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タロ文庫の作品置き場
2026-04-03 16:37:02
10970文字
Public
作品
ロマンスの合格点
2020-10-31
WinTeam創作企画『満月に照らされて』第二夜(2020/10/31)
第一夜のロマンスの及第点の後日譚。
ウィンとティームがスコータイのロイクラトン&キャンドルフェスティバルに行く話です。
ウィンから「お前のIDカードを見せろ」と言われて今回の計画を提案された時に、ティームは思わず「嘘だろ」と呟いてしまった。
そして今、二人で泊まるには充分過ぎるほどの広い部屋、その奥に見えるプール、さらに向こうに広がる景色に向かって同じ言葉が口からまろび出た。
「突っ立ってないで早く中に入れ」
部屋に一歩踏み込んだ状態で硬直しているティームの背中をウィンが文句ついでに軽く押す。二人分の荷物をチェストの上に置き、部屋に案内してくれた支配人へとワイをして扉を閉めた。スニーカーの下からでも感じる重厚な木の床に、ティームは恐る恐る足を踏みしめ部屋の中心まで歩いていくと、そこからぐるりと身体を回転させて部屋の全貌を確認した。
ホテルの入り口からして豪奢ではあったけど。専用カートに乗って数分。真っ直ぐ伸びた道の先。ぐるりと広がる田園と蓮の植わった池の真ん中にぽつんと立っている一棟だけの平屋を見た瞬間に察したけれど。
「ウィン先輩
…
これは」
「オンシーズンで日にちも迫ってたから、ここしか空いてなかったんだ。我慢しろ」
ここ。
それはいわゆるラグジュアリーなリゾートホテルで、その中でもいわゆるスイートヴィラではないだろうか。
落ち着いた深い色合いの壁や天井には相応の家具が設えていて、随所にこの地の歴史を感じさせる調度品が目に煩くないちょうど良さで飾られている。ソファの前のテーブルにはウェルカムフルーツが飾り切りされて置かれていて、ティームの胸元くらいの高さのクリスマスツリーが横に飾られていた。
季節が違うそれに一瞬気を取られたティームはよく見ようと近づいていく途中で、テレビがくっついているパーテーションのような壁の向こうにあるベッドルームを目の端に捉えてしまった。
「ウィン先輩! なにこれ!」
目にちらつく色鮮やかさが気になってそちらに方向転換して見に行くと、ティームは一気に顔に熱が上ってくるのを感じた。
ウィンが背後から近づきティームの肩に顎を乗せて、ふるふる震えるティームの人差し指の延長線に目をやる。
「だからさっき飛行機の中で説明したろ。モニター宿泊なんだって」
「それは聞いた」
「来年のクリスマスシーズンのハネムーンプラン、のモニター」
「それは聞いてなーい」
ウィンにはっきりと言葉にされてティームは更に耳元と首の後ろが熱くなり、シュンシュンと自分から湯気が出ている感覚に陥った。
天蓋付きのキングサイズのベッドには、赤やピンクの花びらでハートが形作られてタオルで出来た白象が向かい合って鼻でハートを作るように置いてあり、更に『Happy Honeymoon』というハート型のボードが立てかけてあった。
恐ろしくハートだらけである。
月末の土日に旅行に行こう。
ウィンからのその提案に乗ったのは、焦げ臭さがほのかに漂う部屋でガパオライスを食べた次の日だった。近場のモールや日帰りのドライブをすることはあったが泊まりの旅行は久しぶりだったので、ティームは行き先を聞く前にとりあえず頷いた。
ウィンとの旅行は楽しい。
全部手配してくれて当日のプランもティームのコンディションに合わせて自在に変えてくれるから、自分は着替えとセルフォンを持っていけばいい。時期的にもそろそろ乾季に入り動きやすい。遠出をするにはベストシーズンだ。
「じゃあ早速手配するから、お前のIDカード見せろ」
「え? 先輩どこに行く気なの?」
