kurotera
2026-04-12 08:12:53
19583文字
Public 2025イノブレ本再録
 

To what do you offer your hand Ⅱ:喪失

2025年5月に発行したイノブレIB中心本の再録です。発行から一年になるので掲載。当時手に取っていただいたかた、ありがとうございます。
全部一気に乗せると恐ろしいほど長いので分割にしています。

【概要】
ぼくのかんがえたさいきょうのイノセントブレス本(非公式)
2022年に発行したイノブレ本と話が続いていますが読んで無くても大丈夫です。
要素/注意
九割捏造。好き勝手書いています。
流血描写とある程度のグロテスク描写。
カニバリズム描写あり。
展開の都合上、名前があるモブが出てきます。
時代考証がガバい。
今回はカップリングは想定していませんが、書き手はBL勢(ライ麦、ラビさん関連)。

なんでも許せる方向け。
合い言葉は「ぼくのかんがえたさいきょうのイノセントブレス」
コンセプトは「IBちゃんを曇らせたい」
書き手の趣味が爆発しました。

 獲物を狙うような視線を感じて、剣の柄を握った。
「下級悪魔が棚の影に五体。あと、絵の中に何かがいる……
 ベイビーブルーの双眸を彷徨わせながら、ラジエルが告げる。その言葉に応えるようにサマエルとザドギエルが剣を抜いた。ザドギエルがホルスターからカートリッジを引き抜き剣の柄に装填すれば、ハニエルも警戒するように周囲を見渡す。
「まずは五体の下級悪魔を殲滅する。いいね」
 サンダルフォンの低い声に、四人は頷いた。刹那、潜んでいた五匹のうちの一匹が物陰から飛び出してきた。飛ぶ翼すら持たない下級悪魔は人の身体を引き裂く欲望に我慢しきれなかったらしい。
「ギャッ」
 しかしそれの企みはすぐに潰えた。業火のように赤い蛇が、そのあぎと で下級悪魔を捕らえたのだ。深く穿たれた牙から注がれた毒は瞬く間にその身体を巡る。
 悪魔の身は腐り果て溶け落ち、床の染みへと成り果てた。仲間がたやすく屠られる様を見て激昂したのか、残る四体の悪魔も姿を現した。若き使徒たちを取り囲み、汚れた牙を剥き出しにして飛びかかる。
 それに動じることなく、一歩踏み出したのはザドギエルだった。一閃、退魔の血潮を宿した刃で薙ぎ払えば三匹の悪魔は両断され、氷の粒となって闇へと溶けていった。
「なんだ、手応えがないな……
「っ、ザドギエルさん!」
 ハニエルの声に反応し、ザドギエルが飛びすさる。先ほどまで立っていた床が黒い何かで抉られ、穴を開けた。殺気を感じ、壁にかけられた絵画へ青い眼差しを向ける。この屋敷の主であった夫人の肖像画がニタリといびつな笑みを向けていた。上品ぶった笑いを響かせていたがすぐに下卑た笑いに変わった。額縁から身を乗り出す夫人のそのふくよかな上半身からは八本の腕が生え、若き使徒を捕らえようと蠢いている。
「〝邪な骨を散らせ、骸は捨て置かれ、お前は恥辱を晒すであろう〟!」
 ハニエルが聖句を紡げば琥珀色の瞳は燃えるように輝く。神の光が宿る眼差しは悪魔を射貫き、夫人の左目に黒い火を灯した。
「弱点、左目です!」
「了解!」
 ハニエルの声に呼応し、ザドギエルが駆ける。先陣を切る者を捕らえるべく、黄金で飾り付けられた腕の一本が動いた。長く赤い爪を剣で払い、返す刃で切り落とせば夫人の絶叫が響く。
 サマエルも赤き蛇を放ち、腕の一本に巻き付かせれば白くしなやかな腕は毒によって腐り落ちる。ラジエルとハニエルも剣を振るい、攻勢を緩めない。
「サンダルフォン!」
 剣を携え佇むサンダルフォンに、狙いを変えた三本の腕が襲いかかる。豪奢な指輪で彩られた夫人の手は明確に少年の彼の命を奪おうとしていた。
 振り下ろされた夫人の手は、サンダルフォンの身体を叩き潰しはしなかった。輝ける加護が、その拳を阻んでいる。怒りに狂った叫びをあげながら、夫人の三本の腕は光の膜に攻撃を加えるが、それは揺らぐことも、ひびが入ることもなかった。
「うらああァ!」
「はあああッ!」
 ザドギエルとサマエルが吼え、怯んだ二本の腕のそれぞれに斬りかかる。
 たった一閃で切り落とされた二本は、一本は凍りつけば砕け散り、もう一本は腐り落ち、床の染みと化した。
「地獄へかえ るがいい」
 祈りの言葉と共にサンダルフォンが一歩踏み出す。七本の腕を切り落とされた夫人は痛みと怒りに悶え、その最後に一本をサンダルフォンへと向けた。しかし、それもサンダルフォンの加護に阻まれ、剣の一振りで切り飛ばされる。
 地を蹴り、間合いを詰める。剣を振り上げ、きっと美しかったのだろう、しかし今は醜悪に歪む夫人の左目へと刃を突き立てた。


