暖かい風が吹き抜けて、清々しい程に青々とした葉が茂った枝木が揺れた。広い原っぱになった丘では小さな子供たちが楽しそうに走り回っており、その無邪気な姿に心癒される。茂みや綺麗に咲いた野花の前にはコマドリや鳩がうろついていて、眺めているだけで平和を感じられた。
スティーヴンはそんな平和で心落ち着く光景を眺めながら、公園のベンチに座ってふんふんと馴染みのある曲の鼻歌を歌っていた。機嫌が良い時に思わず出てしまう鼻歌だ。そう、スティーヴンは今大変機嫌が良かった。心地良い気温と天気の中訪れた公園はとても雰囲気が良くて、マークとのデートに最適だ。デートは万事順調に進んでおり、マーケットでウィンドウショッピングをしてランチをし、この公園で散歩をすることになっている。素晴らしいデートプランだ。恋愛初心者のスティーヴンでもわかる。こんなにデートの何もかもが上手くいくことなどそうそう無い。なんて幸運な日なんだ。
今は、近くのカフェに飲み物を買いに行ってくれたマークを待っているところだった。「沢山歩いて喉が渇いただろう」と言ってカフェに向かったマークは、スティーヴンの制止も聞かずにそそくさと一人で行ってしまった。本当に話を聞かない人である。スティーヴンもついて行こうと思ったのだが、雑踏に消えていったマークを見つけられなかったので諦めた。二人分の飲み物を持って来させるのは申し訳ないが、きっと彼なら何でもないことのようにやってくれるのだろう。その時は手間をかけさせてごめんと謝れば良い。
子供たちが楽しそうに遊んでいる声が聞こえた。彼らがきゃっきゃと無邪気に笑う声を聞いていると、えも言われぬ幸福感を覚える。あの笑顔を守ってあげたいという庇護欲を掻き立てられて、何だかむずむずしてしまう。可愛いですね、なんて唐突に声を掛ける訳にもいかないから我慢しているけれど。
子供は好きだ。穢れを知らぬ無垢な笑顔と、自分の思うがままにする行動力。どれも大人になる頃には失われてしまうものだ。だから守ってやりたい。そばに居たい。マークとの間に子供を授かることが出来たら良いのにな、なんてことを思ったことだってある。どうしたって叶わない馬鹿げた望みなのだが。
自分の中で話が飛躍してしまったな、と子供から視線を逸らすと、少し遠くのカフェからマークが飲み物のカップを持って出てきたのが見えた。こっちだよ、と彼に居場所が伝わるように手を大きく振る。するとマークは途端に表情を緩めて、スティーヴンの方へ向かってきた。彼のああいう表情が素直なところが好きだ。マークは無表情に見えるけれど、案外と感情を顔に出すタイプだ。特に、スティーヴンを見つけた時などは。本当に愛おしい。
「すまん、待ったよな」
「こっちこそごめんね。買って来させちゃって。混んでなかった?」
「あぁ。平気だ。ソイラテで構わなかったか?」
「勿論! ソイラテ大好きだもの!」
差し出されたカップを一つ受け取ると、マークがベンチの隣に腰掛ける。何だかマークが隣にいるとホッとする。今は一人で座っていたって幸福な気分だったけれど、マークが隣にいるとそれが何倍にも膨れ上がる。スティーヴンが感じている幸せを彼と共有できたら良いなと思う。
スティーヴンはカップを手の中で弄りながら視線だけで子供たちを指して、軽く微笑んだ。
「ねえ、あの子たち可愛くない?」
「あの子たち? 子供のことか?」
「うん。なんか、守ってあげたくなるっていうか」
「……そうだな。子供を守るのが大人の役目だ」
何となく伝えたいことが伝わっている気がしなくて、マークの方を見遣る。マークは柔らかい表情ではなく引き締まった表情を浮かべていて、それは決意というか使命感の表れというか兎に角あまりポジティブな意味の表情には見えなかった。もしかしたら、彼の嫌な記憶を呼び起こしてしまったのかもしれない。失敗してしまった、と酷く後悔する。
スティーヴンは大きく咳払いをして、空気を切り替えようと試みる。
「マークは、僕との子供欲しいと思う?」
「はっ?」
「だから、僕との間に子供欲しくない?」
「いや、それは……不可能だ」
「もしもの話だよ。どう?」
「そ、そういう話は、俺たちにはまだ早い」
そう言って、マークはそっぽを向きながら手にしたカップの中身を口にする。その耳先は少し赤色に染まっていた。その反応が可愛らしくて、思わずスティーヴンの口端から笑みが漏れる。ウブなところもあるのだなと意外に思う。どうやら、空気を切り替えることには成功したようだ。甘酸っぱい空気がスティーヴンたちを包んでいる気がする。
