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Hnyanko
2026-04-03 21:09:16
13693文字
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悠アキ妖パロ4
ストック3
窓を離れたあとも、首筋に残る気配は消えなかった。
夜気を裂いて飛びながら、悠真は一度だけ指先を見下ろす。
さっきまでそこに触れていた。アキラの皮膚の薄さも、脈のやわらかな熱も、他の妖の気配がへばりついていた不快さも、まだ指に残っている気がした。
胸の奥が、静かに煮えていた。
怒りで目が曇る類ではない。
もっと澄んで、もっと冷たい。殺意というより処理欲に近い。どこにいるかもわからないまま苛立っていたものが、いまは匂いになって夜気に混じっている。たどれないはずがなかった。
低級の妖は、総じて浅ましい。
力もないくせに、他のものへこそこそと印を残したがる。己の領分ですら維持できない半端者ほど、弱い人間へ爪痕だけを残して満足したがる。
気色が悪い、と悠真は思う。
人の形をしたまま、夜の屋根を渡る。足音はしない。黒い翼の影だけが、月明かりの上を滑っていく。
そうして古びた路地へ降りたとき、ようやく“それ”の気配が濃くなった。
湿った壁際。
排水の匂い。
淀んだ空気の底に、アキラの首に残っていたのと同じ、ぬるついた妖気がある。
「
……
いた」
吐き捨てるみたいに零れた声は、アキラの前で使っていたものよりずっと低かった。
路地の奥、崩れかけた塀の陰で、影がぬらりと動く。
人型とも獣ともつかない輪郭を揺らしながら、それは悠真を見るなりびくりと身を引いた。格の差に気づいたのだろう。遅い。
「ひっ
……
」
喉の奥で掠れた音が鳴る。
逃げようとした気配を、悠真は鼻で笑った。
「今さらどこ行くの?」
一歩、踏み出す。
それだけで相手は半歩どころか、ほとんど崩れるみたいに下がった。みじめだとすら思わない。視界に入ること自体が不快だった。
「あんたさぁ」
悠真は笑っていた。
笑っているのに、目の奥は少しも笑っていない。
「何、勝手に印なんかつけてんの」
低級妖は何か言い訳めいた音を吐こうとした。
けれど言葉になるより先に、悠真の手がその喉元を掴んでいた。
骨が砕ける音すらしない。
ただ、掴まれた瞬間に相手の妖気がばらばらと軋む。格が違いすぎるのだ。抗う以前に、触れられた時点で終わっている。
「っ、あ、ぁ
……
!」
「うるさいな」
心底うんざりした声だった。
悠真は片手でそれを吊り上げる。
人の目には見えない夜の路地で、低級の妖がじたばたともがく。爪の先が空を引っかくばかりで、悠真の袖ひとつ乱せない。
「それ、あんたが触っていいもんだと思った?」
答えは求めていない。
問いの形を借りた、ただの侮蔑だった。
低級妖の濁った目が見開かれる。恐怖と、理解できないものを見る色が混じっている。
悠真はその顔を見下ろし、ぞっとするほど冷たく目を細めた。
「身の程も知らないで、ほんとうに気色悪い」
吐き捨てる。
「こそこそ人間に印つけて満足してんの、虫以下でしょ
……
」
アキラの前では抑えていた言葉が、淀みなく出た。
汚いというより、剥き出しだ。取り繕う理由がないから、そのまま落ちる。落ちるたびに、自分の中で何かがすっきり整っていくのがわかった。
腹が立つ。
思い出すだけで、まだ足りない。
アキラが何も知らず、自分の部屋で、いつも通りの顔で悠真を迎えたこと。
その無防備さ。
そこへ、自分の知らない三下の気配がへばりついていたこと。
あれを思い出すと、喉の奥が焼けるようだった。
「一回つけたら何?次もいけると思ったか」
悠真はわずかに首を傾げる。
その仕草だけ見れば昔の名残みたいに静かなのに、口から落ちる声はひどく冷たい。
「だったら教えといてあげるよ」
掴んだ喉元へ、指が少しだけ沈む。
