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nekogou16
2026-04-05 21:05:40
11677文字
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テュオキサ
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見送りは祈りにも似た
新婚なテュオキサのある日の出来事
『
————
……
して
…………
ですか?』
微睡の波間に、かすかな声が聞こえた気がした。
遠いような、近いような。夢現の頭では明瞭に聞き取れないほどのささやかな声。
それでも確かなことは、その音色がこの世界でもっとも愛おしく、護り続けたいと感じたことだ。
◇ ◆ ◇ ◆
窓帷
カーテン
の隙間から差し込んでいたのは、一日のはじまりを告げる光。大地を照らす自然の恵みは、その眩さだけで置かれた状況の全てを雄弁に語ってくれていた。
「おはようございます、テュオハリム」
「
……
ああ、おはよう」
寝室から居間へと向かった矢先、己への失望で重たくなっていた足が止まる。理由は単純なもので、入れ違うように部屋から現れたキサラの姿に一瞬で目を奪われたからだった。
「すみません、あまり物音を立てないよう気をつけていたんですが、起こしてしまいましたね」
「
……
いや」
見覚えのある軽装とは違う、落ち着きと洗練さを兼ね備えた服装に身を包んだキサラの姿。たおやかな女性らしさに溢れた出で立ちはあまり目にしたことがないものだった。
吸い寄せられるように歩みを進めれば、常日頃はふわりと靡く金糸の一部が少しだけ側頭部で編み込まれている。振り向きざま、どこか面立ちが違うと感じたのも思い過ごしではなかったらしい。
「もう出発の時間かね」
やや長めの裾丈から覗いた足元を暖めているのは、巷で流行りのクツシタ、という防寒具だろうか。いつだったか、夕食の席で愛猫そっくりの服飾品を見つけたのだと嬉しそうに話してくれたことを思い出す。
踝の辺りで伸びをする小さな黒猫の刺繍は服装が醸す気品よりもどこか幼い印象を受けるが、その分、両者の違いがキサラ自身の愛らしさを殊更に増大させていた。
「本当はまだ余裕があるんですが、万一があって二人を待たせてしまうくらいなら、早めに動いておこうかと思いまして」
「君らしいな」
愛する彼女の、なにより妻となったキサラのいつもとは違う装い。僥倖とも呼ぶべき光景に頬は自ずと緩みそうになる。
——
が、込み上げた愉悦は不自然に映らぬ程度にどうにか戒めた。今朝ばかりは胸の内に広がる充足感を素直に享受できる立場ではないのだから。
「
……
なにか、代わりにできることはあるだろうか」
分かりきった答えを訊ねることしかできない自分がつくづく情けない。
不定期に催しているという『女子会』で外出する、執務の合間にそうキサラから聞いたのは半月程前のことだ。
シオンとリンウェルも交えた久しい外出ともなれば、いくらキサラといえど朝の身支度が自身の身辺で手一杯になることは想像に難くない。
ならばその忙しない時間にかかる負荷を、どうにかこの手で幾分でも減らすことができないものか
——
それが予定を把握して以降、昨夜の就寝前まで思い描いていた今日を迎えるにあたっての意義だった。
そしてその意義を果たすためにも規則正しい起床、もといキサラよりも先に寝所を離れ、外出の支度に専念してもらうための朝食作りを終えてしっかりとこの場にいるはずだったのだ、と。
完璧だったのはつらつらと頭に浮かんだ文言のみ。
「ありがとうございます、一通り最低限の家事は終えられましたから、もう大丈夫ですよ」
向けられた清々しい笑みを前に、それらは何ひとつとして口にすることなく飲み込んでいた。なにせ、すべて空想に終わっているのだから。
「あ、朝食も用意できてますよ。よろしければ召し上がってくださいね」
「
……
そう、か」
「ちょっ、どうしたんですか⁈」
