考えたっておかしいだろ? ……でも、お前が家族や皆を傷つけないって言ったのは、嘘だと思えなかった。そんだけだ」
……」 
「オレはな、村が平和ならいいんだ。皆、悪い奴らじゃねえ。わけの分からねえものに惑わされておかしくなってるのを見るのが……嫌なだけさ。こうして薪を割って、山の獣を狩って、土を耕して……まあ、たまになら神に祈ってやってもいい。そういう暮らしでいいよ。知恵だって無理につけようとは思わんな。あの行商人に言わせりゃ、〝愚者の怠慢〟らしいが」
 ふん、と鼻で笑うテオドールの瞳には、やはりどこか諦観の色が混じっている。それでも家族を、ここに住む人々を見捨てない彼は強いのだ。強いからこそ、孤独を抱いているのだと、ハニエルは小さく息を吐き、そして意を決した。
「テオドールさん、お願いがあります」
「なんだよ、説教か?」
「いいえ、テオドールさんの言っていた行商人さんが来たら、教えていただけませんか? 一度、お話をしたいんです」
……面倒ごとを引き起こす手引きをしろって?」
「そう、なります……
 歯切れが悪いハニエルを切れ長の双眸が見据える。やはり何かを見定めるような青い目はきろりと輝き、そして細められた。
……そりゃ、見物じゃねえか。いいぜ、教えてやる」
 にやりと笑い承諾するテオドールに、ほっと胸を撫でおろす。うららかな日差しの中、愛馬がまぐさを食んでいる。テオドールにも懐いているようだ。旅の疲れを癒やしているのか、ここ数日はのんびりとしていた。

 数日後。
「おい、来たぞ」
 夕刻、テオドールが小屋にやってきた。一瞬、彼が何を指しているのか理解が遅れたが、行商人がやってきたのだとすぐに思い至り、ハニエルは立ち上がった。
「すぐに行きます」
 隊服を纏い、剣を腰に下げる。ヴェールを被ろうと視線をうろつかせ、しかし燃え尽きてしまったことを思い出した。
 村の広場に向かえば、黒い犬を伴った行商人は商いを始めているようだった。恰幅がよく、上質な衣服を身につけ村人たちに商品を見せつけている。
「さあ、さあ、新しい品を持ってきたよ! これは歌をうたう箱だ。オルゴール? そんなちゃちなものじゃない。レコォドというこの円盤をここに――
「おお、ハニエル様、いらしたのですか?」
 商人の品を見ていた村長がやってきたハニエルとテオドールに気がつき声をかける。村人たちも少年たちに気がついたのか、ハニエル様、と口々に挨拶をした。
……その方は?」
 商売の水を差された行商人が、不愉快そうな顔で訊ねれば村長はやや気まずいような顔をさせて、答えた。
「神の御遣い様だよ。村の者を助けて、奇跡を与えに来てくださったんだ」
「神の御遣い様、だと?」
 村長の言葉に行商人は口元を引きつらせ、ぎろりとハニエルを睨み付けた。その顔には明らかな敵意があり、そんな彼に村長は狼狽え、彼を宥めようとした。
「なに、あんたは『教会』が嫌いだというが、彼は本当に素晴らしい御方なんだ。この村にいてくださるだけで、何事からも守ってくれる。だから我々は精一杯の――
「こいつは悪魔だ!」
 商人が忌ま忌ましげにハニエルを指さし叫べば、村人達は驚いてハニエルを見つめた。テオドールも怪訝な顔で、隣の客人を見ている。
「な、なんてことを言うんだ。巡礼者の方だぞ、いくらあんたが『教会』嫌いだからって、そんな……
「いいや、村長さんがた。あんたたちは騙されているよ! こいつは『教会』の巡礼者を騙っている悪魔に違いない。どうして神の御遣いだと言える? なにかこいつが、ありがたい言葉でもあんたらに授けたのか? そうだ、あの目だ。あの気味の悪い目で、あんたらを惑わしているんだ!」
