エヴィの墓は、外国人用の墓地にあった。エヴィのことを忘れていたから今さら知った。エヴィは、たったひとりの妹は、その墓地にひとりでいる。思い出した今、寺と相談して父とエヴィの墓を一緒にしようと考えていたが、解毒薬云々でそれどころではなくなってしまった。きっと、あの花ももう枯れてしまっていることだろう。
睡眠薬など必要ないと思うくらい、深く眠ってから目をむりやり開け、蛇口をひねって出てきた水で顔を乱暴に洗ってタオルで拭う。鏡にうつった自分の顔は、少々ほおが痩けているような気がした。それを無意識に指先で撫でて、頬骨を確かめた。久しぶりに長時間眠った。寝室にはいると、重たげな遮光カーテンが太陽を遮っていた。すると大きな音でアラームが鳴り響いた。スヌーズ機能がはたらいているのだと思い、今度はそれを切った。
研究所の一室で、解毒薬を見た。赤くちいさなカプセルのなかには、苦々の犠牲になった全てのひとの憎しみや怒り、または愛や悲しみ、血と涙がまぜこぜになっているのだろう。苦々を摂取した彼らは名前のつく何かに――誰かに、なれたのだろうか。自分は、なったのだろうか。父を殺したサカナも、母を裏返したサカナも、何かになれているのだろうか。それとも何にもなれずに生きているのだろうか。
「無駄にはしないから」
寝室の真ん中に立ったマルタは、誰にいうでもなく――自分にいうでもなく、そう囁いた。
昨日の昼、ひさしぶりに帰った家はどこかよそよそしく、マルタを遠ざけようとしたけれど、持ち主はまぎれもなく自分であるから、しばらくじっと休んでから料理のためにキッチンに立った。棚にはたくさんの調味料があった。飾りっ気のないマスキングテープに賞味期限が書かれている。すべてをチェックしている時間もないので、今日使うものだけ確認した。冷蔵庫に入っている、作り置きのジャジキを取り出して、ひとつまみ摘まんだ。こってりとしたギリシャヨーグルトにキュウリを刻んで入れたソース。悪くなってはいないようで、安心した。続いて野菜室にじゃがいも、ナス、冷蔵庫にチーズがあるのを確認し、レトルトのミートソース、ホワイトソースを取り出した。これは、ムサカにする。本当はソースからつくれればよいのだが、流石に徹夜続きでそのような体力はなかった。
ジャジキもムサカも、いまだに母が作ったような味になってくれない。
こうして料理をすることは、マルタ自身の贖いであるし、とっくに過ぎ去ったはずの通過儀礼のようなものでもあった。
父は、母がつくる料理が好きだった。妹も好きだったし、自分も好きだった。一度ギリシャとフランスに行った際、マルシェに毎日のように買い物に出かけた。ギリシャ人とフランス人の子どもである母は、それぞれの言語を解して、それぞれの国のそれぞれの人びとと楽しそうに会話をしていた。父も母も、マルタとエヴィに常々言い聞かせていた。「会話は大事」と。「言葉をかわすことはそのひとを知ること」だと。だから、父や母のまわりには大勢の友人たちがいた。けれどもマルタはその大勢のひとたちから離れた場所にいた。どうしてか、その輪に自分から入ろうとは思えなかった。みな、敬虔なプロテスタントで、難しい議題を語り合っていた。
――少しずつ思い出してきている。昔のことを。オリーブオイルの熱せられる音、匂い。ナスとじゃがいもに焼き色がつくごとに、物語のページをめくるように、記憶が語りかけてくる。
「エヴィが死んだ次の日に、医者になろうと思った」
ちいさな棺のなかで眠る、白い花に囲まれたエヴィの姿をみながら医者になりたいと夢を見た。
エヴィの骨は細くて、ちいさくて、白かった。花は最初からなかったもののように、跡形もなかった。
「お父さん、お母さん。僕、お医者さんになりたい」
数週間ほどたって、エヴィの骨は外国人用墓地に埋められた。土葬を父は希望したが、土地柄なのか許可がおりなかった。御影石がわりの白い石に、Evi Tobisiroと彫られていた。その墓に百合の花を置いた父は、そっとマルタを見下ろして一度だけ頷いた。母は、涙ながらにうつむいていた。