会心の一撃、とでも呼べばいいのか。
自業自得とはいえ、自然体で発せられたキサラの言葉がいつも以上に深く刺さる。
あわよくば友との会合に想いを馳せる楽しげな彼女の笑顔とともに朝餉を囲むことができたなら、これほど充実した一日のはじまりはない。そんなことを呑気に考えていた自分の、なんと愚かしいことか。
「
……
なに、己の無能さに辟易しただけだ、気にしないでくれ」
「いきなり頭を抱えてふらつかれたら、誰だって心配しますよ。それにこの短時間でなにをどうしたらご自身の評価がそうなるんです?」
急激な頭重感は身体を押し潰すほど巨大な鉛でも降ってきたかのよう。情けなくも足元はおぼつかなくなっていた。
「
……
そうさな、起床から今に至る失態だけだったならば、幾分か救いようがあったやもしれん」
そう、これがただの怠惰で終わっていたならどれほど良かっただろう。褒められた話ではないにしろ、だ。
たしかに帰宅はおよそ三週間ぶりのこと。その間に終えたニズを中心とした各地のレナ人居住区での視察も、一定数の課題が継続して山積している現状を持ち帰った形で終わっている。
それでもここ一週間の執務状況も、加えて昨晩の帰宅時刻も、どちらも起床に大きな支障を及ぼすほどではなかったはずだった。
なにより、予定を控えているにもかかわらず、先に身体を休めることもなくキサラは夕餉に火を焚べて待っていてくれたのだ。留守の番を司るのなら、彼女が常日頃務めてくれている役割を担うのは当然であろう。
……
だというのに。
「朝から外出するという妻の予定を把握していながら、家事雑事の代わりをなにひとつ成し得ず、挙げ句の果てにはのうのうと眠りこけていたなどと
……
」
晴れて夫婦となり、見送られるばかりであった自分にようやく巡ってきた見送りの機会。
ささやかな日常の一つひとつ、取りこぼすことなく決して無碍にはしないと、そう心に決めたはずだったというのに。
あろうことか隣で眠っていたキサラの起床にさえ気がつかず、当然のように気遣わせてしまうとは。
「これでは夫として失格というほかあるまい」
「
……
あなたという人は、相も変わらず大袈裟ですね」
呆れ混じりの苦笑はあまりにも耳に馴染みすぎていた。片側を覆った手のひらを退かさずとも、その音色だけで彼女の表情は容易く目に浮かぶ。
それでも、よろめいた身体を支えようと添えられた両の手は決して離れない。
「では、本当に体調が優れないわけではないんですね?」
指の隙間から映し出されたのはこちらを覗き込む姿。咎めるどころか、そこにあったのは安堵したような笑みだった。
「
……
大事ないとも。すまない、要らぬ心配をかけてしまったな」
「それこそ、今さらでしょう?」
彼女の不安を拭いたい一心で、添えられた右手に対の手を重ねる。謝罪を口にすれば、なんてことはないと柳眉が下げられた。
「あなたに何もないのなら、それで十分ですよ」
穏やかに告げられた言葉はどこまでもぬくもりに満ちている。見放すことのない献身は嬉しくもあり、それを
理解
わか
ったうえで縋ってしまう己の弱さには呆れるばかりだ。
結局のところ、彼女が与えてくれるものを何ひとつとして返せていないのだから。
「ですが
……
そうですね、ひとつだけ」
不意の変化だった。キサラから発せられた異なる旋律に、内側へ向かうばかりだった思考が現実へと引き戻される。
一度は伏した双眸はゆっくりと瞬いた。
「
——
あなたの妻は、どこの誰ですか?」
再び交わった眼差しに宿っていたのは、幾度も目にした確かな意志の光。
その蜂蜜色に映るのは、呆けた男の姿。
そのまま重なっていた褐色も白磁に掬い取られ、なにかを示唆するように、存在を示すように指先をきゅっと包まれる。向けられたのは諭すような、それでいてどこか不満げな音色だった。
言わないと分からない相手ならば言葉にすると、脳裏を過ぎったのは告げられたいつかの声。
そうしてようやく、本当の意味で己の行動が独り善がりであったことに気づかされた。
「
……
