Hnyanko
2026-04-02 22:59:19
8634文字
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悠アキ妖パロ③

ストック②

  最近の悠真は、妙におとなしかった。

 最初から素直だったわけではない。窓を叩いて入れてもらうことにも、隣に座りたがることにも、髪や手に触れたがることにも、相変わらず遠慮らしい遠慮はなかった。妖としてはたぶん、十分すぎるほど傲慢なのだろうと思う。
 けれど、それでも最初の夜に比べれば、ずいぶん行儀はよくなっていた。

 勝手に部屋の奥まで入りこんで物を漁ることはない。触れ方も、ひと呼吸ぶんのためらいを覚えたみたいに静かになった。アキラが眉を寄せれば手を引くし、帰ってと言えば、不満そうな顔はしても帰る。
 それが悠真の本性だとは、アキラも思っていなかった。ただ、人間の暮らしに合わせるということを、いちおう覚えてくれたのだろうと受け取っていた。

 そのくらいには、気を許しはじめていたのだ。

 だから、その日も、何の疑いもなく窓を開けた。

 こつ、こつ、といつもの控えめな音がして、カーテンを引けば悠真がいる。月明かりの中、黒い翼を背にしたその姿は相変わらず人離れしていて、ぞっとするほど綺麗だった。けれど、見慣れてしまったぶんだけ最初ほど身構えなくなっている自分に、アキラはまだ気づいていなかった。

「来たよ」

 当たり前みたいな顔で言うのにも、もう慣れてしまった。

「うん」

 返事をしてから、アキラは窓をもう少し開ける。悠真はするりと中へ入り、いつものように物音ひとつ立てず着地した。羽がふわりと揺れる。夜気がかすかに流れ込んで、部屋の空気に黒い羽の匂いが混ざった。

 そのときだった。

 悠真が、ぴたりと止まる。

 たった一歩ぶん、進みかけた身体が、まるで見えない壁にぶつかったみたいに静止した。
 アキラは気づかず、先にベッドの端へ腰を下ろす。

「今日はちょっと遅かったね」

 そう言いながら、机の上へ置いたカップに手を伸ばしかけて、返事がないことにようやく気づいた。

……悠真?」

 振り返る。

 窓辺に立ったまま、悠真は動かなかった。

 表情が消えている、と思った。
 怒っているとも違う。機嫌が悪いとも少し違う。ただ、いつもあったやわらかな軽さみたいなものが、きれいに抜け落ちていた。

 金色の目だけが、まっすぐアキラを見ている。

「どうしたの」

 問いかけた声に、悠真はすぐには返さない。

 代わりに、ゆっくりと息を吸った。

 その動作が、妙に静かで、妙に長くて、アキラは無意識に背筋をこわばらせる。
 部屋の空気が、さっきまでと少し違う。温度ではなく、濃度が変わったみたいだった。目に見えないなにかがじわじわ満ちてくる。うまく息が吸いにくい。胸の奥に、言いようのない圧迫感が落ちてくる。

 それでもアキラには、その理由がわからない。

……アキラくん」

 ようやく落ちてきた声は、ひどく静かだった。

「今日、誰に触られたの」

 意味がわからず、アキラは目を瞬く。

「は?」
「誰」

 短い。
 それだけなのに、問い詰められているような重さがあった。

「誰って……何の話」
「わからない?」

 その言い方に、ようやくぞくりとする。

 わからない。
 わからないから困っているのに、悠真のほうは、わからないこと自体が信じられないみたいな顔をしていた。

 窓辺から一歩、悠真が踏み出す。

 たったそれだけで、部屋が急に狭く感じた。

「待って、何」
「質問してるだけだよ」
「そういう空気じゃないだろ」

 返す声が、自分でも思っていたより少し強い。
 悠真はそれを聞いて、ほんのわずかに目を細めた。

「僕、しばらく、かなり我慢してたんだけど」

 ぽつりと落ちたその一言が、妙に冷たかった。

「人間の暮らしに合わせて。あんたが嫌がることはしないようにして。ちゃんと待ってた」

 一歩、また一歩。
 悠真が近づいてくる。

 いつもなら、そこにあったはずの遊びみたいな間がなかった。からかう余白も、軽口もない。ただ静かに距離を詰めてくる。その足取りの迷いのなさに、アキラは無意識にベッドの端で指を握った。