低級妖がひっと短く息を呑んだ。
「あれはあんたみたいなのが嗅いでいい匂いじゃない」
ぞっとするほど、静かな声。
「見つけても触るな。近寄るな。気配ひとつ落とすな」
ひとつずつ、刻むように告げる。
相手のためではなく、自分の中での線引きを確かめるための言葉だった。
「
――
僕のだ」
その一言だけ、妙に低く落ちた。
低級妖の顔が引きつる。
悠真はその反応を見ても、少しも気は晴れなかった。むしろ遅い、としか思わない。最初からそういう顔をして怯えていれば、そもそも触れようなんて考えなかっただろうに。
「今さら理解した顔しても遅いんだよ」
ぐ、と指に力がこもる。
次の瞬間、妖の気配がひしゃげた。
肉を裂くみたいな生々しさはない。ただ存在そのものが潰される。夜の淀みみたいに、濁った妖気が砕けて散る。
低級妖は悲鳴も上げきれず、音にならないまま崩れた。
残るのは、ひどく薄い残滓だけだ。
悠真はそれを見下ろし、心底くだらなそうに鼻を鳴らした。
「二度と寄らないでよね。
……
ああ、もう無理か」
足元で散りかけた気配を、靴先で踏みにじる。
それで終わりだった。あっけないほどに。
それでも、怒りは完全には消えない。
悠真はしばらくその場に立ち尽くし、やがて自分の指先を見た。
さっきまでアキラに触れていた手だ。低級妖を掴んだのも同じ手なのに、不思議と汚れた気はしなかった。汚いものを処分した、それだけだ。
けれど足りない、と思う。
あれを消したところで、アキラの首に残った違和感がなくなるわけじゃない。
さっきは薄く剥いだだけだ。自分の気配を被せかけた程度で、完全には上書けていない。
完全に消すなら、もっとちゃんとやらなければならない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で静かに何かが定まった。
人間に合わせる。
怯えさせないように距離を測る。
選ばせる。
嫌なら止めろと委ねる。
――
ぬるかったな、と悠真は思う。
甘かったと言ってもいい。
大事なものを、大事なものとして扱うには、あまりにも緩い。鳥籠の戸を開けたまま、外敵が寄らないことを願っていたみたいなものだ。そんなのは守るうちに入らない。
「
……
馬鹿だった」
ぽつりと落ちた声は、自嘲に近い。
低級妖へ向ける罵倒より、よほど低かった。
夜空を見上げる。
アキラの部屋のある方角は、この路地からでは見えない。けれど、そこに帰るべき場所があることだけは、もうずっと前から骨の芯まで知っている。
閉じ込める。
囲う。
印をつける。
目の届くところへ置く。
人間なら嫌がるだろう。
でも、人間の都合に合わせた結果がこれだ。
悠真は目を細めた。
「次は間違えない」
誰に聞かせるでもなく、夜に落とす。
その声は、もう少しも揺れていなかった。
⁂
翌日は、朝から妙に身体が重かった。
目が覚めた瞬間、まず首筋へ手が伸びた。
昨夜、悠真に触れられたところだ。痛みはない。傷もない。鏡で見ても、肌の上には何も残っていない。なのに、皮膚のすぐ下へ薄い熱が沈んでいるような、妙な違和感だけが消えなかった。
眠りが浅かったせいだろうか、と最初は思った。
けれどそれだけでは説明のつかない疲労がある。身体の芯に、まだ夜の気配が残っている。窓の外の光は普通の朝なのに、自分だけどこか半歩ぶん、別の場所へ置き去りにされているみたいだった。
最悪だ、とアキラは思う。
昨夜のことを思い出すたび、胸の奥がざわつく。
他の妖の印。
悠真の怒り。
人間に合わせるのをやめる、とあまりにも静かに言い切った声。
あれは脅しではなかった。
だからこそ厄介だった。
ただの勢いで言った言葉なら、時間が経てば薄れる。気まずさや後悔で、少しは変質する。
けれど悠真は、そういうふうに揺らぐ感じがしなかった。
あれはたぶん、昨夜のうちに結論として固まってしまったのだ。
その事実が、朝になってもじわじわと効いていた。
出かける気にはなれなかった。
