Hnyanko
2026-04-02 22:26:28
5745文字
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悠アキ妖パロ②

ストック分1

 三日ほど、何もなかった。

 あの夜のことが嘘みたいに、窓は静かなままだったし、羽音ひとつ届かない。
 それでようやく落ち着けるはずなのに、アキラはふとした拍子に窓辺を見てしまう。風の音に紛れて何かが触れた気がすると、意味もなく振り返る。

 自分でも、馬鹿みたいだと思う。

 戻ってきたのは、小さな鳥ではなかった。
 あれはもっと厄介で、もっと得体が知れなくて、うっかりすると簡単にこちらの呼吸を乱してくる男だった。

 なのに、その気配が途絶えると、妙に部屋が広く感じる。

 考えたくなくて、本を閉じた。
 灯りを落としかけた、そのときだった。

 こつ。

 小さな音が、窓を叩いた。

 息が止まる。

 聞き間違いではない。返事を待つというより、そこにいて当然みたいな叩き方だった。

 アキラはしばらく動けなかった。

 来るかもしれないとは思っていた。思っていたくせに、本当に来られると困る。

 二度目の音が鳴る前に、観念して窓辺へ向かった。
 カーテンを引く。

 そこにいたのは、やはり悠真だった。

 夜に溶けるような黒い翼を背負い、窓枠へ片腕を預けるように立っている。月明かりを受けた金の目が、アキラを見た途端にわずかに細まった。

「来たよ」

 来たよ、じゃない。
 喉元まで出かかった言葉を飲みこんだのは、その声音があまりにも自然だったせいだ。まるで、帰る場所へ戻ってきただけだと言わんばかりの顔をしている。

……本当に来るんだ」
「入れてくれると思ったから」

 悪びれもしない。
 問いかけに対する返事になっていないのに、それで済むと思っている顔だ。

「普通、夜中に窓を叩く?」
「普通じゃないからね、僕」

 そう言って、悠真は少しだけ首を傾げる。
 その仕草だけが、昔の名残を引いてきて厄介だった。

「入れて」

 頼んでいるようでいて、ほとんど決まったことを告げるみたいな声音だった。
 アキラは眉を寄せる。

「少しだけだからね」
「うん」

 頷きは素直だった。
 けれど、その目はまったく引く気がない。

 窓を開けた途端、悠真は風のようにするりと室内へ入りこんだ。物音ひとつ立てずに着地し、ひろがった羽がわずかに揺れる。夜気の匂いが、部屋のぬるい空気に混じった。

 たちまち空間が狭くなる。

……近いよ」
「まだ何もしてない」

 していない、という言い方がまずよくない。
 そう思う間にも、悠真は部屋をゆっくり見回していた。机、本棚、ベッド、読みかけの本。視線の運びが妙に親密で、勝手に触れられるより落ち着かない。

「変わってない」

 ぽつりと落ちた声に、アキラは目を向ける。

「何がだい?」
「空気」

 短い返事だった。
 けれどその一言で、この部屋の内側へ土足で踏みこまれたような気がする。

「勝手なこと言わないで」
「勝手じゃないよ。覚えてるだけ」

 悠真はベッドの端へ腰を下ろした。
 それがさも当然みたいな顔をしているので、アキラは思わず眉をひそめる。

「なんでそこ座るの」
「近いから」
「椅子があるだろう?」
「遠い」

 真顔で言われて、言葉に詰まる。
 人の家での遠慮とか、そういうものが最初から存在しない。妖だから、で済ませていいのか迷うくらいには、ためらいがなかった。

 けれど悠真の中では、おそらく本当に迷う理由がないのだろう。
 帰ってきたのだから、ここにいる。隣に座る。触れたいなら触れる。たぶん、それだけだ。

 アキラは少し距離を空けてベッドへ腰を下ろした。
 意味のない抵抗だとわかっていても、そうせずにはいられない。

 沈黙が落ちる。

 気まずいというより、落ち着かなかった。
 自分のベッドの上に、窓から入ってきた妖が座っている。しかもこちらを見る目が、妙にやわらかい。見つめられているだけで、皮膚の表面がじわじわ熱を持っていく。

