廊下は長く、きわだってきれいに磨かれている。覚えているかぎりでは、特にワックスなどもかけてはいない。この家そのものが美しくあろうと思っているようであった。
私がこの家にきて数年経っても、これほど美しくなることはなかった。――いや、しらずしらずのうちに、気に掛けていたのかもしれない。紫垂月頼宗がきたことによって、保たねばならないと、そう考えていたのだろう。
床の間の活け花はみずみずしく、麗しい。厚みのある花びらを膝立ちでながめ、視線を徐々に上へとあげる。うららかな着物を着付けた女と花が描かれた掛け軸が一幅。この家に唯一存在する女である。この家に女は寄りつかない。私も、競って寄せようと思ったこともない。この家はそういうものなのか、分からない。ただ単に必要がなかっただけなのかもしれない。
畳が軋む音をみとめて、振り向く。
「気配がないと思ったら」
彼はそういい、うすく笑った。そうして私のとなりに歩み寄り、その一幅を眺めた。
「美人画? そういう趣味だったのかい」
「そういうわけでは……。虫干しもかねて、順に一幅ずつこうして飾っているだけです」
長いまつ毛をふせて、彼は掛け軸をじっと見つめている。彼がなにを考えているのか分からないので、私もならって掛け軸に視線を注いだ。
おしろいを叩いた顔、お歯黒、島田に結った髪、春の花柄の振り袖、裾からそっと見える白い踵。
その足もとに、杜若が咲いている。杜若色としか言いようのない、みごとに花の色を写し取った絵だった。その花を見つめる女の目は、情欲だとか色欲だとか、そういったものも含まれているようだった。主観にすぎないが、私にはそう見えた。なぜなら、それほどの価値を私も知っているからだ。
「作者は無名でしょうけれど、花を見る目は確かです。女性そのものよりも花の色合いのほうが私は好きです」
「へぇ」
彼は相槌を一度。そして畳の上に坐した私を見下ろした。私も彼の目を見上げる。ぼんやりとした静寂ののち、視界にふっと黒い影がゆらめいた。陽炎のようだった。
視線をはずして、その影を追う。
「たまにいますね。この部屋に」
「いけないもの?」
「いいえ。そのうち自然消滅するだけの霊です。霊、というよりも――」
衣ずれの音がすぐ近くで聞こえ、反射的に顔を上げた。紫垂月頼宗の、美しい貌が私の顔に影を落としている――。そう胸中で呟いたあと、ふいにくちびるを撫でる指先の体温を感じた。
「放っておけばいい。生きていないのなら、存在しないのと同じだろう」
そうですね、と紡ごうとしたくちびるを、彼は当たり前のようにそっとさらう。
「この部屋は滅多なことでは使わないので」
目の前にある衣に触れた。息をつくようなトーンでことばに出したが、どこか言い訳じみていたことに気付く。
「それならちょうどいい」
本当にちょうどいいことに、ここには塵ひとつないだろう?と耳もとで彼はいう。どうしてか、不自然なほど美しいまま保っている。それを不思議がるも、紫垂月頼宗の白い指が衿のあわせをそっと引っ掻いた。正絹の黒いそこがかすかにたわむのを見、ずるい方だと喉の奥で笑う。
彼は私の胸のあたりを軽く押すと、その後のからだは素直なものであった。
額、頬、顎、首筋、肩と、下におりていく彼の頭を髪ごと梳く。くちびるの体温が好きだった。彼の。
――好き。
好きというかたちはさまざまなものがあるのだろうと、私でも分かる。それが相手にとって嘘みたいなものだったとしても、この〝好き〟は私にとって嘘や偽りのない感情であるし、からだを重ねると同時に、潮のように満ちはじめる。潮なので引くことはあっても、また満ちるのだ。満潮の月のように。
幻であってほしくない。ここにいるという証明がほしい。けれど、変化する。してしまう。どうしようもないくらいに。まるで感情が置いて行かれるようだ。