「使徒様が悪魔を祓ってくだすったおかげで、平和になりそうですじゃ」
「我々は神の御心に従っただけです」
 村長がサンダルフォンに感謝している様子を四人は遠巻きに眺めていたが、ふとラジエルが顔をぱっと明るくさせた。
「なあなあ、俺たちって結構強くなったんじゃね?」
「そ、そうでしょうか……? あまり、自分では分からないです……
 ラジエルの言葉にハニエルが首を傾げる。軽く眉尻を下げ、自信なさげに三人を見ればサマエルが憮然とした顔でラジエルをじろりと睨んだ。
「ラジエル、あまり調子に乗るな。そうやって油断するからお前は足を掬われるんだ。館に入った時に敵の罠に嵌まりかけたのを忘れたのか?」
 咎めるサマエルに、ラジエルが呻き顔を引きつらせる。でもあれはサマエルが、と言いかければ、はいはい、とザドギエルが割って入った。
「でも、ああやって村の人たちに感謝されるのは……嬉しいです」
「そうだな……俺たちの働きが国の平穏に繋がるなら、いいことだよ」
「皆、お待たせ。帰ろうか」
 話し込む四人の元に、任務を無事に遂行出来た事への安堵の表情を浮かばせながらサンダルフォンが帰ってきた。この村からならば、聖都へは今日のうちに帰る事が出来る。五人はすぐに出発するつもりだった。
 使徒となってから、幾分かが過ぎた。
 神学校で学びながら、悪魔祓いの任務をこなす日々にも慣れてきたと思う。 
「つーかさ、最近は任務ばっかりだよな。悪魔ってどこからやってきてるんだ?」
「やはり『学会』の動きが活発になっているのだろうか」
 帰り道、馬を進ませつつ話し合う。神学校に属する使徒たちは休む間もなく悪魔祓いの使命に追われていた。五人の先輩であるアブディエル、ラグエル、オファニムの三人も多忙なのか、聖都を不在にしている事が多い。
 ――『学会』か……――
 悪魔に与する者たちを『教会』はそう呼んでいる。神に叛く者として、討伐対象にもなり得る存在だ。ここ最近の報告ではその活動が活発になっているらしく、悪魔に魅入られている人々が増えている現状を教皇ミカエルは憂えているという。
「どうして悪魔と契約なんかするのでしょうか……教義では悪魔と契約した者は地獄に堕ちて、永遠の苦しみに苛まれると書かれているのに……
「うーん……やっぱ、自分の願いを叶えたいからじゃね?」
…………短絡的に目の前の欲に飛びついているだけだよ。後先の事も考えずにね。地獄に堕ちて当然じゃないかな……そういう奴はさ」
 ハニエルとラジエルに応えるザドギエルの口ぶりは冷ややかだ。サンダルフォンは目を伏せ、手綱をきゅ、と握りしめる。
「思いとどまらせることが出来れば、それがいいのだけど……
……難しいだろうな」
 ゆるりと首を振ったサマエルがふと前を見れば、森が見えた。ここを抜ければ自分たちの寄宿舎がある聖都はすぐだ。――今回も、無事に帰ってくる事が出来たと、サンダルフォンは微かな安堵に胸をなで下ろした。

 報告が終わり、いつもの聖堂に立ち寄り祈りを捧げる。五人が無事に帰還出来たことを神に感謝し、世界の安寧への祈りを聖歌にのせる。
 学び舎の傍らに立つ小さな聖堂が、少年の信仰の拠り所だった。
「御身の加護が、皆に等しく吹き渡りますように」
 かくあれかし。祈りの言葉を捧げると同時、遠慮がちに背後の扉が開く気配がした。振り向けばそこには自分たちに与えられた部隊『無垢な神の息吹』に従する修道女、シスター・ゴーが扉の前で佇んでいた。
 その身は華奢ながら男のそれではあるが、振る舞いは女性のそれである。他の人々の目に彼女は奇異に映ったが、IBの五人はシスターを女性として扱っている。
「お邪魔しちゃったかしら」
「ううん、ちょうど祈り終わったところさ。どうしたんだ、シスター」
 申し訳なさそうに歩み寄ってきたシスターに微笑みつつ、サンダルフォンが首を傾げる。こつ、こつ、と控えめにヒールを鳴らしながら、シスターはサンダルフォンに告げた。
「ミカエルちゃんが貴方をお呼びになっているの。話があるって」
「教皇様が?」
 教皇ミカエル――『教会』における最高指導者。創造主たる神の代理人。使徒は皆、彼に秘匿名を与えられ、彼の命をもって悪魔を屠る。
 歴代で最も神に近しい聖人と人々は彼を敬い、畏敬の念を抱くがシスターは彼をミカエルちゃん、と親しげに呼んでいた。
「何だろう……心当たりが無いな」
「私もよ。悪い話ではないと思うけど……行ってくれるかしら、サンダルフォン」
「勿論だよ、すぐに」
 聖堂を後にし、教皇の間へと向かう。聖都の中心たる大聖堂から繋がる白亜の廊下、敷かれた赤い絨毯の柔らかさを靴の裏で感じながら、サンダルフォンは少しばかり緊張している己の心を宥めた。教皇の間の重厚な扉、その前に侍る門番に用件を告げる。ゆっくりと門は開かれ、教皇の間に足を踏み入れれば、磨き上げられた大理石の床に、同じく汚れ一つない白き壁が目に入る。
 その最奥の玉座に、教皇ミカエルは座していた。
「やあ、サンダルフォン。帰還早々に呼び出してしまって、ごめんね」
「お気遣い痛み入ります、教皇ミカエル様」
 玉座を前に膝をつき、頭を垂れる。一瞬、玉座の傍らにメタトロンの姿が目に入ったが、サンダルフォンは何も言わず、瞼を伏せた。
「君が率いる『無垢な神の息吹』の働きは聞こえているよ。立派に神の教えを守り、悪魔を挫き、民を救済しているようだね」
「未熟な身ですが、我ら五人、主の御名の下に身命を賭しているつもりです」
 教皇に跪き答えるサンダルフォンの声は固い。彼を目の前にすると、緊張からか身体が強ばってしまうのだ。蜂蜜色の眼差しで心を見透かされ、よく通る声色で心をくすぐられる。そんな心地に陥って、落ち着かない。それでも臣下の礼をとり、跪くサンダルフォンをミカエルは慈しみに満ちた表情で見つめ、更に言葉を続けた。
「君に参じてもらったのは他でもない。君に行ってもらいたい任務があるからだ」
「っ、はい。命じていただけるのであれば、すぐにでも皆と――
「今回は『無垢な神の息吹』としての任務ではないのさ」
「え……?」
 ミカエルの言葉に戸惑いを露わにするサンダルフォンに、教皇は笑みを深めた。そして己の傍らに侍る男――メタトロンをちらりと見やる。
 メタトロンは二人の会話に介入する意志を持つことはない、といった様子で表情を動かさぬまま、直立不動の姿勢をとっている。
「君と、俺の隣にいる使徒……メタトロンとの二人での任務を命じたい」