窓を開けるのも少し迷って、結局、換気を諦める。カーテンの隙間から差し込む昼の光だけが部屋の中へ細く落ちていた。
ぼんやりした頭のまま、マグカップへ湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気を見つめていると、何も考えなくて済みそうだった。そうして少し気を抜いた、その瞬間だった。
ふいに、背後の空気が変わった。
ひやり、としたわけではない。
温度ではない。密度が、変わる。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
身体が硬直する。振り返るより先にわかった。来た、と思うより、いると知ってしまった。
「悠真」
名前が、勝手に零れる。
「うん」
すぐ近くで返事がした。
心臓が大きく跳ねる。
振り返れば、案の定、悠真がそこにいた。窓は閉まっている。玄関も開いた音はしなかった。なのに当然みたいな顔で、部屋の中へ立っている。
黒い衣の裾が、昼の光を吸ってわずかに揺れる。
夜とは違って翼は見えない。人に近い姿をしているぶんだけ、一見すればただ綺麗な男だ。けれど、その気配だけがあまりにも人から遠い。
「何で入ってきてるの」
言ったつもりだったが、声に力が入らない。
自分でも驚くほど弱い響きになって、アキラは眉を寄せた。
悠真はそんなこちらの顔を見るなり、少しだけ目を細める。
「だるそうだね」
「
……
誰のせいだと思ってるの」
「半分くらいは僕かな」
半分で済ませる気か、と言い返したかったのに、その前に悠真が一歩近づいた。
たったそれだけで、足元がわずかに揺らぐ。
おかしい。
昨日から調子が悪いのは確かだけれど、立っていられないほどじゃない。なのに、悠真が近づくと急に空気が濃くなる。肺へ入るものの質が変わる。うまく酸素にならないみたいに、頭の内側がじわじわ痺れていく。
アキラの様子に気づいたのだろう。
悠真は一瞬だけ立ち止まった。
「
……
ああ」
小さく息を吐く。
「まだ少し残ってるのか」
昨夜、自分が首筋へ触れたせいなのか。あるいは、この部屋に落ちたままの気配のせいなのか。悠真はひとりで納得したように頷くと、今度はさっきよりゆっくり近づいてきた。
それでも、近い。
「来ないで」
「行くよ」
即答だった。
拒否する余地があると思っていない声。
昨夜から薄々感じていたものが、昼の光の中だと余計にはっきり見える。悠真はもう、前みたいに人間の遠慮をする気がない。
けれど不思議なことに、乱暴ではない。
歩み寄り方ひとつとっても、壊れ物へ触れるみたいな気配はある。たぶん本気で加減しているのだ。
ただ、その“加減”が人間向きじゃないだけで。
「ちょっと、借りる」
「
……
何を」
問いかけた直後、視界が揺れた。
悠真の手が、アキラの腰を抱く。
持ち上げるというほど乱暴な力ではない。けれど抵抗を許さない。息を呑むより先に足元が浮き、ぐらりと身体が傾く。
「悠真、待っ
……
」
言い終わる前に、空気が裂けた。
音はなかった。
けれど、世界の継ぎ目だけがふいに開いたような感覚がした。目の前の光景がゆるく歪む。昼の部屋、白い壁、机、カップ、薄いカーテン
――
その全部が水面の底へ沈んでいくみたいに遠のいて、輪郭だけを残してほどけていく。
「
……
っ」
声を出そうとしたのに、うまく形にならなかった。
気持ち悪い、とは少し違う。
苦しいわけでもない。痛みもない。
ただ、考えが続かなくなる。
何かを思ったはずなのに、その先へ行く前にふっと消える。
悠真に何か言わなきゃ、と思った。たぶん。けれど“何を”のところで、もう掴めない。言葉の輪郭が指のあいだから零れていくみたいに、頭の中でまとまらなかった。
悠真の腕が、少しだけ強くなる。
抱き寄せられているのだと理解するまでにも、ひと呼吸ぶん遅れる。
「大丈夫」
耳元で声がした。
近い。近い、と思う。けれどその感覚さえ、すぐに薄れていく。
