めまめ
2026-04-05 01:37:25
10732文字
Public 村荒
 

子守唄がききたいだけ

村+荒
※黒トリガーネタなので苦手な方はご注意ください※
※暗い※

モブ婦人の語りで話が進みます。
今は村+荒だけど、これからがあったらいつか村荒になったかもしれなかった二人の話。
黒トリガーがなぜ黒いのか分からないけど、まるでその人の位牌のようだと思いました

 さあ、こちらへどうぞ。ここがうちの宿やど自慢の、お庭を眺められる居間よ。さ、座ってちょうだい。畳だからって正座なんてしなくていいのよ。こんな山奥まで来てくれたんだもの。疲れているでしょう? いまの若いひとには畳のお部屋自体、あまり馴染みのないものでしょうし。気にせず脚をくずしてちょうだいね。
 いまお茶を淹れてくるから待っててね。煎茶とほうじ茶、どちらがいいかしら?
 あら。要らないの? わたしの手づくりでよかったらお菓子もお出しできるわよ。
 ……そうよね、急がれてるわよね。だったら、いつかうちに宿泊することがあったら召し上がっていって。お茶の淹れ方には自信があるの。お菓子だって見た目は地味だけど、村の寄り合いに持っていくとすごく喜ばれるんだから。
 え? ああ、そう、そう。間違いなくこの写真の男の子よ。あんなことがあったんですもの。間違えるわけがない。それに、彼を忘れることなんて、これから先、もっとおばあさんになってもできないわ。
 彼がやってきたのは、三日前。その日は朝からバケツをひっくりかえしたような雨が降っていてね、憂鬱な気分だった。一週間くらい宿泊の予約が入っていなかったから、今週は普段手がまわらないところまでお掃除でもしましょうかって夫と話しながら、のんびりテレビを観ていたの。
 そしたら、十五時頃にインターフォンが鳴った。土砂降りだから交番のおまわりさんがわたしたちの様子を見にきてくれたのかしら、って首を傾げていたら、もう一回、ピンポン、って。いつものおまわりさんだったら玄関の向こうから「こんにちは」って挨拶してくれるはずだから、誰か違うひとが訪ねてきたんじゃないかってなってね。夫といっしょに急いで玄関に行くと、案の定、すりガラスの向こうに人影が見えた。だけど最近は物騒な話も多いじゃない? 背の高さからして男性だろうし、ひとまず、どちら様でしょうか、ってガラス越しに尋ねたわ。すると、こう返ってきた。
「突然やってきて、すみません。何日か泊めてほしいのですが」
 わたしと夫は顔を見合わせた。
 父から受け継いだ、自宅も兼ねたこの宿は夫と二人で切り盛りするには一日一組が限界でねぇ。完全予約制にさせてもらってて、質素でなにも無いのが売りの、自称するのもなんだけれど『知る人ぞ知る』宿なの。ほとんどのお客さまは事前にうちのことを調べてくださって、山奥にある隠れ宿なんて言われてね、ここを目的地としてやってくる方がほとんどだから、飛び込みで来るお客さまは初めてのことで困惑したわ。とはいえ土砂降りの雨のなか帰すのも気の毒で……。それに喋り方や声の感じがどうにも悪いひとのようには思えなかった。夫も同じ意見だったから、内鍵をまわして、ガラス戸を引いて、どうぞ上がってください、と迎え入れたの。
「ありがとうございます。助かります」
 彼は軽く頭を下げた。帽子を目深にかぶっていたから表情は見えなかったけれど、姿勢が良かったのが印象的だった。
 全身がびしょ濡れになっていたから三和土ですこし待ってもらって、居間から持ってきたタオルを渡すと、彼が慌てて帽子を触った。そうね……野球のときにかぶるような、ああいうのをかぶっていたの。お礼を言いながら彼が帽子を脱いだとき、年甲斐もなくはしゃいじゃったわ。だって、すごく男前だったんだもの。