「サンダルフォン一人で任務!?」 
 教皇の間から辞した後、詰め所に集まっていた仲間に告げれば、まず声をあげたのはラジエルだった。その言葉にサンダルフォンは首を横に振る。
「違うよ。正確にはオレと……メタトロン、様。ある森の調査に行って欲しいと教皇様が直々に」
「なんで」
 解せないと言いたげな顔をさせているのはザドギエルだ。その問いにもサンダルフォンは首を横に振った。わからない、と。ザドギエルの隣に座るハニエルは不安げな表情でそわそわと胸のあたりで手を握りしめている。サマエルも、仲間が拝命した任務の不可解さを訝しんでいるようだった。
「ミカエルちゃんのお考えは私にも分からないけれど、……サンダルフォンはどう感じているの?」
「オレは使徒になってから日が浅い。対してメタトロン様は……使徒の最高序列に位置する方だ。しかも今回の任務は悪魔討伐ではなく、森への調査だけだ。そもそも教皇直属の使徒が就くような任務じゃない」
「森になんかスゲーお宝が隠されてるとか?」 
「その場合はラジエル、君が適任として任務を命じられるだろう? 元々、強い力を持った魔女が隠れ住んでいたと噂されている森だそうだ。近隣の集落に住む住人は、そこに入れば魔女の呪いが降りかかると恐れているらしい」
 言葉を切り、思案に耽るサンダルフォンを四人は心配げに見つめている。シスターが軽く身を乗り出し、サンダルフォンの顔を見つめ口を開いた。
「サンダルフォン、もし貴方が」
「教皇様から直々に賜った任務だ。拝命しないという選択は無いよ」
 シスターの言葉を遮り、サンダルフォンが言い切る。何も言えずにいる仲間の顔を見渡し、困ったように笑みを浮かべた。
「大丈夫。そんな顔をしないで。……使徒の中で一番強いメタトロン様が一緒なんだ……だから、オレが帰ってくるまでの間、留守を頼むよ」

 白馬と鹿毛馬が草原の道を駆ける。手綱を握る手に伝わるのは、普段は落ち着いた振る舞いを見せている愛馬が、どこかはや っているということだ。
 どうしたんだ、となだめるように軽く首筋を撫でてやれば、その白いたてがみを夕日にきらめかせながら、軽くいなな いた。
 その傍らを鹿毛馬が併走している。特定の主を持たず、自らの馬を持たない使徒に貸し出される軍馬の中で特に優れた一頭である筈だが、サンダルフォンの愛馬について行く事に疲れを見せていた。日も傾き始めている。本来ならば野宿か、近くの村の宿を見つける頃合いであるが、メタトロンはそういった素振りを見せない。
……メタトロン様」
 思わずサンダルフォンが呼びかける。なんだ、と言葉が返ってきたことに少しばかり安堵した。
「そろそろ日が沈みます。休む場所を決めましょう」
「必要が無い。時間が惜しい」
「馬に疲れが。これ以上無理をさせれば潰れてしまいます。……この近くに以前、訪れた村があります。そこで休みませんか」
……わかった」
 サンダルフォンの忠告にため息を吐きながらメタトロンが了承する。
 

 サンダルフォンもほっと息を吐き道の向こうを見れば折良く、集落の灯りが見えた。
「馬は不便だ」
「あの……普段はどうやって移動を……?」
「飛んでいる」
 東部都市で見た彼の姿をサンダルフォンは思い出す。燃えさかる炎の翼を背に、空を駆ける幼馴染みの姿。確かに、あの能力があれば馬なんて必要ないのだろう。しかし、サンダルフォンはあの姿を思い出すと心がかき乱されるような感覚に陥ってしまう。動揺を悟られないように、そうですか、と相づちをうてば、サンダルフォンはふとあることに気がついて、それを口にした。
「剣をお持ちでないのですね」
「俺には必要ない。ミカエル様から銃を賜っている」
 サンダルフォンの問いにもメタトロンは表情を動かさない。腰にさげている銀色のそれへと視線をやりつつ、サンダルフォンの疑問に答えたきり、会話は途絶えた。そこから話題を広げるつもりも無いようである。サンダルフォンもそれ以上は何も聞かず、あそこに集落がありますと伝えたきり、押し黙った。
「みつかいさまだ!」
 集落に入れば、子どもたちに囲まれた。ここはIBが以前に任務で立ち寄った集落だった。子どもたちは、サンダルフォンの事を覚えていたらしい。
「ああ、皆元気そうだね」
 サンダルフォンが子ども達に笑いかける。村人が恭しく二頭の馬を預かり、厩へと連れて行った。
……お兄ちゃん、誰?」
 子どもの一人がメタトロンを見上げる。
 サンダルフォンと一緒にいた四人とはまた違う、と首を傾げながら見つめてくる少年にすら、メタトロンは表情を動かさなかった。
「使徒だ」
……
 淡々と告げるメタトロンの姿に、少年はサンダルフォンの隊服の袖をきゅ、と握りしめた。少しばかり怖がっているのだと慌てて、サンダルフォンは少年の柔らかな髪を撫でた。
「メタトロン様はね、オレたちと同じ、主に仕えている使徒だよ。とても強いんだ」
 サンダルフォンの言葉に少年はようやく警戒を解いたようだった。しかしそれでも、彼には近寄ろうとはしないし、他の子どももサンダルフォンの陰に隠れるようにして、メタトロンの様子を窺っている。メタトロンも、子どもたちの態度を気にもとめていないようだった。
「お久しぶりです、サンダルフォン様」
「村長様、宿をお借りします」
「ええ、歓迎しますよ。サンダルフォン様がよろしければ、また聖堂で聖歌を捧げてくださいませんでしょうか? ちょうど夕の祈りの時間ですので……
「みつかいさま、また歌ってよ! あたし、みつかいさまの聖歌が聴きたい!」
「ふふ、勿論です。さあ行こう、皆……メタトロン様も、聖堂に行きましょう。夕の祈りを」
 子どもたちに手を引かれつつ、サンダルフォンは振り向きメタトロンに声をかける。メタトロンは小さく頷き、サンダルフォンと子どもたちの後ろについていった。

 聖堂に神に捧ぐ聖歌が響き渡る。
 神学校においてはサンダルフォンが最も優れた聖歌隊員であると専らの噂だ。
 メタトロンも典礼で何度か耳にしたことはあり、確かに他の聖歌隊員とは別格の歌声であるとは感じた。
 ――ただ、なにか、心に引っかかる。
 歌声に包まれ、慈悲を向けられ、そして責められている。それが、メタトロンの内側を微かに波立たせているような心地になる。それでも、メタトロンが表情を変えることは無く、サンダルフォンが歌う姿を聖堂の扉の傍らで眺めていた。
 村人たちは老いも若きも長椅子に腰掛け、祈りを捧げている。聖都、大聖堂で執り行われる大規模な典礼とは違った空気だ。厳かというよりも素朴で、まさしく〝祈りの時間〟と言えた。村人たちが祈りの言葉を口にする。窓から注ぐ夕日の残滓が、灯された蝋燭の火が、祈りを捧げる人々を静かに照らしていた。

