桜が咲き、新生活が始まる季節の一番最初の日、四月一日。午前中は嘘をついてもいいという日、すなわちエイプリルフールであり、ゾラの誕生日であった。誕生花は桜とマーガレット、バースデーカラーは薄桜色。星座は牡羊座。羊と聞くと大人しいイメージがあるが、占星術では第一の星座とされ情熱的で活発な未知なるものに果敢に挑む挑戦者として扱われ、キーフレーズは「I am(我あり)」である。そもそも牡羊座にまつわる神話は継母に殺されそうになっている双子の兄妹を助け出すために神が遣わした金色の毛皮を持つ羊の話だ。しかも途中で妹を海に落としてしまう。疾走感や熾烈さが付き纏う星座であり、その一方でキーフレーズのイメージである純粋無垢さが加わる。春に祝福されたようなこの日を誕生日とする彼女はよくピンク色が似合ったし、羊を彷彿とさせる巻角とくすんではいるが光を受けて輝く金髪は神話に出てくる金色の毛皮の羊を連想させ、我ありと叫ぶような熾烈さと純粋さを兼ね備えていた。
* *
テーブルの上に並ぶ色とりどりの料理は光を反射していた。新緑のサラダはフレンチドレッシングのリボンを纏い、砕かれたナッツが踊るように散っている。野菜の旨味が溶け込んでいるであろうコンソメスープは透き通った飴色で、そのまま固めたら美しい宝石になるのではないかと思わせる。メインは卵をドレスのスカートのように整えたドレス・ド・オムライス。ゾラが環に作ってほしいと強請ったものだった。中身はケチャップライスで、卵の黄色とケチャップライスの赤が目を引いた。その横にグリルした野菜が添えられる。シンプルなようでどれもが手の込んだ美しい料理たち。それを作った環はじっとゾラを見つめている。
「わぁ、ほんとうにつくってくれたんだな!」
ゾラが目を輝かせた。その姿を見て、環はオムライスの練習をしてよかったと頬を緩ませる。オムライスは普通に作る分には対して難しくはないが、ドレスのスカートのようにするのは結構難しい。コツを掴むまでは何度も失敗したし、おかげでしばらくオムライスだけ食べる生活が続いた。しかしその程度の犠牲で喜んでもらえたのならそれでいいと思おう。
「当たり前でしょ。今日は君の誕生日なんだから。」
本当はもっと華やかに、盛大にできればよかったのかもしれない。しかしゾラは儚げな見た目の通り、少食であまり多くは食べない。この量ですら、食べ切れるかは少し怪しい。それでも彼女が喜んでくれるならと手を尽くして、つい張り切ってしまった。彼女が残してしまった分は責任持って自分が処理すればいい、と環は自分に言い訳を与える。
「よかったねぇ、ゾラちゃん。」
寿々華の波打つ黒髪が揺れて、薄紫色の瞳がチラチラと冷蔵庫を見ていた。ソワソワしているようだ。その様子がかわいくて微笑ましい。
「たべてもいい?」
「どうぞ、召し上がれ。ケーキもあるから、食べ過ぎないようにね。」
ゾラがさっそくオムライスにスプーンをゆっくり突き立てた。スプーンに乗った黄色と赤色の塊がゆっくりとゾラの口元に運ばれて、そのまま口の中へと運ばれる。ケチャップの酸味に卵のほのかな甘みが調和していて、細かく刻まれた具材が舌の上で弾んだ。煌びやかな見た目に反して素朴な味がする。
「おいしい。やさしくて、あんしんするあじ。やっぱりタマキのりょうりがいちばんおいしい。」
春の陽だまりのような笑顔が咲いた。よく笑顔が咲くと表現されるが、それはけして比喩表現などではなく本当に笑顔は〝咲く〟らしい。
「お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいなぁ。」
作り手にとって一番嬉しい言葉をもらった環は噛み締めるようにゾラの言葉を脳内で反芻する。こういう瞬間こそ、料理が得意でよかったと思うのだ。
「おせじなわけないだろ、ばか。」
「ふふ。ゾラちゃんの言う通りやなぁ。環はんの料理が一番美味しい。」