無論、いつまでも焦がれて止まぬ、目の前のただ一人だとも。キサラ」
呼ぶことも、呼ばれることも、短い音の連なりが運ぶのはいつだって言葉以上の想い。
大切にすべきは不文律などではなく、最愛の彼女と共に過ごす時間そのものであったはずなのに。
「なら、私の性分はご存知でしょう。身の回りの世話も朝食の用意も、あなたの妻である私の役目でいいんですよ。もちろん、あなたからの気遣いはとても嬉しいですが」
添えられていた左手がゆっくりと後頭部を撫で付ける。
きっと寝起き特有の無作為な癖がそのままになっていたのだろう。幼子をあやすような仕草と眼差しは、くすぐったくも全身が包み込まれているような心地になる。
「
——
大丈夫。今の私たちなら、次をいつでも作れます。だから、お互いに少しずつで良いんですよ。
……
ね?」
無意識の焦燥、平穏への漠然とした不安。
染み付いた習性とも呼べる悪癖の氷塊が、嘘のように溶けていくのがわかる。
「
……
そうか、そうだったな」
ほんの少し前まで、あまりにも不確かで不透明だった『次』という機会。
それでも互いに覚悟のうえ、祈りにも似た次への契りをただひたすらに交わし続けてきた。口にするたびその言霊を信じ、その日を待ち焦がれて抱く希望を、新たな糧に昇華して。
けれど、今は違う。
キサラの言う通り、今度こそ願望ではなく、決して遠くない未来として言の葉を正しく紡ぐことができる。互いの手を取り、同じ歩幅で歩いていける。
「ええ。なにごとも二人で経験して、二人で積み重ねて
……
そうして初めてあなたの妻になり得るのだと、そう思っているんですから」
確かな次がある奇跡も、当たり前に触れることができる距離も、すべて己が生み出した幻なのではないかと。
「それは
……
私には勿体ないほどの名誉だな」
今でもふと、そんな風に思ってしまうほど、身に余る幸福がここにはある。
「もちろん、あなたにも色々なこと、お付き合い願いますよ?」
「全身全霊をもって応えるとも。君の夫として恥じぬ行いをせねばな」
蠱惑的な笑みで、けれど柔らかな『次』という音色が指し示す奇跡。
気づけば律していたはずの頬も自然と緩んでいた。
「しかし、君から妻という言葉を聴くことがこれほどまでに嬉しいことだとは思わなんだ」
「っ、それはその、今はそうお伝えするのが良いと思っただけで
……
もうこれ以上は言いませんよ」
「ふむ、惜しいことをしたかな」
「
……
テュオハリム、少し面白がってるでしょう」
慈愛に満ちた眼差しも少女のような恥じらいも、あるいは眉を顰めた姿さえも、目にしてきた彼女の姿はひとつとして同じものがない。
「まさか。不甲斐ない夫を変わらず叱咤激励してくれる妻のことを頼もしく思っているだけだとも」
いつだって新鮮で、魅力的で、だからこそ余すことなく目に焼き付けたいと強く願う。
無意識に金糸を追っていた日から早幾年、その想いが変わることは露ほどもない。そればかりか、年月を重ねるほど願望は明確な欲望へと変わっていく。
「なにより
……
今朝はまた一段と愛らしい君からの言葉だ。浮かれずにいられるほど、私はできた男ではない」
敬愛する兄から授かったという基礎知識と、恐らくは新たに加わったシオンからの指南の成果。そのどちらもが、こうして眼前で輝く美しさの一翼を担っているのだろう。いかに己が狭量になっていたのか、改めて思い知らされる。
普段よりも艶やかな薄紅で結ばれたキサラの柔らかな笑み。その一つひとつに、目にした一瞬一瞬すべてに心奪われるのだから。
「
……
おかしく、ありませんか?」
些か不服そうだった眼差しは、いたいけな惑いへと変わっていく。先ほどまでとは違う頬の色づきを目にしてしまえば、何もかもがいじらしくてたまらない。
「多くの目に触れることで君の魅力を広く認識してもらいたいと同時に、このまま私だけが知る姿であったならと
……
そう願ってしまうほど、愛らしくてならないな」
「
……
ご心配なく、一番最初に見てほしい相手はずっと変わりませんから」