グラタン皿をふたつ用意し、それぞれにじゃがいも、ナス、ソース、チーズを敷き詰める。
皿をオーブンに入れてキッチンから出、運良く仕事場に置かれていて残った母の私物が置いてあるロッカーを開けた。大きなボストンバッグがひとつ。これだけが母の私物だ。バッグの中には写真立てがひとつ紛れていた。すこしくすんだプラスティックの向こう側に、家族で撮った写真がおさめられている。目を細め、それを眺めた。エヴィが死ぬ前、まだ元気だったころ。マルタが中学に入ったばかりの。写真立てはベネチアンガラスで彩られていた。
「……エヴィ」
ポツリとこぼす。それを持ち、キッチンの――ダイニングテーブルに置いた。陽の光で、ベネチアンガラスが幻想的にテーブルに光を放っていた。
ふいにエプロンのポケットに突っ込んでいたスマートフォンが鳴る。液晶は齋穏寺慶の名前を映していた。
「はい。飛白」
思いもよらず、声がかたくなった。それを感じ取ったのか、電話の向こうの彼は「どうかしましたか」と問うた。マルタは「いいや」と答えるしかなかった。
「待ってるから、気をつけてこい」
もう少しでつきますという言葉に分かったと答え、再度スマートフォンをエプロンに入れる。
オーブンに入れていたグラタン皿を背をかがめて眺める。良いあんばいにチーズに焦げ目がついていた。もう少し時間があるので、バゲットを用意する。パン切りナイフで薄切りにし、皿に置いた。ベランダに適当に生やしていたミントを千切り、水洗いして添えておく。
下ごしらえしてあった手羽先を冷蔵庫から取り出し、ムサカと交代するように、トースターに入れて焼く。同時に加熱すると電気が飛ぶからだ。
取り出したムサカはいい焼き加減だった。湯気がたちのぼり、チーズの表面がふつふつと泡立っている。
ダイニングテーブルに木製のちいさな鍋敷きをふたつ取り出して、慶が座る場所にひとつ、自分が座る場所にひとつ置く。そしてバゲットとジャジキをとなりに。
今焼いているチキンのソースはバジルと長ネギのものだが、ヨーグルトときゅうりのディップ――ジャジキをかけても、マーガリンでもいい。マルタはバターよりもマーガリンのほうが好きなので、冷蔵庫にバターはない。
ひととおり準備がおわるとエプロンを脱ぎ、ダイニングテーブルの天板に手のひらをついて、じっと立つ。視線の先は慶が座るための椅子。いつ、どこで買ったのか覚えていない。少なくとも六年は前だろうけれど、その辺りの記憶はほぼあいまいなものだった。
インターフォンが鳴り、あごを上げる。玄関へつながる廊下を歩いていて、裸足であることに気付いた。
「齋穏寺です」
モニターに慶が映っている。マルタはモニター越しではなければ相手の顔がよく見えない。ひどく不便だと思っていたが、もう慣れてしまった。けれども、慶の顔はよく見ていたいと思った。そんな考えがあったから、ドアを開けるのが遅れた。「今開ける」と、ようやくことばにした。
上背のある慶はドアをくぐるように玄関に入ってきて、おじゃましますといった。
「外、ずいぶん暖かくなりました」
「もう四月だからな」
厚着は必要でなく、かといって上着は必要といったところか。そう、しげしげ男の服装を眺めていると男は不思議そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや。腹は減っているか」
キシ、と廊下がしなる。ふたりぶんの足音は特に久しい。
「いい匂いがします」
後ろを歩く慶の嬉しそうな声色を聞き、ふと口もとがゆるむ。顔を見なければ、それが「うそ」だとしても気付かない。オートマティックに見える世界は、マルタにとって膜が張ったような、薄曇りそのものだった。
色が、あるとしたらそれは――。
「齋穏寺。お前の誕生日になにもできなかったから」
四月一日はこの男の誕生日だった。が、自分たち研究員は研究所に缶詰だったから、メッセージを送るくらいしかできなかった。