世の中にはもっと美味しいものなんていくらでもあるのに嬉しいこと言ってくれるね、と環の心が温かくなる。料理を美味しそうに頬張るゾラと寿々華の顔を見ているだけで環はお腹いっぱいになりそうだった。
今日のゾラはいつもより食べたい気分だったのか料理を完食した。環が皿が片付けられたテーブルで紅茶を淹れている。芳醇な香りと爽快な渋みが特徴のディンブラ、バランスがよく〝紅茶の優等生〟と呼ばれる紅茶である。これから出てくるケーキに合わせて選んだものだ。環が紅茶を淹れ終わるのと同時に寿々華の手によってケーキが到着する。丸いドーム状で、イチゴとキウイが鮮やかに彩っている。
「あんね。ケーキ作るの、うちも手伝うてん。」
寿々華がチラチラと冷蔵庫を見ていたのは、緊張していたからなのだろう。あるいは、早くケーキを見てほしかったのかもしれない。
「とはいえ、うちは混ぜただけやけど。」
照れるように寿々華がケーキに視線を落とす。バレンタインに寿々華はゾラと一緒にカレーを作った。それ以降、寿々華は少しずつ二人の料理を手伝いたがるようになり、今回も寿々華が手伝いたいと言ったのだろう。まだ単純な作業しかできないが懸命な様子がかわいくて、たとえ一人でやったほうが早く終わると分かっていても二人は喜んで作業を与えた。昨日、今日と家を追い出されていたゾラはドーム状のケーキを見る。このケーキも、環一人で作るよりも時間がかかったのだろう。
「ズコットっていうケーキで、イタリアのトスカーナ地方のケーキなんだよ。実は俺も初めて作ったんだけど上手くできてよかった。」
環はズコットに蝋燭を一本立てた。ピンク色と白色の短いバースデーキャンドル。環がそこに火を灯すと、部屋の電気が消された。揺らめく火だけが部屋の光源となり、ゾラの顔に影が落ちる。無機質な宝石のような瞳はいつも眩しいほど輝いているが、火が映り込む瞳は一等星のように煌々と光を反射して瞬いた。ハッピーバースデートゥーユー、体は小さいけれど強くて誰よりも愛情深い勇気のある女の子。
「お誕生日おめでとう。ほら、蝋燭の火を消して。」
環に促されたゾラが蝋燭に灯された火を吹き消して、優しい暗闇に蝋燭の焦げ臭さが溶けた。寿々華が電気をつけて部屋が明るくなる。環が火が消えた蝋燭をすっと取り除けば、まだ名残惜しく漂っていた煙がかき消えた。三人で食べるからと少し小さめに作られたそれを三等分にして、皿に取り分けていく。中身はたっぷりとクリームが詰められ、断面からサイコロ状に切られたイチゴとキウイが見えていた。ゾラがケーキにフォークを突き刺し、端っこの方を切り崩す。柔らかいスポンジが沈んで、クリームの海の中にフォークごと沈んだ。切り離されたスポンジとクリームの中にあったイチゴをフォークで刺せばわずかな抵抗感が指先に伝わって、持ち上げれば一口の重みがフォークに伝わる。それを口に運んで、噛み締めるのを環はじっとみつめ
「ん、おいしい。」
ゾラの一口は小さい。それはまるで料理がなくなってしまうのを名残惜しんでいるようにも見える。クリームはただの生クリームではなくクリームチーズが混ざったもので、少し固めで甘さは控えめ。甘いものが苦手である環でもなんとか食べられるギリギリの甘さに整えられた素朴なケーキ。手作りの温もりが詰まったケーキを頬張るゾラと寿々華を見つめながら環はケーキを飲み込んだ。
「これが夢じゃなかったらいいのにねぇ。」
やっぱり自分には甘すぎるなと思いながら、紅茶で甘さを洗い流す。味はしない、夢だと自覚してしまったからだ。もうすぐ夢が醒める、惜しいことをしてしまったと後悔してももう遅い。
もっと、この光景を目に焼き付けておけばよかった。
ゾラは自分の〝名前〟を呼んではくれないし、オムライスもケーキも食べることができない。
ああ、とんでもない悪夢だ。
* * *
