身体を重ね、なにもかも出し切ったのが数分前。少しは落ち着いたものの、シャワーへ行くのはまだ億劫だった。情事の余韻が滲む薄ぼんやりとした倦怠感とか、常識や建前その他諸々を脱ぎ捨てている身軽さとか。そんなものを消えて失くなる最後の最後まで味わい尽くそうとする自分は貧乏性なんだろうなと獅子神は思う。
使用済みのゴムを捨てに立った叶が部屋を出ていき、戻った両手にはミネラルウォーターのボトルが握られていた。一本をサイドテーブルに載せ、もう一本は立ったまま口をつけている。ゴクゴクと嚥下する喉仏の動きを目で追っていると、叶は口を離して勢いよくベッドへ腰を下ろした。飲み口から跳ねた水がシーツに落ちたが、そんなものは今さらだろう。
ベッドの高さが合わないからか、前屈みに座る叶の後ろ姿は猫背気味になっている。少し丸まった背中にはぽこぽこと椎骨が浮き上がって見えた。そのひとつひとつを辿ったときの感触を、獅子神の指先はやすやすと思い出せる。そんな事実にどこか落ち着かない心地になると、覚えてしまった感触を仕舞い込むように指先を握りしめた。
叶の後ろ姿を漫然と眺めていた獅子神が思い付いたように声をかける。
「なあ」
「んー?」
呼びかけに応じはするが、叶の顔はまだ前へ向けられたままだ。
「あのとき」
そう口にして初めて身体ごと振り返る。目が合ったのを確認してから獅子神は問いを続けた。
「オレが最後までやらなかったの、オマエ的に残念だったりしたのか?」
二人命懸けで挑んだゲームからずっと抱えていた懊悩を今ようやく⸺なんて、そんな深刻さや切実さは微塵もない。浮かんでは消える泡沫みたいに、ぼーっとした頭の中で輪郭が曖昧だった疑問が目の前に形を持って現れて弾けた。だから、つい口にしただけのこれは独り言の延長に近い。
獅子神を見つめる大きな目が二回瞬きをする。そのコンマ何秒で叶は「あのとき」がいつを指すのか精査したらしい。やるやらないという言葉の意味も含めて。
「言っただろ? 死んでまでやりたい何かなんて、実際そんなにないよねって」
ベッドに上った叶はスプリングを弾ませながら移動する。寝そべったまま揺れに身を任せていた獅子神へ未開封のペットボトルを差し出すとヘッドボードに背を預けて座った。
「質問の答えになってねぇだろ」
行為の名残りに浸っている頭に、なにかを示唆するようなまだるっこしい回答は控えてもらいたい。
クレームを上げる恋人に、叶は仕方ないと苦笑いを浮かべる。
「言葉どおりの意味だよ」
「やれるもんならやってみろって挑発ってことか?」
「だーかーらー、言葉どおり。思い出してよ。言ったろ? 悪くない。そう思ったんだよ」
獅子神は今一度、負けを認めることになった叶の言葉を思い出す。
「敬一君が賭けることになるものの価値をちゃんと分かった上で、それでもって言うならね」
自分の水に手を伸ばす叶の言葉を頭の中でなぞる。やぶれかぶれの勢いではなく、泥仕合を望むことへの代償。賭けのテーブルに載せた命を失うことが何を意味するのか、獅子神はあそこで説かれた。
「っていうか、分かってたしね。敬一君がそっち選ばないこと。ドーパミンで突き動かされて、その場のノリだけで心中しちゃうのもなんか違うし
……。だから敬一君相手にそこまでは期待してなかった」
「オマエ、言い方」
「期待外れって意味じゃないことくらい、もう分かるだろ? あそこでちゃんと踏みとどまれたのも敬一君の魅力の一つだって。未来を見据えた向上心たっぷりの質問、堪んなかったもんなー」
あのときを思い浮かべてるのか、しみじみと噛み締めるように言う姿を前にして反応に困る。心から言ってるのが分かるから、余計にだ。
「しかも友達や敵としてだけじゃなくても、こんなに魅せてくれるなんてね」
ニンマリとでもいうのか、含みを持った表情をしている。人気ストリーマー様は顔面での煽りも得意らしい。