 行商人の言葉は怒りに震えながらも、冷静で知恵の深い人間のそれに思えた。たしかに、と村人たちからぽつぽつと疑念の声があがり、ひとつ、ふたつ、と疑いの眼差しがハニエルに向けられる。
「おい、ハニエル……
……
 ハニエルは反論せず、黙したままだ。それを肯定と捉え始めた者、なおも信じる者と人々は二つに分かたれ始め、ついに一人が声を上げた。
「証明させればいい!」
「それがいい! ハニエル様、どうかあなたが悪魔ではないという証明を!」
「そうしろ、さもないとお前は悪魔だ!」
 罵倒と懇願が村人たちから口々に上がる。その威勢を見て苦虫を噛みつぶしたような顔をさせ、テオドールは心配そうにハニエルを見た。
「分かりました」
 興奮した村人とは打って変わって、ハニエルは冷静だった。もし、彼が悪魔であるならば己の力だけで倒さなければならない。不安はある。しかし、今はそれよりも、隣に立つ青年の心を軽くさせたい。その思いが勝ったのだ。
 行商人を見据える。使徒としての本能は彼が悪魔であることを告げている。琥珀色の瞳、その奥が燃えるように熱いのだ。
「〝邪な骨を散らせ、骸は捨て置かれ、お前は恥辱を晒すであろう〟」
 ハニエルの唇から静かに聖句が紡がれた瞬間、商人の顔にありありと恐怖の色が浮かび上がった。そしてまさに、恥辱を晒すように彼は悪態をまき散らしながら、本性を露わにする。黒い猟犬は狼に変わり、行商人の身体ははち切れ、そこから梟の頭部を持った男――悪魔が生じるのを見て、村人たちは悲鳴を上げた。
「悪魔!」
「逃げろ、殺されるぞ!」
「テオドールさん、皆さんを聖堂へ!」
 ハニエルが剣を抜いて叫べばテオドールはすぐに動いた。ちりぢりに逃げようとする村民たちをまとめ上げ、へたり込んでしまった父親を助け起こし、怒りに吼える悪魔から遠ざける。お前は、とハニエルの方をみれば、悪魔と相対する少年は一歩も引くつもりはないらしい。
「くそッ、嫌な目をしていると思っていたが……まあ、いい。阿呆な人間どもを弄ぶのも飽きてきたところだ! まずはお前を真っ二つに裂いて、それからあいつらもついばんでやる!」
 梟頭の悪魔がその両翼で飛び立ち、狼がそれに従うようにハニエルに飛びかかる。剣で防ぎ、勢いをつけて押し返せば、狼は吠え立て憎らしげにハニエルを睨んだ。
「ッ……!」
 地を蹴り、狼へと刃を振るう。黒い四肢で地を跳ねる狼は使徒の剣を避け、悪魔は空から鉤爪を繰り出す。返す剣でそれらを防いだものの、華奢な身体はぐらりと傾いだ。それを見て非力ととったのか、悪魔はゲラゲラと笑う。
「なんだ、つまらん。オレ如きでもお前はすぐに狩れよう! 黙って聖堂に籠もっておればよかったものを」
「そんな事、出来ません! あなたは今、オレが討ちます!」
 柄を握りなおし、ハニエルが叫ぶ。悪魔の弱点は既に見えている。あそこを刃で貫けば、この醜悪な悪しき者を討ち滅ぼせる。
 狼が一度咆吼し、ハニエルに再び襲いかかった。今度は剣で防がず、ぎりぎりまで引きつける。その爪がハニエルの身を裂こうとした瞬間、使徒の剣が襲い来る狼の喉元を貫いた。断末魔の音も出せず、狼の身体が灰となって崩れ去る。その灰が降りかかるのを感じながら、ハニエルは足に力を込め、跳んだ。
「はあああッ!」
 剣を振り下ろす。その攻撃を予測していたのか悪魔は易々と刃を手で防ぎ、喜びに顔を歪めた。勝ちを確信したのだ。
 この刃を折り、そのまま鉤爪でこの華奢な身体を引き裂いてやれば――