国民のIDカードがいるとなると飛行機での移動だ。ティームは財布の中からIDカードを抜き出しラップトップの前にいるウィンに手渡した。画面を見ると航空会社のサイトで、すでに日付と人数、ウィンのID情報が打ち込まれていた。
「スコータイ」
「嘘だろ?!」
行き先と日付を見てティームは思わず呟いた。
いつか行きたいとは思っていた。だが世界的に有名で海外からの観光客も多く、幼少期からテレビやネットで見ては人が凄そうだなとも思っていた。口ではうわーと言いながら嬉しさが隠しきれずウィンの肩を揉んでしまう。
「ロイクラトン
……
」
「だな。俺も一回見てみたいと思ってたんだよ。エアは取れたから、あとはホテルか」
「ワットマハタートのライトアップ
……
」
「なぁ、ホテルにこだわりないよな? 寝れりゃどこでもいいよな?」
「ナイトマーケットの食べ歩き
……
」
「土曜の朝練行って、その足で空港向かうから朝から荷物を車に積んどくぞ。昼のフライトだから車で飯食えよ。機内食は、なさそうだな。お前ポテチ機内に持ち込むなら二つまでだぞ。
……
おい、聞いてんのか?」
最近ではSNSでとても美しく撮られている写真が多くて、夢の空間のようなそこにティームはウィンの肩に肘を乗せて思いを馳せていた。
スコータイはロイクラトン発祥の地と言われている。タイ全土の中でも最も美しい祭りの一つだ。池の水面に花やロウソクで飾られたクラトンを流して、水の女神に感謝の気持ちを捧げながら日々の穢れを祓ってもらい、生活が幸福であるように祈る。
ライトアップされた古代遺跡にウィンはどんな顔をするだろうか。一緒に感動して、一緒に笑って、どんなクラトンを選んで祈りを水に溶かすのだろうか。ウィンと一緒に行けることが心を占める。
ティームの目はウィンの部屋の照明に照らされてキラキラと輝いていた。
後ろから突き出した腕をウィンの目の前でパタパタと動かしていると顔を無理やり上に向けたウィンと目が合う。
「先輩、ありがとう。めっちゃ楽しみ」
ニカッと笑えば、ウィンはそれを見て小さく息を吐いてから同じように口元に笑みを乗せて呟いた。
「楽しみだな」
確かに自分はホテルにこだわりは無かった。
世界的観光イベントに国内外の人間が集まるのだから市内のホテルはどこも満室のはずだ。それも分かっていた。そしてウィンの実家の家業についても理解はしていた。
スコータイの新市街から少し離れているが歴史公園にほど近い今年建ったばかりのホテルにまだ部屋が残っていたと、ウィンが自分の家の経営するホテルを予約した時、少しだけ申し訳ない気持ちと今度会った時にまたお礼を言わなくてはと彼の家族の顔が思い浮かんだ。
果たしてウィンが彼の家族とどういう会話をしてこのプランのモニターを自分と引き受けることになったのかを考えてしまい、ティームは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「いつまでダメージ食らってんだ」
ウィンといるといつも心が後追いになる。
うぅと呻いてからティームはウィンを見上げる。既に部活道具や観光に不要なものを鞄から出し終えて、行く準備が整った身軽な格好で壁にもたれている。
「先輩、今日ってこの部屋、寝に帰ってくるだけ?」
「そうなるな。今から歩いて会場行って、クラトン流して、帰りに新市街のナイトマーケットに寄るだろ? 道も混んでるだろうから、てっぺんはすぎるな」
ティームは再び項垂れてから大きくため息をついて両手でわしゃわしゃと黒髪を混ぜ込んだ。
天秤がずっとぐらついている。大きく左右に腕を揺らしてティームが結論を出すのを待っている。本当はもう、答えなんてとっくに出ている。馬鹿みたいな方に。そんな自分がどうかしすぎていて素直に表に出せない。
あんなに、あんなに楽しみにしていたのに。
「あーもー、先輩は本当にロマンが分かってない!」
「あ?」
「なんで寝に帰るだけの部屋をこんなのにしたんだよ!」
