コツコツと鳴る靴音は背後を歩く人物から生じているはずなのに、周囲の壁に反響しているせいで気を抜くと音の出処が分からなくなりそうだ。薄暗い遺跡の中を歩くのに、灯りはオルベリクの持つランタンだけ。心許なく思っているのは自分だけのようで、同行者は全く気にする素振りもなく、高揚を顕にして忙しなく周囲に視線を遣っていた。
「どんな状態かと案じていたが……多少入口が入り組んでいる程度で、中は殆ど崩れていないね。壁や柱も建造当時のものが現存していて、良好な状態だ。さて、噂の壁画はこの奥と聞いているが……」
「……あれではないか?」
ランタンを掲げると、眼前の石階段――それを登りきった先の壁が見えた。暗いせいで遠目からではよく分からないが、他の壁とは違い色が付いているようだ。サイラスが感嘆の声を上げ、軽やかに駆け出す。階段に片足をかけ、低くて甘い声を朗らかに響かせた。
「素晴らしい、正に噂に聞いていたとおりだ!」
「おい……足元も見ずに走り出すな。何があるか分からんと町の者も言っていただろう」
「大丈夫だよ。鼠や蜘蛛などの小型の生物がいるだけで、見るところ魔物が潜んでいる様子もない。尤も、そもそも魔物の気配があったなら、あなたは私が走り出すことすら許さなかった。違うかい?」
「違わんが……はぁ、そこで待ってろ。灯りを持っていく」
オルベリクはサイラスの後を追い、足元を照らしながら共に階段を登った。壁画はオルベリクが見上げるほど高い部分まで描き込まれていて、一部分を見ただけでは全体像がよく分からない。少なくとも、聖火教会で見るような聖画とは異なりそうだ。
「すまないが、そのままランタンを持っていてくれるかい?」
「ああ……」
「観察して、その後は描き写してみようと思う。疲れたら持つのを代わるから言ってくれ」
「それに関しては問題ない。剣より軽いものであれば、一日中持てる」
「ふふ、頼もしいことだ」
橙色の灯りが、くすりと笑みをこぼす美しい横顔を照らし出す。柔らかなその面持ちと、青空を思わせる瞳の輝きは、蝋燭の炎よりもずっとオルベリクの胸を熱くさせた。
そもそも、何故二人がこのような場所にいるかというと、町民から付近に遺跡があると聞きつけたからだった。当然サイラスは興味を抱き、仲間達に自由時間をくれと頼み込んだ。ここのところ移動ばかりの日々だったこともあり、彼らは快諾してくれた。そうして意気揚々と町を出ようとするサイラスをオルベリクが呼び止め、こうして同行しているというわけである。
(過保護と思われている……だけならいいんだがな)
表向きは、過集中に陥ると周囲が見えなくなるサイラスを心配してという理由。もちろんそれも本心の一つではあるが、実際のところ、下心が全くないかと言われると否定はできない。
いつからか、オルベリクはサイラスに特別な想いを抱くようになっていた。自分のことのくせにこの感情が芽生えた時期がはっきりしないのは、出会った瞬間からだったようにも思うし、旅の中で彼のことを知る内に段々と惹かれていったようにも思うからだ。サイラスはオルベリクがこれまで出会ってきた者の中で最も美しく、そして最も高潔な心持ちの人物だ。
「……」
そっと、横目で真剣な表情を盗み見る。きっとまじまじと見つめたところで、サイラスのは壁画に夢中になっていて気が付かないだろう。それでも構わなかった。別に彼とどうこうなりたいとは思っておらず、ただ、好きな人が夢中になることを支えてやりたいだけだ。
サイラスは暫く、近づいたり離れたりしながら壁画を観察していた。満足いくまで眺めると、今度は手帳を取り出して壁画を描き写していく。紙の上をペンが滑る音を聞きながら、オルベリクは取り留めもないことばかりを考えていた。昨日の戦闘を回想したり、明日からの旅程について考えたり、サイラスが顔を上げたら何と言おうか思案してみたり。
ぼんやりとランタンを掲げていたが、ふと視界の端で何かが蠢いた気がした。暗闇に向けて目を凝らし、その影がサイラスの足首に巻き付くさまを認めて声を上げた。
「サイラス! 蛇だ……!」
「えっ? いたっ……」
蛇がサイラスのくるぶしより少し上に噛みつき、彼は未だ事態を把握しきれない様子で秀眉を歪めた。オルベリクがランタンを床に置いて蛇に手を伸ばすと、危険を察知したそれは一目散に逃げようとするが、こちらの方が僅かに速かった。
片手で胴体を押さえつけ、もう片手で手近なところにあった石を拾う。そして一切の躊躇なく、蛇の頭目掛けて石を振り下ろした。頭蓋骨が砕ける音に、サイラスは思わずといったように顔を背けた。
「っ……」
毒を有する可能性がある生き物に噛まれた場合、治療のために種を特定する必要がある。だから絶対に逃がしてはならない、と従軍時代に教え込まれていた。冷静になって観察すると蛇の体は細く、灰色に黒が混ざったまだら模様の鱗が体表を覆っていた。面を上げると、サイラスも膝を折って蛇の死骸を覗き込んでいる。
「どんな蛇か、分かるか?」