マークの耳先の赤色を眺めながら、スティーヴンもカップのフチに口をつける。小さな飲み口から熱いソイラテが流れ込んできて、スティーヴンは「あちちっ」とつい声を漏らしてしまった。それを聞いたマークが振り向いて、心配そうに見つめてくる。平気なのだということを表情で伝えれば、彼はホッと胸を撫で下ろしたようだった。心配性だな、と少し呆れてしまう。
「マークは何飲んでるの?」
「ただのブラックコーヒーだ」
「マークらしいや」
「そうなのか……?」
特に飾り気のないものを選ぶところが実にマークらしい。スティーヴンだったら兎に角色々なカスタムをしてもらおうとしてしまうけれど、マークのようなタイプはシンプルなコーヒーを選ぶのだろう。別にどちらが良いとか悪いとかではないけれど、スティーヴンはマークのようなタイプに憧れてしまう。クールに「ブラックのコーヒーを」なんて頼んでみたい、などという特に理由もない憧れがある。スティーヴンはブラックコーヒーが苦手だから。
お互いちみちみとカップの中身を口にしながら、無言で景色を眺める。会話が途切れてしまったので、何か話題を探そうと思考を巡らせた。
「マーク、最近調子はどう?」
「どう、とは?」
「仕事とか、気分とか。変わったことはない?」
「特には。仕事は少し大変だが、やり甲斐があるから困ってない。気分も落ち着いてる。お前がいるからな」
サラリと恥ずかしいことを言われて、スティーヴンは少し頬を染めた。マークは先程みたいなウブな面もあるくせに、こうして何事もないかのような態度で殺し文句を吐いてきたりするので油断ならない。心臓に悪いのでやめて欲しいのだが、こういうことを言われること自体は嫌ではないので言えずにいる。どちらにせよ、やめてと言ったところでマークに自覚があるとは思えない。よくわからない、といった顔をされるだけだろう。無駄な行為だ。
恥ずかしそうにしているスティーヴンを不思議そうに見つめるマークの視線が熱かったので、今度はスティーヴンが目を逸らした。居た堪れない。
「スティーヴンはどうなんだ」
「えっ?」
「仕事。大変だろう?」
「あぁ、まあね……上司は酷いけど、同僚の皆は優しいから何とかなってるよ。仕事自体は楽しいし」
ギフトショップの店員というのは本来望んだ職業ではないけれど、好きな場所で働けるという喜びはある。上司の酷さに反比例するように、同僚は皆優しい。スティーヴンのような人間にも分け隔てなく接してくれるし、ある人は時々ランチに誘ってくれたりもする。それがとても嬉しい。スティーヴンはその人が職場に来るまでいつも一人で昼食をとっていたから、人と食べることの楽しさを知らなかった。そりゃあマークとの食事は何よりも楽しいけれど、それはまた別だ。他人との食事の楽しさというやつだ。最近になってそういうことを経験したので、スティーヴンは何というか浮かれ気味だった。
「実はね、時々僕をランチに誘ってくれる人がいるんだ」
「ランチに?」
「うん。新しく入った人なんだけど、話題が合って意気投合しちゃって。一緒に食事するのが楽しいんだよね」
スティーヴンはカップをゆらゆら小さく揺らしながら止まることなく喋る。経験したことのある喜びをマークと共有したいという思いでいっぱいだった。だから、マークの様子が変わってしまったことには気が付かなかったのだ。
「その人美味しいレストランを知っててさ、いつもそこに連れて行ってくれるんだ。僕がヴィーガンだってことも覚えててくれてて、そういうメニューがあるところを態々調べてくれたらしくて。優しいよね」
スティーヴンはそこまで喋ってマークに同意を求めた時、やっと彼が俯いてしまっていることに気が付いた。それに、すっかり無言になってしまってやんわりとした圧を感じる。嫌な汗が背中を垂れて行った。
何かまずいことを言っただろうか。スティーヴンはただ、優しい同僚が居てその人との時間が楽しいということを教えてあげたかっただけだ。他意はない。だが、マークには何か違う意味に聞こえてしまったらしい。それが何なのかなんてスティーヴンにはさっぱりわからないけれど、良くないことを言ってしまったことだけはわかる。また話題選びに失敗してしまったらしい。
「ま、マーク? なんか、不機嫌?」
「……別に」
「いや、不機嫌だよね。ごめん、何か変なこと言っちゃったかな」
「そんなんじゃない」