 祈りの時間が終わった後は、村長に夕食を招かれた。
 悪魔が討伐された後の村の様子や近隣の状況、まもなく麦の収穫の時期を迎えることへの喜びを村長は語り、サンダルフォンは嬉しそうにそれに聞き入っていた。
 メタトロンの事を最初に訊ねた少年は村長の孫息子らしく、サンダルフォンにしきりの話をしたがって、またサンダルフォンも笑ってその相手をしていたが、夜も更け、もう眠りなさいと村長が孫息子を諭したところで、二人は村長の家を辞した。
 メタトロンを先に帰らせ、サンダルフォンは厩に向かう。
 一日中駆けた二頭の馬は、まぐさを与えられ、疲れを癒やしているところであった。白馬は己の主がやってきたのを見るや嬉しげに頭を寄せ、また鹿毛馬も鼻面を少年に近づけさせ、擦り寄った。
「お疲れ様、ゆっくり休んで」
 二頭を労い、その頭を撫でる。ふと、道中に見せた愛馬の逸りを思い出し、その黒く輝く瞳を覗き込んだ。
「ねえ、お前、今日はどうしたんだい? らしくなかったじゃないか」
 優しく首筋を撫でて問えば、白馬の愛馬は軽く鳴き、その瞳でじっと、主人を見つめた。彼がこうする時は何かを訴えたいのだと、サンダルフォンは知っていた。
……メタトロンのこと? お前はもともと、彼を乗せる筈だったらしいね」
 だからかな、とサンダルフォンが寂しげに笑う。額を首筋にあて、暫く瞑目する。愛馬はそれを受け入れ、ただじっと、佇んでいた。
 サンダルフォンは時折、この賢く勇敢な愛馬と共に過ごす時、何か考えるときにこうするのだ。白き偉躯が持つ温かさはサンダルフォンの抱えるものを受け止めてくれる。そんな信頼があった。
「ねえ、メタトロンを、君はどう思う? オレは……やっぱり寂しいよ。幼馴染みのはずなのにね、もう昔みたいに話せないから」
 闇の中に言葉が落ちる。二人が友であったという記憶は、今や自分しか持っていないことを寂しいと感じる。どうして、と聞くことも出来ない。聞いたとして、彼はきっと困惑するだろう。いや、もしかすると些事であると、はね除けるのかもしれない。そんな頑なさが、彼にはあった。
……明日も頼んだよ」
 今は余計なことだと考えを振り払い、愛馬に伝える。ぴんと立った耳が、震えるのが見えた。

 宿で一晩休み、日が昇った頃にサンダルフォンは支度を終えて聖堂へ向かった。毎朝決まった刻に、祈りを捧げるのだ。 
「祈りを終えたらすぐに出発しましょう」
 早く出発したいとメタトロンの表情に滲んでいるのを感じ取ったのか、サンダルフォンは申し訳なさそうな顔で謝った。いい、と短く返せば、やはりサンダルフォンは祭壇の前で祈りを捧げ、聖歌を歌い出した。
「くるあさごとに あさひとともに かみのひかりを――
 窓から降り注ぐ柔らかな光を身に受けながら、歌うサンダルフォンの後ろ姿をメタトロンは眺めていた。しかしすぐに目をそらし、小さな聖堂に備え付けられた懺悔室をぼんやりと見つめる。昨晩、歌を耳にして感じたものが、再び己の内側から巻き起こったからだった。
 ――なんだ、この感覚は。――
 自問自答するが答えは出ない。空っぽの器に手を突っ込み、無いものを探すような気分だ。それでもこの場から離れようとは、思えなかった。
 ――ミカエル様は、何をお考えになっているのか……――
 聖歌から意識をそらすように、思案に耽る。己が存在意義とするあるじ、教皇ミカエルは何故、己にこの男と任務をせよと命じたのか、理解が及ばなかった。
 きっと、サンダルフォンも同じだろう。なにせ、別の隊だ。聖都を出発する際に挨拶をしてきた彼の表情は任務に対する困惑と不安があった。
 ――いや、あの御方のことだ。俺には考えも及ばないものを持っていらっしゃる。それに間違いなどない。俺は、与えられた任務を全うするだけだ。――
 思い直し、腰に下げた銃に触れる。歌が、終わった。
「御身の加護が皆に等しく吹き渡りますように」
 かくあれかし。サンダルフォンが祈りを終え、メタトロンへと振り向き微笑む。
「いきましょう。メタトロン様」
 その笑みはどこか寂しそうだ。そんなことを、ふと思った。

 数日かけて辿り着いたそこは、一見、なんの変哲も無い森に見えた。
「ここが……
「行くぞ」
「は、はいっ」
 馬から降り、臆することなく森へと入っていくメタトロンに、サンダルフォンも付き従う。鬱蒼とした木々が太陽の光を遮って、薄暗い。
 道のような道もなく、同じような木々が二人を惑わせようと立ち並んでいる。先を進むメタトロンが歩みを止めないなか、ちゃんと元の入り口に戻れるだろうかとそんな不安がよぎり、思わずサンダルフォンは来た道を振り向いた。
「うっ……
 ぐらりと目眩が襲い、サンダルフォンは思わず目を瞑った。再び目を開けば、たった数秒のことであった筈なのに、目の前にいたはずのメタトロンがいない。しまった、とすぐさま周囲を見渡すが、影も見えず、すぐ近くにいる気配も感じ取れなかった。
……っ、まったく、相変わらずだ……!」
 目を離せばすぐ何処かへ行ってしまう。幼少の頃、随分と困った記憶を思い出してサンダルフォンは眉を寄せた。彼を探さなければ、と森の奥へと進んでいくが、やはり木々が続くばかりで自分がどこにいるのか見当もつかない。方向感覚を狂わされ、時折襲い来る目眩を耐えながらサンダルフォンは道なき道を彷徨う。
「あっ……
 視界の先に人影が見えた。見つけた、と安堵しながらそちらへと駆け寄る。
「もう、少しは周りを見て――
 無意識のうちに、かつてのようにメタトロンに声をかけた瞬間、強い殺気を向けられてサンダルフォンは足を止めた。
 仲間の声に振り向いたメタトロンが、剣をこちらに向けている。
「メタ、トロン……?」
……
 青い双眸は冷たい眼差しでサンダルフォンを睨みつけている。手にした剣の切っ先が間違いなく己を狙っているのにサンダルフォンは戸惑い、一歩後ずさりをした。
「なにを――
 サンダルフォンの問いは答えられる事なく、代わりに与えられたのは剣の一撃だった。一瞬で間合いを詰めてきたメタトロンにサンダルフォンも間一髪で剣を抜き、その刃を受け止めたが押し負け、足をよろめかせた。柄を握る手が痺れるのを感じながら、サンダルフォンは目の前の仲間を戸惑いのまま見据える。最初の一撃を防がれたメタトロンは、表情を変えずに剣を構えた。