紡がれる音に、嬉し気な笑みに、向けられるものすべてが自分だけに見せる特別なのだと知れば、何にも代え難い悦びが込み上げる。
『見送りの
——
……
、して
…………
ですか?』
彼女が望んでくれるのなら、手を伸ばしてくれるのなら。その手を取り、どんなことでも叶えていきたいと、そう強く願う。
朧げに聞いたはずの音色は、先ほどキサラがこぼしたものとよく似た音だった。
どこか恥じらいの滲んでいるような囁き、けれど途絶した記憶の残滓では残念ながら全てを正しく知る術はない。
「
…………
」
「テュオ?」
あれは現か、はたまた己の欲望が招いた幻聴だったのだろうか。
「
——
……
ならば、愛しい君のここに、見送りのしるしを贈りたい、と言ったら?」
「へ
……
っ⁈」
何にも触れずにいた右手でおとがいにそっと指をかける。問いかけを前に、キサラに灯った赤は再び変化していった。
蜂蜜色は次第に隠れ、視線の外で彷徨う。
「
……
それは、その
…………
」
静かな室内に響いたのは、動き出した自然界の息吹。
いくらかの沈黙ののち、こちらの手を握り続けていた白磁の手はゆっくりとほどかれていった。
出された答えはこちらの身を引かせるためのものだ。
「いまは
…………
だめ、です」
それでも胸板を押し退けた力は、跳ね除けるにはあまりにも弱々しいもので。
「どうしても?」
その初心な反応に思わず期待を込めてしまう。
「
…………
色、が」
「ん?」
「
……
移ってしまったあと、戻せる自信がないんです」
欲まみれな問いかけとは正反対に、まだ慣れていないので、と小さな呟きがぽそりと落ちた。
目線を逸らし、申し訳なさそうに眉尻を下げたキサラは先程までよりどこか小さくなったようにすら映る。
いつまでも誠実で無垢な彼女の一挙手一投足、そのすべてに愛おしさは募るばかり。これまでに幾度となく熱を帯びた吐息を交わし、余すことなくその柔肌にも触れているというのに。
「
——
いかんな、これでは君の手を煩わせるばかりだ」
とはいえ粧いというものがどれほど繊細なものか、その仔細は知己の友人からもおおいに薫陶を受けている。
整った身なりはあくまで『女子会』を謳歌するためのもの。日頃から身嗜みに気を配る彼女が、自らの判断でそれを崩してしまうような行いを制するのは当然の反応だった。
「すまなかった、出掛けに随分と引き留めてしまった」
「いえ、私の方こそお応えできず
……
」
「なに、楽しみは君からの土産話のあとに取っておくとも」
「それは
…………
いいです、けど」
耳にした泡沫の真相は分からない。
それでも、身勝手な問答にさえ気遣いを見せた彼女の答えが限定的な拒絶であったことが、なにより、こちらが望んだものが正しく理解されているという事実は変わらない。
その事実だけで、省みるべきことと分かっていてもだらしなく緩む頬を引き締めることはままならなかった。
「では、せめて見送りを。荷物はこれ一つかな」
「
……
ええ、ありがとうございます」
追いやられるように壁際で横たわっていた小さな鞄を拾い上げ、中身に破損がないかを確認する。恐らくはこちらに駆け寄った際に放られたのだろう。幸いにも、所持品に影響を及ぼすような衝撃は免れたようだ。
差し伸べた手にそろりと重ねられた指先を絡め取り、外界とのわずかな距離まで足並みを揃える。
キサラの出発を見送るという最低限だけは辛うじて、そう思えば自然と胸を撫で下ろしていた。勿論、及第点には程遠いが。
「今日は行楽日和になると聞いた。道中も良い気分転換になるのではないかな」
「そうですね、日当たりも申し分なければ、洗濯物も早めに取り込んでいただいて問題ないかと」
「承知した、頃合いをみて回収しよう」
ほんの数歩の道のりを終え、手にしていた鞄を主の元へ返す。
生活の知恵を授けてくれた師とも呼ぶべきキサラと、今では同じ衣食住を整えるための言葉を交わしている。そんな些細なことにさえ形容し難い喜びを覚えているのだと伝えれば、また大袈裟だと笑われてしまうだろうか。
「ところでキサラ、今日の夕食は私に任せてもらえないかね? 君には遠く及ばぬが、出来得る最上で君の帰宅を迎えたい」