……だから何」
「わからないままなの?」

 悠真の声が、少し低くなる。

「他の妖の印、ついてるよ」

 息が止まった。

……いん?」

 それしか言えない。
 印。何のことだ。誰のことだ。今日、いつもどおり外へ出て、買い物をして、少し人と話して、それだけだ。そんなものをつけられる心当たりなんて、ひとつもない。

 なのに、悠真の顔を見た瞬間、それが冗談ではないことだけはわかってしまった。

「首」

 そう言って、悠真が顎をしゃくる。
 無意識に自分の首筋へ触れた。何もない。少なくとも人間の指先では、何もわからない。痛みも熱もない。ただ、言われてみれば少しだけそこが重いような、違和感がないでもない、程度だ。

「何もないよ」
「ある」

 即答だった。

 その強さに、アキラは手を止める。

「僕には見える。わかる。気配が残ってる。――わざとじゃなくても、これだけは駄目だよ」

 最後の一言だけ、ひどく静かだった。

 叱るみたいな声音ではない。むしろその逆で、抑えているのがわかるぶんだけ怖い。怒鳴られるよりずっと怖いのだと、そのとき初めて知った。

「知らないよ、そんなの」

 ようやく絞り出した声は、思ったより掠れていた。

「知らないまま歩いてた。触られたことにも気づかないで」

 悠真の目が、細くなる。

……ずいぶん無防備になったんだね」

 その言い方が、胸に刺さる。
 責められている。けれど、何をどう責められているのか、アキラにはまだうまく掴めない。自分に悪意がなかったことだけは確かだ。だからこそ、余計にたちが悪い。

「僕は何も」
「知ってるよ」

 遮る声が落ちてくる。

「知ってる。あんたがそういうつもりじゃないことくらい」

 そのくせ、と続けるみたいに、悠真はアキラの前で足を止めた。

「だから余計に腹が立つ」

 その瞬間、部屋の空気がさらに重くなった。

 見えない何かが、じわりと壁際から満ちてくる。肌が粟立つ。肺の奥へ濃い霧を吸いこんだみたいに、息がうまく回らない。
 妖気だ、とアキラは遅れて理解した。悠真が怒っているのだと、理屈より先に身体が知ってしまう。

……悠真」

 名前を呼ぶ。
 呼んだつもりだった。けれど声になっていたか自信がない。

 悠真は答えない。
 その代わり、手が伸びた。

 逃げるより先に、指先がアキラの顎へ触れる。
 びくりと肩が跳ねた。

 強く掴まれたわけではない。ただ逃がさないだけの力で、ゆっくり顔を上げさせられる。
 その手つきが、いつもの触れ方とはまるで違った。やさしくないわけではない。乱暴でもない。なのに、拒む余地を最初から含んでいない。

「見せて」

 低い声が落ちる。

「首」

「自分で見る」
「見えないよ、人間には」

 そのまま、悠真の手が首筋へ移る。
 触れられた瞬間、ぞくりとした。冷たいわけでも熱いわけでもない。ただ、人の指とは違うなにかが皮膚の下へ滑り込んでくるみたいで、鳥肌が立つ。

 悠真の親指が、耳の下から鎖骨へ向かってゆっくりなぞる。
 そこだけ、妙に感覚が鮮明になる。自分でもわからなかった違和感が、その軌跡に沿って浮かび上がる。

……っ」

 思わず息を呑んだ。

 あった。
 たしかに何かがある。皮膚の上ではなく、そのすぐ外側に、薄くへばりつくみたいな気配。自分のものではない何かが、そこに残っている。

 アキラの顔色が変わったのを見て、悠真の目がさらに冷える。

「ようやくわかった?」

 答えられない。
 わかった、というより、わからされただけだ。自分が知らないところで何かをつけられていたこと、それを悠真だけが最初に嗅ぎ当てたこと、その全部が気味悪くて、同時にひどくまずいことのように思えてくる。