「少し濃いだけ」
少し。
その言葉に引っかかるべきだった。おかしいだろう、と返すべきだった。けれど、そのための思考が続かない。
足が何かへ触れた。
着いたのだと、遅れてわかる。
目を開けているのか閉じているのか、一瞬、自分でもわからなかった。
光はある。暗くはない。なのに人の世界の明るさとは違う。うす青い燐みたいなものが遠くで揺れ、木々や水際のかたちだけを静かに浮かび上がらせている。
風が吹く。
その匂いを嗅いだ瞬間、頭の中がさらにゆるんだ。
濃い、としか言えない。
木の匂い。水の気配。石の冷たさ。羽根。土。夜露。遠くを渡る何かの影。
ひとつひとつを認識する前に、全部がいっぺんに入ってくる。多すぎる。多い、と理解した次の瞬間には、その理解すら曖昧になる。
「
……
ぁ」
何か言いたかった。
たぶん。
けれど舌が思うように動かない。言葉にしようとしたものが、その手前でとろりと崩れる。
脚に力が入らず、その場へ膝をつく。
冷たい、と思った。いや、冷たいというより、澄みすぎている。地面なのに、地面に触れている感じがしない。領域そのものに触れているみたいで、皮膚の境目が曖昧になる。
悠真が前へしゃがみこんだ。
目線を合わせるためだと、遅れてわかる。
「ここ、どこ」
訊いたつもりだった。
ちゃんと喋れたかはわからない。自分の声がひどく遠く聞こえる。
「僕のところ」
返事ははっきり聞こえた。
はっきり聞こえるのに、その意味が頭の中でうまく組み上がらない。
僕のところ。
悠真の。
それは、わかる。たぶん。けれど、そこから先が続かない。
「ちょうどよかったんだ。昨日から考えてた」
昨日。
昨日、何かあった。
首。印。怒った顔。金色の目。
記憶の切れ端だけが浮かんでは沈む。繋がらないまま、水に溶けた絵の具みたいににじんでいく。
「何を」
言えたことに少し驚く。
でもその驚きもすぐ消えた。
悠真の指が、首筋へ触れる。
昨夜、何度もなぞられたところだ。そこだけがまだやけに鮮明だった。皮膚の下へ、熱が沈んでいるみたいに。
「人間のほうへ置いておくから、余計なものが寄るんだよ」
穏やかな声だった。
諭すみたいで、静かで、少しやさしい。だからこそ、余計に現実感がない。
「だったら、最初からこっちへ置いたほうが早い」
その言葉の意味を、ちゃんと怖がるべきだった。
けれど怖い、という感情までひどく鈍い。恐怖がないわけじゃない。ただ、輪郭がぼやけている。危険だ、と頭のどこかではわかっているのに、そこへ向かってうまく身体が動かない。
「
……
ふざ、け」
最後まで言えない。
舌が重い。考えがゆるい。怒ることに必要な芯が、領域の濃さにふやけてしまっていた。
悠真はそんなアキラを見て、少しだけ困ったように目を細める。
「ふざけてないよ」
「
……
」
「ちゃんと加減してる」
加減。
その言葉がやけに引っかかる。
加減されて、これ。
そう思ったはずなのに、その先の言葉が続かない。頭の中で組み立てかけたものが、ふわ、とほどける。
悠真が頬へ触れた。
「もう少し薄める?」
訊き方だけはやさしい。
けれどそのやさしさの意味まで考えようとすると、また頭の中が白くなる。
薄める。
何を。
空気を。気配を。領域を。
そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。思考の輪郭が、つねに半拍ぶん遅れてくる。
「帰、す
……
は」
ようやく絞り出した声に、悠真は少しも迷わなかった。
「いまはなし」
静かな声だった。
その一言だけは、濁らずに落ちてくる。
いまはなし。
その意味は、ちゃんとわかる。
わかるせいで、胸の奥がかすかに冷えた。けれどその冷えさえ、すぐに濃い空気へ溶かされていく。
「だって、また何かつけられたら困る」
悠真が少しだけ首を傾げる。
その仕草が、昔の黒い雛を思わせる。思わせるのに、いま目の前にいるのはもうまったく別のものだ。
「ここなら僕の気配しかないし」