 ――操られているのか? 敵に出会って幻惑にかかったのかもしれない――

 
 考えられる可能性が当たっているとすれば、かなりまずい状況だ。なんとかして彼を正気に戻さなければと、意を決した。
「メタトロン、目を覚ますんだ! オレは敵じゃない!」
 訴えもむなしく、メタトロンは顔色一つ変えないままサンダルフォンへと斬りかかった。やむを得ずサンダルフォンも手にした剣で彼の一閃を防ぐが、力の差は大きい。
 ――強い。これが最高序列の使徒の実力……!? このままじゃ……! ――
 メタトロンの突きつけた刃が掠り、肩から血が流れるのを感じて奥歯を噛む。どうすれば、と考えを巡らせれば、ふと、何かが思考の中で引っかかった。
「剣……?」
 閃く刃を辛うじて弾き、飛び退く。意識に引っかかった違和感の正体をサンダルフォンはすぐに捕らえ、飴色の瞳をきゅ、と細めた。
……君は、本当にメタトロンなのか?」
 馬上での会話で、彼は剣は必要ないと言っていた。ならば何故、目の前の彼はそれを持ち、己に対して振るっている。サンダルフォンの問いに、メタトロンは答えない。ただ、目の前の敵を倒そうと、剣を構えていた。
 言葉の無いまま再び、一撃を与えようと剣が振り下ろされる。
「く……!」
 手をかざし、絶対防御の加護を展開する。びりびりと周囲の空気を震わせながら、輝く加護の膜はメタトロンの刃を受け止めた。淡い光の向こうでメタトロンが驚き目を見開いたのが見えた瞬間、サンダルフォンは踏み込み、剣を振るった。
 澄んだ音とともにメタトロンの剣が宙を舞う。勢いよくそれが地に転がれば、メタトロンはそれを一瞥し、サンダルフォンをじっと見つめた。形勢が逆転しても、メタトロンの姿から本性の姿に戻ろうという気配は見せようとしない。
……
 目の前にいる彼が、悪魔が化けているものであるならば倒さなければならない。
 柄を握り直し、サンダルフォンはメタトロンを睨み付け、その刃を振り上げた。
 ――もし、悪魔に操られ剣を握らされている本物だったら? ――
 脳裏によぎった一瞬の恐れは、サンダルフォンの手を止めるには充分だった。
 剣を振り上げた格好のまま、いまだ無表情のメタトロンを睨む。もし、彼を殺してしまえば。震える手の力が、微かに緩む。――それが、隙だった。

 その動きには躊躇ためらい がなかった。手を伸ばし、サンダルフォンの傷ついた肩を掴み、捕らえる。もう片方の手には、弾き飛ばされたはずの剣が握られていた。それを見た瞬間、サンダルフォンは自分の判断が間違っていたことを、悟った。
 銃声。
 メタトロンの剣はサンダルフォンの身を切り裂くことなく、音を立てて地面に落ちた。メタトロンのこめかみから黒いものが飛び散ればそのまま彼の身体はぐらりと傾ぎ、倒れた。
「あ、……
 地に倒れて動かなくなった幼馴染みの姿を、サンダルフォンは凝視するほか無かった。弛緩した身体を支えきれず、膝をつく。
 目の奥が強く瞬き、喉から空気が漏れるような音がうるさい。目の前に、幼馴染みの姿をした死体がある。
 心臓が早鐘を打ち、背中に冷たい汗が流れるのを感じながら近づく足音に恐る恐る顔を上げれば、そこには銃を手にしたメタトロンが顔を強ばらせ、立っていた。
「メタトロン、様……
 掠れた声で仲間の名を呼んだ瞬間、胸ぐらを掴まれ引き寄せられた。
 驚いて目を見開くサンダルフォンを睨むメタトロンの顔は怒りに満ち、その青い瞳も憎しみに染められていた。
「何故、躊躇った。その剣を止めた」
 低い声で責められ、答えることの出来ないまま顔を強ばらせるサンダルフォンの様子に舌打ちをし、メタトロンは彼を突き放した。
「俺の命を奪うことを恐れたのか? 見くびるな、お前ごときに俺は殺されない。その甘さ、弱さがお前自身の命を奪おうとした」
…………
 己をなじ るメタトロンから目をそらせば、彼がやってきた方向に、何かが落ちているのが見えた。まるで襤褸ぼろ のように見えるそれは、赤い杭に貫かれ事切れている。
 プラチナブロンドの髪を持つ使徒――自分の姿をした、何かだった。
……何故、お前のような甘く弱い、未熟な使徒をあの御方が気にかけているのか分からない」
 周囲を見渡しながら、メタトロンは吐き捨てた。

 少し離れたところに自分が入ってきた道を見つけ、小さく息を吐いた。歩いて行くうちに、森の最奥に屋敷があるのを見つけたが、この足手まといがいる以上はさらなる探索は不可能だ。そう判断し、出口へと続く道へと歩き出す。
「これ以上は無意味だ。帰還する」
 淡々と言い放つメタトロンの背中を呆然と見つめ、やがてサンダルフォンはのろのろと立ち上がった。
 震える手で剣を鞘に収め、振り向くこと無く歩いて行くメタトロンに付き従った。
 
 目障りな気配がこの仮住まいの館に近づいたのを感じ取り、男は〝人形〟を放ったがどうやらそれは壊されてしまったらしい。
 指先から僅かな血が流れていくのを安楽椅子に座る男は無感情に眺めていた。
「ご主人様、血、血だ!」
「誰にやられた? そいつを殺す? 殺そう!」
 安楽椅子の傍らに寄り添う二つの影が声を上げる。心配するような言葉ではあるが、その声色からは憂いよりも、狂気が滲み出ていた。
「よい。人形の糸が切れただけのこと。お前たちが出るほどではない……それに、もう去るようだ」
 二つの影へと語る男の声は柔らかい。宥められた彼らは素直に従い、やがて一人はぶつぶつと何かを呟き始めた。
「しかし、もてなしの準備はするべきだろう。きっと再び訪れる者がいる。客人には、相応のものを」
 男が独りごち、カーテンに覆われた窓の外を見やる。森のざわめきが収まるのを感じた。
 