 背が高くて凛々しくて、まるで昔の俳優さんみたいだった。銀幕のスタア、と言って伝わるかしら? とにかく惚れ惚れするような顔立ちだった。見れば見るほど佇まいも洗練されていて、わたしが見惚れているのに気がついたのか夫がぶっきらぼうに、「お客さまをお風呂に案内するぞ」なんて率先してね。あのひと、やきもち焼きだから。ふふ。
 お風呂からあがったあとは彼に客室へ移動してもらって、そこで宿帳を書いてもらうことにした。なにかあったときに連絡がつくように、宿泊するお客さまにはお名前とご連絡先を書いてもらうのがうちの決まりなのよ。まあ宿帳といってもどこにでも売っているありふれたノートなんだけどね。ボールペンとノートを受け取った彼は、すこしの間を置いてから尋ねてきた。
「ぼく以外に宿泊者はいますか」って。
 ちょうどまえの宿帳がいっぱいになって新しいノートに切り替えた直後だったから、誰の名前も書かれていないのが気になったみたい。ほんとうはそういうのも個人情報だから答えてはいけないんでしょうけど、なんだか切羽詰まった様子だったから、今週はどなたもお泊まりになりませんよ、って教えてあげたの。すると彼は「そうですか。ありがとうございます」って言ったあと、まっさらなノートにさらさらとペンを走らせた。ピシッとした、男らしい字だったわ。
 お部屋から下がるときに、今週は宿泊の予定が入っていなかったから食材の仕入れも控えていたし、明日の夕食まえには移動式のスーパーが来るけどそれまで質素なお食事になってしまうと説明したら、こちらこそ突然すみません、って彼はまた頭を下げた。
 それからわたしは、夫と二人でお食事の準備に取りかかった。大したものは無いけど、精一杯のおもてなしをしようって張り切ったわ。私は畑で採れた大根をいちょう切りにしながら、もしかして駆け落ちなんじゃないかって夫に話しかけたの。
 だってあんなに若くて格好いい男の子が一人でふらっと、こんな山奥の宿に来るなんて訳アリだと思うじゃない。ほかに宿泊者がいないか気にしていたし、駆け落ち相手とここで落ち合う計画なのかしら、って思ったのよ。夫には、「詮索はよせ」って怒られちゃった。
 夫の言うとおり、ほんとうに無神経で馬鹿な発想よね。いまでもとても反省しているわ。わたしのことをそうやって嗜めた夫も彼の様子に思うところがあったのか、自分の晩酌用に買ってあったとっておきの干物を焼いてあげていたわ。
 お食事はこの居間か客室か、どちらで召し上がるかはお客さまが選べるんだけどね。彼は三食すべてお部屋で召し上がると言っていたから、お料理が冷めないうちに夫と手分けして配膳しにいった。
 ここで宿をやるって決めたとき、客室には洋風のドアを取り付けて鍵がかかるようにしたの。和モダン、っていうのかしら。室内は畳のままだけど、しっかりリフォームしてあるからキレイよ。帰りにぜひ見ていって。
 そう、それで、ドアを開けたところが上がりかまちになっているから、食べ終わったらそこにお盆ごと置いてほしいとお伝えしたの。一時間半後に食器を下げにいったら、お茶碗には米つぶひとつ残っていなかった。お食事がお口にあって安心したわ。その日はそのままお休みになったみたい。
 次の日は、かろうじて雨は降らなかったけど、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていたわ。
 彼は朝食も昼食も、また完食してくれた。でも、顔色がずっと悪くって。目の下が黒ずんでいたから、あまりよく眠れてなかったんでしょうね。心配になったわたしはお昼のお皿を下げるときに、お庭を見ながら縁側でゆっくり過ごされるのはいかがですか? って声をかけてみたの。お部屋にこもりっきりも体に悪いじゃない? 彼は「いいですね」ってお返事してくれたけど、けっきょく彼がお部屋から出てくることはなかったわ。