その言葉通りだった。
領域の空気は濃すぎる。
ほかの何かが入り込む余地なんて最初からなさそうだった。木々も、水も、石も、風も、全部が悠真の理でできているみたいだ。その中心へ、自分はいま連れこまれている。
ぞっとした。
たぶん。
でも、その恐怖すら、とろとろに薄まる。代わりに別の感覚が沈んでくる。
――
ここには、悠真しかいない。
そのことだけが、妙にはっきりわかった。
昨夜みたいな“知らないもの”の気配がない。濃すぎるほどに、悠真だけだ。その事実が、恐ろしいはずなのに、同時に身体の奥をゆるめてもいた。
最悪だ、とアキラは思う。
思った、はずだった。
けれどその言葉も、形になる前にふわふわと沈んでしまう。
「
……
顔、とろけてる」
悠真の指が、頬をそっと撫でた。
熱い。
自分の頬が。
あるいは触れる指が。
どちらかもうまく判別できない。
「そんなつもりない
……
」
返した声が、自分でも信じられないくらい弱い。
眠いわけじゃない。意識はある。目も開いている。悠真の顔もわかる。
なのに、頭の中だけがひどくゆるい。何かを拒むための角ばった思考が、きれいに溶かされているみたいだった。
「うん、知ってる」
悠真はやさしく言う。
「人間には濃すぎるんだよ、ここ」
そのまま、アキラが立ち上がろうとしたのを見て、悠真はすぐ腕を伸ばした。
無理だった。
脚へ力を入れたつもりなのに、膝が笑うみたいに頼りない。立つ、という単純な動作の組み立てすら、ひどく遠い。身体が自分のものじゃないみたいに鈍い。
傾いた身体を、悠真がそのまま抱きとめる。
「だから言ったのに」
呆れたようでいて、どこか甘い声だった。
「下ろして」
「下ろしても歩けない」
「
……
歩く」
「無理」
言い切られて、悔しいはずなのに、その悔しささえちゃんと燃えない。
悠真はアキラを抱え上げた。
軽々と。人の体重なんて何でもないみたいに。視界が少し高くなって、またゆるく揺れる。
けれど今度は、さっきみたいに気持ち悪くはなかった。
近すぎるほど近くに悠真の気配があって、それが領域の濃さより少しだけわかりやすい輪郭になっているせいかもしれない。
首筋へ落ちる呼吸。
衣に移った木と羽の匂い。
支える腕の力。
全部が濃い。
濃いのに、そこだけは不思議と掴める。
「
……
悠真」
掠れた声で呼ぶと、耳元にすぐ返事が落ちた。
「なに」
「ほんとに、返す気ないの」
一拍だけ、沈黙があった。
その沈黙が、逆に答えになっていた。
「すぐには」
ようやく返ってきたのは、それだけだった。
すぐには。
その意味を、ちゃんと嫌がるべきだった。
でももう、そのための思考がひどく遅い。言葉の意味だけは届くのに、それに追いつく感情が半拍遅れて溶けてしまう。
悠真はそのまま歩く。
景色は綺麗だった。綺麗すぎて、現実感がない。梢の影、水面、うす青い光、白い靄。どれも輪郭ばかりがやけに澄んでいて、そのくせ頭の中ではうまく像を結ばない。
「ちょっと思いついたんだよね」
さらりと悠真が言う。
「昨日のあと」
アキラは嫌な予感だけをぼんやり抱いた。
予感はある。けれど、それを言葉にして防ぐところまでは届かない。
「何を」
「しばらくこっちにいれば、余計なものも寄れないし、あんたも慣れるかなって」
あまりにも穏やかな言い方だった。
その穏やかさの意味を考える前に、また頭がゆるむ。
「慣れる
……
」
「うん。領域に」
慣れたくない。
たぶんそう思った。
けれど、その反発すら水の中で手を伸ばすみたいに鈍い。
木々の奥がひらける。
そこにあったものを見て、アキラは目を細めた。
巣、というにはあまりに大きい。
屋敷、というには少し人の建てる形からずれている。
黒い木と石と、どこか骨じみた白いものが絡むように組まれた建物が、水辺のほとりに静かに立っていた。
「
……
なに、これ」
「僕のところ」
二度目の答えだった。
最初より、もっと逃げ場がない。
悠真はそのまま中へ入る。