「もう半月くらい過ぎちまったけど」
すまない、と視線をさげながら謝る。自分が謝るときに相手の姿を見るのが怖かった。いつだって。それほど自分は意気地なしだっただろうか。
「俺の……? ありがとうございます。まさか、改めてお祝いしてくれるなんて」
「思ってなかったか?」
慶の顔を眺めて笑ってみせる。思ってました、と言い表しているようであった。
「冷めるから早く食べよう」
「ハイ!」
椅子に座った慶は、テーブルの端に置いてある写真立てに視線をおとした。
「これは……」
「ああ、悪い。置きっぱなしだった」
マルタがいただきますと呟くと、慶も同じように続いた。
スプーンでムサカをすくう。チーズの焦げた匂い。おそらく誰しもが好きな匂いだろうと自負している。乳製品が苦手でなければの話だけれど。
「おいしいです」
にこにこといとけない顔で笑っている。ふと、あの夜――東々タワーが爆破された夜のことを思い出す。拳銃を見た慶の顔は暗がりでよく見えなかったが、いつもと違う雰囲気だったこと、グローブ越しで感じた震えの、その体温をなくしたような小刻みな感触を覚えている。
テーブルの上においた左手が、無意識に丸まった。
「それ――、両親と、妹……と、俺」
ベネチアンガラスの赤と青、緑や黄色といった鮮やかなガラスがステンドグラスのようにはめ込まれている写真立ては、レースのカーテンが陽の光を通り抜けて、テーブルに複雑な光を映している。
「マルタさんのご家族? 妹さんいらっしゃったんですか」
「いた。……忘れていたけど」
バゲットにジャジキを乗せて口に入れる。ミントとヨーグルトの独特な酸味が喉を通っていく。
「甘え上手の、かわいい妹だった」
それだけで事情を察したのか、目の前の男は目を細めた。写真立てを眺めながら。
「ホラ、食え。まだケーキもあるんだから」
「ケーキ」
「言っただろ。お前の誕生日。……遅れたけど、って」
彼が持ったスプーンに添えられた指の爪が、そっと白くなる。力が入ったのだろうか。そして、彼は「ハイ」といった。すこしだけ、懐かしそうな――そして、さみしそうな顔をしながら、チキンを口に運んだ。
きれいに平らげた皿をさげて、冷蔵庫に入れておいたちいさなドーム型のガラス容器に入ったケーキをテーブルに置いた。
オレンジピールとチーズのケーキ。
「マルタさんの冷蔵庫ってなんでも入ってるんですね」
「デカいからな」
ナイフでケーキを切り分ける。ホールといっても、それほど大きくはない。
チーズとオレンジの香りが立ち上った。しっとりとしたスポンジは、ナイフで呆気なく半分にさせる。
「このケーキもマルタさんが作ったんですか?」
「まあ……」
無意味に濁し、頷く。
忙しくて用意できなかった、と、そんな情けないところを見せたくなかったから、かもしれない。
「俺はお前に、こんなことくらいしかできない」
「……じゅうぶんです」
慶はそれだけ、ポツリと呟いた。マルタもそれ以上の言葉を求めなかった。それが本心だと分かっていたから。
「あ」
ふっと空が翳った。春の天気は変わりやすい。そのうち、雨でも降ってしまうのだろうか。
「雨が降るみたいです」
スマートフォンを出して天気予報を眺めるその目を見つめる。
ぐにゃりとゆがんだ慶の色と思考。あるひとは、音や数字、文字に色がついて見えるという。そういった感覚と似たもの、その色のなかでマルタが一番好きな青を、この国の言葉ではない音色でこう呼んでいる。――Kyanos――青、と。
エヴィが好むリボンはオレンジだったり、ピンクだったり、赤だったりした。マルタがエヴィに青いリボンを選ぶと、かんしゃくを起こしてオレンジがいい、と言った。そのようなことを、今思い出す。
オレンジ。
目の前の男は、オレンジ色に見えた。懐かしさとさみしさを滲ませる慶の、先ほどの表情を思い返すと、ぎゅうと胸がにぶく痛んだ。