「もう、また大事になっていませんか?」
「せめてもの、だ。それに、久しく調理からも離れてしまっていたのでね。次に君となにかを作る前に、勘を取り戻しておきたい」
最後の支度を整える後ろ姿を眺めながら、他愛ない会話を交わす。
宵月が昇る頃には再びここへ帰って来てくれる、頭ではそう理解しているはずだというのに。
「わかりました、楽しみにしています」
「うむ、腕によりをかけよう」
柔らかな笑みを湛えたキサラの横顔を、どこか名残惜しく感じている自分には苦笑するばかり。子供じみた感情を昇華させる術の体得には、もうしばらく時間がかかりそうだった。
「では
……
そろそろ行きますね」
「ああ、後のことは任せたまえ」
つま先が床を突き、振り返った金糸の先がふわりと揺れた。
柔らかな面差しに、いつだったか、見送りにこみ上げる寂寥は一方的ではないと溢したキサラの寂しげな笑みが脳裏を過ぎる。
忘れることのできない面影は、負わせてしまった確かな過去。
それでも、過去に抱いた胸懐を超えるだけの想いでこの先の未来を包み込むことは出来るのだろう。
長い間、こんなにも行き場のない思いをさせてしまった彼女の笑顔を共に暮らすこの家で一つでも増やすことができるのなら、これほど嬉しいことはない。
「キサラ」
「はい?」
絡み合った目線は、装いに合わせた履物のせいか普段よりほんの少しだけ高い。
その僅差が分かるほどに隣で同じ時を重ね、見上げてくる眼差しが凜然としたものばかりではなくなった感慨に耽る。
なにより、女性らしさの中に垣間見える少女の片鱗を知るのは、ほかの誰でもない自分だけ。
「すこしだけ、そのまま」
誰の目にも触れていない、無垢の芸術。彼女が施した化粧を乱さぬよう、細心の注意を払いながら頬にかかった毛先に触れる。
わずかに身を乗り出せば、小首を傾げていたキサラとの距離は想像していたよりも容易く縮まった。
「
——
……
っ」
緩く結い上げられた顳顬に落としたのは、自己満足な誓いと見送りのしるし。
いつだって支えとなってくれたキサラに、これからは同じだけの安らぎをもたらせるように。
「
——
いってらっしゃい、楽しんでくるといい」
ともすれば初めて口にした言葉は、清々しくもあり、どこか物寂しくもあり。けれど晴れやかな心で告げることができたのは、確かな今とかつての彼女の言葉があればこそ。
抱いた寂寥は受け止めたまま、平穏への祈りと決意を込めてしなやかな指先を握り込む。今宵の満月のように丸くなっていた蜂蜜色はわずかな沈黙ののち、数度瞬いて細められた。
「
……
はい、あなたもゆっくり休んでください」
はにかんだ笑みに安堵して、手の内にあったぬくもりを解放する。翻った背は、穏やかな陽光が照らす世界へゆっくりと溶けていった。
「
——
さて」
消えた閉扉音の余韻が、適度な切り替えの合図となった。
起床の躓きがあったとはいえ、今日という一日に置き換えてみればまだまだ序盤。キサラ手製の朝食を終えた後、任された役目以外に果たして自分は何をするべきか。
あれこれと頭を巡らせてはみるものの、浅薄な知識で思いつく範囲の家事はおそらく彼女の手で整えられた後だろう。
「
……
遺物の整理、か」
思い至ったのは奥に設けられた物置部屋の存在だった。
思えば居を構えてからも、しっかりと腰を据えて過ごす時間を作れずにきてしまっている。キサラのことだ、旅した頃を顧みるに、手を入れてしまいたいと思いながらも辛抱強く今日まで目を瞑り続けてくれたに違いない。
ならば尚のこと、今日こそは少しでも手を入れるべきだろう。そうして彼等と向き合ったあとは、夕食の検討と晴天にたゆたう洗濯物の確認を。幸い天候にも恵まれている、合間を見て調弦をするのも良いかもしれない。
必要な昼食は自分一人分、簡単なものを拵えれば良い。取り込んだ衣類の収納も、以前にキサラが記してくれた書き置きがあれば終えられるはずだ。
「しっかりと留守を守らねばな」