 その日のおやつの時間くらいに来てくれた移動式のスーパーで、わたしはいつもより高めの牛肉を買った。そのときはまだ、彼は駆け落ち相手が来ないから落ち込んでるんだと思ってたからね。だからお肉を食べたらすこしは元気になるんじゃないかって考えて、夜はすき焼き御膳にしたの。から揚げなんかも作ったりしてね、とにかく若い男の子が好きそうなおかずをたくさん用意したわ。夫は「ずいぶん豪華だな」って目を丸くしたけれど、夫も彼の憔悴っぷりを気にしていたから、文句は言われなかったわ。
 腕によりをかけたお料理に彼はとっても驚いたみたいだった。お膳を下げにいくと、彼が「とてもおいしかったです」って言ってくれたからわたしは嬉しくなって、次の日の朝食になにが食べたいか尋ねたわ。彼は予想外の質問だったのか顎に指をあててすこし悩みはじめた。けどすぐに閃いた顔で、
「すき焼きと味噌汁に入っていた豆腐で、冷奴にしてくれませんか」
 って、こたえてくれた。
 村一番のお豆腐を気に入ってくれたのね。わたしが、お肉じゃなくて冷奴だなんて渋いわねえ、って笑ったら、彼もうっすらほほえんだわ。初めての笑顔だった。すごくすごく、優しい目だったわ。
 三日目の朝は、カラッと晴れてお洗濯ものがよく乾きそうな気持ちのいい風が吹いていて、ここ最近で一番のお散歩日和だった。だからかしら。朝食が済んだあと、彼がお部屋から出てきたの! それでね、
「先日仰っていた、お庭を見せてもらってもいいですか」って遠慮がちに言うのよ。わたしは張り切って彼をこの居間へお連れしたわ。案内する途中、昔の家の建築が珍しいのか興味深げにあちこちを見まわしていたわ。
 わたしが居間の障子と、くれえんのガラス戸を開けていくと、暖かい風がサァッと吹き込んできた。彼は大きく息を吸ってから縁側に座ると、お庭を眺めはじめた。なにをするでもなく、ただぼうっと太陽の光を浴びていた。いままでお部屋にいたぶんを取り戻すみたいに。
 わたしは、お茶とお菓子を載せたお盆を彼のそばにそっと置いた。夫の好物なんだけどね、手作りの米粉のクッキーをお出ししたの。彼はぺこりと軽く頭を下げてから、クッキーとお茶を手に取った。 
「おいしい」
 口からついこぼれたような、そんな口調だったわ。それからあらためてわたしと目を合わせて、「おいしいです」って言ってくれた。
 わたしが台所と廊下を行ったり来たりしているあいだも、彼はずっと縁側に座っていた。しばらくするとそこにある揺り椅子に腰掛けて、うつらうつらしはじめた。
 でも、わたしが彼のまえを横切ったら、彼はかっと目を見開いて、跳ねるみたいに立ち上がった。その気迫にわたしはびっくりしちゃって。物音を立てないようにしたつもりだったけど、うまくできてなかったのね。起こしてごめんなさいと謝ったら、彼はくまをこさえた目元をやわらげて、お茶のおかわりが欲しいと頼んできたわ。それで、新しく淹れた熱いお茶を飲みながら、こう尋ねてきた。
「この近くに、川がありますよね」
 彼の言うとおり、たしかに麓のほうにきれいな川があるわ。流れも穏やかで水が澄んでいてね、春と夏にはバーベキューやキャンプができるようになるから、その時期は学生さんや家族連れで賑わうのよ。彼もたぶん、あの川に遊びにきたことがあるんじゃないかしら。
「懐かしいな」
 彼は誰に言うでもなく、けれど誰かに語りかけるように夢うつつにつぶやいて、背もたれに深く寄りかかると、そっと目を閉じた。寝ていたかは、どうかしらね。わからなかったわ。でも椅子に揺られる姿は、リラックスしているようにわたしには見えた。