 ハニエルの、剣を持たない左手の中で何かが閃いた。月光を受けて輝く、柄に天使を宿した銀製のナイフ。それが躊躇無く悪魔の、梟の眉間に振り下ろされた瞬間、悪魔は耐えがたい苦痛に絶叫した。
 永久凍土の一部となれ。
 そう命じるかのように、傷口から己の身体が凍りついていく。
「な、に……こんな……いったい……!」
「終わりです!」
 左手のナイフを更に押し込む。悪魔を滅する血液を打ち込まれ、悪魔の身体がひび割れ、砕ければそれは夜の闇へと溶け消え去っていった。
 荒い息をさせながらハニエルがナイフについた血を払う。それが地面に染みをつくった。目の前には狼だったものの灰が、燻っている。
「ハニエル!」
 心配で様子を見に来たらしいテオドールが駆けてくる。返り血を浴びたハニエルの姿に一瞬ぎょっとしたようだが、無事な姿を見て安堵の表情を浮かべた。
「大丈夫か!?」
「はい……あの、皆さんは」
「無事だ。お前のおかげだよ!」
 悪魔が滅ぼされた喜びから勢いづいたテオドールが、ハニエルを抱きしめる。
 血が、とハニエルが困惑するものの、それも気にせず背中をばしばしと叩いて青年は少年を讃えた。
……テオドールさんが、オレを信じてくれたから、です」
「ハニエル様!」
 村長たちも様子を見に来たようだった。消えた悪魔と、ハニエルの無事な姿を見て、おお、と感嘆の声をあげる。まさに奇跡だ、と。
「やはり、ハニエル様は主が遣わされた御遣いだった!」
「二度までも疑いの心を持った私をお許しください!」
「いや、許されない! お前は悪魔にこの方の命を差し出そうとしたのだぞ、どう償うのだ!」
「それは……お許しください、ハニエル様、正しき御遣い様!」
 村人たちが口々に叫ぶ。ハニエルを信じた者は己の正しき行いを喜び、過ちを犯した隣人をなじる。信じなかった者は己の罪を悔い、罰を畏れ、涙で顔を濡らしながら己よりも幼い少年に詫びている。殆ど狂乱と言える光景を目の前に、ハニエルの血の気が引いていく。
 止めなければ。テオドールも異変を感じ取ったのか、ハニエルの隣から離れないまま、村人たちを凝視している。
「だ、駄目です……諍いをやめてください!」
「しかし、ハニエル様!」
「おい、落ち着けよ皆……!」
「オレは赦します! 赦しますから!」
 たまらず叫べば、しん、と沈黙が落ちる。皆が、こちらを見ている。崇拝の眼差しで、畏れの眼差しで。それが、たまらなく恐ろしい。――耐えられない。
 ハニエルが踵を返し逃げるように歩き出せば、テオドールがおい、と声をあげる。呆然としていた村人たちもハニエル様と口々に彼を呼んだが少年は振り向かなかった。
 悪魔の血と己の血を落とし、身を清め聖堂で祈る。
 蝋燭の頼りない灯火だけが、祭壇や長椅子の輪郭を浮かび上がらせていた。
「おゆるしください……
 神に向かって赦しを乞う。人を惑わす魔眼を持って生まれたオレをお赦しください。一心に祈り、そして神に問う。貴方は何を望み、この目を宿して生まれるように命じられたのか。
 この目が、ずっと隣人を惑わしてきた。
 眼差しを向ければ彼らは笑顔になる。親切を向け、恭しく子どもを扱った。しかしひとたび正気に戻れば、まるで化け物をみるかのような眼差しを向けてきた。ずっと、そうだった。