「それは、お互い様だろ」
獅子神だって命懸けで挑んだ大事な友達が、まさかこんなふうに恋人になるだなんて思いもよらなかった。惹かれてはいたかもしれない。だが、そこからの具体的なイメージまでは描けてなかった。
失いたくない友達という距離から、もう一、ニ歩踏み込んでしまった。踏み込んだ足は泥濘みに取られて抜け出せなくなって。進んだ先で待ち構えていたのが、もがけばもがくほどに沈んでいく底なし沼だったのは誤算だったというかなんというか。
そんなもの、常識で考えたら分かるだろうと責められたらそれまでだが。恋は盲目というらしいし仕方ないだろう。
目が合うと全てが筒抜けなのか、叶はなんだか機嫌が良さそうに見える。そう感じたのは間違いではなかったらしい。
「敬一君、おいで?」
下着一枚で座ったまま腕を広げる叶の声は、普段聞いたことがないくらいに酷く甘い。気恥ずかしさからくる小さな抵抗感もゼロではない。それでも獅子神だってこのお誘いを払いのけるほど野暮でも捻くれてもいない。
身体を起こし、叶の傍へとにじり寄る。素直に自分のもとへと近寄る獅子神に叶は満足気だ。間近まで来てどうしたものか逡巡する獅子神に、叶は足を開いてスペースを作る。おいでおいでと言わんばかりにタンタンとシーツを叩くので、獅子神は叶に背を向ける形でそこに座った。
すぐさま、覆いかぶさるように腕が身体の前に回される。叶の胸元から腹にかけてが獅子神の背中にぴったりとくっついてきた。少し前まで滴るくらいにかいていた汗が今はもう引いていて、触れた肌はひんやりとしている。
髪の毛を弄び始めた指先も自分の体温と比べれば冷たいはずなのに、掠めて触れた部分が仄かに熱を灯したように温かく感じてしまう。それが気持ち良く、つい目を閉じていた。
「カワイイね」
なんて柄でもない言葉なんだと思う。言う方も言われる方も。いつもなら茶化されてる気がして言い返している。今は余計な見栄やプライドは脱ぎっぱなしのままだから、その声音だけを楽しめた。
しばらく叶の腕の中を堪能していた獅子神だが、ぶるりと体が震えたあとで小さくくしゃみをした。汗が引いたからか肌寒さを覚える。
「シャワー、先に行ってきたら?」
目の前で組まれていた腕が解かれる。叶は常識的というか建設的で真っ当なことを言っているのに、寝起きでぐずる子どもみたいに、この男の半径数センチから出たくないと思ってしまう獅子神がいる。
無言の獅子神になにを思ったのか、叶が鼻先を側頭部に埋めてくる。耳の端に微かに触れる近さに唇が寄せられた。
「バスルームまでお見送りしてあげようか?」
どうやら、とことん甘やかすつもりらしい。その提案も悪くはないが、あと一歩物足りない。
「
……湯船にお湯張ってるから、オマエも道連れにしてやる」
呻くように絞り出した声とその中身のギャップに、叶はおかしそうに笑い声を上げた。くっついた背中に振動が伝わってくる。
「敬一君からの心中のお誘いなら喜んで」
楽しそうに軽口を叩いてくる男に、それならそれで死にそうなくらいの目に遭わせてやろうじゃないかという気がふつふつと湧き上がる。
夜はまだ長い。息も絶え絶えになるほどの駆け引きを楽しむのも悪くないか、なんて。そんなことを考えてしまうのは、この男相手だからなんだろう。別にセックスなんてたいして好きでもなかったのに、今じゃこの体たらくだ。
「お姫様抱っこはさすがに無理だけど⸺」
先にベッドから下りた叶が恭しく手を差し出す。おどけた仕草に、本当にバカだなと思いながらも手を取る。
お互い望んだ上での心中希望の男に、とりあえずはバスルームで天国でも見せてやろうか。そんなバカみたいなことが浮かぶ自分も人のことは言えないななんて思いつつ獅子神はベッドから立ち上がった。
終
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