 開け放った戸からはそよ風が入ってきて、山のほうでは鳥が鳴いていた。とても穏やかな時間だった。わたしはそっと居間から離れた。彼にゆっくりして欲しかったから。……そうね。彼にとって、それがうちの宿で過ごす最後の穏やかな時間だったのかも。
 お昼すぎになると、彼はお部屋に戻っていった。顔色にすこしばかり血の気が戻っていたけど、目のしたのくまは色濃く残ったままだった。
 それからわたしは夫と分担して畑のお世話やお掃除、次の日の仕込みに取りかかった。お仕事が全部終わって、お風呂掃除のついでに入浴を終えたころには二十一時をまわっていたかしら。そのあとすぐにお布団に入ったわ。お客さまが泊まられているときはだいたいこうよ。だんだん体力がきつくなってきたけど、ずっとこの宿をつづけていくつもりだからまだまだ頑張らなくちゃ。
 それで、恥ずかしいんだけど、歳をとるとトイレが近くてね。その日も夜中の一時くらいに目が覚めたの。わたしと夫が使うお手洗いはわたしたちの部屋を出て廊下を挟んだ斜め向かいにあってね、用を足し終えて部屋に戻ろうとしたとき、どこからか声のようなものが聞こえてきたの。
 ひんやりと暗い廊下の真ん中で、わたしは耳をそばだてた。外から聞こえてきたのは、動物でも鳥でもなく、やっぱり人間の声だった。内容まではさすがに聞き取れなかったけど、誰かと喋っているような感じがしたから、うちに泊まっている彼が外で電話でもしているんだと思った。
 この山には野生動物がたくさんいるの。だから、もし熊や猪に出会したら危険だから夜は出歩かないほうがいいわよって声をかけにいくことにした。夫を起こそうとしたんだけど、よく寝てるところを起こすのは悪いし、って考え直して、裏手にある勝手口にまわって外へ出た。けっきょく夫にはあとから「危ないことをするな」って叱られちゃったんだけどね。
 夜の山って春先でもとっても寒くて、半纏を着ていたけれどぶるっと身震いがするほどだった。肩を両腕で抱きしめながら壁沿いに歩いていくと、声はどんどん大きくなっていった。曲がり角が見えてきたところで、わたしはとっさにそばにあった小屋に隠れた。彼のほかにもう一人誰かいるうえに、ただの話し声だと思っていたのは口論だったんだもの。
 小屋といっても畑で使う道具なんかを置いてあるような、木板で三方さんぽうを囲んで屋根をつけただけの簡素なものだけど、隠れるのにはじゅうぶんだった。わたしは立ったまま壁板の隙間にピッタリ顔を寄せて、二人の様子を窺った。
 彼と喋っていたのは、彼と同じくらいの背格好をした男の子だった。
 その子は、「なんでだ」とか「いい加減にしろ」って彼に詰め寄っていた。わたしからは背中だけしか見えなかったけど、男の子の口調は荒々しかった。怒鳴りつけるみたいな、そんな喋りかただった。わたしは、小屋に立てかけてあった竹箒を握りしめた。なにかの弾みで暴力に走るようなら、二人を止めるつもりだったの。
 するとね、
「誰だ!」
 金色の、ギラギラとした目が振り向いたの。
 暗い山の中でも光るそれは、まるで凶暴な野犬みたいだった。男の子はわたしのほうを……、小屋を親の仇のように睨みつけていた。
「出てこい!」
 って、男の子はさらに怒鳴ったわ。
 わたしは箒を落とさないように握りしめた両手を口に押しつけて、必死に息を殺しつづけた。あんまりの恐怖に目までつぶっていたら、壁の向こうで砂利を踏む音がして、万事休す。見つかっちゃったんだって、覚悟を決めた。でもね、よく耳を澄ませたらどうにも動きかたが人間っぽくないの。足音が一定じゃないっていうか……。ドキドキしながら目を開けたら、まさかね、猪がいたの!