「誰だろうね」

 悠真が、静かに言う。

「どこでつけられたのかも知らないまま、あんたはそれをつけて僕の前に来た」

 責められている。
 そう理解した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

……ごめん、でも」
「謝らなくていい」

 ぴしゃりと切られる。

 その一言で、アキラは黙った。

 謝らなくていい、は許しではなかった。
 その逆だ。これは謝罪で済ませる話じゃないと、そう言われたのだと、鈍いながらもわかる。

 悠真の顔が近い。
 金色の目が、まっすぐアキラだけを見ている。その視線の熱が、怒りなのか、それともそれ以外の何かなのか、もう見分けがつかない。

「僕、かなり行儀よくしてたよね」

 低く、落ちる声。

……
「触りすぎないようにしてたし、部屋でも好き勝手しなかったし、あんたが嫌がることはしないようにしてた」

 言葉がひとつずつ、静かに積み上がる。

「その結果がこれ?」

 その瞬間、背筋が冷えた。

 責めるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ問われる。
 その静かさがいちばん怖い。妖が人間向けの仮面を剥がしかけているのだと、ようやくアキラにもわかりはじめていた。

「違う、僕は」
「知ってる」

 また遮られる。

「だから、あんたを責めてるんじゃない」

 では誰を責めているのか。
 考えるより先に、悠真の手が首筋へもう一度触れた。


……悠真」

 止めるべきなのかどうかもわからないまま、名前だけが零れた。

 返事はない。
 代わりに、首筋へ熱い吐息がかかる。

 ひゅ、と息が漏れる。
 そこへ、悠真の鼻先がかすめた。匂いを確かめるみたいに、ひどくゆっくり。人の仕草ではない。獣めいているとも少し違う。もっと執拗で、もっと理性的で、だからこそ怖い。
 悠真の手が、首へ触れる。

 今度はさっきより深い。
 指先でなぞるだけではなく、掌ごと首筋の横を包まれる。逃げようと思えば逃げられる程度の力しかないのに、そのほうがよほど逃げ場がない。

 悠真が、ゆっくり顔を寄せる。

……悠真」

 止めるべきなのかどうかもわからないまま、名前だけが零れた。

 返事はない。
 代わりに、首筋へ熱い吐息がかかる。

 ひゅ、と息が漏れる。
 そこへ、悠真の鼻先がかすめた。匂いを確かめるみたいに、ひどくゆっくり。人の仕草ではない。獣めいているとも少し違う。もっと執拗で、もっと理性的で、だからこそ怖い。

……ほんとに気づいてなかったんだ」

 囁きに近い声だった。

「こんなに無防備で、よく無事だったね」

 ぞくりとする。
 その言葉には、心配と怒りと、それからどうしようもなく濃い独占欲が混じっていた。

 悠真の指が、首筋をなぞる。
 そこに刻まれた見えない印を剥がすみたいに、ゆっくりと、執拗に。

「他のやつの気配、嫌なんだよ」

 低い声が、皮膚のすぐそばで落ちる。

「僕の知らないところで、自分のものみたいに触られてるの」

 心臓が、どく、と大きく鳴った。

 僕のもの。
 それを否定するべきだったのかもしれない。
 けれど、そのときのアキラには何も言えなかった。首筋へ落ちる声があまりにも近く、あまりにも重くて、言葉を差し挟む余地がなかった。

 悠真の手が、背へ回る。

 抱き寄せる、というほどやさしくはない。
 かといって乱暴でもない。ただ、人ひとりぶんの距離を当然のように奪って、自分の前へ留め置くためだけの腕だった。

「今日は聞かない」

 静かな声だった。

「嫌なら止めて、も、なし」

 ひゅっと喉が鳴る。

 その一言で、何かがはっきり変わった。
 いつもなら選ばせていた。押し返すなら押し返せばいい、追い出すなら追い出せばいい、そうやって最後の一線だけはアキラに委ねていたのに、今夜は違う。

 悠真はもう、選ばせる気がない。

……こわい」

 思わず零れた本音に、腕がぴたりと止まる。

 一瞬だった。
 けれど、その静止はためらいではなかった。そこで初めて、悠真の中で別の何かが噛み合ったのだと、アキラは遅れて思い知る。

 首筋へ触れていた手が、わずかにずれる。
 撫でるのでも、慰めるのでもない。そこにあるものを確かめながら、考えをまとめるような静かな動きだった。

……ああ」

 ふいに、悠真が小さく息を吐く。

 その声音はひどく穏やかで、かえってぞっとした。

「そうか」

 何かが腑に落ちたみたいな言い方だった。

「ニンゲンに合わせたのがいけなかったんだ」

 心臓が、どくりと鳴る。

 その言葉は、後悔にも反省にも聞こえなかった。
 もっと冷たく、もっと決定的なものだった。やり方を誤った、それだけの確認。だから次は間違えない。そういう響きをしている。