どう考えても不機嫌だ。隠し通せると思っているのだろうか。こんな風に感情を表に出すのはマークにしては珍しい。よほどまずいことを言ってしまったようだ。スティーヴンにはどうしてもその自覚がないものだから、謝ることしかできない。
「ごめん、僕君に嫌な思いさせるつもりなくて……」
「名前は」
「は?」
「その同僚の名前は」
突然よくわからないことを問われて、スティーヴンは目を瞬かせる。名前? 何故そんなことを聞く。どんな意味があるんだろうか。想像もつかない。けれどマークの視線は真剣で、どうやら冗談か何かで言っているわけではないらしい。
「えーっと……ジョン、だけど」
「……男なのか」
「え? う、うん?」
スティーヴンが頷くと、マークはそれきり黙ってしまった。手にしたカップを見つめながら。心なしか、カップが歪んでいるように見える。
本当に、全く意味がわからない。何故名前と性別を聞いたのだろう。そこに何の意味があったというのか。マークが何も言わないので、スティーヴンは必死に考えた。
マークは、スティーヴンが同僚と食事に行ったのだということを喋った瞬間から不機嫌になった。それはつまり、その行動が気に食わなかったということだ。スティーヴンに同僚と食事に行って欲しくなかった。何故そう思われたのか。考えて考えて思い浮かんだのは、「嫉妬」という2文字。
あ、とスティーヴンの口から声が漏れる。これはスティーヴンの配慮が足りてなかった。恋人が他の人と二人きりで食事に出掛けていると知って、嫌な気分にならない人なんていないだろう。スティーヴンだって嫌だ。だからマークは、恐らくジョンに嫉妬したのだ。というより、嫌悪感を抱いたに違いない。スティーヴンを奪われてしまったような気持ちになったのだろう。当たり前だ。
なんてことをしてしまったんだ、と今更後悔する。マークに断りもせずに誰かと二人きりで食事なんてするべきじゃなかった。これでは恋人失格だ。
スティーヴンは慌ててカップをベンチに置き、両手をあわあわと大きく動かして弁明する。
「マークごめん! 僕、考えが浅かったよ! これからはこんなことしない。だから許して……」
「別に怒ってない」
「めちゃくちゃ怒ってるじゃないか……」
「俺は、俺はただ……」
マークはそう小さく呟いて、口籠る。その様子を見て、ひょっとするとマークは自分の感情がよくわかっていないのかもしれない、と思った。自分の中で渦巻く嫉妬の感情の名前がわからなくて、モヤモヤしているだけなのかも。だからこんなにもハッキリしない態度なのだ。マークは自分の感情に疎いところがあるから、そうだとしても違和感はない。
だったら、スティーヴンがその感情の名前を教えてあげようと思った。
「マーク、嫉妬してる?」
「し、嫉妬?」
「してるよね。ジョンと僕が出掛けるの嫌だったんでしょ? それって嫉妬じゃない?」
「違う。そんなんじゃ、ない……」
段々と自信がなくなってきたようだ。そんなマークを見ていたら、何だか沸々と愛おしいという感情がスティーヴンの心に生まれてきた。
だって、恋人が誰かと出掛けていると知って嫉妬しているのに、それを自覚していないなんて。なんて純粋で無垢な人なんだ。まるで純真無垢な子供みたいだ。愛おしくて仕方がない。
「君ってば……! なんて可愛いんだ!」
「はぁ!? な、なんだ突然!」
スティーヴンはマークの手からカップを奪って他所にやり、無理矢理抱き締めた。腕の中のマークがジタバタと身動ぐ。人前で抱きつかれて恥ずかしいのだろう。でもやめてやる気はなかった。だってこんなにも愛おしい。嫉妬するマークがこんな可愛いだなんて知らなかった。いや、嫉妬させるのは良いことじゃないのだけれど、もっと見てみたいと思ってしまう。これは意地悪な感情だから、実行に移したりはしないが。
「ごめんね、マーク。もう嫉妬しないで。僕はずっと君のそばに居るから」
「だから何の話なんだ! もう、離せスティーヴン!」
スティーヴンはマークの撫で付けられた髪にキスをして、頬擦りまでしてしまう。暴れるマークにべしべしと腕を叩かれて、少し痛かった。でも気にしない。
ジョンには悪いけれど、これからは昼食は一人で食べようと思う。スティーヴンには、嫉妬深い恋人がいるから。あぁ、本当に可愛いと思いながらスティーヴンは愛おしさに目を細めた。
終
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