 ここらに出る猪はうちの畑で悪さをする困った奴なんだけど、このときばかりは感謝したわ。そいつは二人のほうにふらっと行ったかと思うと、すごい勢いで反対側に逃げていった。金色の目の男の子は猪にごまかされてくれたみたいで、頭をぐしゃぐしゃっとしたあと彼のほうへ向き直っていた。見つからなかったことにわたしはほっとため息をついたわ。でも、へんね。あの子はどうしてわたしに気づいたのかしら? 
「戻ってこい。いまならまだ間に合う」
 男の子は仕切り直すように言った。カザマさん、とも言っていたかしら。なにもこたえない彼に、男の子は消え入りそうな声でつづけた。
「おまえにゃ使えねぇだろ。テキゴウシャじゃねぇんだ」
 テキゴウシャ……適合者、ってなんなのかしら? 男の子がそう言った瞬間、
「荒船といっしょに居たいんだ!」
 彼は、声を張り上げた。それから腰から下げた小さなカバンから取り出したなにかを、胸のあたりで抱きしめるような素振りをした。彼のズボンには、ここに来たときにかぶっていた帽子も吊り下げられていた。彼は叫んだわ。
「おれはもう、荒船から離れたくない」
 喉を振り絞ったみたいな、聞いているこっちの胸が張り裂けそうなほどの悲鳴だった。あんなに悲痛な叫びを、わたしはこれまでの人生で聞いたことがなかった。うつむく彼と同じように、男の子もうなだれた。
「荒船がそうなったのは、鋼のせいじゃねえだろ。だからそいつと……荒船と戻ってこい」
 男の子の背中にも、悲しみが宿っていた。男の子は怒っていたんじゃない。彼のことをずっと心配していたのね。
 でもね。声を詰まらせる男の子をまえにしても、彼の慟哭は……とまらなかった。
「おれのせいだ」「荒船に会いたい」「おれがもっと強かったら」って、何度も何度も、自分を罰するみたいにくり返し言うの。掠れた声で、苦しそうに……。絶望して嘆く彼を、わたしは、もう見ていられなくて……、きっともう、大切なその方に会うことが、できないんだわ……
 ……ああ、ありがとうね。……ありがとう……。きれいなハンカチを濡らしちゃって、ごめんなさいね……
 ……あなたのハンカチのおかげで、落ち着けたわ。もう、大丈夫。つづきを話せるわ。それで……、彼が、……消え入りそうな声で最後にこう言ったの。
「荒船の声が、ききたい……
 そのとき、彼の体が光ったわ。
 喩えなんかじゃないの。彼の手のなかから、暖かい光が生まれていた。それは月のようにやわらかいのに、あたりを一瞬、真昼のように照らしたわ。あまりの眩しさに、わたしは顔のまえを手で遮りながら目を閉じた。男の子が、「荒船てめえ、なにしやがる」って叫んだのが聞こえたわ。
 しばらくして手の甲に熱を感じなくなったところで、ゆっくり目を開けた。おそるおそる壁板の隙間から外を覗くと、彼はいなくなっていた。目がおかしくなったのかしら、って何度かまばたきをしたけれど、やっぱりそこには男の子だけしかいなかった。
 男の子は大きな舌打ちをしたあとに、空に向かって吠えた。
「ホカリどっかで見てんだろ。鋼のやつ探すぞ。急げ」って。それからガックリ肩を落としていた。
「あほ師弟が」
 そう吐き捨てて地面を蹴った。その子も背が高いはずなのに、丸まった背が寂しさを物語っていて、わたしはたまらない気持ちになった。思わず小屋の入り口から身を乗り出していたわたしは、あの、と男の子に声をかけた。男の子はのろのろとこっちを向くと、くしゃくしゃの顔で、よく見ていないとわからないくらい小さく頭を下げた。一回寝付くとなかなか起きない夫もさすがに駆けつけてきて、男の子はわたしたちになにか言いたそうにしたけれど、けっきょくなにも言わずに森のほうへ走り去った。
 それっきりよ。昨日も、今日も、あの二人を見かけることはなかったわ。