敷居を越えた瞬間、さらに濃くなるかと思って、アキラは無意識に悠真の衣を掴んだ。
指が勝手に動いたみたいだった。
離れるのが嫌だったわけじゃない。たぶん。
けれど、掴んでしまってから、その言い訳を考える余裕もない。
悠真がそれに気づいて、少しだけ目を細める。
「ほらね」
やわらかく、満足そうな声。
「やっぱりこっちのほうがいい」
何がいいのか、もううまく反論できなかった。
ただ、この濃すぎる場所で、自分の思考が少しずつほどけていく感覚だけが、ひどく鮮明だった。
建物の中へ入った途端、空気の質がまた変わった。
外より静かだった。
静か、というより、音がやわらかい。風の気配も、水のひそかな揺れも、どこか遠くへ沈められている。濃いことに変わりはないのに、さっきまでみたいに領域そのものがむき出しで肌へ触れてくる感じが少しだけ薄い。
少しだけ。
それでも、人間にはまだ濃すぎる。
アキラの頭の中は相変わらずとろとろで、さっき思ったことも、いま見たものも、次の瞬間にはふわりとほどけていく。
ただ、外にいたときよりはましだった。輪郭のない白い靄の中に、ようやくいくつか形が浮かぶくらいには。
長い廊下だった。
黒い木の床に、淡い青の光がゆらゆら落ちている。壁なのか障子なのか判然としない薄い仕切りの向こうで、水音がしていた。人の住む場所に似せてあるのに、どこか根本の作りが違う。
でも、その違和感を掴んで考えようとすると、すぐに頭がほどける。
「
……
ぁ」
気づけば、変な声が漏れていた。
悠真の腕の中は安定していた。
抱えられている、という事実だけはわかる。恥ずかしいとか、下ろしてほしいとか、そういう反応をするべきなのかもしれない。けれど、そう思うころにはもう別の感覚がそれを塗りつぶしていた。
あたたかい。
近い。
落ちない。
それだけで充分みたいに、身体が勝手に力を抜いていく。
「ん、もう少し」
耳元で、悠真が囁いた。
声が甘い。
昨日の夜までの静かな迫り方とも違う。もっと素直に、もっと隠しきれず、機嫌のよさが滲んでいる。
囲えた。連れてこられた。自分の領域の内側へ、ちゃんと入れた。
その満足が、声の端々からこぼれていた。
「すごいね、アキラくん。ちゃんと頑張ってる」
頑張ってる。
何を。
そう思った気もする。けれどその問いはすぐ溶けた。
褒められているのだということだけはわかる。
そのせいか、胸の奥がふわりとやわらかくなる。単純だ、とどこかで思う。思うのに、その自嘲さえ長続きしない。
やがて悠真が、ある部屋の前で足を止めた。
戸が開く。
中へ入った瞬間、空気がすっと変わった。
「
……
あ」
思わず、声が落ちる。
薄い。
いや、薄いというのも少し違う。外や廊下に満ちていたものが、ここではやわらかく撫でる程度まで整えられている。濃いままの領域を、人間の皮膚や息へ触れても壊れない形にまでほぐしたような、そんな空気だった。
息がしやすい。
頭の中の靄も、ほんの少しだけ後ろへ退く。
「ここは、ましでしょ」
悠真がやわらかく言う。
その口調は、ほとんどご満悦だった。
「
……
へや」
何とかそれだけ言うと、悠真はくす、と喉で笑った。
「そう。アキラくん用」
その四文字が、頭の中へ落ちるまでに少し時間がかかった。
アキラくん用。
僕用。
なんで。
どうして。
そこまで考えたところで、また思考がふわふわ散る。
部屋は広すぎず、狭すぎず、妙に落ち着くつくりだった。
床へ厚い敷物が敷かれ、窓の代わりみたいに薄い光の幕が揺れている。寝台は人の使うものに近い形をしていたし、水差しや布も置かれていた。全部が“人間向け”に見えるのに、整いすぎていて少しこわい。
でもその“こわい”も、部屋の空気に撫でられるうち、ゆるくほどけていく。
「最初はここがいいかなって思って」
悠真がそう言いながら、寝台へアキラを下ろした。
沈みこむ。
やわらかい。