 使徒になるよう命じられ、魔眼の力を抑えるマリアヴェールを授かり、魔眼の影響を受けないサンダルフォンたちと暮らしていく中で、この瞳を恐ろしく思うことが減っていたのは否めない。この目の力は悪しき者を滅びに導く神の光。だがそれを仲間は崇めることもなかった。ザドギエルは、頼りにしているとハニエルの肩を叩き、非力な使徒の代わりに殺戮に身を投じる。戦いが終われば、同じ寄宿舎で過ごす仲間だ。彼らとの絆だけは揺るがないと信じている。
 任務は終わった。早く帰らなければ。ハニエルの頭によぎったのはそんな考えだった。サンダルフォンの事も気がかりだ。もう、ここには悪魔の脅威はない。平穏な村に戻った。テオドールの憂いも、無くなった。自分がここに留まれば留まるほど、彼らは己を信奉するだろう。それは、なんとしても裂けなければ。
「ハニエル」
 声の主はテオドールだ。その声色には気遣いがあった。振り向き、青年を見つめる。彼はそのまま、切れ長の目でじっとこちらを見つめていた。その表情に安堵しながら、ハニエルは口火を切った。
……明日、ここを発ちます」
 
「そうか……。ありがとうな、村を助けてくれて。お前がここに来なければ、きっといつか村はあの悪魔に滅ぼされていた。礼を言わせてくれ。そして、ごめんな、お前にこんな思いをさせて。ただ、あと一つ頼みがあるんだ。せめて村を発つことを、皆に伝えてくれないか? ……きっと、お前が何も言わずに出て行ったら、あいつらはまた変な考えを起こすからさ」
 悪いけど、と頭を掻きながら頼んでくるテオドールに頷く。
 彼の言うことは、尤もであった。

 早朝、起きて身支度をととのえ、小屋を出ればそこには村人たちが待ち構えていた。
「み、皆さん……?」
「昨夜は申し訳ございませんでした……! どうか、我らをお赦しになり、この村をいつまでもお守りください、ハニエル様!」
 村長がひれ伏し、ハニエルに懇願する。その後ろに控えた村人たちもハニエル様、お赦しくださいと口々に乞うた。伏し頭を下げている彼らから離れた場所で、テオドールが苦りきった顔をさせている。彼と目が合えば、いいから出て行くと言え、と言いたげな視線を寄越してきた。
「え……あの、それは……はい。気にしていません、大丈夫ですから……それにオレ、もう行きます」
「なんですって」
「オレがこの地でなすべきことは終わりました。……なので、皆さん。どうか主に祈りを捧げることを忘れないでいてください……
「いけません!」
 絶望に青ざめた顔で村長が叫ぶ。わなわなと唇を震わせながらハニエルを見据え、狂ったように首を横に振り、彼は続けた。
「我々を見捨てるというのですか!?」
「そんなこと……それに、オレはただの巡礼者です……!」
「いいえ、違いますとも! 貴方は神からこの村に遣わされた御方だ。だって、そうでしょう! 悪魔に惑わされそうになった我々に差し伸べられた手が、貴方だ! ハニエル様を失えば、この村は、我々はどうすればよいのですか!」
「いつまでハニエルに甘えているんだ! こいつはトビーを助けてたまたまここにやってきた巡礼者だろ! オレ達は半年前に戻って、慎ましやかに、神に祈りを捧げながら暮らしていく! それで充分じゃないか、これ以上何を望むんだ!」
 見かねたテオドールが怒鳴りながら皆に近寄り、ハニエルを庇うように立った。その背は怒りと、悲しみに震えているように見える。
 青年の反論に一瞬、村人たちは黙りこくった。ああ、彼がいれば大丈夫だ。自分が去ったあと、暫くすれば村も元通りになる。――そう思った。
「お前がハニエル様の機嫌を損ねたんじゃないか?」
 誰かが声を上げた。その一言だけで充分だった。
「そうだ、そうに違いない! お前、ハニエル様に何を吹き込んだ!」
「は? オレは何も……
