──深夜の街に足早なヒールの音と、スマホのコール音が響く。キャッチの男が声をかけようとするも、彼女と目が合うなり顔色を青ざめさせて目を逸らした。繁華街の華やかな空気、その中で異質な空気を放つ女性がいた。
苛立ち、嫉妬、それから自分への情けなさ。何度も深呼吸をしては立ち止まるが、誰も彼女に声をかけない。どう考えても声をかけるだけでトラブルに巻き込まれそうな印象を周囲に抱かせる不機嫌丸出しの足取りを取るその女性は──感情を削ぎ落としたような表情で暫く寄っていなかったバーへと足を進めている。
あかねはスマホの画面を見ないまま、何コール目かでようやく出た相手……ちぐさに対して冷たい声を叩きつけた。
「ちょっと姉さん、今何時だと思って、」
「ソーニョ。すぐ来なさい」
「…………ハイ」
ちぐさは怯えた声で一度返事をした。こうなっている時の姉には逆らわない方がいいと学習しているのだ。前回虫の居所が悪いからと逆らった時には、絶対零度の眼差しを自分に向けて「ちぐさ」と床を示された。数年に一度のストレス発散に付き合うのは弟としてやぶさかではなかったが、今回のそれはいつもよりひどい。
確実に元凶はあのひとだろうという目星をつけたが、ちぐさは何も言わなかった。というよりも言えなかった。いつもよりも姉のことが怖かったので、藪をつついて蛇を出すことはしないでおいた。
あかねの腸は確かに煮えくり返っていたが、同時にひどく冷たく冷静にもなっていた。理性が感情に追いつかない。しかし感情も情緒に追いつかない。正直なところ、しばらくエンバーズに行くのはやめておこうかと思う程度には冷静さを保っていられなかった。
別に良いのだ。"あの人"が誰とどう交友関係を結ぼうが、どのような関係性を持っていようが、自身には関係などないことをあかねはよく知っている。発言権など最初からない。別に構わないのだ、そんな瑣末事など。そう理性は言うけれども感情が追いつかない。
指先がひどく冷えている。喉はからからで、その内声が出なくなるであろうことは分かっている。リフレイン、フラッシュバック、何よりそんなに揺さぶられる自分自身への失望が強く滲んだ。唇は既に血の味がする。舌の端をガリガリと歯で削っていればその内に出血もする。彼女のストレス発散が他害よりも自傷傾向にあることは身内以外誰も知らない、目に見えるような怪我を作ることはないからだ。
ソーニョの扉を開ける。穏やかなBGMで作られたゆったりとした空間、人気がないその空間の主である佐藤はあかねの顔を見るなり店じまいの準備を始めた。
「佐藤さん、ごめんなさい」
「イイのイイの、アナタは常連さんなんだから」
佐藤がCLOSEDと書かれたボードを下げようとした頃、ちぐさが息を乱しながら飛び込んでくる。顰蹙を買わないように爆速で駆けつけた片割れは、あかねの顔を見て少しホッとしたような顔をした。思っていたよりも状況は悪くないのだろうと思っているんだろうな。あかねは片割れの顔の意味するところにぼんやりと気づいてしまった。
……思い出せば、なお冷たく内臓を浸す嫉妬。元より、自分のものではない。舞い上がっていた自覚を消し去ろうと努力しながら、佐藤が準備のために出したスピリタスを原液のまま一気に嚥下した。喉を焼くアルコールと、若干滲む視界に意識を委ねていれば不思議と抱えていた感情は徐々にほぐれていく。
そうだ。泣きたかったのだ。正直に言って、自分というハリボテの見栄を張っていたプライドが邪魔をして何も言えなかった。その場で何かを言うには自分はもう幼くないし、子どもでもないのにわがままを言うわけにはいかなかった。
「……あ、あは、はは……」
笑顔とは、感情が発露する際に自然と作られることがあるらしい。くしゃくしゃの笑顔を浮かべながら嗚咽を漏らす姉を見て、ちぐさがやれやれと肩を竦めた。幼い子どもみたいに泣いて、泣いて、涙を零しながら時折言葉を吐き出す。
自分よりも似合いに見えたし、自分よりもきっと話がずっと面白そうだった。あかねという人物とは正反対の人間のようで、いつも呼んでくれる名前を呼んですらくれず、自分は放っておかれているような気になったのだ。あざといその言動すら、あかねには眩しく映った。こんな些事で、こんなよくあることで、涙を流せるほど素直になれない自分よりもよっぽど……よっぽど素敵な二人だった。
せっかく進められそうだと思った関係性が、酷く脆いことに気づいてしまって怖くなる。それならいっそ、ずっとこのまま停滞していて欲しいと願うほどに。
「んもう、あかねちゃんったら……飲みすぎよ……」
「飲みすぎというか、吐きすぎというか……ねえ」
あかねが泥酔状態になる頃……要するに、酒ばかり飲んで吐いてして夜が明けた頃。カウンターに突っ伏して眠る彼女の肩に佐藤がそっと自身のジャケットを掛けた。
あかねがここまで酷く感情を昂らせるのは、久々のことだった。佐藤は、名前だけ知っているあかねの想い人についてちぐさから見た印象を聞いてみる。けんもほろろな答えが返ってくるとばかり思っていたが、意外とあのちぐさも考え込んでから言葉を選ぶようにして慎重に話を進めるではないか。
「……良い人、なんだろうな。
僕もあの人とは話していて居心地いいし。」
「ちぐさちゃんがそう言うのは意外ね……
こんなにあかねちゃんを泣かせているのに?」
姉さんはもう少し感情の出し方を知るべきだと思う、だからこそ今回のようなことがあっても干渉はしない……と言って柔和な笑みを浮かべるちぐさに佐藤が嘆息する。
ぐったりとしているあかねの頭を優しく撫でてやりながら、「素直じゃないのねえ」という呆れた声を響かせるのだった。
***
翌朝、あかねは気付けば自身の部屋にいた。ちぐさからの置き手紙には「養生すること」と書かれていて、1週間の断酒の勧めが載っていた。
前日の記憶が薄い。生々しい嫉妬だけは身体を重くしていて、気分が良いわけもなく。
「……ぁ、ぁー……」
頭痛がひどく、声は出ない。……これでは流石に仕事もままならないかもしれない。書類仕事だけを片付けよう、と思いながら鏡の中の自分を見る。……普段よりもよほど顔色が悪く、心做しか目も虚ろに見えた。
しかしどうにかしようにもこんなことには時間以外の解決策など存在しないので、普段よりも気合いを入れるためにキッチリとした化粧をして家を出る。強気な化粧のはずなのに、どこか感情を伴っていない。ここまでひどいと誰の顔も見たくないな、と思いながら自身の事務所へ向かう。……エンバーズから少し離れよう、多少スッキリした思考でそう落ち着けてしまえばあとは日常を繰り返すだけだった。
次に行く時は手土産の菓子を持って行かなくてはいけないなあ。何がいいかな、と考えているうちに時間はどんどん過ぎていく。
指先を凍らせる炎はまだ、消えそうにない。
***
これ、次行った時にはちょっとお高めの菓子折り持って行くけどまた一線をビシッと引きそうなんだよな……と思っている。ややこしくて可愛いねえ……
西園寺さんの前ではしばらく声がかすれてるかもしれない。上手く話せないだろうなあ、酒やけしてしまって……って言い訳するだろうけどね……
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.