身体の重みが、するりと吸われていく。ようやく足が地から離れ、完全に支えを失ったはずなのに、不安はあまりなかった。悠真の腕がまだ少し背を支えているせいか、それとも部屋そのものがそうさせるのか、境目がわからない。
「
……
なんで、こんなの」
訊いたつもりだった。
声はやっぱり弱い。舌の回りも少し鈍い。
それでも悠真はちゃんと聞き取ったらしい。
「思いついたから」
答えになっていない。
けれど、悠真の顔を見た瞬間、それ以上追及する気が少し失せた。
機嫌がいい。
とても。
昨日の静かな怒りがまるで嘘みたいに、いまの悠真は蕩けるみたいな顔をしていた。
にっこり笑っているわけでもない。ただ、目の細め方も、声の落とし方も、触れる手つきも、ぜんぶがやわらかい。満ち足りているものの甘さが、そのまま滲んでいる。
「うれしいんだよ」
悠真はあっさり言った。
「ちゃんと連れてこられたから」
その言い方がひどく自然で、アキラはぼんやりした頭のまま目を瞬く。
「つれて
……
」
「うん」
頷く声まで甘い。
「僕のところに」
そこまで言って、悠真は寝台の縁へ腰かけた。
もう近いとか離れてとかを判断する頭がうまく回らない。ただ、さっきまでよりずっと近くに悠真の気配があるのが、変に気持ちよかった。
頬へ手が触れる。
ひやりとした指先。
でも、そのあとに残る熱はやわらかい。
「まだとろいね」
「
……
とろ、くない」
「うそ。かなりとろとろ」
くすくすと笑われて、反論しようとした。
たぶん。
でも言葉が浮かばない。浮かんでも、口まで来る前にふわっとどこかへ行く。
その様子が可笑しかったのか、悠真はますます目を細めた。
「かわい」
ぽつり、と落ちた声があんまり自然で、アキラはかえって反応できなかった。
かわいい。
言われた。
たぶん。
そう認識したころには、悠真の指が髪へ移っていた。額の生え際から、耳の上へ、後ろ髪へ。梳くというより、羽を整えるみたいな手つきでゆっくり撫でていく。
気持ちいい。
それが最初に来てしまって、アキラは眉を寄せた。
こんなの、警戒しないといけないはずなのに。勝手に連れてこられて、自分の領域だと言われて、囲うつもりだと散々示されて、それなのにいま、撫でられるだけで身体の奥がふわふわほどけていく。
「
……
だめ」
言えたことに、自分で少し驚く。
でもその“だめ”にも、きっと芯はなかった。ふにゃふにゃに柔らかくて、命令にも拒絶にもならない音だった。
悠真は案の定、まるで止まらなかった。
「だめじゃないよ」
蕩けるみたいな声で言う。
「気持ちいいんでしょ」
その言い方が、あんまりやさしくて、ずるい。
アキラが黙ると、悠真の指がまた髪を梳いた。
耳のうしろをかすめ、首へおりる。昨夜から何度も触れられている場所なのに、領域の中だと感覚が違った。そこだけが妙に熱く、そこへ触れられるたび思考が一段ゆるむ。
「ほら」
囁くみたいに、悠真が言う。
「やっぱり、こっちのほうがいい」
何が。
そう訊き返すべきだった。
けれど、いちいち言葉を探すのがしんどい。探しても、頭の中で丸くやわらかくなって、うまく掴めない。
代わりに、アキラは目を伏せた。
まぶたの裏があたたかい。眠いわけではない。意識はある。ちゃんと聞こえるし、考えようと思えば考えられなくもない。
ただ、それがひどく遠回りで、面倒で、どうでもよくなってしまう。
寝台がやわらかいせいか。
部屋の空気がちょうどいいせいか。
それとも悠真の気配に包まれているせいか。
全部かもしれなかった。
「
……
アキラくん」
名前を呼ばれて、なんとか目を開ける。
悠真がこちらを覗きこんでいた。
金色の目が、近い。
昨日までの、射抜くみたいなまなざしとは少し違う。もっと丸くて、深くて、見ているだけで溶かされそうな目だった。
「いい子」
そのひとことに、胸の奥がふにゃりとゆるむ。
いい子。
また褒められた。
何をしたわけでもないのに。ただこうして運ばれて、ぼんやりして、抵抗もできずにいるだけなのに。
そんなことを考えた
……
気がした。