「悠真……
「触りすぎないようにしてた」

 低い声が、首筋のすぐそばで続く。

「好きに出入りもしなかったし、嫌がることは避けてた。ちゃんと待ってたよ。あんたが怖がらないように、人間のやり方に寄せて」

 ひとつずつ積み上げられる言葉に、アキラは何も返せない。
 そのどれも、たしかにそうだった。傲慢で、勝手で、距離は近かった。それでも悠真は、どこかで線を引いていた。引いてくれていたのだ。

「でも、それじゃ駄目だった」

 首筋にあった他の妖の印を、悠真の指先がゆっくりなぞる。
 薄くへばりついた気配を剥ぐみたいに、あるいはそこへ別の理を重ねるみたいに。

「大切なものには、ちゃんと印をつけないと」

 ぞくり、と背筋が冷えた。

 大切なもの。
 その言葉自体はやわらかいはずなのに、悠真の口から落ちると意味が変わる。慈しみと執着と所有と隔離が、最初から分かれていない言葉になる。

「待って」
「待ってたよ」

 即座に返る。
 静かなのに、一歩も譲らない声だった。

「だから、もういいよね」

 何が、とは言わない。
 言わないまま、悠真はもう一度だけ首筋へ顔を寄せる。そこに残る他の気配を嗅ぎ分けるように、ゆっくりと。鼻先がかすめ、熱い呼吸が皮膚をなぞる。

「閉じ込めないと」

 囁きだった。

「大事にしたいなら、目の届くところに置かないと駄目だ」

 あまりにも自然な口調で言うものだから、一瞬、言葉の意味が呑み込めなかった。
 けれど理解が追いついた途端、足元が崩れるような感覚が走る。

 閉じ込める。
 それは比喩ではないのだと、すぐにわかった。悠真は、そうしたいのではなく、そうすべきだと思っている。
 鳥籠へ戻すみたいに。
 巣へ連れ帰るみたいに。
 妖の理では、それがたぶん正しい。

「そんなの……おかしい」

 ようやく絞り出した声に、悠真がゆっくり顔を上げた。

 金色の目が、まっすぐアキラを射抜く。

「人間にはね」

 否定しない。
 否定しないまま、ただ前提が違うのだと告げる。

「でも僕は、人間じゃない」

 その一言で、部屋の空気がまた少し変わる。

 今までアキラが見ていた悠真――人の姿をして、人の会話をして、人の恋情めいたものを向けてくる男――その表面が、音もなく剥がれていくみたいだった。
 下にあるのは、もっと古くて、もっと単純で、もっと逃れがたいものだ。

 守る。囲う。印をつける。隠す。
 それが同じ意味を持つ世界の生き物。

「怖い?」

 悠真が訊く。

 けれど、その問いに以前のようなためらいはなかった。
 怖がられると知りながら、それでも言うことを選んでいる声だった。

 アキラは答えられない。
 答えられないまま黙っていると、悠真は少しだけ目を細める。

「そうだろうね」

 やさしい声だった。
 そのやさしさのほうが、よほど恐ろしい。

「でも、こわがっても、もう遅いかもしれない」

 息が止まる。

 悠真の手が、首から頬へ上がる。
 大きな掌が顔の半分を包みこむ。逃げようとすれば逃げられるはずなのに、その目に見つめられたままでは、その“はず”がひどく頼りない。

「だって見つけたんだよ」

 低い声が落ちる。

「やっと」

 たったそれだけで十分だった。
 待っていた時間。探していた執着。失いたくないという衝動。そういうもの全部が、その二音に沈んでいる。

 悠真はしばらくアキラを見つめ、それからごく静かに続けた。

「僕、あんたのこと、ちゃんと大事にしたいんだ」

 大事に、という言葉が、もう穏やかな意味に聞こえない。
 守りたいのだ。傷つけたくないのだ。誰にも触れさせたくないのだ。自分の目の届くところで、二度と失くさないかたちで持っていたいのだ。