その変化する美しさの幻と、美しいままでいることの幻を何よりも刀神たちは知っているのだろう。
どちらも幻なら私も、私がいなくなったあとの幻でありたい。変化してもしなくても、幻は美しいときの姿で現れてくれるだろうから。そう願っている。紫垂月頼宗に、願っている。私はこれからさらに老いて、抱き合うこともできなくなるだろう。そのとき、私がどう感じるかはまだ分からない。今以上にからだが老いるとき、こころもまた老いるのか、それとも変化しないものなのか。少なくとも以前の私より老いた。こころも、からだも。
細かく呼吸をしながら、ぼんやりと天井を眺めた。
爪が畳のい草を引っ掻く。痛んだ音がしたのは、爪か、い草か。彼は、「どこを見ているの」と囁いた。私は「あなたを」と答える。
変化しない美しさを持つ刀神。だから愛おしいのではなく、私はきっと、変化してもしなくても、紫垂月頼宗という存在をどうしようもなく愛してしまっている。
腕をもちあげ、彼のかすかに血色づいたほおに手のひらを当てた。泣いてしまいたくなるような体温。あきらかに、私以外の体温だ。目を伏せようとすると、彼は「見て」といった。「僕を見て」と。
――私はあなたを見ていなかったのだろうか。
あなたという存在をとおして、かたちのないなにかを見ていただけなのかもしれない。
汗ばんだ肌がひりつきながらも、彼の体温をまだ貪ろうとしている。ほおから肩、肩から腕、腕から手へと撫でるように腕をさげてゆく。たしかに、ここに在った。私が愛してやまない存在が、ここに。
「ごめんなさい」
腕で顔を隠しながら謝る。目尻に浮かんだ涙は、生理的なものなのか、それとも心理的なものなのか分からない。
「どうして謝るの?」
「あなたを愛してしまったから」
「愛?」
「あなたといるとどうしても欲深くなってしまうし、汚いものを見せてしまう。……あなたに嫌われたくないのに、どうして、こんな」
となりに横たわる彼は、沈黙を守っている。
「……君が人間で、僕が刀神だからじゃないかな」
そして思い出したものを伝えるように、ポツリと呟いた。
私は人間だった。そう、どうしようもなく人間だし、紫垂月頼宗は妖刀につく神だ。人間のかたちをしていても、中身、つくり――そのものが違う。
ああ、そうかと胸の奥で納得する。
私も結局、天照――いや、地球上において、掃いて捨てるほどいる内の人間のひとり。内面が欲深くあろうがなかろうが、その他大勢のひとりなのだろう。特別でもなんでもない。だからこそ、この神に愛されたいなどという欲が出てくるのだ。
愛した人に愛されたい。そんな欲求を、無償の愛などと呼べるはずもない。
ただそんな愛を、私はさみしいと思った。自分勝手な、誰のためでもない感情だ。
どうしようもない思いをいだきながら、上半身をおこして彼の髪の毛を梳いた。ゆるやかに。彼はただされるがまま、私を見上げている。今、私が言うべき言葉はどこにあるのか探りようもなくて、ただ体温が届けばいいと願った。
ちりあくたの中のひとつだろうけれど、あなたを愛したという事実を幻にはしたくなかったのだと思う。
――私はいったい、なにをしているのだろう。
そんな悲観的な感情を押し殺し、彼にそっとほほえんだ。
ああ、この想いを、どうにかしてこの神にこころよい言葉で、誰が見ても聞いても美しいと思えるかたちで、伝えられないだろうか!
それでも、私は知っている。愛の裏は醜さだと。
醜い私を好いてくれるはずもない。
そんな薄汚い感情を持つ私を、あなたはなおも触れるのだろうか。触れることを許してくれるのだろうか。
この美しさだけしかない家にたったひとつ――汚点は、私であったのだ。
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