 戸惑い、テオドールが村人たちを見渡す。彼らの目は怒りに染まりつつあった。
「最初からお前はハニエル様を疑っていたからな、不信心者め!」
「違うんです、皆さん……!」
「ハニエル様はお優しいからお前を赦すだろうが、オレたちは赦さないぞ! 村の恥め、よくよく考えてみれば半年前、悪魔が来た時もそうだった! お前は平気そうな顔でいたじゃないか! お、オレたちを馬鹿にしていたんだろう!」
「村長がこいつを好き勝手させていたからだ! この村が不信心になりかけたのは、こいつらのせいだ!」
「どうするつもりだ! どう責任をとる!」
「私は……そんな……
 怒りの矛先がテオドールとその父親である村長に向き、村人たちは口々に二人を罵った。二人の弁明すら聞く耳を持たず、いよいよ詰め寄った誰かがテオドールの胸ぐらを掴もうとした刹那。
「わ、分かりました! オレはまだここにいますから、二人を傷つけないで!」
 彼らの間に立ったハニエルの言葉に、村人はすぐさま安堵したような顔をさせた。村長もほっとした顔をさせ、そして良いことを思いついたと顔を明るくさせた。
「ハニエル様が村をいつまでも守れるよう、あの塔に住んでもらおうじゃないか!」
 そうだ、そうしよう! 村人が知恵を得たとばかりに喜び同調する。
「やめろ、これ以上ハニエルを――
「うるさい!」
 テオドールの頬を、村長が打つ。さあ、こちらへ。恍惚の笑みを浮かべながらトビーが抵抗しようとするハニエルの手を強く掴み、強引に引いて塔へと歩いて行く。彼が逃げてしまわないように村人たちもハニエルのあとへと続いていく。
 我が罪を赦したまえ、とこしえの栄えを。
 それぞれ祈りの言葉を口に、村の安寧を喜び、さいわいを祝福し、道を歩いて行く。
 さながら、処刑の行進のように。

「おい、寝ているのか?」
 不機嫌そうな声にハニエルはゆっくりと目を見開いた。この村では珍しいだろう一番上質な家具を備え付けられた狭い独房――のような部屋にハニエルは閉じ込められたのだった。天井は高く、窓も手が届かないほどに高い。唯一の扉には小窓がついているが、格子がしっかりとはめ込まれている。
 ここは本当に、聖人のための部屋だったのだろうか。
「テオドールさん……
 扉に歩み寄り、格子窓から顔を覗かせれば、そこにはテオドールが立っていた。左頬は赤く、腫れている。
「世話係続行だってよ。信心深くなるように、お前に教えを受けろって」
「ごめんなさい……オレのせいで……
 震える声でハニエルが謝罪すれば、テオドールは苦笑いを零したが頬に痛みが走ったのか舌打ちをした。冷たい石の壁に背を預け、大きく息を吐く。
「お前のせいじゃないだろ。あれはもう、あいつらが大馬鹿野郎なだけさ……心底、失望したね」
「ここから出してくれますか?」
「そうしてやりたいが、今は難しいな。塔のまわりを交代で見張っている奴がいる。そういう所だけはずる賢いんだ……親父からの言づてだが、毎日聖堂で朝と夕の祈りを執り行って欲しいだとよ。監視の意味合いもあるんだろうが、どうする?」
……分かりました」
「随分素直だな? ここに住むことにしたのか?」
「違います!」
 テオドールの言葉に声を荒げるが、青年が目を見開き驚くのを見て我に返り、古い扉を撫でる。
「帰らないといけないんです、オレ」
 ハニエルのか細い声にテオドールは黙ったままだ。暫く沈黙が二人の間を流れたが、ふと、ハニエルは気がかりな事を彼に告げた。
「あの、オレの剣とナイフは……
「ああ、うちの家にある。銀のナイフは聖遺物として聖堂に安置したいらしいが」