 その全部をひっくるめて、悠真は“大事にする”と言っている。

「だから、間違えない」

 その一言で、ぞっとした。

 間違えない。
 もう人間に合わせて遠慮したりしない。そういう決意だけが、ひどく静かにそこにある。

「印をつけて、囲って、覚えさせる」

 ひとつずつ、落とすように。

「僕のものだって、誰が見てもわかるように」

「悠真……!」

 たまらず声を上げると、悠真は一瞬だけ黙った。
 そして、ほんのわずかに笑う。

「そんな顔、するんだ」

 面白がっているわけではない。
 ただ、怯えた顔さえも愛しいとでも言いたげな目だった。

「大丈夫」

 何ひとつ大丈夫ではないのに、悠真はそう言う。

「壊したくはないから」

 その言葉だけが、ぎりぎりの理性だった。
 壊さない。けれど放さない。
 その線だけが、かろうじて残っている。

 悠真の額が、こつりと触れる。

 以前と同じ仕草のはずなのに、もうまるで意味が違う。
 懐かしさを鍵にして、もっと深いところまで入りこんでくる。そんな触れ方だった。

「人間の好きとか恋とか、そういう形に合わせてあげようと思ってたけど」

 囁きが、皮膚のすぐそばへ落ちる。

「やめた」

 あまりにも静かで、あまりにも決定的で、アキラは何も言えなかった。

「僕は僕のやり方で、ちゃんと囲う」

 息がうまく吸えない。

 それは脅しではない。
 宣言ですらない。
 ただ、決まったことを告げられているだけだ。

 人間には重すぎる。
 けれど妖からすれば、それがきっと普通なのだ。大切なものを守るための、ごく自然な道理なのだ。

 そう思ってしまった瞬間、恐怖はひとつ深いところへ沈む。
 代わりに、自分がいま人ならざるものの道理の前に立たされているのだという、逃げ場のない実感だけが残った。

 悠真はようやく身体を離した。
 けれどそれは手放すためではなかった。ただ、アキラの表情を見やすい距離へ戻っただけだ。

 金色の目が、静かに細まる。

「次は消すだけじゃ済まないかも」

 やわらかい声で、とんでもないことを言う。

「ちゃんと僕の印をつける」

 首筋へ、最後にもう一度だけ指先が触れた。
 薄く残った他の妖の気配をなぞるみたいに。その上へ、自分の理を重ねる予告みたいに。

「覚悟しておいて」

 逃げろ、ではない。
 選べ、でもない。
 ただ、そうなるのだと告げられる。

 窓の向こうへ消える間際まで、悠真の目は少しも揺らがなかった。

 あとには静まり返った部屋と、乱れた呼吸と、首筋に残った濃い熱だけがあった。

 アキラはしばらくその場から動けなかった。

 首へ触れる。
 さっきまで悠真の指がなぞっていたところだ。痛みはない。けれど、皮膚のすぐ下に、まだ何かがざわついている気がする。
 他の妖の印なのか、悠真が上書きしかけた気配なのか、もう自分ではわからない。

 ただひとつわかるのは、今夜、自分は見てしまったということだった。

 おとなしくしていた悠真。
 行儀よく、人間に合わせて、待っていてくれた悠真。
 その奥にいた、本来の、傲慢で、人では測れないほど執着の深い妖を。

 あれが本性なのだと思うと、こわい。
 こわいのに、首筋に触れた指の熱を、少しも忘れられない。

 最悪だ、とアキラは思う。

 いっそ嫌いになれたなら楽だった。
 ただ恐ろしいだけなら、窓を閉めて鍵をかけて、それで終われた。

 けれど、自分のために怒っていたのだと知ってしまった。
 自分に勝手に印をつけた何者かへ向ける、あの凍るみたいな怒りと、どうしようもなく濃い執着を、見てしまった。

 その事実が、恐怖の底に、ほんのわずかな熱を落としていく。

 窓の向こうは静かだった。
 もう羽音はしない。黒い影もない。

 なのにアキラは、今夜からたぶん、もう以前みたいには窓を見られないのだと思った。
 開くか閉じるか、それを決めるたび、あの金色の目を思い出してしまう。

 喪ったはずの黒い雛は、もういない。
 その代わりに戻ってきたのは、あまりにも美しく、あまりにも厄介で、そして思っていたよりずっと、自分を手放す気のない妖だった。