事務所にいる時は確かに窓の外は晴れていたのに、エレベーターに乗って一階まで下り外に出ようとしたオレの目の前にはしとしとと雨が降り始めていた。反射的に考えたのは洗濯物のことで、しかし今朝見た天気予報で天気が崩れやすいと聞いて外に干すのはやめたのだと思い出す。ほっとしたのも束の間、寮までどうやって帰ろうかと、思わず空を仰ぎ見た。
こんなことなら事務所に寄らずまっすぐ寮に帰ればよかった。どうせ報告書は今すぐに出せる類ではないし、今日は由鶴が休みだったから賄いがあるわけでもなかった。事務所にいた逢に無事代行業務が終わったことを報告し、ついでにカフェで飯でも食っていこうかと思ったけれど店の方からあのバカの声が聞こえたから、そっちに顔を出すこともなく出てきたのだった。
上に戻れば忘れ物で置いていかれたまま倉庫にしまわれている傘がいくつかあるだろうけれど、時間的にそろそろカフェのシフトが切り替わる頃だ。誰であろうと絡まれるのは面倒なのが目に見えている。
オレは仕方なく上着のフードを被り、強くなり始めた雨の中へ飛び出した。ランニングよりも早いペースで寮まで一気に駆け抜ける。だけど部屋の鍵を開ける時にはもうフードも上着も靴もびしょ濡れになっていて、はぁはぁと荒い息を整えながら部屋に入り、まっすぐ風呂場に向かって服を脱ぎ捨てた。
軽くシャワーを浴びて出てから濡れた床を雑巾で拭き、靴にはとりあえず新聞紙を詰めておく。髪からポタッと垂れた雫に舌打ちをしてそれも拭き取りドライヤーを持ってリビングへ向かった。先週あたりから暖かくなってきて使っていなかった暖房を久しぶりにつけ、これ以上体を冷やさないようにしながら髪を乾かす。くしゅんっとクシャミが出て、Tシャツの上からパーカーを羽織った。
ブブッとマナーモードにしていたスマホが鳴ったのは髪がほとんど乾いた頃で、オレはドライヤーのスイッチを切ってスマホを確認した。メルマガか何かだろうと思っていたけれど通知画面には『もう家?』と短いメッセージが表示されている。アプリを開いて既読をつけ、返信はせずにもう一度ドライヤーのスイッチを入れる。一分も経たずに今度は着信がスマホを震わせた。
「……、なんだよ」
『あ、麗。お疲れ様、もう代行終わったんだろ? 逢さんがさっき事務所に来たって言ってたから、ごはんでも食べにいかない?と思って』
「行かない」
『もうごはん食べちゃった? お弁当買って帰ったとか?』
「どうでもいいだろ。用がそれだけなら切るぞ」
『待って待って! えーっと、そうだ! お花見! お花見しようよ!』
「……ばか。雨降ってんだろ」
『え? うわ、本当だ……』
カフェのバックヤードで、しゅんとした顔で窓の外を見つめる神家のイメージが頭に浮かび、すぐにそれを振り払ってもう一度「切るぞ」と声をかけた。何も言わずに、そのまま切ってしまえばいいのに。
『今日、麗も夕方で仕事終わるって聞いてたから、一緒に出かけようと思ってたのに……』
「……勝手に人を予定に組み込むな。誰が行くか」
『だって前もって誘ったら断られるし逃げられるでしょ。てことで、今から麗の部屋行っていい?』
「は? いいわけねぇだろ。来んな」
『よかった、やっぱり部屋にいるんだな。ごはん買ってくよ! 何食べたい?』
「人の話聞けバカ」
ふざけるなと罵倒したところでコイツに効かないことは分かっていても、拒否しなければならなかった。オレはコイツを、受け入れてなんかいない。他でもない自分にそう言い聞かせるために。
『肉と魚だったらどっちがいい? ドーナツも買ってくから一緒に食べよ』
「何もいらねぇ」
『俺だけいればいいってこと?』
「っ、もう切る!」
『うそうそ、冗談だって。ね、何が食べたい? 教えてよ』
「……、……魚」
『おっけ! この前事務所の近くに美味しそうなお惣菜屋さんあるの見つけたんだけど、麗知ってた?』
「一本裏の、クリーニング屋の近くのとこか」
『わ、さすが。そうそこ! 食べたことはある? おいしいかな?』
「買ったことはねえ。適当に良さそうなやつ買ってこい」