素足のまま色味の異なる床板を踏めば、ほのかな冷たさが心地良い。慎むべき無作法も、この場所が真に住まう我が家だからこそできることなのだと思えば、自然と頬が緩んでいく。
次に扉が開く瞬間が待ち遠しい、そんなことを思いながら錠前に手を伸ばしていた。
————
はずだったのだが。
「
……
キサラ?」
随分と間の抜けた声が出た。触れるはずの錠前が遠ざかり、そればかりか、開いた扉の先から現れたのは先ほど見送ったはずの焦がれた彼女の姿だったからだ。
「なにかあったのかね」
「いえ、そういうわけでは
……
」
頭を振り、後ろ手に扉を閉めたキサラはどこか遠慮がちに室内へ入る。自然と後退った無音の足音とは対照的に、彼女の靴音がやけに響いた。
「
……
ただ、やはり
忘れ物
は改めようと」
交わった眼差しに滲んだ覚悟のような気配は、ただの思い過ごしだろうか。いささか気がかりではあるが、今日は『女子会』なのだ。闇雲に無粋を働くのも好ましくないだろう。たとえそれが夫婦の間柄であったとしても、だ。
「その靴では履き直す手間もあろう、必要なものはどこに
————
」
深く踏み込むことはせず、今はただ目の前の目的を達する最短の経路を考える。
彼女にしては珍しい忘れ物、あるとすれば寝室、あるいは居間が濃厚だろうが。それ以外だとすれば残る場所は
————
。
「あります
……
ここ
に」
思案と問答に向いていた意識を呼び戻したのは、小さな返答。
振り返ると、羽衣が触れたかのような感覚が頬を包んでいた。
「キサ
——
」
見開いた両眼が刹那に捉えたのは、目尻に輝いた淡い真紅。
これまで視認出来ずにいた彩りを前にして、ようやくそこにあったはずのキサラとの距離が無くなっていたことに気づく。
「
——
……
いってきます、テュオ」
両の手のぬくもりと馴染み深い石鹸の香りが遠退いた代わり、唇には微かな感触が残されていた。
◇ ◆ ◇ ◆
ファーリア牧場のほど近く。市街の喧騒を離れた空間は心地よい静けさと動物たちの生命力に満ちている。ヴィスキント中心地の賑やかさも好ましくあるが、たまにはこうして落ち着いた空間に身を委ねるのも良いものだ。
近隣住民はもちろん、護民隊員の間でも話題となっていたこの喫茶は、牧場主のボグデル殿が新たに手がけた施設だ。民衆の憩いの場になればとの願いから、飼育している動物たちを間近に感じながら軽食を楽しめる設計になっている。
提供メニューも美食家のグルデノ殿が助力を申し出たと聞いたが、なるほど、たしかに運ばれてきた飲み物ひとつとっても一手間加えられた逸品だった。
屋外席にゆったりと腰掛け、降り注ぐ穏やかな陽光の下でのびのびと過ごす動物たちに目を向ける。
雄大な大地で伸びをして、本能のままにあくびをする光景は実に微笑ましい限りで
——
。
「
……
キサラ、なにかあった? なんだかものすごく疲れてない?」
「っ、すまない、そんな顔をしていたか?」
自分では何の気なく、ただぼんやりとのどかな景色を眺めているつもりだった。
だが、どうやらそうは映っていなかったらしい。向かいに座っていたリンウェルは明らかに眉を下げていた。
「そういうわけじゃないんだけど、うーん
……
なんというか、心ここにあらず? みたいな」
今に始まったことではないが、周囲を本当によく見ているなと感心してしまう。隣で静かに茶器を傾けているだろうとばかり思っていたシオンからも、気づけばリンウェルと同じ視線が向けられていた。
忌憚ない本心を伝えてくれる彼女たちの、あるいはこの場にはいない明朗な友人たちからのまっすぐな言葉には、これまで何度も救われている。そんな気心知れた二人の前だからこそ、折角の外出にそぐわない空気を無意識に持ち込んでしまっていたらしい。
「そう、だったか
……
すまない、せっかく気分転換に来たというのに気を遣わせてしまったな」
「気分転換だからこそ、そういうのはあっていいんだよ。キサラは頑張りすぎちゃうから余計に!」
非礼を詫びながらも、リンウェルの言葉にぐるぐると胸の内で渦巻いていた
靄
もや
はゆっくりと流れ出ていく。