……何しに来たの」

 ようやく絞り出すと、悠真はほんの少し考えるように瞬きをした。

「確かめに」
「何を」
「入れてくれるかどうか」

 さらりと返ってきた言葉に、アキラは眉を寄せる。

「それ、確認できたら帰るつもりだったの」
「まさか」

 まさか、で済ませる。
 その傲慢さが腹立たしいのに、どこか妙に似合っていて腹が立つ。

「せっかく入れてもらえたのに」

 そこで言葉を切り、悠真はごく自然な顔で少し身を寄せた。

「そんなにすぐ帰るわけないでしょ」

 アキラの肩がぴくりと揺れる。
 それを見て、悠真はわずかに目を細めた。面白がるというより、反応を確かめているような目だった。

……近い」
「知ってる」
「離れて」
「嫌なら押し返して」

 その言い方がずるい。
 力で押さえつけるのではなく、選ぶのはそっちだと平然と委ねてくる。なのに本気で拒まれないと、どこかでわかっている声音をしていた。

 アキラは唇を引き結ぶ。
 押し返せない自分に腹が立つ。懐かしさのせいだと言い聞かせているのに、それだけとも思えないのが、なおさら厄介だった。

 ふと、悠真の視線が机のほうへ流れた。
 昼間にもらった小さな菓子の包みが置いたままになっている。

「それ、誰にもらったの」

 何気ない調子だった。
 けれど、聞かれた瞬間に空気の温度が変わった気がした。

……お菓子?」
「うん」
「知り合いから」

 悠真はすぐには返さなかった。
 金の目が包みを見て、それからアキラへ戻る。

「男じゃないなら、いいけど」

 ぼそりと落ちたその声に、アキラは目を瞬く。

「いいけど、って何」
「そのままの意味」

 説明する気はなさそうだった。
 気に入らない、ということだけが言外に滲んでいる。

「女の人だよ」
「ふうん」

 短く返して、それきり黙る。
 黙られるほうが困る。露骨に不機嫌な顔をされるより、ずっと始末が悪かった。

……何」
「別に」

 別に、という顔ではない。
 けれど追及されたくないのか、それ以上は言わず、代わりに悠真の手がアキラの頬へ伸びてきた。

 指先が、熱を測るみたいにそっと触れる。

 肩が跳ねた。

「っ……急に触るな」
「赤い」
「君のせいだろ」
「うん」

 認めるのか、と返すより先に、頬を撫でた指が耳の下をかすめた。
 ほんのわずかな接触なのに、そこだけ熱が残る。

「そんな顔しないで」
……どんな顔だい」
……困る顔」

 低く落ちた声に、アキラは息を詰めた。

 可愛いとか好きだとか、そういう直接的な言葉ではない。
 なのに、その一言のほうがよほどたちが悪い。

 悠真はそれ以上は言わない。
 ただ静かにこちらを見る。その視線が、まるで先まで知っているみたいで落ち着かない。

「僕、まだ何もしてないのに」
「その言い方がもうだめだろう……

 むっとして返すと、悠真は喉の奥で小さく笑った。
 それから今度は頬ではなく、後ろ髪へそっと触れる。

 梳くというほどでもない。
 ためらいがちなようでいて、触れること自体にはまるで迷いがない。昔からそうするのが当然だったみたいに、指先が馴染む。

……悠真」
「うん」
「触りすぎ」
「足りない」

 真顔で言われて、言葉を失った。

 悠真は少しだけ身を乗り出す。
 その距離に、アキラの喉がひくりと鳴る。近い。呼吸が触れそうで、視線を逸らしたくなるのに逸らせない。

「昔より、ずっと遠いから」

 ぽつりと落ちた声は軽くなかった。
 その一言だけで、三日どころではない空白が、ふいに現実の重みを持つ。

 アキラが黙ったままでいると、悠真の目がわずかにやわらぐ。

……でも、逃げられてないなら、いいや」

 それは半分、独り言みたいだった。
 そう言いながら、悠真の額がこつりと触れる。

 息が止まる。

 鼻先がかすめるほど近いくせに、そこから先へは来ない。来ないまま、逃げ道だけをゆるく塞ぐような間の取り方をする。

「今は、これで」

 何が、とは言わない。
 言わないまま、悠真は目を伏せる。

「これ以上したら、怒るでしょ」

 怒る、と即答したいのに、声が出ない。
 嫌だと言い切れない自分がいることに、いちばん戸惑っているのはアキラ自身だった。

 沈黙をどう受け取ったのか、悠真はごく薄く笑う。

「やっぱり、前より難しいな……

 その拗ねたような声音に、どうしようもなく昔の黒い雛が重なる。
 ずるい、と思う。わかっていてやっているくせに。

……君はずる賢いね」
「そうだよ?」

 あっさり認めて、悠真はアキラの後ろ髪をもう一度撫でた。
 羽を整えるみたいな、やけに丁寧な手つきだった。

「でも、あんたにだけ」

 低い声が、耳の近くへ落ちる。

「こんなふうにしてるの」

 胸がどくりと鳴る。

 説明になっているようで、なっていない。