『任せて! 麗が食べられるお野菜が入ってるやつも買っていい? 栄養バランス気にしないと由鶴さんに怒られちゃうでしょ?』
「……食えねぇやつ結局おまえが食うことになるだけだぞ」
『うん、いいよ。一口食べてみて美味しかったら麗が食べな。じゃあ買い物して帰るから、待ってて!』
「遅かったら寝る」
『さすがに早寝すぎるって! すぐ帰るよ。じゃあ一旦切るね。また後で』
「……ん」
電話を切ると途端に部屋が静かに感じて、そんな自分の感覚を断ち切るためにドライヤーのスイッチを入れもうほとんど乾いている髪に熱い風を当てた。顔がじわりと熱いのも、ドライヤーのせいだ。
インターホンが鳴って、俺はわざとのろのろと立ち上がりゆっくり玄関に向かった。鍵を開け、ドアを押し開く。
「ただいま、麗」
「……なんで傘持ってんのに濡れてんだアホ。さっさと入れ」
「ちゃんと差してたんだけど風が強くてさぁ。あ、ごめん、これ袋もちょっと濡れてるから床濡れないように気をつけて」
「……タオル持ってくるからそこで大人しく立ってろ。動くな」
「まじで? ありがとう!」
「部屋を濡らされたくないだけだ、勘違いすんな」
チッとしっかり舌打ちをしてから脱衣所に向かい棚からバスタオルを取る。玄関に戻って神家に渡し、代わりに神家が買ってきたものが入った袋を受け取った。惣菜だけかと思ったけれどビニール袋は二つあり、片方には惣菜のパックが、もう片方には見覚えのある箱が入っていて思わず神家の顔を見た。
「ん?」
「……こんな量のドーナツ誰が食うんだよ」
「俺! 一応甘くないやつも買ってきたから、麗が食べたいのあったらぜひ食べてね」
「惣菜もあんのに、二人で食い切れる量じゃねぇだろ……」
「残ったら明日のごはんにするから大丈夫。お邪魔していい?」
「もう入ってんだろ」
「じゃあ上がっちゃお。お邪魔します」
靴を脱いだ神家は何が楽しいのかニコニコと間抜けな笑みを浮かべて部屋に上がった。ムカついたので頭に被っているバスタオルの端を引っ張ってその顔を隠せば、わっと驚いた後楽しそうに笑い声をあげる。なんでもいいのかコイツは。
「いろいろ買ってきたから好きなやつ教えて。あ、そういえば見たい映画が配信に来ててさ、麗も好きな感じのやつだから一緒に見ない?」
「……どんなやつ」
「ミステリー! 探偵事務所で猫を飼ってる話で、その猫がすごい可愛いんだよ」
「なんだそれ。内容を言えよ」
「それは見てのお楽しみってことで。ね、いいだろ?」
「……つまんなかったら殴る」
「じゃあ面白かったらキス?」
バッと神家を見上げれば、からかう口調に反して案外真面目な顔でオレを見ていて、思わず開きかけた口を閉じてしまった。くだらないこと言ってんな、と一蹴できない視線に、ただ睨み返すことしかできない。
「……あー、ごめん、警戒されたいわけじゃないんだけど、……麗が可愛くて」
「は……?」
「お風呂入った? なんか、……いつもより無防備な感じ。気のせいかな」
「なん、だ、それ」
「キスしたいのは本当だけど、とりあえず今は忘れて、ごはん食べよ! お小皿何枚か出してもいい?」
「……持ってくる。箸は」
「割り箸もらえた。あ、飲み物も買ってくればよかったな。お水でいいからもらってもいい?」
「お茶、あったかいのと冷たいのどっちがいいんだよ」
「入れてくれるの? ありがと、じゃあ冷たいのお願いします。何か手伝う?」
「いい。映画つけとけ」
「おっけー」
さっきの言葉は聞き間違いだったかと思うほどいつも通りに話す神家に、オレもいつも通りに会話を続けたが、どう考えても聞き間違いなわけがない。一人でキッチンに突っ立って数十秒固まり、ぐるぐるするだけの脳内を整理しようと試みる。が、どうしようもなかった。
「麗? 大丈夫? やっぱり手伝おうか?」
「っ!」
反射的に振り向いてしまってから、まだ顔が熱いままだと気がついて顔を逸らす。リビングの方から顔を覗かせただけだった神家が近付いてくるのに気がついて急いで棚から小皿を数枚取り出した。すぐそこに感じる神家の気配を気にしないフリで振り返り、神家の体を押し退けるようにグッと皿を押し付ける。