現実に引き戻された環がまず最初に見たのは自室の天井だった。右隣には小さな寝息を立てる寿々華がいて、左隣にいるはずのゾラはいない。カーテンの隙間から光が漏れて、床に筋を作っていた。朝がもうすでに来ていて、いつもより遅い起床であることに気がつく。環はベッドから抜け出して布団をまだ寝ている寿々華にかけてから、机に置いてあった携帯端末で時間と天気を確認する。四月一日、午前七時。天気は晴れ。カーテンはまだ閉めておこう、まだ夢の中にいる寿々華をまだ起こす必要はない。大学の授業は午後からだと聞いているから、あと一時間は寝かせてあげられるだろう。どこにも出かける予定なんてないからと、ライトグレーのトレーナーとカーキの綿パンを身につけた。昔はシャツしか身に付けなかったのに、今では随分とラフな格好もするようになった。春に祝福されたような同居人の影響、なのかもしれない。寝過ぎて怠い体を揺らしてリビングに向かえば、カーテンを開け放たれた部屋の中でゾラが立っていた。
「おはよう、アダシノ。いつもより遅いな。」
滑らかな英語が滑り落ちる。彼女は何も考えずに英語で話しかけてしまうほどには、ぼうっとしていたらしい。何か考え事でもしていたのだろうか、あるいは春の陽だまりを堪能していただけなのか。無機質な宝石のように見える瞳もこの瞬間だけは新緑を閉じ込めた箱庭のように瑞々しくて、陽だまりと同化するのではないかと思うほど柔らかい金髪が輝いている。特徴的な巻角すら彼女を彩るティアラのように輝いて、網膜の奥に焼き付いてしまう。彼女は美しい、特に春の陽だまりに包まれた彼女は。
「うん、おはよう。ちょっと、長い夢を見ていたようでね。」
環は英語で言葉を返す。元々、寿々華が来る前は英語でやりとりしていた。じんわりとした懐かしさが酷く心を掻き乱す。コーヒーを飲むために電子ケトルに水を入れてスイッチを入れた。お湯が沸くまでにカップとコーヒーを淹れるための器具を用意して、それから言うべきことをまだ言っていないことに気がつく。
「誕生日おめでとう、ゾラ。」
プレゼントは明日届く予定なので手元にはない。休日である明日にゆっくり誕生日会をやろうと決めていたから、プレゼントも明日届くようにしたのだ。ゾラもそれが分かっているからプレゼントに言及することはない。
「ありがとう。あんまり実感はないけどな。」
ゾラはこの体になる前の記憶を失っていて、自分の誕生日も覚えていなかった。ゾラが陽だまりの中でぼうっとしていたのは、誕生日について何か考え事でもしていたのかもしれない。生まれてきた意味だとか、生きる意味だとか、そんなことをぼんやり考えていたのかもしれない。環が彼女の素性を調べて誕生日は発覚したものの、あまりにも酷い真実でもあったので誕生日以外は伝えなかった。伝えなくたっていい、結局は〝今〟を生きる彼女が〝ゾラ〟なのだから、それでいいのだと環は思っている。彼女が大人っぽく見えるのは彼女は子供として生きるのを許されなかったからで、彼女があどけないのは世界を知らないから。チグハグで不安定、今にも崩れそうなのを必死に堪えている、それが彼女の素顔。その素顔は環しか知らない。彼女もその柔らかくて不安定な素顔を環以外に見せるつもりはないらしい。
「君がズコット……ケーキを食べる夢を見たんだ。」
言うはずなんてなかったのに、つい言葉が溢れてしまった。誕生日を実感できない彼女にたくさんのことをしてあげたかった。本当はとびきり美味しいケーキだって作ってあげたかったし、笑顔で食べてほしかった。自分の無力さを目の前に突きつけられて、苦しくて、堪らなかったのだ。
「夢の中で、君の誕生日パーティーをしていた。君は何事もなく食事をして、ケーキを食べて、嬉しそうに笑ってた。とんでもない悪夢だと思った。」
彼女は食事ができない。彼女の体は食事を受け付けない。味を感じられないだけならまだよかった。トマトとチーズとバジルが絡んだパスタも、クリームにこだわったフルーツサンドも、彼女自身が作ったカップケーキでさえも、毒となり彼女の体を蝕んでしまう。口に一口でも含めば激痛に苛まれ、胃に収めようとすれば胃の中が空っぽになるまで吐き続けてしまう。理想は悪夢として立ちはだかり、理想から遥かに遠い現実は冷たい雨となって降り注ぐのだ。