 再び数日かけて聖都に帰還した。今度は殆ど休むことなく駆けたので、メタトロンに貸し出された馬は潰れかかっている。それすらも気にせず、聖都につくなり馬から下りたメタトロンは、疲労を滲ませながらも付き従ったサンダルフォンに一瞥をくれた。無理についてこなくても良かったのだが、と考えたが、己が何も言わなかったから、この男は付き従ったのだと思い直した。
「ミカエル様の報告は俺がする。ついてこなくていい」 
……はい」
 了承するサンダルフォンに背を向けメタトロンは教皇の間へと歩き出そうとし、しかし一度足を止めた。その背中に、眼差しが向けられているのを感じつつ、メタトロンは口を開いた。
「お前は弱い。あの御方を守るには、弱い使徒などいらない。……お前には、聖歌隊が似合いだ」
 淡々と言い放ち、メタトロンは今度こそ歩き出した。森の中で自分と同じように、あの人形と戦った筈なのに、儀仗服には泥の汚れひとつ見当たらない。もはやその姿を見ている事すら出来ず、サンダルフォンは俯き、愛馬の手綱をぎゅ、と握りしめる。あるじと同じく疲れが蓄積しているであろう白い愛馬が、彼を慰めるためか淡い金髪を鼻先でそっとつついてきた。あるじがひどく傷ついていることを、分かっているようだった。
……だいじょうぶ、さあ、行こう……みんな、待っているだろうから」
 愛馬に笑いかけ、二匹を伴い、厩へと向かう。足が酷く重く感じた。

 鳩舎塔からの帰り道、厩の方向からやってくるサンダルフォンを見つけてハニエルはほっと安堵の息を吐いた。
 無事に帰還した仲間の姿にいてもたってもいられず、駆け寄る。
「おかえりなさい、サンダルフォンさん!」
「あ、ああ……ただいま、ハニエル」
「よかった、無事で……あの、メタトロン様とは一緒じゃないんですか……?」
……彼はミカエル様へ報告に行ったよ。オレは今からシスターのところに。皆にはすぐ戻ると伝えてくれるかい?」
「はい、皆、安心すると思います!」
 嬉しそうに頷くハニエルに、サンダルフォンも微笑み返した。すると、ハニエルが小さく首を傾げ、サンダルフォンの顔をまじまじと見つめれば、微かに眉を曇らせた。
……サンダルフォンさん?」
「なんだい?」
「その……なにか、ありましたか?」
 おずおずと訊ねてくるハニエルの顔に己への気遣いが見える。は、と軽く息を飲み、サンダルフォンはゆるりと首を振った。
「なにも。……少し遠い場所への任務だったからね、疲れているのかもしれない。ハニエルが心配することは無いよ」
「そう、ですか……
 それでもどこか腑に落ちないような表情をさせ頷くハニエルを安心させるように、大丈夫、と念を押した。また後でと言い残し足早に去る仲間の背中を、ハニエルはじっと見つめていたが、やがて軽く首を振り、先に寄宿舎へと帰り仲間の帰還を皆に知らせようと歩き出す。今日は久しぶりに皆で食卓を囲めるのだと己の中の小さな不安を片隅に追いやった。
 

「なあってば」
 ラジエルがうんざりしたような声を出して、隣で仏頂面のまま物思いに耽っている相棒を見た。しつこい、と柘榴色の目がじろりとそちらを睨めば、苦々しい顔の仲間が立っている。
「うるさい」
「だってさぁ!」
「お前に言われなくとも、分かっている。……サンダルフォンの事だろう?」
 神学校の庭園に根を下ろす林檎の大樹、その根元でラジエルとサマエルは話していた。ここを気に入っているのはサマエルで、よく根元に腰掛けては休んだり、物思いに耽っている。
 今もこうして、己の内側に沸き起こった懸念について考えていると、ラジエルがやってきたのだ。彼もその顔に、憂いを滲ませていた。
……どうしちゃったんだろ、サンダルフォン」
「メタトロンとの任務から帰ってきてから様子がおかしいのは誰が見ても明らかだ。この一ヶ月、鍛錬でも任務でも、あいつは何か急いているように見える。……それと、あまり笑わなくなった。本人はいつも通り振る舞っているつもりらしいが……
 根元に腰掛けているサマエルの隣に、ラジエルもどさりと腰を下ろした。昼下がりの柔らかな陽光を受け止め、新緑は輝いている。
 庭のところどころで、休息日の使徒たちが仲間と憩いの時を過ごしているのを眺めながら、ラジエルは口をへの字に曲げた。
……俺、思うんだけどさ。サンダルフォン……前からあいつ――メタトロンの事を知ってるって思うんだよな」
「どういうことだ」
「東部都市で、でけー悪魔が現れたじゃん。あの悪魔を倒したのはメタトロンだろ。あいつを見た時のサンダルフォンを思い出したんだ。それにあいつを呼ぶ時の……
 くだんの任務を言い渡された日、あの最高序列の使徒と二人での任務だと伝えてきたサンダルフォンの顔を思い出す。不安と、微かな期待の光が宿った目。
 それが何を意味しているのか、ラジエルの言葉によってサマエルは朧気に触れた気がした。ラジエルとサマエルの二人の間に一瞬、沈黙が流れたが、少ししてから、ラジエルが口を開いた。
「前にさ、皆で養護院に行ったろ? 途中の宿屋で話したの覚えてる?」
――使徒としての役目を終えたあとに何がしたい、だったか」
「そう。サンダルフォンはあの時、友だちを探したいって言ってた。……メタトロンって、もしかするとその友だちなのかもしれない」
……お前はあれが友人の間柄に見えるのか」
「全部、俺の勝手な想像だぜ? でも、でもさ……もし、メタトロンがサンダルフォンのことを忘れていたとしたら? サンダルフォンは小さい頃に友だちと別れてしまったって言ってた……あり得ない話じゃないだろ。メタトロンの名前を口にする時のあいつ……本当に寂しそうだったんだ。サマエルだって、感じたはずだろ?」
――……確証がない。ない、が……あの二人での任務中に何かがあったのは間違いないだろう。サンダルフォンをあれほどまでに気落ちさせる何かが……だが、お前の推測が正しかったとして、俺たちがそこに踏み込んでいいのかと思う。……何があったんだとむやみやたらに問い詰めることで、サンダルフォンの中にあるものを、踏み荒らしはしないだろうか」
「俺も、そう思うよ。俺やサマエルだけじゃない。ハニエルも、ザドギエルも、シスターもきっと同じ気持ちだ。でも……くそ、どうすりゃいいんだろうな……
……もどかしいな」
 サマエルがぽつりと呟けば、学び舎の鐘が鳴り響いた。昼休みの終わりを告げる音が日だまりの目映い中で揺れている。サンダルフォンの傷ついた心を、時間は癒やしてくれるだろうかとふと考え、しかしすぐにその考えを捨てた。