 ……わたしが話せるのは、これくらい。ああ、たくさん喋ったら喉が渇いちゃった。どう? すこしはあなたたちのお役に立てそうかしら。ええ、もう大丈夫よ。ハンカチ、お返しするわね。貸してくれてありがとう。
 あっ。あなた、宿帳を持ってきてくれたの? この子たちにお願いされてたのにわたしったらつい忘れちゃって。紹介するわね。このひとが話にも出てきたわたしの夫よ。結婚してもう何十年になるかしら。見てのとおり仏頂面だけど、怒ってるわけじゃないから安心して。
 それでね、頼まれてた宿帳がこれなんだけど、彼にはこの一番はじめのページに記入してもらったの。
 え? そうよ。彼が自分で書いたのよ。そこに荒船鋼って書いてあるでしょ?
 俳優さんみたいなお名前よね。書いてもらったときに、すてきなお名前ね、ってわたしが言ったら、荒船さんは嬉しそうに声を弾ませたわ。
「格好いい名字ですよね」って。
 わたしとしては『鋼』ってお名前も含めてすてきとお伝えしたつもりなんだけど、荒船さんは名字のほうを褒められたと思ったみたい。自分の家名に誇りを持てるってとても良いことよね。 
 でも……ふしぎなことも言っていたわ。
「おれを通してあいつを呼ばれるのが嬉しいんです」
 だったかしらね。あれはいったいどういう意味だったのかしら……
 彼の事情は、わたしには想像することしかできない。それでも彼には、なにか悲しい出来事があったんだと思うわ。
 最近だと、三門市、だったかしら? あそこがひどいことになったでしょう? 彼が宿帳に書いてくれた県って、たしかその三門市があるところじゃなかったかしら。
 ニュースで観たわ。三門市にバケモノの襲撃があったって。市民にも、バケモノを退治したなんとかって軍隊さんにも、被害が出たって。あんな子どもが戦っているだなんて、ニュースを観るまでわたしは知らなかった。あなたたちが戦わなくていいの、って思うのに、もしもこの村があのバケモノに襲われたとしたら、恥も外聞もなく彼らに縋りつかなきゃいけない自分の無力さがね、恥ずかしいわ。 
 話がすこしそれちゃったわね。とにかく荒船さんは、大切なひとをなくされて深い悲しみにいるはずよ。うちにいるあいだ、ずっとお位牌を持ち歩いていたらしたから。
 ええ、そうね。お位牌。若いひとはまだあまり触れる機会がないでしょうから、ピンとこないかしら。
 お位牌はね、亡くなった方の魂が宿るとされているの。彼はあの縁側で過ごしているあいだも、ずっとお位牌を握ってらしてね、語りかけるような眼差しでお位牌を見つめていた。そうね……。ちょうどこのくらいの、手のひらで握り込めるくらいの細長い、黒いものだったわ。
 うちのお仏壇にあるものと種類は違うけれど、わたしにはあれがお位牌に思えてならなかった。だってほんとうに、見かけるたびにとても丁寧に扱われてたから。もしあれが大切なひとのお位牌だとしたら、肌身離さず持ち歩きたいっていう気持ちが、痛いほどわかるわ。わたしも親が亡くなったときは、そういう気持ちになったから。
 彼がそういった大きな無力感や傷を背負っているのだと思うと、心配で心配で……。会ったばかりの奴がなにをと思うでしょうけど、あの夜の泣き叫ぶような彼の声が、耳から離れないの。
 でもわたしよりも、あなたたちのほうがつらいわよね。こんな山奥まで探しにくるんだもの。とっても仲がいいのね。はやくあの子と再会できるように、わたしも心から祈っているわ。
 あら! どうしたの歌川さん、頭を上げてちょうだい! すみません、だなんて急に……。もしかして、お手洗いに行きたくなっちゃった? それとも喉が渇いたとか? どっちにしろ謝らなくていいのよ。あなた、お茶を頼んでいいかしら。歌川さんと菊地原さんと、わたしたちのぶんの四人分お願いね。わたしはこの子たちをお手洗いに案内するから。
 あらあらあら。そんなに謝らないでいいのよ。さあ、お手洗いはこっちよ。
 なあに、それ? まぁ。よくわからないけど、わたしたちがそれに触ったらいいの?