「だからこれならすぐ取れたんだって言ったろ。他でホテル取るより手っ取り早かったし、プランについては気にすんな」
最終的にティームはウィンに八つ当たりした。しゃがんだ状態でウィンのジーンズの裾をくんくんと引っ張り、ウィンにしゃがむよう促した。ウィンが眉間に盛大にシワを寄せて、日本のドラマのヤンキーさながらに長い足を折り曲げてティームの前にしゃがむ。顔の高さが一緒になったのをチラリと見てティームは一度ぴかぴかに磨かれた床に視線を落とした。
「さっきさ、ホテルの人が言ってたんだよ。部屋のプールのところから方角的にメイン会場の池のクラトンが見えますよって。ショーは見えないけど、花火も満月も全部まとめて見えますって」
恐らく自分は今年最大のわがままを言おうとしている。スコータイに自分と来たがったのはウィンだ。エアもホテルも予約してくれて、今日の朝練終わりに空港まで運転してくれたのもウィンで、飛行機やホテルのチェックインも行ったのはウィンだ。先程の口ぶりからするとこの後のスケジュールも彼の中では全部決まっているようだった。
だがティームがこうなる原因を作ったのもウィンだ。
顔を床からウィンに戻すとなんとなくティームの言わんとしていることを察したのか、綺麗な二重の幅を広げて半目の状態でこちらを見ている。
やっぱりウィンは会場に行きたいんだ。そうだよな。自分だって行きたいよ。
ティームはふよっと黒目を動かして、何も言わずにしゃがんだままのウィンの靴先を指で叩く。決定的なわがままを口にした後にくるウィンの反応がよく分かるから胸が痛い。
「お前はそれでいいのか?」
トントンとリズム良くスニーカーの先を叩いているとウィンが先に口を開いた。その声はいつもと変わらず、問いかけもいつもと同じだった。ティームが彷徨わせていた視線をウィンに戻すと案の定呆れながら許している顔をしている。ティームはバツが悪くてわざと雑にコクリと頷く。ウィンはひとつ鼻で笑うとティームの頭を掌全体を使ってかき混ぜた後にすくっと立ち上がった。
「夕食はキャンセルしてあるから、ルームサービス取るぞ」
鞄をポイッとソファに投げてウィンがテレビのリモコンを持った。
「ほら、食いしん坊。こっち来てメニュー見ろ。ナイトマーケットも行かないんだから多めに頼めよ。何頼んでもいいからな」
「
……
先輩はおれに甘すぎるよ」
ティームは言わないうちにとりあえず許されてしまったわがままを口の中でもごもご転がして立ち上がり、ウィンの側に寄るとその長い指に自分の指を絡めた。
「ありがとう」
ベッドの装飾を片付けてもらい、ルームサービスの食事をとり終わると窓の外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
ティームは外に行かない代わりにとスコータイのご当地料理を含めてたらふく食べて、胃のところが少しぽっこり出た腹をさすりながら、ちゃぽんとプールの中に入った。
深さは胸くらいで、壁面にライトが組み込まれているのか淡く水中を照らしている。水温は少しぬるい。塩素の匂いが全くしない泳ぐためではないプールが新鮮で、ティームは一度肩まで浸かると壁を蹴って反対側のプールの縁に移動した。
「うわ、すごい」
部屋からの眺めも良かったが遮るものなく広大な田園の向こうを見ると圧巻だった。最初に目に飛び込んでくるのは黄金色のライトに浮かび上がるワットマハタートの静かに佇む陰影の美しさ。その手前の水面には揺めきながら途切れず続く橙色の列。バナナの葉で出来た伝統的なものがパンで出来た可愛らしいクラトンと並ぶ。柔らかくゆったりと流れる様を辿っていくと輪郭がはっきりしている強い光が映り込む。光源の先を求めてティームが目を上げれば、空に丸い満月がぽっかりと浮かんでいた。
「すごい
……
」