「俺、料理くらいしか取り柄がないでしょ。それなのに君は何も食べられない。それがすごく寂しくて悲しい、そう思うことがあるんだ。」
ゾラは環の言葉をじっと聞いている。春の陽だまりから抜け出した彼女の瞳はすでに瑞々しさを失い、宝石のような瞳に環の姿が映っていた。さっきまでの儚げで陽だまりに溶けそうな少女のような姿は霞のように消えていて、代わりに悪戯を企んでいると言わんばかりの笑顔が張り付いている。
「じゃあ作ってくれよ。その、ズコットってやつ。食べるから。」
何でもないようにゾラはそう言ったが、環にはこの言葉の意味を正確に理解した。〝食べる〟という言葉はゾラにとってとても重い意味を持つ。軽く口に出せるような言葉ではないはずなのに、重みを感じさせない。
「君は食べられないだろう。この間のバレンタインのときだって。」
ゾラはバレンタインの日、寿々華からチョコレートを贈られ、そしてそれを寿々華の目の前で食べてみせた。寿々華の前では何事もなく取り繕っていたが、寿々華が眠った後ゾラは崩れ落ちた。
「……作ったって、君を苦しめるだけだ。俺はそんなの見たくないよ。」
何度も何度も吐き戻して震えて、吐き戻しては吐瀉物をまた口の中に入れようとしてまた吐く。そんな光景を環は何度も見てきた。その度に制止して、吐瀉物を掃除して、体を震わせる彼女を宥めた。苦しげに呻く彼女の声も、オイルと胃液が混ざった匂いも、何もかもが脳に焼き付いている。
「それでも、アンタは私に料理を食べてもらいたいと思っているという事実はなくならない。」
環は息を呑んだ。彼女は傲慢なようでいて、その下には気遣いと思いやりが渦巻いている。ゾラの笑顔がすべてを見透かしていた。
「アンタの些細な願いを叶えてあげたいという私の我儘に免じて。な? 作ってくれよ。」
バレンタインにチョコレートを受け取って以来、寿々華はゾラに度々お菓子を贈るようになった。その度に彼女は毒を食べて吐いて震えている。それが彼女の体に負担をかけているらしく、度々彼女は体調不良になるようになっていた。そんな彼女を見て、あろうことか自分の手料理も食べてほしいと思ってしまった。それでも必死に隠してきたのにあんな悪夢を見てしまったから、彼女の笑顔を見てしまったから、何もかも崩れ落ちてしまった。
「ほら、泣くなって。本当にアンタは泣き虫だなぁ。」
溢れ出た涙をゾラの細い指が拭い取る。環の目尻からゾラの指先に移った涙は光を反射した。それをゾラは舌で舐めとる。しばらくは涙の味を堪能するように目を閉じていたが、名残り惜しむように目を開いた。
「なぁ、作ってくれるだろ。」
「……ズコットだけだからな。」
環は涙を自分の指で拭う。もうすぐ寿々華も起きてくるだろう。朝食の準備をして笑顔で迎え入れてあげよう。寿々華が大学に行くのを見送って、材料も買ってこなければならない。心が張り裂けそうなほどの歓喜や仄暗い罪悪感、それから刺すような呵責。入り混じった感情を全て飲み干すように水を飲んだ。
* *
日差しは温かいが風が強く吹いている。春は穏やかなようで存外荒々しい風が吹くのだ。こんな日は外に出るよりも家でゆっくりするのがいい。昔はこういう日は朝から料理に耽っては、暇を手の中に転がしていた。今日も朝から料理に取りかかっている、でも今日は別に暇を持て余しているわけではなく明確な目的がある。同じシチュエーション、同じ行動だとしても、僅かな違いでこうも違うのだと思うと不思議だ。昔と変わってしまった自分をどこか他人事のように思いつつ、環はクリームチーズと生クリーム、ハチミツを混ぜた。その隣で環のエプロンを身につけた寿々華がラップをしたボウルにスポンジを丁寧に敷き詰めている。スポンジは環が早朝のうちに作っておいたもので、仕上がりは少し硬めでバニラビーンズで風味付けされたシンプルなものだ。その様子をゾラがニコニコしながら見守っていた。