最寄駅との間は二十分程歩く。最寄り駅は無人だが、花壇がある。誰が世話をするというのか、その考えを反映させるかのように、当然のように花壇には何も育っていない。駅を出た川沿いのその道には、家との丁度中間地点にラーメン屋の夜店が来ている。いつかは食べてみたいと思いながらも、会社帰りは独身仲間と食べて帰るから、屋台で食べては食費が保たない。
ぐっと我慢して、いつも通り過ぎていた。店主は似つかわしくない細身で長身の男で、何処かラーメン屋に似つかわしくない上品さがあるし、遠目で見てもスーツのような衣服でラーメンを出している。そのカウンターには、いつも誰かがいる。金髪のその男は、おそらく同じ人物だ。屋台の手押し部分に、犬のリードを括り付けている。小麦色の毛並みの犬は吠えることもなく大人しく、主人がラーメンを啜るのを、何処か楽しそうに待っている。ラーメンなどの人間用の料理は、あくまで人間用の食事だ。たぶん。
仕事仲間との雑談で、噂話が上がった。よく知った駅名、最寄だ。なんでもその川沿いの屋台では、血を混ぜた醤油を使った夜店のラーメン屋があるらしい。しかし、食べればそれはもう美味しく感じるらしく、毎夜通って仕舞うらしい。そこの店主は実は宇宙人で、客から抜いた血を、ラーメンに混ぜて提供しているらしい。そこでトッピングを六つ以上頼むと、アブダクションされて、ラーメン屋の食材にされて仕舞うらしい。とんだ眉唾だ。ツッコミどころが多いと笑われる話題だった。自分の最寄り駅の名前だということは言い出せず、その噂話は、当然のように流れて行った。仲間と解散して辿り着いた最寄り駅は、相変わらず無人で、他の乗客も見られず、花壇にも何もない。
そして段々、会社で懇意にしていた仲間達は、結婚して恒例の会社帰りの夕食会や飲み会に不参加表明をしだす者もでだした。良いことだ。だが生活に差が出て、今では食事会どころかその他の会社の日常でも話題が異なったりして、関わりづらくなった。付き合いが悪くなったとは言いたくない、きっと、向こうの話を聞いてやれないこちらも悪いのだ。
それとは逆に心配になる仲間達もいた。不調をきたして休職したり辞めたりし出した。そういった各々様々な理由で、食事を共にする面々も減って行き、最後には自分ひとりとなった。おひとり様のテーブルなら、店で食事を摂る理由もない。買って帰るか何かすれば良い。その日からは、会社から最寄駅まで真っ直ぐ帰路に就くようになった。
すると余計に目に付くラーメン屋台。何せ腹ペコだ。夜店に近寄ると、店主と目が合う。
カウンターの向こうで、にこりと上品に微笑まれる。やっぱり、ラーメン屋とかよりもコーヒー店とかの方が似合っている気がする。カウンターに既にいた客は、金髪の男で、隣に着いても軽く会釈をしてくる、寡黙な人物だった。犬も相変わらず大人しい。
店主にラーメンを注文する。トッピングはチャーシュー、エビ、味玉、小ハゼ煮、のり、なると、メンマ、小松菜、白髪ネギ。一先ず六つ程選ぶ。あの噂のことなんて、すっかり忘れていたから。店主は一つ頷くと、慣れた様子で丼を準備している。ラーメンが出来上がるまで、手持ち無沙汰に見回すと、隣人の丼が目に入る。金髪の男の椀は、まだ湯気を立てていたが、既にスープだけになっていた。汁だけでも美味そうだ。期待が高まる。
ことりとカウンターに丼の置かれる音。目線を移せば、店主が注文したラーメンを置いてくれていた。ほかほかと湯気がラーメンの良い匂いを鼻腔まで運んでくれる。美味そう。さっそく箸を取ってラーメンを啜る。美味い。夜の冷たさに沁みる。それだけでなく、最近寂しくなって仕舞った仕事仲間との付き合いも満たしてくれるような温かさ、美味さだった。美味い。トッピングも美味いし、スープは言わずもがな。
勢いよく食べ切って仕舞ったラーメンに、もう終わりかと残念な気持ちも覚えながら、満足してラーメン屋を離れた。ふと見ると、隣の丼は、未だスープから湯気を立ち上らせていた。常連らしい男は、後から来たこちらより先に立ち去る様子はない。犬ものんびりした様子だ。ラーメン屋を背に、くちくなった腹と共に家路に就いた。満たされて気分が良いからか、視界がふわふわとしていた。
仕事終わり、ひとり腹を空かせて帰る最寄りの無人駅は相変わらず人っ子一人いないが、花壇から何かが芽を出していた。双葉がこちらを見ている気がする。その晩から、夜はくだんのラーメン屋で摂るルーチンが始まった。噂のことはすっかりと頭から抜け落ちていた。通う度にトッピングを増やし、麺を啜り、スープを飲み干す。美味い。毎夜通っても、常連の金髪が麺を啜っているところは見たことがない。ひょっとして、スープだけを楽しんでいるツウなのだろうか。自分は腹を満たしたいので、がっつりラーメンを注文する。