夜風に乗って太鼓の低い音が響き、伝統舞踊の鈴の音が聞こえてくるが、人の気配を全く感じなかった。世界にはこの美しい風景と自分たちしか居ないような気になって、さすがスイートヴィラだとティームは変なところに感心してしまった。そうでもしないと世界観にどっぷり溺れてしまう。それでなくても、この最高のロケーションのせいで自分達はここの留まることになったのだから。
「先輩、今何時だった?」
部屋の電気を消してから外に出てきたウィンにティームはまたスーッと対面に泳いで戻り水の中から聞く。乾ききっていない部活の水着を着心地悪そうにしながらウィンも早々にプールに入った。一度肩まで浸かり蹴伸びをする。自分と同じ行動をするウィンに少し口元が緩んだ。
「二十二時ちょい前。あと少しでフィナーレだな」
ウィンは縁まで行くと外をチラ見してすぐにティームと向き合った。極力抑えられているオレンジと水色の暖かい照明がウィンの肌や顔に当たって、彼越しに見える遺跡にも負けない陰影を美しく作り出している。ウィンがティームを見てふいにニヤリと笑うと、長い腕をプールの縁に沿わせるように伸ばして足を水面に蹴り上げた。
途端に無粋な水しぶきがティームの顔面に直撃する。
「ぶっ!!」
「鼻の下が伸びてたぞ」
完全に油断していたティームは顔の水を乱暴にぬぐい、無意識に見惚れていた事を指摘された気恥ずかしさを誤魔化すように腕を水面に思い切り滑らせて反撃した。
「伸ばしてない! 夜景を見てたの! 先輩は眼中にない!」
邪魔だからどけ、とばかりに相撲の張り手の要領で水圧の攻撃をウィンに浴びせる。ライトアップが幻想的で、水温が人肌を連想させるナイトプールは一気に子供の遊び場に変わってしまった。
じゃばじゃばと白波を立てて攻撃の手を緩めないティームに対し、ウィンは一度水中に逃げ込み壁を蹴った。水面の攻撃に特化していて下半身がお留守だったティームの尻下に腕を回して抱き込むと、ウィンは今度はプールの底を思い切り踏み込み水面に浮上した。
「う、わっ!」
浮力を借りてティームを抱き上げて空中に投げ飛ばす。
バッシャーンと一際大きな音と波飛沫が辺りに響き、ウィンは声を出して笑った。水面から顔を出して体勢を立て直したティームも腹の底がくすぐったくなって笑ってしまった。
競泳用の水着を着ているのに部活では絶対にやらない、皆の前では恥ずかしくて出来ない悪ふざけを、ウィンと二人で全力でしている。スイートヴィラの専用プールもまさかこんなに荒ぶられるとは思ってないだろう。水面に映る満月と水中の壁面ライトが忙しそうにその光を乱反射させていた。
ティームは笑いながら両手をウィンに伸ばす。ウィンは片眉をくいっと上げてティームの脇下に両手を差し込むと、また水底を大きく踏み込んでティームを空中に投げた。
そうして暫くきゃっきゃと遊ぶうちに、ウィンが疲れたと呟いて緩く手だけでスーッと泳ぎ始めたので、ティームはその肩に手をついて背中にくっついた。ウィンがプールの端から端までゆっくりと泳ぐのに合わせてティームも小さく足を上下に動かす。目線を下げると水中に真っ黒く艶めくウィンの翼が肩甲骨の動きに合わせて羽ばたいていた。
はしゃいだ後のクールダウンの穏やかさに、ティームはほんの少しだけ胸が詰まった感じがして目の前の金髪のちょんまげに鼻先で触れた。
「あのさ」
チャプチャプと落ち着いた水面の音を聞きながらティームが凪いだ声でウィンの後頭部に話しかけた。
「先輩は会場でクラトン流したかったよね」
「お前としたくなかったと言えば嘘になるな」
「
……
ごめん」
面と向かっては今だに簡単に出せない言葉も、こうして穏やかに水にたゆたえばポロリと出てくる。それはウィンも同じなのか、ティームを背に乗せて前を見ている顔が振り返らずに笑った。
「でも俺の目的はお前とタイの名所に行く事だったから、最初からどっちでも良かったよ」
「え?」
「観光地、一緒に行ったことなかっただろ。しばらく行けないからタイの良いところに行っとこうと思ってな」