「駄目です! それ、借りているんです!」
「オレに言うなよ」
「返さないと、いけないんです……!」
 お願いですから、あれに何もしないでください。ハニエルが懇願するがテオドールは沈黙を守った。扉の前でしゃがみ込めば、耐えていた涙がぼたぼたと落ちた。不安で、泣き叫びたくなる。テオドールは、何も言わずに去ったようだった。

 テオドールは朝の祈りの後に食事を運んできた。そして夕の祈りをハニエルが執り行っている間に、夕食の準備をしているようだった。
「お前の馬、元気だぜ。ちゃんとまぐさも食ってるし、オレが走らせてる。でもやっぱり寂しそうだな、お前を待っているみたいだ」
……そう、ですか」
 夕食のパンを食みながらテオドールの話に耳を傾ける。塔と聖堂の往復しか出来なくなった今、テオドールが語る言葉だけが外へと繋がっていた。
 しかし、あまり話すことが上手くないのだろう青年はぽつぽつと話したきり、暫く黙ってから帰って行くのが常である。
 ただ、今日は違っていた。
「なあ、ハニエル。お前の家ってどんな所なんだ?」
……聖都にあります」
「良いところなのか?」
「良いところだと思いますが……人が多いので気を遣います」
「やっぱ、お前ぐらいの力を持っている奴は、豪華な家に住んでるんだろ?」
「そんなことないですよ。オレ、神学校の生徒ですし……寄宿舎に住んでいるんです。五人で……
「へえ、大所帯じゃん。平気なのか?」
「はい……サンダルフォンさんは少し厳しいけど、オレが聖都に来た時から一緒ですし、ラジエルと話していると楽しいです。サマエルは……少しぶっきらぼうだけど、優しくて。ザドギエルさんは頼ってしまいます。それに、オレを認めてくれる。ずっと皆で戦ってきたんです。……だから、帰らないといけないんです」
 少し饒舌になったハニエルの声に、テオドールは耳を傾けていた。この一週間で弱々しくなってしまったハニエルの声に力が戻ったような気がしたからだった。
「ふうん……
 くるりと銀製のナイフを手元で弄ぶ。ハニエルが誰かから借りた退魔のナイフ。柄に天使が宿っている。一週間前に悪魔を屠ったそれの刃は赤黒く染まり鈍い輝きを放っていた。
「お前、眠れてるのかよ」
……あまり」
「ちゃんと寝とけよ。倒れられたらオレが怒られるんだ」
……、そうですね……ごめんなさい」
 暫く黙っていると、ハニエルの気配が小さくなった。そっと格子窓から中を覗けば、彼はベッドに横たわっている。蝋燭の火に照らされた顔、その目元が赤くなっているのに、テオドールは目を細め、音を立てぬように立ち去ったのだった。
 塔を出る。見張りがぼんやりとした顔で星空を眺めている。塔の監視は退屈らしく、上の空のようだった。内心悪態をつきながらテオドールは聖堂の小屋へと戻る。


 ハニエルを塔に閉じ込めた日から、家族と顔を合わせたくなかったのでここで寝泊まりをしていた。彼の愛馬の面倒をみるという言い訳があった。
「この村に巡礼者が来なかった? 髪の毛が長くて、ちょっと気弱な感じの」
 小屋に入ろうとした瞬間、聞き慣れぬ声に呼びかけられてテオドールは勢いよく振り返った。誰だ、と声を出そうとしたがそれは叶わなかった。背後から両腕を押さえつけられ、口を塞がれたのだ。
「彼の馬がいるね。ハニエルはどこにいるかな? もしかして、殺した?」
「んぐっ……
 首を微かに横に振れば、そう、と満足そうに頷く気配があった。男の艶やかな笑い声が耳をくすぐる。
「彼を知っているんだね。……渡して欲しいものがあるんだ」