 それでも充分だった。特別だと言われるよりずっと曖昧で、だからこそ逃げ場がない。

……そういう言い方、やめてくれるかい」
「やめない」
「即答するな」
「今さら引く理由がない」

 妖らしい傲慢さだった。
 こちらの事情を慮らないというより、自分が引くべき局面だと思っていない。その理不尽さが、悠真の顔をすると妙に成立してしまう。

 ふと、その手がアキラの手首へ移る。
 強くはない。けれど確かに捕まえられる。

「離して」
「やだ」
「子どもみたいに言わないで」
「だって、また遠くなる」

 その一言に、アキラは息を飲んだ。

 遠くなる。
 ただの物理的な距離の話ではないのだとわかる。離れていた年月ごと、そのまま口にされたみたいで、胸の奥がうまく痛む。

 悠真はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと続けた。

「やっと見つけたのに」

 それ以上は言わない。
 けれど、そのひとことだけで充分だった。どれだけ探したのか、どれだけ執着していたのか、言葉にならないぶんだけ重く伝わってくる。

 アキラは返事ができなかった。
 すると悠真は、掴んでいた手首を今度は指先だけでなぞる。鎖の代わりに痕を残すみたいな、静かな触れ方だった。

……ねえ」
「何」
「次は、抱き寄せてもいい?」

 問いかけの形をしているのに、半分は予告みたいだった。

「だめ」
「えぇ~、即答」
「当たり前だろ」

 そう返すと、悠真は喉の奥で小さく笑った。
 懲りる気配がまるでない。

「じゃあ、もう少し慣れて」
「慣れない」
「慣れるよ」

 きっぱりと言い切る。
 その自信が腹立たしいのに、不思議と嫌悪にはならなかった。

「アキラくん、昔から僕に甘いし」

 それを言われると弱い。
 弱いことを、悠真はたぶん知っている。知ったうえで使ってくるから、なおさらたちが悪い。

……最低」
「うん」

 また認める。
 その素直さに、かえって言葉を失う。

「でも、嫌われたくはない」

 その一言だけ、不意に静かだった。

 熱のこもったまなざしのまま、そこだけ少しだけ低くなる。
 傲慢なくせに、そこだけは無傷ではいられないのだとわかってしまって、アキラは胸の奥を掴まれたみたいになる。

 悠真はしばらくこちらを見つめていたが、やがて名残惜しそうに身体を離した。

……今日はここまでにする」
「最初からそうして」
「えー」
「不満そうな声出さないで」

 言うと、悠真はくすっと笑う。

「でも、進歩した」
「何が」
「前より近くにいられた。触っても、追い出されなかった」

 その言い方に、頬が熱くなる。
 追い返せなかったのは事実だった。懐かしさのせいだと決めつけるには、もう少しだけ何かが混ざりはじめている。

 悠真が立ち上がる。
 黒い翼がわずかにひらき、部屋の空気が揺れた。

「じゃあ、帰るよ」
……本当に?」
「なに、その顔」

 しまった、と思ったときには遅い。
 悠真の目が見る見るうちに機嫌よく細まっていく。

「別に」
「ふうん」
「その顔やめて」
「うれしいから」

 そう言いながら、悠真は窓辺へ向かう。
 けれど、出ていく直前にふいと振り返った。

「アキラくん」

「何」

「次に来たとき、あんまり他の匂いがしないといい」

 意味がわからず、数秒遅れて理解が追いつく。

……何それ」
「気に入らないから」

 あっさりした言い方だった。
 それがかえって本気に聞こえる。

「僕の知らない気配が近いと、落ち着かない」

 嫉妬している、とも独占したい、とも言わない。
 言わないくせに、その一言のほうがよほど重い。

 アキラが黙ると、悠真は少しだけ目を細めた。

「覚えてて」

 低い声がやわらかく落ちる。

「僕、あんたにはわりと容赦ないよ」

 返事なんてできなかった。
 それを当然みたいに受け取って、悠真は満足そうに笑う。

 最後に一度だけ、昔の小鳥みたいに首を傾げた。

「おやすみ、アキラくん」

 黒い影が、窓の向こうへ溶けるように消えていく。

 あとには静まり返った部屋だけが残った。
 なのに少し前までそこにいた男の熱が、まだベッドにも、頬にも、指先にも残っている気がする。

 アキラはその場に座りこんだまま、しばらく動けなかった。

 窓辺を見る。
 閉めるべきだと思う。鍵も確かめるべきだ。次からは入れない、そのくらい決めるべきなのに。

 なのに胸の奥では、別の声が小さく疼いていた。

 また来る。

 そう言われたことに、ほんの少しだけ安堵してしまった自分がいる。

 最悪だ、と思う。

 喪ったはずの小さな鳥は、もうどこにもいない。
 けれど、その代わりみたいに現れた厄介な男は、たぶんもう簡単にはいなくならない。

 そしてそれを、少しだけ嬉しいと思ってしまったことを、アキラはまだ認めたくなかった。