クリームチーズを混ぜるのは存外に力が必要な作業である。はじめは寿々華がクリームを混ぜる係であったが、混ぜるのに苦戦している様子に苦笑しながら役割を交代したのがちょうど五分ほど前のことだった。だからやめた方がいいって言ったのに、と言いながらそのうちハンドミキサーを買おうと頭の中のメモ帳にメモする。料理は体力が必要な行為である。自分は慣れていたし、ゾラはどちらかといえば体力が有り余っているタイプで、今までハンドミキサーを買うという選択肢は環にはなかった。しかし今後寿々華が料理するようになるならハンドミキサーは必需品となるだろう。ハンドミキサーでなら寿々華も疲れずに材料を混ぜることができるはずだ。粗方混ぜ終えたクリームに小さくカットしたイチゴとキウイを投入しひと混ぜする。
「こんなもんかな。すず、味見する?」
「する!」
環はスプーンでクリームを一掬いして寿々華に差し出した。差し出されたスプーンに食いついた寿々華はクリームを舌の上に転がしながら首を傾げる。思っていたのとなんか違う、と言いたげな表情だ。
「甘ない。」
少しだけ甘さを抑えたクリームは甘党な寿々華には物足りなさそうだが、甘いものが苦手な環にはこれが限界である。お互いの妥協点の線引きは難しい。
「そう言うと思ったから、イチゴとハチミツのソース作っておいたよ。食べるときはそれをかけたらいい。」
そこで環が出した結論は後追いで甘くする方法を作ることだった。甘めに作られたそれはスポンジを焼いている片手間に作られたもので、瓶に詰められて冷蔵庫に入れてある。
「これか? すず、こっちむいて。」
いつのまにか移動していたらしいゾラが瓶詰めのイチゴソースをスプーンで掬っていて、寿々華に差し出していた。寿々華は躊躇いもなくぱくりとスプーンに食いつき頬を緩ませる。どうやら満足する味だったらしい。
「スポンジ、準備できてる?」
「おん。」
寿々華が丁寧に敷き詰めたスポンジは力の加減を間違えたのか、所々潰れていたり崩れていたりするがどうせクリームで隠れてしまうのだから問題はないだろう。むしろ普段は料理もしない、さほど手も器用ではない寿々華が初めてやったことを加味すればよくできているほうだろう。スポンジが敷き詰められたボウルにクリームを流し入れ、スポンジで蓋をしていく。そして中身がたくさん詰まったボウルと余ったクリームが入っているボウルを冷蔵庫へと入れた。計算されたようにちょうど二つのボウルがぽっかりと空いていたスペースに納まる。
「さて、二時間ほど冷蔵庫で冷やなきゃいけないから休憩しててもいいよ。」
ちょうどランチの時間だ。映画を見ようと話し合う二人の後ろ姿を見ながら、環は手早く昼食の準備をしていく。トマトは輪切りに、レタスは水洗いをしてから適当な大きさにちぎって、サバの水煮は水気を切る。スライスしたタマネギを電子レンジで加熱するのは辛みを取って食べやすくするためだ。横から切り込みを入れてバターを塗ったバケットをトースターに突っ込んでから、加熱したタマネギにマヨネーズ、粒マスタード、醤油とほぐしたサバを加える。作業をしているうちにバケットは焼き上がり、熱々になったバケットをトースターから引き上げた。こんがりと焼けたバケットにレタスとトマト、キュウリ、パクチー、そして調味料で和えたタマネギとサバを挟む。お手頃にでき上がったバケットを二つにサバの水煮の残り汁を使ったタマネギとタマゴのスープが本日のランチになった。
窓を叩きつけるように吹いていた荒々しい嵐はピタリと止まっていた。ゾラと寿々華が見ている映画が終わる頃にちょうど仕上がったそれは夢で見たズコットより小ぶりだった。そこに夢には出てこなかった甘いイチゴとハチミツのソースが入った瓶が添えられている。夢の中では夕食の後に食べていたが、環も寿々華もあまり食べるほうではない。夕食を食べた後で詰め込むように食べるくらいならおやつに食べてしまったほうがいい、それ故におやつに間に合うように作りランチも軽めにした。環は映画のエンドロールを横目で見ながら夢と同じディンブラを三人分用意する。蝋燭も夢で見たものと同じやつを一本、写真を撮りたがるだろう二人のためにまだケーキには刺さない。皿を出して、フォークを用意したところでエンドロールは終わったらしくゾラと寿々華が環の後ろからケーキを覗き込んでいた。
