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桐子
2026-04-01 22:48:31
3460文字
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ルミナス⑫
翌朝、水木が目を覚ましたとき、隣にゲゲ郎の姿はなかった。
キッチンから聞こえる規則正しい包丁の音と出汁の香りから、彼が朝食を作ってくれているのだと分かった。上機嫌そうな鼻歌まで聞こえてくる。
(
……
クソが。なんであんなに、
……
っ)
腰に走る鈍い痛みが、昨日の夜のことは現実だったのだとありありと伝えていた。おまけに身体の節々は痛み、あらぬところの違和感もすさまじい。起きてシャワーを浴びたかったが、身を起こしただけで腰に激痛が走り、再びベッドに倒れこんでしまった。
「水木、目が覚めたか」
ゲゲ郎が寝室へ顔をのぞかせた。手には二人分の朝食を持っているようだ。ベッドサイドにそれらを置くと、水木の額に手をあててきた。
「
……
少し熱があるようじゃな」
「誰のせいだよ」
水木はじろりとゲゲ郎を睨みつけたが、彼はそれをまったく意に介さず、にこにこ笑っている。
「朝食にせんか。下のスーパーで買ってきた。冷蔵庫に何も入っておらんかったからな」
「食べたくない」
「味噌汁だけでもどうじゃ」
「いらない」
水木は掛け布団を頭からかぶり、男に背を向けて丸まった。その姿を見て何を思ったのか、ゲゲ郎はベッドの端に座り、掛け布団ごしに背中を撫でてきた。
「ご機嫌斜めじゃなあ。わしは帰るが、朝食はちゃんと食べておくれ。おぬしは昨日も食べておらんじゃろう」
背中をなぞる大きな掌の感触が、嫌でも昨夜のゲゲ郎を思い出させる。優しく、しかし抗えない力で自分を暴き、快楽を叩き込んできたあの手のひらだ。
「水木。
……
わしは、本当に幸せじゃったよ。仕事でなければ、ずっとそばにいたいくらいじゃ」
離れがたいのう、と言いながら布団越しに撫でられ、水木は布団の中で奥歯を噛み締めた。
違う、そうじゃない。見たかったのは、水木に向かって惨めに愛を乞い、無様に腰を振って果てる男が見たかっただけだ。わがままな恋人を優しく甘やかす余裕のある大人など求めていない。水木は布団から顔を出した。ゲゲ郎が心配そうにのぞき込んでくる。
「どこか痛いところはあるか?」
「
……
腰が痛い。尻も」
「そうか、すまんのう」
睨みつけると、ゲゲ郎は申し訳なさそうに眉を下げた。
「おぬしが可愛くて、つい無理をさせてしまった。次はもっと優しくするから許してくれんか」
次があることを前提で話すゲゲ郎に苛立った。
「次なんてあるわけないだろ」
「そんなこと言わんでおくれ」
水木の左目の上にちゅっとキスしたゲゲ郎は、穏やかで甘ったるい笑みを浮かべたまま、じっとこちらを見つめてきた。
「愛しておる。おぬしと恋人同士になれて、本当に嬉しい」
まっすぐな言葉と視線を受け止めることができず、水木は目をそらした。それを照れだと取ったのだろう。男はふっと笑みをもらすと、ベッドから立ち上がった。
「また夜に連絡する」
そう言って名残惜しそうに寝室を出ていった。男がいなくなった部屋で、一人きりになった水木は大きく嘆息した。
(クソ
……
なんなんだよ)
キスされた目に手を当てる。怒りからなのか羞恥心からくるものなのか分からないが、顔が熱い。これは熱のせいだろう。ばふっと布団に倒れこみ、そのまま惰眠を貪っているうちに、昼を過ぎてしまった。さっきよりも少しだけ腰の痛みがマシになったので、そろそろと起き上がる。
台所には、おにぎりとみそ汁、卵焼きが用意されていた。水木の部屋にはフライパンしかないから、卵を焼くのは至難の業だったに違いない。みそ汁を温めなおし、すっかり冷めてしまった卵焼きを先につまみ食いする。少し甘めの味付けは、水木好みの味付けだった。
ゲゲ郎は次第に、水木のマンションに入り浸るようになった。
仕事のわずかな合間にも会いたがり、事務所だろうがスタジオだろうが人目もはばからずに水木を待ち構えるのに辟易したのだ。
「ほら、これ使って勝手に入ってろ。その代わり、俺が帰るまでに飯作って掃除しとけよ」