 口を塞ぐ手が離れ、後ろに回された手に柔らかな布の感触が伝わる。薄いそれに、何だ、と顔をしかめれば、頼んだよと言い残して押さえつけていた力は緩んだ。慌てて周囲を見渡したが、誰もいない。手首の痛みを感じながら手渡されたそれを見れば、真っ白なマリアヴェールだった。

――御身の加護が、皆に等しく吹き渡りますように」
 かくあれかし。ハニエルの声に従うように村人たちの声が聖堂に響く。
「ハニエル様、いつまでもここに。我々をお導きください」
「お導きください」
「無知蒙昧な我々に慈悲の眼差しを向け、永久の安らぎをお与えください」
 常に祈りの最後、信徒たちはハニエルを求めた。祭壇の前で立ち尽くすハニエルに、皆が縋るのだ。そうしていないと、不安でしょうがない、恐ろしくてしょうがない。琥珀色の眼差しを受けることでようやく、心に穏やかなものが吹き渡る。
 そう言いたげな表情で村人たちはハニエルに祈り、縋った。
 ハニエルは何もしなかった。ただ、胸の前で手を組み、主に祈った。
 ――主よ、皆を犯す魔眼の呪いを退けたまえ。

 夕の祈りが終わり、村人に導かれて重い足取りで塔に入る。おやすみなさいませ、と恭しく挨拶されるも、ハニエルにとっては牢獄に入れられるのと同じだった。おそらく、もう暫くすればテオドールが夕食を持ってくるだろう。
 ――ずっと、このまま? オレは教会の皆に任務を遂げられず死んだと思われるのじゃないだろうか――
 ベッドに腰掛けながら思案する。塔に閉じ込められて七日が過ぎたらしい。石の欠片で壁に刻んだ傷が七つ目になっている。これがどれほど刻まれた時、自分は解放されるのだろうか。いや、もう永遠にこの生活になる可能性のほうが高い。そんな考えに気がおかしくなりそうだった。いっそ――
 どれだけの時間、思案の渦に閉じ込められていただろう。がちゃん、と錠が外される音にハニエルは顔をあげた。目の前には銀のナイフを握りしめたテオドールが、立っている。顔を強ばらせながら己に手を差し出す彼に、ハニエルは目を見開いた。
 二人は馬で闇の中を駆けていた。目指す先は、村の外れである。
「見張りには眠ってもらった。朝までぐっすりだろうよ!」
「テオドールさん、そんなことをしたら……!」
「あいにく、めそめそしてるお前の世話も飽きたんでね」
 肩を揺らし笑うテオドールに、なんと返せばいいのか分からない。
 しかし、この機を逃せばそれこそ一生を終えるまであの塔に閉じ込められるだろうというのは、嫌でも理解出来た。
……なあ、ハニエル。皆のこと、赦してやってくれよ。こんな辺鄙な土地でさ、野盗とか疫病とかに怯えながら暮らしてると、分かんなくなっちまうんだ。何を信じればいいのか……だから強いものに縋っちまう。お前とかに……
「オレ、強くありません。今だって貴方に……
「強いよ。お前。悪魔の野郎も一人で倒しちまったし、あいつらのワガママに最後まで嫌だって、ちゃんと言ったじゃん。それにオレはお前の目、嫌いじゃないぜ」
 山間の道に終わりが見えた。そこから先は草原が広がっていて、テオドールはここから先には出たことがないと呟いた。道案内もここまでだ、と暗に告げているのだ。
「そうだ、忘れるとこだった。これ……
「ッ、マリアヴェール!?」
「お前に渡せって言われた」
「誰にですか!?」
「さあ……顔は見てないんだ。あいつ乱暴だったよ。会ったら伝えろ、人にものを頼む時は、丁寧にしろってよ」