お前が満月がどうのって言った時にこの祭りのことを思い出した、とウィンは泳いでいた身体を反転させて浮いた状態でティームと向かい合う。至近距離で見るウィンの顔は水濡れのしっとりとした色気を含んでいた。
「俺はお前とならなんだっていいんだ」
またその顔でそういう事を言う。
ウィンの言う『しばらく行けない』というのは留学とその後の件でのことだろうとはティームもうっすらと感じた。それなら尚更、目一杯観光して体験して思い出を増やした方が良かったのではないか。
ティームがムッと眉間にシワを寄せて名を呼ぼうと口を開いた時、ウィンの目が外に逸れて同時にパンと破裂音がした。
「ティーム、見ろ」
ウィンが少し声を上擦らせて顎をしゃくる。ティームがウィンが促す方へ首を巡らすと、満月の強い光の横を打ち上げ花火が次々と華やかせていた。
「わぁ!」
赤、青、緑、そして金。一瞬、すべての灯りを飲み込むほどの光が咲いて、ほどけるように落ちては遺跡や水に溶けた。
ティームはウィンから離れてザブザブとプールの縁まで移動した。黒目の中いっぱいにその光景を取り込む。
「すごい。先輩、めっちゃ綺麗」
「そうだな」
花火は空で弾け、クラトンは水に流れ、月はただスコータイを照らしている。
ティームは隣をチラリと見た。ウィンが目を細めて同じ光景を見入っている。胸の奥を何かがじわりと広がった。遅れてとくとくと鼓動が高鳴り、自分とウィンの僅かな隙間に静かに波打つプールの水が連動しているようだった。
ウィンと『今』を分かち合っている。それだけでどうしようもなく熱くなった。
音楽と連動して様々な色と形で満開に咲いていた花火が終わると、夜空が穏やかな空間に変わった。
「ウィン先輩」
クラトンの灯りや七百年の息づかいを感じる遺跡から、それらをずっと見守っているような満月に目を映した。決して大きな満月ではなかったが光の引力の強さに引っ張られるようにティームは口から想いを出した。
「三年後はおれが連れてくる。ちゃんと事前に寝に帰るだけのホテルも取っとく。会場に行って二人でクラトン作って川に流して、ショーを見たら帰りはナイトマーケットで腹一杯に食べて、ホテル帰ったらバタンキューしよう。おれも休むから先輩も事前に休暇申請しといてね」
ウィンは二年間この国を離れる。
それは自分と出会ってこうしている期間を超える年月で、その期間もその後も果たして自分はどうなっているか分からない。
だがティームは『未来』の約束をする。
やり残しなく留学して欲しいと思っていたが、逆にこの国に帰ってきた時に自分とやりたい事があった方がこの人を支えられるんじゃないかと、ティームの奥底の願望が満月によって引っ張り出された。
残る方も寂しさで寒くなってしまうが、行く方も異国の地にたった一人きりで抱えるものが多い。特にイギリスは曇りの日が多くて寒いと聞いている。突然この国とティームの匂いを取り入れようとしたウィンの行動に、ティームは本能的にウィンの微かな揺らぎを感じ取った。そして自分も、この非日常が詰まった部屋の中に居たいとわがままが出るくらいには二人きりの時のウィンを心に留めたいと思ってしまった。
横目でチラリと見るとその視線に気づいたウィンがこちらを向いて綺麗に口角を上げる。
「楽しみにしてる」
水の中から手を出してそのままグリグリと頭を撫でられて、垂れてくる水にティームは顔をしかめながらもホッとした。
ホッとしたついでにおまけが溢れる。
「ちゃんとおれのところに帰ってきて」
そよりと夜風が吹いて、ウィンの手が後頭部からうなじに下った。
「当たり前だ。お前が俺の場所なんだから」
ウィンの掌はしっとりと張り付いてティームを引き寄せる。
ウィンの首が少し傾くのが見えてティームは鼻で小さく息を吸い込んだ。唇に触れる直前、自分の中からムズムズと湧いた衝動にキュッと目を瞑った。
あ、これは。
「ウィン、せ
…
、ひゃ」
くしゅん!