いつしか、会社で同僚と誰とも雑談を交わさなくとも気にならなくなっていた。就業を終え、あのラーメン屋台に行けることだけが、楽しみになっていた。食べた後の高揚感も欠かせない。
「はい。お待ちどうさまです。」
今夜も店主からラーメンを受け取る。今回もトッピングを頼んでいる。いつからか、トッピングは何か変わったものが混ざるようになった。チャーシューには血管のようなものが通り、エビは腹が膨れた様子で脈打ち、小ハゼ煮は歯を並ばせて口を開けている。メンマは人の指、なるとは腸が渦を描くようだ。
箸でつまんで、トッピングを一つ一つ口に入れる。腹の膨れたエビ、子持ちエビなんてものが、あっただろうか。疑問に思いながらも口に入れる。咀嚼してもなんら可笑しな感覚はない。美味い。
「あっ。」
店主が悩ましげな声を上げたので、思わず口の動きを止めてはっと顔を上げる。
「ふふ。美味しいですか。」
無言で頷いて、また咀嚼する。
「ん。それは、良かったです。」
店主が微笑む。それが酷く妖艶に見えて、視線を散らせる。
気付けば常連の隣人は、カウンターから離れて犬のそばにいた。金髪の男のスープはまだ湯気を立てているが、一時的に離れた犬の飼い主には、今の遣り取りは見られていなかったようだ。強張っていた肩緩める。店主をちらと見ると、小首を傾げて笑みを向けられるので、なんとなく視線を逸らす。飼い主がカウンター前に戻ってきた。心なしかいつもより急いでラーメンの残りを平らげ、店を後にした。酒なんて入っていないのに、酩酊感のようにくらくらしながら家に帰る。帰宅しても、ゆらゆらした気持ちはおさまらなかった。変に心臓が高鳴る感覚。
その日も会社を退勤して、夜店のラーメン屋に向かう。自分にはもうそれしかなかった。家の最寄り駅にひとけはないが、花壇の芽は背を高くして、花を咲かせていた。向日葵だった。今は冬だというのに。しかし咲いているものは仕方がない。こっちを見下ろしている気はするが、ただ美しく咲いているだけだ。花を愛でるのもそこそこに、駅を立ち去る。
今夜もトッピングをマシマシにしてラーメンを頼む。美味い。体だけでなく、心も満たされるようだ。
「さあ、どうぞ。今夜も美味しくお作りしました。」
店主がラーメンを置く。常連の男は、今は犬のそばにいた。スープは相変わらず湯気を上げている。白く細い指がは温かな丼を運んでくれたが、店主の手は冷たく見えた。その手を思わず取る。思ったより冷たくはなかったが、ほかほかのラーメン程には温かくなかった。それを口に含んだ。
「あら。」
「あっ。すまん、つい。」
望んだ温かさじゃなかったからか、食欲が先行してか、店主の指を口に含んでしまった。自分の舌の方が余程熱を持っていた。
「うふふ。美味しく準備したのはわたしじゃなくて調理のことですよ。」
「……店主も普段ラーメンを食うのか?」
「……そうですねえ。わたしは、ラーメンスープで充分です。」
店主の手は離れて行った。
「お腹が空いているのでしょう、さ、どうぞ。」
店主は思わず口に含んで仕舞った右手を、ぺろりと舐めた。妖艶なその顔は、左目に傷があった。更にスーツの先の左手からは、鋭い刃が伸びている。その店主の姿は、顔は、とても人のものとは思えなかった。
「店主は腹は減っていないのか?」
「わたしもおまえを食べてしまいましょうか……ふふ、でも、今は結構です。安心してラーメン食べてください。」
出されたラーメンを見下ろす。この世の、この地球の食べ物とは思えないようなトッピングが載って、真っ赤な醤油ラーメンのスープに浸っている。
いつの間にか隣には常連の男が戻ってきていた。常連客は金髪だとばかり思っていたが、白髪で、右側の顔を目ごと覆い隠すように眼帯をしていた。犬も、黄色い毛並みに見えていたものが、今は真っ黒に染まっている。
「美味しいね。」
寡黙だと思っていた男が初めて口を利いた。しかも自分から話し掛けてくるとは、そういうタイプには見えていなかった。
「あ、ああ。」
「ウィックも、ここのトッピングが美味しいみたいで、少し貰うんだ。」
犬の名前だろうか。
「でも、犬に人間の食べ物を与えるのは。」
そう言い掛けるが、男は柔らかく首を傾げた。犬に目を遣る。犬、犬だよな。それに、ここのラーメン屋の食べ物は、人間の食べ物、だよな。スープばかりを頼んでいるこの男も人間、だよな。答えを出せないまま男に視線を戻すが、答えは返ってこない。
「美味しいね。」
男は重ねて言うだけだ。
「ああ……。本当に。」
「嬉しいです。次の夜も待っていますからね。」
「……ああ。」
ここのラーメンは美味い、本当に。何か可笑しい気がしても、通うのを、食べるのをやめられないくらいに。
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