楽々を選ばなければ、慶の顔をもっと見られた。目の色を、髪の色を、くちびるの色を見られた。今はモニター越しでしか見られない。苦々があったから、楽々があったから。か細く息をつく。窓に、おおきな水滴がひとつ当たった。
「マルタさん?」
気付けば立ち上がっていた。窓の前に立ち、空を眺めていた。
切り分けたケーキは三分の一残っている。
レースのカーテンを癖のようにそっと握りしめ、離す。
お前と俺の関係を、少しだけ考えていた。
16歳の離れた友達?友達にしては触れるのに躊躇いがない。
親友?それにしては互いに遠慮がある。
なら、恋人。――恋人ではない。だが恋人同士がするようなことを、したのかもしれない。ひたいに、ほおに触れた。抱きしめもした。そして、同じひとを傷つけもした。けれど恋人にしては、近いのにどこおかとおい。行くな、と言えない。傷つくなとも、思っていても言えやしない。
恋を昔、した。二回。一回目は中学生のころ、男子の先輩に。二回目は医学生のころ、同期の女性に。そこで自分は恋というものが分からなくなった。同性、異性、どちらにも恋をしていたことが、すこし、嘘のように思えた。これからはひとを好きにならないだろうと思って――いた。
いた、というのなら、手を伸ばすことを諦めていないのだろうか。恋の歌が生易しく感じるくらい、じっとりと重い、生々しくてみぞれのような感情。
――俺は、ふたたび恋に落ちるのだろうか。
お前が伝えてくれたことばを覚えているから。花束のようなことばと、みずみずしい花。それらをたずさえて伝えてくれた。俺は、それを無碍にしていなかっただろうか。それはただの憧れだと、突っぱねてはいなかっただろうけれど。――嬉しかったからだ。ただ純粋に嬉しかった。ひとに好かれることは、嬉しい。そのひとに好きだといわれたから恋をする、そんな無責任なことはしたくなくて、俺は「おおきくなったら、一緒に考えよう」と伝えた。が、お前は覚えているだろうか。おおきくなった今、お前に恋をすることはきっと容易いだろう。
お前のことを見てきた。優しくて、ひとに好かれて、愛されて、それでも苦々犯罪者相手に非情になるお前を、俺は遠くからしか見てこられなかった。それでも、見てきた。アンチドートに入ったときから、今まで。長いような、短いような。そんなあいまいな期間だったが、確かにその姿をこの目に焼き付けていた。鮮烈なまでに。
けれど〝好き〟という感情を、恋にしたくはない。まだ。
俺の中にある好きという想いは、お前の色をしているから。それ以上のことばで、伝えられない。今は。
本格的に雨が降り出してきた。
横に、慶の気配を感じる。
「慶」
すうっと息をして、吐きだしてから名前を呼ぶ。
あのころの「慶くん」ではない、それでも紛れもなく同一人物で、あのときよりもおおきくなって、がらりと変わった男の名前だ。
「誕生日、おめでとう」
薄暗い部屋は、あのときのビルの中より明るい。そして、やはりあのときよりこころが柔らかくほどけている。
ポケットに入っていたちいさな箱を差し出した。明るくあたたかな目の色が、箱を注視する。
「センパイからの誕生日プレゼントだ。受けとれ」
ちいさなオレンジ色のジルコンが彩る、細めのタイピン。
マルタは、慶が喜ぶものを、似合うものをと選択する行為を、少なくとも愛情だと思っている。
――幼かった慶が差し出してくれた花束とことばとは、思いの丈が違うのだろうけれど。それでも、生まれてきてくれたことを嬉しく思うと、万感の思いで伝えられていたらいい。
慶はありがとうございますといった。嬉しげに。
その表情もことばも、何物にも代えがたい、マルタにとっての宝物だった。
いつだって慶は宝物のようにことばをくれた。それに見合えるほどのものを、マルタは差し出せていない。いつか返せる日がくるだろうか。そんな子どものような競争心を胸に燻らせながら、ほんの少し踵をあげてひたいにくちづけた。
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