ウィンが一瞬の間の後、鬼の副部長の時よりも大きな声を出した。
「ティィィィィーーム!!」
「ごめんなさい!!」
ティームも被せるように大声を出してプールの水をウィンの顔にバシャバシャとかけて自分の飛ばした唾を恥ずかしさと一緒に洗い流す。
消したい。今の。全部なしで。
「おぉおおおい」
「ほんとごめん。なんか急にむず痒くなっちゃって」
ウィンは顔を横に振り水気を飛ばして、ティームにヘッドロックをかけるとそのまま泳いでプールの端に引きずっていく。
「一回プールから出ろ!」
お互い恥ずかしすぎて顔を見る事が出来ず、ティームは口を尖らせてウィンに引っ張られるまま大人しくプールから出た。グイグイと力強く腕を掴まれ隣の小さな階段を上り、床面に埋め込まれている白い丸いバスタブのようなところに押し入れられる。
ちゃぽっと浸かるとそこはほのかに湯気が出ていてプールよりも温かかった。じんわりと身体に染み渡って、ティームは自分の身体が冷えていたことを実感する。
ウィンは少し強い力でバスタブのそばにあったボタンを押してから湯の中に入ってきた。泳ぐようにティームの対面に移動して縁に腕を出して頬杖をつく。
「お前、ひとにロマンがどうのって言う前に自分を省みろ」
「反省してる
……
」
ティームが案外長い手足を縮こませて小さく体育座りすると、ウィンが首を横に振って呆れたように小さく鼻で笑った。その時微かな起動音と共にバスタブの底から小さな気泡がコポコポと湧き上がってきた。ティームが温浴施設やジムなどで浸かったことのあるジャグジーに比べるとかなり細かい気泡で肌にびっしりと纏わりついてくる。
「この辺は夜になるとだいぶ冷えるな。プールにいると気づかなかった」
「うん。お湯に浸かると気持ちいい」
肌につく泡は外に出すとパチパチと弾ける音を立ててティームの腕から消えていく。湯の中で腕を撫でるとさらりと離れて水面に浮上する。それがくすぐったくて楽しくてティームは繰り返し自分の腕やふくらはぎをさすった。
自分の失態に小さく折りたたんでいた身体を少しずつ伸ばして、ティームは肩までジャグジーに浸かった。ジャグジーは自分側に腰をかける部分と湯や水を足す蛇口が付いていて、足を伸ばすとちょうど反対側の壁面につくくらいの広さだった。互い違いに座っているウィンはペッタリと足裏を自分の横の壁に付けているあたり、足の長さの違いを見せつけられているようで少し面白くない。足首を左右に振ってウィンの腰元を蹴る。
「なんだよ」
「先輩、そこの川にもクラトン流れてるよ。満月もさっきよりはっきり見える」
ティームが冷静さを取り戻して周りを見やると田園と蓮池の間の川にもオレンジの光が水面を揺蕩っていた。見知らぬ誰かの願い同士が静かに寄り添いながらティームとウィンの前をゆっくり通り過ぎていく。ティームの視線につられてウィンが身体の向きを変えて同じように水面を見つめた。
腕で上半身を支えてジャグジーから伸び上がる様子に、月の光がウィンの肌を撫でる。艶やかな黒い翼が筋肉と白い肌の動きに合わせて、飛び立つように動いた。
「随分と流れてくるもんだな」
相変わらずの綺麗な背中に指を這わせたい衝動が湧いてきて、ティームは両手を合わせてやり過ごす。そのまま密かに目を閉じた。
異国の地でなるべくあの綺麗な顔やお節介な性分が歪みませんように。昔のように胸にぽっかりと穴が空きませんように。空いても自分がぴったり埋められますように。黒い翼が帰巣本能で自分のところに帰ってくるまで、ウィンのイギリスでの日々の生活も、ウィンのいないタイでの自分の日常も、どうか幸福であるように。