「持ってけ」
「うん、持ってくけど、その前に」
「さ、さわんな」
「本当に嫌だったら殴っていいよ」
神家は受け取った小皿をキッチンの片隅に置いて、空いた手でオレの腕を掴み、もう片方の手で頬に触れた。顔を上げさせられ、真正面から神家を見つめる。
「可愛い」
「っ、るせ……」
「あー、もう、本当にただ麗とごはん食べて一緒にいられたらよくて、全然そんなつもりなかったんだよ。でも、ごめん、キスしたい。だめ?」
ダメかどうかなんて、そんなのダメに決まっている。オレがいいなんて言うわけねぇだろ。返事はしないで、だけどその手を振り払うことも目を逸らすこともせずにいれば、神家はパチパチと瞬きをしたあと唇をかすかに歪めた。欲が溢れたような笑みに心臓が跳ねる。
「ほんとうにかわいい……俺のことどうしたいの」
独り言のように呟いて、神家は顔を寄せた。唇がちょんと触れて、視線を上げれば至近距離で目が合い、咄嗟に目を伏せた途端キスが深くなる。オレはそのまま目を瞑って神家の肩をぎゅっと掴んだ。したくないなんて、言ってないから。
夢中でキスをして息が苦しくなったところで神家がそっと唇を離した。オレの荒い呼吸を整えるように背中を優しく撫でてくれる。いつもオレばっかりいっぱいいっぱいで、コイツは余裕のある態度なのがムカついて仕方ない。そう思うほど余計に自分の余裕のなさを感じることにもイラついた。
「チッ……」
「ふ、キスした直後に舌打ちって。嫌だったら殴ってって言ったじゃん」
「テメェのその殴られるわけないって顔もムカつく」
「そんな顔してないよ。調子乗り過ぎって怒られるかもしれないからヒヤヒヤしてた」
「どこが。チッ……まじでムカつく……いっつもお前ばっか余裕ある顔して……」
「……余裕なんてないよ、ほんとに。麗の前が、一番余裕ない」
「ンなわけ」
「本当だって。そうだ、ちょっと手貸して」
「あ? ……、……心臓、うるさ」
「好きな子とキスして、余裕あるわけないだろ」
「……」
「でも麗にそう見えてるならよかった。ちょっとはかっこよく見えてる?」
へらっと笑う神家の胸を軽く叩いて、腕の中から抜け出す。自分の心臓が神家のそれよりうるさいことがバレる前に離れたかった。
今さらのように熱い顔を隠すために目を逸らし、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出してグラスを二つ手に取った。神家はさっき渡した小皿を持ってリビングに向かったからオレも少し間を開けてその後を追う。テレビは待たせ過ぎたのかスクリーンセーバーがどこかの綺麗な景色を映していた。神家がリモコンを操作してすぐに映画を再生し始める。
「よし、じゃあいただきます」
「一番にドーナツ選ぶなよアホ」
「好きなもの我慢できないんだもん。麗も好きなの食べていいよ」
「ドーナツはいらねぇ。あ、南蛮漬け」
「それ美味しそうだよね。好きなだけ食べてな。あ、猫、見て麗」
「うっせぇな……。……」
「確かにめっちゃ可愛い。あ、この俳優さん出てるんだ」
「黙って見ろ」
「ふふ、はぁい、ごめんなさい。……面白いといいね?」
つまらないより面白い方がいいに決まっている。だけど神家の含みのある言い方に反射的に眉間に皺を寄せ、そのすぐ後に数分前の会話を思い出した。
「……もうしねぇよ、バカ」
「さっきのは映画関係なくない?」
「もう二度としない」
「ふふ、ごめんって、そんなこと言わないでよ」
「黙って食え」
やっぱりどう考えたってお前の方が余裕があるだろ。湧き上がったイラつきは、だけど一口食べた惣菜がちゃんと美味かったから、今だけ見逃してやることにする。テーブルに並んだ惣菜はどれもオレの好みを外さないもので、チラッと見た神家の横顔に、今度はイラつきはしなかった。
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