「これは……ウツブシヘビだね。生息域はもっと北の方だと思っていたが、遺跡内の環境がたまたま生態に合ったのだろうか。もしくは鱗を目当てにして、何者かがこの地まで持ち込んだという可能性もある。有毒の蛇だが……」
「何?! それを早く言え!」
のんびりとサイラスの講釈に耳を傾けかけていたが、有毒という言葉にぎょっと目を剥く。どうもこの学者は、自分のこととなると危機管理力が鈍くていけない。すぐに処置をして、薬師のもとに連れて行かなければ――焦燥感に駆られたオルベリクは声をかけるよりも先にサイラスの肩を掴み、その場に尻餅をつかせていた。
「すぐに処置をする。大丈夫だ、こういう際の応急手当の心得はある」
「いや、オルベリク……えっ? ま、待ってくれ、」
「脱がせるぞ」
困惑を顕にするサイラスには構わず、彼のスラックスの裾に指を差し込んだ。同性ということで日頃から着替えを共にする場面も多く、腿から下を覆うソックスはソックスガーターで留めてあることを知っていた。手早く留め具を外して右足からソックスを抜き取り、足の裏を手の平で包むようにして支える。やはり、くるぶしの丸い骨の僅か上辺りに、咬傷の赤い痕があった。
オルベリクは身を屈め、まるで服従のキスをするかのように彼の足に唇を寄せる。生白い肌は、唇で触れると思ったより熱を孕んでいた。唇で咬傷を覆って吸い付くと、手の中でサイラスの足先がびくりと跳ねた。
「ぅ、あっ……オルベリク……!」
黙って顔を背け、口内に溜まった血液を唾液とともに吐き出す。もう二度ほど同じことを繰り返し、懐から取り出したハンカチで患部をきつく縛った。最低限の処置だが、何もしないよりは遥かに良いだろう。後は大急ぎで連れて戻って適切な薬を処方してもらうしか、オルベリクにできることはない。
「よし、急いで町に戻……サイラス、どうした?」
「……待ってくれと言ったのに……」
視線を上げると、そこには耳まで真っ赤になって顔を俯けるサイラスの姿があった。発熱でもし始めたのか、しかしそれにしては早すぎると疑問を抱いたのも束の間、彼は口元を手で覆いながら、珍しくぼそぼそと不明瞭に喋った。
「確かに毒はあると言ったが……この蛇は体も牙も小さく、一度の攻撃に含まれる量はそう多くない……。獲物は小型の鼠で、更に言えば毒殺するためではなく、多少動きを鈍くする程度のものであって……ヒトを死に至らしめるものではないんだよ」
「そ、そうなのか……?」
サイラスは頷き、きまりが悪そうに足の指を丸めた。命の危険はないと知って安心すると、突如として目の前の光景が視界に飛び込んできた。――スラックスの裾からすらりと伸びる、鹿のようにしなやかな素脚。傷一つなくなめらかな肌は陶器のようでいながら、手袋越しでも弾力が伝わってくる。足先にある桜色の爪は丸く、短く整えられていた。
片や黒いソックスに包みこまれ、片や生まれたままに剥き出しにされた脚は、そのアンバランスさが倒錯的な美しさを生み出している。眼前の絶景に言葉を失って見惚れていたが、サイラスの呼びかけで正気に戻った。
「……オルベリク? 大丈夫かい? すまない、私が先にきちんと説明していれば良かったのだが……」
「い、いや、俺の方こそ、話を聞いてやらなくて悪かった。とにかく、命を脅かすものではなくて良かった」
急に居た堪れない心地になったが、それでも体は正直なもので、彼の細い足首と柔らかなふくらはぎを繋ぐ流麗な線から目が離せない。なんとか頭の中から不埒な考えを追い出そうと、軽くかぶりを振った。
「心配をかけてすまなかったね。男の素足に吸い付くなんて、不快なことまでさせてしまった……」
「そんなことはない!」
そもそもオルベリクが勝手に焦って、勝手に事を急いただけだ。サイラスが責任を感じる必要は全くない。苦笑いを浮かべるサイラスについ反論したが、気遣わせずに済むような上手い言葉が浮かばずにしどろもどろになってしまった。
「早とちりで迷惑をかけたのは俺の方であって……! それにお前の足は綺麗だから気にならないというか……いや、その、とにかく、毒の量は少なくとも、早く処置するに越したことはないはずだ。だから俺は悔やんではいない」
混乱のあまり、言わなくても良いことまで口走ってしまったような気がする。サイラスは呆気にとられていたが、やがて柔らかくその眼を細めた。白皙の頬を赤らめて浮かべた穏やかな笑みはまた一等美しく、オルベリクの網膜に鮮烈に焼き付いた。
「ふふ、ありがとう……。あなたの適切な処置に助けられたよ」
「……礼は全てが無事に済んでからだ。とにかく、早く町に戻ろう。俺が背負ってやるから」
「では、お言葉に甘えさせてもらおうかな。よろしく頼むよ」
背中にサイラスを背負い、ランタンを持って足早に遺跡を後にする。町に着くと幸運にもすぐにアーフェンと鉢合わせ、事情と蛇の種類を説明して薬を処方してもらった。サイラスは特に後遺症もなく全く以て普段通りの様子だったが、オルベリクはそれから暫くの間、彼の着替え姿が直視できなかった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.