 楽譜を眺めるものの、旋律が浮かばない。
 ただ五線譜に散りばめられた音符を、無為に眺めているだけだった。
――……
 それを口ずさもうとして、やめた。小さなため息と共に、サンダルフォンは顔を上げて窓の外を眺める。初夏の鮮やかな緑と、青い空が目に滲む。爽やかな外の景色とは裏腹に、少年の心には影が落ちていた。
 メタトロンとの任務から帰ってきてからというものの、あまり眠れていなかった。ベッドに潜り、目を閉じても闇の中で輪郭だけがやけにくっきりとして、そしてようやく微睡んだかと思えば、日の昇らないうちにはっと、目が覚めてしまう。
 不明瞭な夢の中で森での一件が断片的に浮かび上がって、そのたびに必ず、幼馴染みだった男が己を忌ま忌ましげに睨むのだ。
 夜のうちに目が覚めれば、それきり眠ることも出来なかった。
……駄目だな……歌まで歌えなくなったら……
 自嘲し、楽譜を鞄にしまう。こんなことではいけない、と自分に言い聞かせ、サンダルフォンは窓から注ぐ陽光から逃げるように席を立った。
 
 急な任務だった。
 聖都からほど近い道で、悪魔の群れが現れたという。都市と聖都を結ぶ道、信徒の安全を確保するべくIBはただちに派遣された。月明かりの下、悪魔の群れが集まっている。蝙蝠羽の生えたもの、地を這う者が目をぎらつかせ、獲物を求めていた。
 サンダルフォンの合図に四人が駆ける。真っ先にザドギエルが剣を抜き、こちらに気がついた下級悪魔が抵抗する隙も与えずに両断した。サマエルも赤き蛇を操り、悪しき者を斃していく。ハニエルやラジエルも、彼らを支援しつつ応戦している。
「くっ……
 悪魔の一撃を手にした剣でなんとかいなし、返す刃でその身を貫く。身体が妙に重く感じ、呼吸がしづらい。心を奮い立たせ、サンダルフォンはその感覚を誤魔化しつつ応戦していた。
 いつもは苦戦することなど無い下級悪魔を相手に手こずっている。それを仲間に悟らせまいと、目の前の敵を斬り伏せた。
 戦いは熾烈を極め、月の光を遮るように彼らの頭領であろう悪魔が舞い降りてきた。下卑た笑みを浮かべたそれが蝙蝠羽を羽ばたかせれば、いくつもの風の刃がサンダルフォンへと放たれる。咄嗟に手をかざせば、風の刃からサンダルフォンを守るように光の加護が展開された。
「〝恐れてはならない――〟」
 聖句を紡ぎかければ、何かがひび割れる音がした。それはサンダルフォンの耳にも届き、その瞬間、目の前の光の加護に大きなひびが走った。
「え……
 硝子が砕け散るような音とともに、加護が破られ、悪魔の勝ち誇った笑いが夜闇に響き渡る。不測の事態に呆然とする使徒への罰と、再び風の刃が放たれればその身体を切り裂こうと迫り来る。――避けられない。
「サンダルフォン!」
 鈍い衝撃と共に視界が暗闇に包まれれば、ザドギエルの呻き声がすぐ傍で聞こえた。サマエルの怒りに満ちた叫びが、遠い。背中を、ぐ、と抱き寄せてくる誰かの手が震えているのが伝わる。早鐘を打つ鼓動の音。頭が働かず、意識が揺らぐ。
 ――今、オレはどうなった? ――
「ザドギエルさん!」
 サンダルフォンを庇い風の刃を肩や腕に受けて倒れたザドギエルに、ハニエルが駆け寄る。仲間を傷つけまいとしているのか、サンダルフォンをその腕のなかにしっかりと抱き留めているのを確かめ、ハニエルはサマエルとラジエルに視線を向けた。彼を傷つけた悪魔はサマエルの赤い蛇によって容赦なく滅ぼされ、付き従っていた下級悪魔もラジエルによってほとんど倒されている。
「ザドギエルさんっ、もう安全です……! 大丈夫ですから……!」
 痛みに意識を失いかけながらも力を緩めないザドギエルの手をどかし、サンダルフォンを助け起こす。彼の怪我は無いようだが、サンダルフォンは身を震わせ、己の代わりに傷ついた仲間を凝視している。
 駆けつけたラジエルの呼びかけにも答えず、ひゅ、と息を乱した。
「どうして……
「っ、ぐ……サンダルフォン、無事か……?」
……オレの、せい……
 サンダルフォンをラジエルに任せ、ハニエルがザドギエルの傷を止血する。ラジエルはサンダルフォンが動けないと踏みその肩を持てばふと怪訝な顔をさせ、その手のひらをサンダルフォンの額にそっと当てた。
「なっ……サンダルフォン、すごい熱じゃんか……!」
……だい、じょうぶ、オレは……それよりも、ザドギエル、を……
 上手く息が出来ていない。震える手で縋るようにザドギエルの手を握るサンダルフォンの、肌の熱さにザドギエルがぴくりと身を強ばらせた。ぐらりとサンダルフォンの身体が倒れかけ、ラジエルが慌てて支える。
「早く帰るぞ。どちらも医者に診てもらうべきだ」
 サマエルの声に二人が頷く。ラジエルがサンダルフォンを背負い、サマエルがザドギエルの身体を支え、急いで帰路についた。