「これがズコット……きれい。」
ゾラがポツリと言葉を溢す。白色と赤色、黄緑色のコントラストは確かにとても綺麗だ。本場のズコットは飾り付けが少ないし、中身もナッツ類がメインだったりする。つまりこれはズコットというより、ズコット風フルーツケーキと呼んだほうがいいのだろうが、日本でのズコットはこういった華やかなものが多いように思える。フルーツが盛りだくさんで見た目が華美であること以外はズコットなので、ズコットということでいいだろう。細かいことはこの際どうでもいいのだ。それよりも目の前の穏やかな日常のほうが大切である。
「二人とも、そろそろいいかな。」
二人が一通り写真を撮り終えるのを待ってから蝋燭を刺して、火をつけた。外がまだ明るいから部屋の電気を消したところでさほど暗くはならない。ゾラの瞳に蝋燭の火が反射した。ハッピーバースデートゥーユー、これから毒を食べる君。
「ほら、ゾラちゃん。火ィ、消さなあかんと。」
「け、けせばいいのか?」
ゾラは戸惑いながら蝋燭についた火を息で吹き消した。ふっとかき消えた火は焦げ臭さと煙を残していく。環は蝋燭を引き抜いて、ゾラの分を気持ち小さめにしてズコットを切り分けた。断面も夢と同じで、白色に赤色と黄緑色が泳いでいる。寿々華はソースの瓶の蓋を開けていてズコットを待ち構えていた。環は一番大きなピースを寿々華に、一番小さなピースをゾラに渡す。
「ゾラ、無理はしないでね。」
「ん、わかった。いただきます。」
ゾラがズコットにフォークで切り崩した。夢で見た光景よりぎこちないのは、緊張からなのか慣れていないだけなのか。ソースをズコットにかけ終えた寿々華もゾラの挙動を見つめている。環と寿々華に見守られる中、ゾラは少し潰れてしまったスポンジをフォークに刺してズコットのかけらを口の中へと運んだ。
「……やっぱりあじはしない。でも、うれしい。」
夢の中でより少し寂しげに笑った。そこで環はもっと香りの強いものにすればよかったと思い至る。味は分からずとも香りは分かる彼女への配慮が足りていなかった。
「……もうちょっと香りを強くすればよかったね。ソースならもう少し香りがあるかな。」
「ならうちがソースかけたるで。これぐらいかいな?」
環の言葉に反応して寿々華がゾラのズコットにソースをかけていく。少しかけすぎなほどかかってしまったが、ソースから香り立つイチゴとハチミツの香りがゾラの鼻を掠めた。
「ありがとう。イチゴのいいにおいがする。」
そう言ってゾラは嬉しそうに口を綻ばせながら甘い毒を食む。その姿は夢で見た光景とよく似ていて、逆光が眩しい。環は逃げるように目を逸らした。
ズコットを食べ終えて、環は寿々華にスーパーでの買い物を頼んだ。ついでに隣の住居のクローゼットに置いてある誕生日プレゼントを取りに行くのも頼み、寿々華の後ろ姿を見送る。環は玄関のドアが閉まるのを見届けてからゆっくりと口を開いた。
「すず、行ったよ。」
背後でガタリと崩れ落ちる音が響く。床に何かが撒き散らされる音、不規則な呼吸音、苦しげな声。振り返った環の視界には誰もいない。そのまま視線を下に向ければ椅子から転げ落ちて床に蹲るゾラの姿を見つけた。床に撒き散らされたズコットの残骸は機械油と血が混ざり、奇妙なモザイク模様になっている。
「だからやめようって言ったのに。ほら、我慢しないで吐いて。」
環はしゃがんでゾラの背中をさすった。彼女の体の震えが手のひら越しに伝わって、どうしようもなく悲しくなる。結局、自分は嬉しくなってケーキなんて作ってしまった。こんな光景なんて見たくなかったはずなのに、自分の気持ちを優先して彼女に毒を食わせてしまったのだとモザイク模様が罪を突き付けている。