けれどその疑問も、次にはもう大した意味を持たない。
悠真の手が、頬から顎へ、首へと降りていく。
やわらかい。昨日のような怒りを孕んだ触れ方ではなく、ただ満足そうに、自分のものへ触れているみたいな手つきだった。
「ねえ」
声が甘い。
蕩けきっている。
機嫌のよさを隠す気なんて少しもない。
「ここ、好きになって」
好き。
部屋を。
領域を。
それとも。
考えようとして、またやめた。
やめるつもりはなかったのに、思考そのものがゆるく流れてしまう。
「
……
むり」
やっとのことで返した言葉に、悠真はくすっと笑う。
「すぐじゃなくていいよ」
その余裕が、妙にやさしくて困る。
「でも、そのうち慣れる」
「
……
」
「慣れて、気に入って、帰りたくなくなればいい」
ひどいことを言っているはずなのに、声があまりにもやわらかくて、恐ろしさがうまく形にならない。
ただ、その言葉だけがじんわり胸の奥に沈む。
帰りたくなくなる。
そんなこと。
あるはずがないのに。
でも、いまこのふわふわした頭で否定しようとしても、うまくできなかった。
悠真はそんなアキラの顔を見て、また満足そうに目を細めた。
「ね」
囁く。
「ちゃんと気持ちよくしてあげるから」
その言葉に、アキラはゆっくり瞬きをした。
気持ちよく。
たぶん、いまこうして思考がほどけて、身体がやわらかくなって、反抗する気力まで薄まっていることを言っているのだろう。
わかっている。
わかっているのに、もうその“わかっている”自体が遠い。
頬を撫でる指が気持ちいい。
首をなぞる手が気持ちいい。
声が耳へ落ちるたび、胸の奥までふわふわしていく。
最悪だ。
たぶん。
でも、その最悪さをちゃんと怒れるくらいには、もう頭が働いてくれない。
悠真が少し身を屈める。
額が、こつりと触れた。
昨日と同じ仕草。
でもいまは、その意味を考えるより先に、そこから伝わる熱だけがひどく心地よかった。
「すごくいい」
悠真が、ほとんど溶けきった声で言う。
「ここで、僕の気配にふわふわしてるアキラくん」
言葉が熱い。
なのに不思議と怖くない。
怖がるべきなのに、そのための角ばった思考がもうない。全部まるくされて、やわらかく撫でられてしまっている。
「
……
や、だ」
「うそ」
即座に返る。
笑いを含んだ甘い声で。
「そんな顔で言っても、全然やじゃなさそう」
否定したかった。
でも、口をひらくより先に、悠真の手が胸元の布を整えるようにそっと触れて、それだけでまた思考が飛ぶ。
「ほら、もう何も考えられてない」
やさしく言われて、アキラはただ目を閉じた。
図星だった。
何も考えられない。
考えようとすると、そのたびふわふわの中へ沈んでいく。
ただ、悠真の気配だけはちゃんとわかる。声も、手も、熱も、全部が近い。
それがどうしようもなく気持ちよくて、困る。
「
……
いいよ」
悠真の声が落ちてくる。
「今日はもう、そのままでいて」
子守歌みたいな響きだった。
「とろとろのまま、僕のところに慣れて」
その囁きに、アキラは返事もできず、ただ浅く息を吐く。
たぶん、このまま眠らされるのだろう。
あるいは眠るでもなく、ただ考えの輪郭を薄くされたまま、ここへ沈められていくのかもしれない。
いけない、とどこかで思う。
でも、その“いけない”さえ、もう柔らかい。
悠真の指が、最後にもう一度だけ髪を撫でた。
「いい子」
また、そう言う。
そのたびに、胸の奥がふわりとほどける。
この領域は濃すぎる。
人間にはやさしすぎる形に整えられていても、本質はやっぱり妖のもので、だからアキラの思考は少しずつ少しずつ、角を失っていく。
その中心で、悠真だけがひどく満ち足りた顔をしている。
アキラはぼんやりしたまま、その金色の目を見た。
綺麗だと思う。
思ったことに自分で驚く前に、またその感覚はとろけてしまった。
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