 
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 やだわ! もうこんな時間! わたしったら、いつの間に寝ちゃったのかしら……。あなた、起きて! もうこんな時間よ! 起きて!
 はい、おはよう。そうよ、外を見て。もうすっかり日が暮れてる。急いでお洗濯ものを取り込まなきゃ。まさか揃って居眠りしちゃうだなんて……。お布団を干したあとに、うっかり寝ちゃったのかしら。あなたが来たことも気づかないくらい熟睡しちゃってたわ。
 あなたもそうなの? 畑から戻ってきて、気がついたらここで? ふふふ。日ごろの疲れが出たのかしらね。よく寝たわりに、ちょっと頭がぼーっとするのもそのせいね。今週は宿泊の予約も入っていないことだし、ゆっくり休みましょう。
 あ。そうそう。ちょっと不思議な夢を見たから、聞いてくれる? いいじゃない。お洗濯ものは逃げないわ。
 さっきまで見てた夢にね、知らない男の子が出てきたの。まだ成人式も迎えていないような、たぶんそのくらいの年齢の子。
 その子はわたしの夢のなかにぽつんと立っていてね。なにをするでもなく立ち尽くしていて、そこに取り残されてしまったような、そんな雰囲気だった。
 しばらくしたら、どこからか男の子がもう一人やってきたの。その子は、最初にいた男の子の手をぐいぐいと引っ張りはじめたわ。どこかに連れていこうとしたのかしら。でも手を引っ張られているほうの男の子はかたくなにそこを動こうとしなくてね。それでもあとから来た男の子は辛抱強く両手で引っ張って粘っていた。なんだか、子どもがお母さんの手を引っ張っているみたいで可愛らしい光景だったわ。ふふ、思い出すだけで笑っちゃう。
 それでその葉っぱ色の髪の子があんまり粘るものだから、梃子てこでも動かなかった子が笑い出して、ついに歩きはじめたの。と言ってもそっちの子は帽子をかぶっていたから、顔は見えなかったわよ。なんていったって夢だしね。二人がどんな格好をしてたかあやふや。あやふやだけど、笑ってるってわかったの。
 なすがまま手を引かれていた帽子の子は、葉っぱの子と笑い合いながら手を繋いで、どこかへ歩いていったわ。
 ……おしまい。
 オチ? 話のオチなんてあるわけないじゃない。寝てるときの夢っていうのはそういうものでしょ?
 でもね。夢に出てきただけの顔も知らない子たちなのに、あの子たちがどこかで幸せに暮らしていてほしいって、心底思うの。会ったこともない子に、現実ですらないのに、おかしいでしょ?
 さてと。お喋りはここまでね。そろそろお洗濯のつづきをしなきゃ。晩ごはんの支度もあるし、たっぷりお昼寝したぶん、がんばりましょ。よっこいしょ。
 ……あら? あなたー? 宿帳をメモ代わりに使ったりした? ノート、破ったあとがあるんだけど。新品なのに、やぁねえ。