「どうして、ケーキなんて食べたいって言い出したんだ。どうせ君を苦しめるだけなのに。」
何処にも行けなかった怒りが環の口から溢れた。こんなことを言うべきではないとは分かっている。八つ当たりだと分かっている。それでも言わずにはいられなかった。彼女があんなことを言わなければ、この身勝手な願望も花開くことなく枯れたはずなのだ。環は酷いことを言った罪悪感に俯く。
「……わたしが、アンタのたべてやりたかったんだよ。」
ようやく落ち着いたらしいゾラが環の頬に手を伸ばした。その仕草はまるでぐずる幼子をあやすようで、あやされた幼子は眉間に皺を寄せる。不貞腐れた様子にゾラは仕方ないなとでも言いたげに笑った。
「それにさ、ずっと食べ続けたら何か変わるかもしれないだろ。来年の誕生日も作ってくれよ。」
環はぐう、と唸ってから渋々了承した。結局のところ彼女の笑顔に弱いのだ。断れないと分かっていて、絶対に断ったりしないと分かっていて言うのだからずるい。せめての抵抗に環は言葉を返す。
「誕生日だけと言わず、君が望むなら何だって作ってあげるよ。でも、弱ってる姿は隠さないで。ちゃんと俺に責任を取らせて。」
環の言葉にゾラは笑って頷いた。好奇心旺盛で優しい彼女はこれからたくさんのものに興味を持って、たくさんのプレゼントをもらって、たくさんの毒を食らうようになるのだろう。苦しげに吐き続ける彼女の隣にいて背中をさすることしかできないけれど、だからといって目を背けてもいけない。戒めとしてこの姿を目に焼き付けて、仄かな喜びと重たい罪悪感を抱えて生きていくのだ。
もうすぐ寿々華が帰ってくるかもしれない。環は床に広がった吐瀉物を片付けるために腰をあげる。心にこびりついていた罪悪感は消えないが、少しだけ気分が軽くなったような気がした。
「ゾラ、すずが帰ってくる前にシャワー浴びておいで。俺が片付けておくから。」
「ありがとう。」
ゾラは環の言葉に促され、シャワー室へと向かう。ふらつく後ろ姿に僅かな心配が生まれたが、彼女はその程度で倒れるほど弱くもない。ゾラがシャワー室に辿り着くのを見届けて、環はいそいそと動き出した。新聞紙を手に取って手早く吐瀉物を拭い取る。ある程度拭ったら布巾で水拭きして床を綺麗にして、仕上げに消臭スプレーを吹きかければ、先程までの非日常の影は霧散した。
「そっかぁ。食べてくれるんだ。」
部屋に残された環は呟く。彼女に自分の手料理を食べてもらいたいという気持ちを紛らわせるためにフェイクスイーツのアクセサリーを寿々華と二人で選んだというのに、そんな苦労も知らずに彼女は心を荒していった。春の嵐よりも優しくて清々しくて、でも傷も鮮烈に残していって、目に焼き付くほどの閃光を伴って。じくじくと溢れる痛みは、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも思える。
「ただいまぁ。」
プレゼントを持った寿々華が帰ってきた。シャワーを浴びているゾラも、そう待たないうちにシャワー室から出てくるだろう。三人揃ったら誕生日会の続きをしよう。今度は毒ではなくて、ホイップクリームの飾りがついたバレッタで彼女をケーキに見立てて飾り付けてあげたら、どんな顔をするのだろう。桜の形をしたモナカのバックチャームはきっとずっと持ち歩いてくれるようになるだろう。一緒に選んでくれた寿々華がそのモナカのバックチャームを物ほしげに見ていたから、サプライズで色違いのものを一緒に購入している。ピンク色と黄緑色のコントラストが綺麗な抹茶餡のチャームはゾラに、儚げで優しい色合いの桜餡のチャームは寿々華に。喜んでくれたら嬉しい。今度こそは夢の中で見たのと同じ笑顔が見られるだろうか。そんな未来を想像して環の頬は緩む。春の嵐はとうの昔に過ぎ去っていた。
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