 まだ手首が痛む、とテオドールが顔を顰める。草原を見下ろせる場所で、馬を止めて眼前の景色を眺めた。この先、はるか遠くにハニエルの家があるのかと切れ長の双眸を細め、いつか訪れられればと考えもしたが、テオドールは首をゆるく横に振った。
「行け。これきりだ」
……はい。テオドールさん、本当にありがとうございました」
 ハニエルが、はにかむように笑う。泣きはらし続けた目元の赤さが、月明かりに照らされているのが見えて、テオドールは唇を軽く噛んだ。
「せいせいするぜ。とっとと行けよ、見つかる前にな」
 吐き捨て、顔を背けるテオドールに頷きマリアヴェールを被れば、ハニエルは愛馬の腹を足で締めた。小柄な馬が元気よく道を下っていく。なだらかな坂を下りきり、草原にさしかかったところで、ハニエルは振り向いた。
 馬に乗ったまま、テオドールはこちらを見ていた。月明かりが眩しく、それが彼を影のようにして、表情はうかがい知れなかった。
「あなたに、御身の加護が吹き渡りますように」
 思わず呟く。そして背を向け、ハニエルは愛馬を一層駆けさせた。


 狭くなった視界で小さくなっていく影を、テオドールはずっと見つめていた。
 突如、胸を貫いた痛みが赤き血となってそこから流れ落ちている。やがて青年は己を支える力を無くし、どう、と馬から落ちた。
 息を切らせてやってきたのは村長と村人たちだ。村長の手には狩猟用の石弓(ボウガン)が握られている。怯えきった老人の眼差しは、今し方、己が射貫いた息子ではなく、草原の小さくなりゆく影に向けられていた。
「お戻りください、ハニエル様!」
「我々から貴方を奪った悪魔は葬りました! どうか、お戻りください! 我々を導くために、お戻りください!」
 人々は口々に叫んでいる。拠り所を失い、絶望に陥り、どうか救いをと祈った。
 倒れ伏した青年の瞳に光は無い。胸から流れる血は地面に吸い込まれていく。

 帰還の途、気まぐれでその村に立ち寄った。
 いつもの隊服ではなく、隠密用に着る神父姿だ。山間の道から入れば門番は警戒を露わにした。ひどく、怯えているようだった。
「あ、悪魔か……? それとも……
「私は『教会』の者です。怯えていらっしゃるようですが、何かあったのですか?」
 門番が口ごもっていると、そこにやってきたのは村長だった。ひどく憔悴しているように見える。遠巻きにこちらを見ている村人も、同じような様子だった。
 村長に家へと招かれ、話を聞くことにした。
――なるほど、そのようなことが」
「我々は悪魔の奸計に貶められ、この手で息子を殺めてしまいました。あの時は狂乱の呪いにかかっていたので、その遺体もどこに捨ておいたのか、もはや分かりません……神父さま、なにとぞ我らに懺悔の慈悲を」
……悪魔の奸計、とは」
 訊ねれば村長は顔を覆い、滂沱した。それを見つめる使徒の眼差しはどこか冷たい。
「その悪魔に見つめられると、我を失ってしまうのです。その者が、神の如き愛を持つ者に思えて、胸をかき乱されるのです。息子だけが唯一、我々の中で正しくありました。彼こそが神の加護を持つ者であったというのに……私は、私は……!」
 懺悔し、嗚咽を漏らし己の罪を嘆く村長に、使徒――ラグエルは慈悲深く微笑んだ。
「悔い改めなさい。神も、貴方たちのあやまちと信心を、赦しましょう。これからはよりいっそう、『教会』の教えを信じ、慎ましく暮らし、きたるべき審判の時を待つのです。……いつか、全てが救われる時まで。神の愛に包まれる時まで。……いつまでも、いつまでも悔い改めなさい」
 慈悲の言葉を囁く。
 哀れにも罪の袋小路に捕らわれた者を、赤い目は愉しげに見つめていた。