「それで、なにがあったの?」
問いかけと共に続きを促すリンウェルの笑みはどこか楽しげではあるが、年下とは思えないほどにやわらかだ。
「
……
そうだな、説明が難しいんだが」
そんな頼もしい大人への片鱗を前にしたせいか、悩みの種は自然と口をついていた。
成長著しい彼女の伸び代は、きっと隣を溌剌と歩く年頃の彼にも良い刺激になっていることだろう。発展途上をゆく二人の微笑ましい光景も目に浮かび、いつしか一人穏やかな心待ちになっていた。
「なんというか、その
……
今日は、朝からいろいろあってな」
緩んだ頬は紛れもなく自然と生まれたもの。言葉を繋ぎながらも、少し深刻に考えすぎていたかもしれない、そんな風に思い直していたから。
だからこそ、このまま深く触れずにおけば二人の手を煩わせることもないはず、そう考えて言葉を選んだつもり、だったのだが。
「いろいろ、かぁ」
「キサラのいろいろって、あなた自身にとってはあまり大丈夫だった記憶がないのだけど」
相槌を打ちながらも、リンウェルの焦点がどこか遠い場所へと向かっていく。次いで沈黙を破ったシオンの一言も、落ち着いてはいるがどこか核心をつくような威圧感がある。
表情から察するに、二人の脳裏にはきっと同じ人物の姿が浮かんでいる。
「そ、そんなことはないぞ? 今朝のこともべつに
……
」
肌を刺す空気がにわかに変わってきている気がする。
視線が少しばかり痛い。
「
——
キサラ、観念して話しなさい」
「う
……
」
「そうそう。ここは女子会、隠し事は御法度だよ!」
気づけば左右両方、逃げ場なくシオンとリンウェルの顔が迫ってきていた。
『
——
ならば、愛しい君のここに、見送りのしるしを贈りたい、と言ったら?』
壊れ物を扱うかのように添えられた指先の感覚は、まだ鮮明に残っている。もちろん優しさに溢れた眼差しも、どこか艶めいた囁きも。
決して無理強いすることはせず、選択の意思を委ねてくれたところはあの人らしいけれど。
あの言葉がテュオハリム自身の望みであったとして、それでも、彼からの問いかけはあまりにも身に覚えがありすぎた。
『
——
……
見送りの口付け、してくださらないんですか
……
?』
柄にもなく枕元でこぼしてしまった呟きは、いつだったか、見送りの場でテュオハリムから一度だけねだられたもの。
あの人を相手に意趣返しだなんて、それも、あの頃は応えることができなかったものを相手に求めてしまうなんて。本当にらしくないことをしたと自分でも思う。
今日だって、なにも自分のために早朝から起床してほしい、なんて考えはなかったのだ。
最盛期ほどではないものの、テュオハリムの目まぐるしい日常にはさほど変化がない。久しぶりの帰宅くらい、気兼ねなく寛いで十分な休息を摂ってもらいたかった。仮住まいでも執務空間でもない、あの人自身の家で過ごす休暇だからこそ、なおさら。
けれど、ようやく訪れた人並みの時間に
——
夫婦、としてテュオハリムと共に過ごせるのだという実感に浮かれ、すっかり気が緩んでいたと言われれば返す言葉もない。
『
——
いってらっしゃい、楽しんでくるといい』
なにより、ほんのわずか寂しさが滲んだあの笑顔を目にしてしまったら、なにかを残さずにはいられなかった。
あの人が寄せてくれたものと同じ気持ちは、痛いほど知っているものだったから。
「二人に、折り入って頼みがあるんだが」
迂闊に口にした言葉が、テュオハリムの耳に届いてしまっていたのなら
……
いや、叶うなら届いていてほしくはないとも思うのだけれど。
それでも彼から贈られたしるしに満たされた心は、たしかにここにある。
テュオハリムが望んでくれるのなら、彼の心を満たせるのなら。
与えてくれた幸せを、愛おしく想う胸の内を少しでも伝えることができるのなら。
この先も出来得る限り同じものを贈りたいと、そう思うから。
「
——
……
その、口紅の直し方を、教えてほしいんだ」
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