 翌日、サマエルとザドギエルは寄宿舎に居間にいた。
「怪我の具合はどうなんだ」
……一ヶ月は戦うな、だって。こんなのすぐ治るのにな……カートリッジの補充も駄目だってシスターに言われたよ」
 サマエルに問われたザドギエルが肩を竦めれば、走った痛みに顔を顰める。用意したグラスに水を注ぐサマエルを見やり、聞き返した。
「サンダルフォンは」
「まだ熱がある。しばらくは療養棟で休ませると」
 サマエルの答えに小さく頷き、視線を彷徨わせる。しばらく思案すれば、青い眼差しを仲間に向けた。
……サマエルはあの時、サンダルフォンの加護を見た?」
「いや……
「俺は見た。下級悪魔の攻撃で、加護が硝子みたいに砕けるのを……あの程度の悪魔なら、そんなことはあり得ないはずだ」
……おそらく、サンダルフォンの心が反映されてしまったのだと思う」
「心?」
 ザドギエルが首を傾げれば、サマエルが頷く。
 指で仲間の心臓を示しながら、言葉を続けた。
「お前の力……退魔の血は身体に宿ったものだ。乱暴に言えば、その血の所有者がどういった状態であれ生きていればその効力を発揮する。そうだろう、ザドギエル?」
「うん。例えば俺が四肢を失って戦えなくなったとしても、心臓さえ動いていれば……そう、カートリッジに補充さえ出来れば誰でも使える。勿論、俺が使うよりも多少、力は弱まるけどね」
……そうだ。だが俺やサンダルフォン、ラジエルやハニエルの能力は感情によって出力が変わる。強い意志を持てば発揮される力は強くなる。逆も然りだ。意思が弱まれば――
「下級悪魔の一撃すら防げない、か」
 顔を曇らせるザドギエルに頷きつつ、サマエルは少しばかり遠い目をさせた。ふと、昔のことを思い出したからだった。

「め、メタトロン様!」
 休息日、クシエルに誘われて街へと出かけようとしていたメタトロンを呼び止めたのは、覚えのない使徒だった。淡いリラ色の髪を持つ男と、アプリコットの髪の男が顔を強ばらせ、こちらを見ている。
「あっ、サンダルフォンくんの隊の人だ! ハニエルくんと、ラジエルくん!」
 二人を少しなりとも知っているらしいクシエルがぱっと顔を明るくさせる。ハニエルはぺこりと頭を下げたが、ラジエルはメタトロンを軽く睨みつけ、口を開いた。
「あんたに聞きたい事があるんだ」
……何だ」
「あ、あの、サンダルフォンさんのことで……この前の任務で何があったのか、教えていただけませんか? た、例えば、呪いを受けたとか……!」
 声を震わせながらハニエルが訊ねてくるのに、メタトロンは目を細めた。一方クシエルは目を丸くさせ、首を傾げている。一瞬の間のあと、メタトロンは答えた。
「何も無かった。森の中で奇妙な人形と交戦しただけだ」
「交戦しただけ? 任務から帰ってきたサンダルフォンは様子がおかしかったんだ! 何も無かったなんてこと、信じられるかよ!」
 怒りを露わにするラジエルをメタトロンは冷ややかに見つめ、小さな息を吐く。あの男の仲間らしい、惰弱さだと軽い苛立ちさえ感じた。
「ただあいつが足手まといだったというだけだろう。俺の姿を模した人形を壊すことを躊躇った。その甘さと弱さから、あれは自らの身を危険にさらした」
「それは……その人形が本物の貴方ならばと思ったからでは無いでしょうか……?」
「そうだとして、何を躊躇う必要がある?」
「彼は貴方を傷つけたくなかった! それは、理由にはなりませんか……!」
「そのような考えを悪魔は利用する。現に俺が、あの人形に銃弾を撃ち込まなければ、お前たちの隊長は死んでいた」
 きっぱりと言い放たれ、黙りこくる二人をメタトロンは厳しさの孕んだ眼差しで見つめた。琥珀色の瞳と、淡く青い瞳。その眼差しは信じられないものを見るように、揺れている。
「お前たちが俺にあの日のことを聞きに来たあたり、やはりあいつは使徒には向いていないようだな。傲慢なほど甘く、唾棄すべきほどに弱い。……伝えておけ、お前が歩むべきは戦いの道ではない。素直に身を引き、聖歌を主に捧げる道を――
「ッ、サンダルフォンさんは、弱くなんかありません! それに、サンダルフォンさんの歌は戦いから逃げるためのものじゃない、そんな言い方しないでください!」
 メタトロンの言葉を遮るようにハニエルが叫ぶ。ハニエル、とラジエルは目を見開いて隣の仲間を見つめていた。
 人に対してこんなにも激している彼を見るのは、はじめてだった。
 メタトロンも軽く目を見開き、己よりも華奢な少年を暫く見つめていたが、やがて顔を背け、踵を返した。
……話にならんな。いくぞ、クシエル」
「う、うん……じゃあね、二人とも!」
「本当にサンダルフォンのこと、知らないのか?」
 去ろうとするメタトロンの背中に、ラジエルが投げかければメタトロンの歩みが止まった。黙りこくったままの仲間をクシエルは見上げ、メタトロン? と小さく声をかければ、金髪の頭が静かに横に振られた。
「くどい。俺の中にあいつの記憶は一切無い。――記憶違いだろう」
 今度こそ去って行く二人の背中を暫く睨んでいたラジエルの隣で、ハニエルは唇を噛み、肩を震わせた。とんでもないことを言ってしまった、と顔を青くしている仲間に気がつき、ラジエルはその肩に手をかける。
「ご、ごめんなさい……オレ、最高序列の使徒に、あんな……
「最高序列とか関係ないだろ! あんなやつ、どんなに強くて偉くても最低だ! それこそお話になんねーよ!」
 行こう、ハニエル。励ますように肩を叩けば、ハニエルも頷き返す。いつもは明るく笑っている仲間の顔に微かな苛立ちが見える。自分と同じように、彼も怒っているのだと、ハニエルはふと、思った。
 
 熱は下がった。明日から、加護の力が戻るまで寄宿舎で療養することになった。
 ――焦っちゃ駄目よ、サンダルフォン。今はゆっくり休むべきだわ。
 見舞いに来たシスターの言葉を思い出しながら、サンダルフォンはベッドの傍らの窓から庭園を眺めていた。きらきらとした日差しが、花や緑を輝かせている。
――恐れてはならない……
 手のひらを見つめ、聖句を呟く。
 手の上に小さな光は現れたが、すぐにそれは歪み、消えてしまった。
…………
 目の奥が熱い、頭が重い。思わず両手で顔を覆う。

 ――弱い使徒などいらない。

 メタトロンの冷たい眼差しが、侮蔑を孕んだ言葉が、己の中で反響する。このままではいけないと分かっているのに、自分の中にある力は感じ取れなくなっている。
 シスターの言葉とは裏腹に、焦りばかりが募る。
 これからどうすればいいのか、サンダルフォンには何も分からなくなっていた。