ティームは口の中で早口で祈りを終えると、合わせていた手を組むようにして掌の中にお湯を溜めた。そのまま小指の際からピューッとお湯を押し出しウィンの背中に当てる。
「っ! なんだよ」
「細いくせにムカつくくらい綺麗に筋肉ついてんなって思って」
「縋りつきたくなったか?」
綺麗な顔がこちらを向き直りニヤリと笑うから、肯定する代わりに今度はその顔目掛けて指で作った水鉄砲でピューッとお湯をかける。ウィンも指を組み親指側の穴から水を出すが、ティームの武器よりも勢いはない。勝ち目がないとわかりウィンは武器を解いてティームの側に寄った。
バスタブの中の気泡がクラトンのようにウィンについてティームの元へと流れてくる。
「もう月とか、見なくていいの?」
至近距離まで寄ってきてじっと目を覗き込んでくるからティームはくすぐったくなって肩を竦めて笑った。
「お前の目の中の月の方が綺麗に見える」
横から首を傾げて覗き込まれて、そんなウィンの小さく笑っている顔と空の月を交互に眺める。突然のロマンティックな物言いにティームはジト目を作って月を隠し、肘でウィンの裸の胸を押した。
「そんなの、おれは見れないじゃん」
シュワッとウィンから気泡が上がる。笑みを浮かべる口が薄く開いて囁いた。
「俺だけの月だから。残念だったな」
「おれの月も見たいんですけど」
「好きなだけどうぞ」
「うわっ」
ウィンのロマンに付き合うとウィンが両手をティームの脇に差し込みくるりと身体を入れ替える。浮力で引っ張られてティームは腰掛け部分に背をつけたウィンの膝の上に跨がされた。二人の胸元で気泡がパチパチと弾けて、ティームはウィンの肩の上に手を乗せる。
悪戯が成功した子供のように大きな口を横にニィと広げて、満月の光がたっぷり入ってる目でティームを見上げてくる。
あ、めちゃくちゃ綺麗。
その目をティームは顔を左右に動かしてじっくり見つめた。だがウィンはティームの動きに合わせて黒目を動かしてしまい、ティームはウィンの目の中で自分のシルエットしか見ることが出来ない。
「動くなよ」
「ちゃんと見えてんだろ。俺のまんまるぷくぷくの満月」
「先輩の月じゃなくて、おれの月が見たいんだってば」
湯でぬくまったウィンの指先が頬を撫で、楽しそうに目を細めて笑う。水分が多くてしっとり濡れていている墨色の目に今日の満月を入れたらそれはもう素晴らしく綺麗で、自分はきっと虜になってしまうと思ったのに。自分を目に入れて笑う顔が幸せそうだから、ティームはそれでいいかと諦めた。
「もういいよ」
「いいのか?」
「月よりこっち」
ウィンの肩に乗せていた両手をするするとうなじに這わせ、目を覗き込むためじゃない角度に顔を傾ける。勘付いたウィンもティームの髪の中に指を潜らせた。
柔らかくふわりと唇を合わせるとウィンが笑った。
「花より団子みたいに言うなよ」
クリスマス仕様のハネムーンプランで飾られたスイートヴィラ。
ライトアップされたプールで遊び、幻想的な景色を一緒に見て、それなりの感情を言葉で交わし、ジャグジーに浸かりながら水着で抱き合っている。
ロマンスの合格点なんて、とっくに超えていた。それでもまだ、自分たちはロマンについて話し合う必要があるなとティームは幸せ顔のウィンをじっとりと見つめてからウィン曰くの『団子』であるふっくらとした下唇に噛み付いた。
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