ぽんと投げ渡した合い鍵を、ゲゲ郎は宝物でももらったように、両手で握りしめていた。
「ありがとう、水木。大事にする」
「なくすなよ」
ゲゲ郎は水木の言葉を真に受け、仕事の合間にせっせとやってきては、本当に掃除やら洗濯やらの家事をしていく。水木が仕事で不在でもマンションに上がり込み、食事を作ってくれていた。映画のあと、仕事がちょっと増えただけの水木と違い、ゲゲ郎はドラマやCMに引っ張りだこである。音子がゲゲ郎のマネージャーを専任することになったのも、他の俳優たちと一緒にスケジュール管理をすることが難しくなってしまったからだ。
本当なら、家へ帰ってゆっくり休みたいだろう。水木のために家事をする暇があるなら、台詞の一つも覚えた方がいいに決まっている。
「水木、おかえり」
仕事を終えてマンションへ帰ると、ゲゲ郎はいつも嬉しそうに笑って出迎えてくれる。その笑顔を見ると、なんだかむず痒いような気持ちになって、水木はついぶっきらぼうな態度を取ってしまう。
「
……
ただいま」
「今日は肉じゃがを作ったんじゃ。おぬしの好きな甘めの味付けにしておいたぞ」
にこにこしながらそう言い、水木のことをぎゅっと抱きしめる。それがおもしろくなくて、ぶっきらぼうに男の体を押し返した。
「悪い、外で食べてきた」
「え
……
あ、そうか。連絡が遅かったな。すまん」
ゲゲ郎は何も悪くない。今日は夕飯を作っておくからと連絡があったのに、水木はそれを無視したのだ。
「よければ、明日食べておくれ」
ゲゲ郎は寂しそうな顔を一瞬見せたものの、すぐに笑顔に戻った。そして、水木に風呂に入るように勧めてきた。今日は暑かったから汗もかいたろう、と。確かにその通りなので、ありがたく入ることにした。疲れが取れるというタブレットを入れてくれた風呂場は、綺麗に磨かれている。
確か今は、ドラマの撮影が佳境に入ったころだ。今ここにいるのだって、相当無理をしているに違いない。
「
……
ふはっ」
思わず笑みがもれた。メディアでその姿を見ない日はないとまで言われる人気俳優が、これほど献身的に尽くしているのが愉快でたまらなかった。ベッドの上では人が変わったように自分を責め立ててくるものの、それ以外の場では常に水木を立て、気遣ってくれる。それにセックス自体もひどいことをされるわけではない。むしろ、ひたすら気持ちが良くて、訳が分からなくなるというだけで、口や手での奉仕を求められたこともない。
今の生活は、実に水木にとって都合がよかった。
風呂から上がると、ゲゲ郎はソファに座り、台本を読み込んでいるようだった。水木が風呂から上がったことに気が付くと、ぱっと顔を輝かせた。
「久しぶりに、一杯やらんか」
「いや、最近胃が少しもたれてるんだ。今日はやめておく」
「それはいかん。酒など飲んでおる場合ではないな」
もっともらしく断ると、ゲゲ郎はしゅんとした顔を見せたものの、こちらを気遣うように笑みを浮かべた。
「もう寝るよ。せっかく来てくれたのに悪いな」
ふああ、とあくびをしながら寝室へ向かう。部屋の明かりもつけず、そのままベッドに入る。すぐにゲゲ郎も寝室へやって来た。ぎし、とベッドが二人分の重みを受けて軋む。水木は気が付かないふりをして、目を閉じていた。
「水木」
甘ったるい声が耳元をくすぐる。指先が頬を撫でる。その声や触れ方だけで、何を求められているのかは嫌というほど分かった。
「やめてくれ。疲れてるんだ」
目を閉じたまま、男の手を払いのけた。しばしの沈黙のあと、ゲゲ郎は自分に言い聞かせるように「もう遅いものな」と呟くと、そのまま少し離れたところにもぐりこんできた。暗闇の中で、ゲゲ郎の申し訳なさそうな、それでいてどこか切なげな吐息をこぼす。水木は寝返りを打ち、男に背を向けた。
(
……
ざまあみろ)
心の内で、毒液のような愉悦がじわりと広がった。あの田中ゲゲ郎がご機嫌をうかがい、指先一つ触れることも許されずに夜の闇に取り残されている。なんて愉快なのだろう。胸がすくような思いで、水木は眠りの淵へと落ちていった。
翌朝、目が覚めるとゲゲ郎の姿はなかった。早朝ロケがあると言っていたことを思い出し、のそのそと起き上がってダイニングテーブルを見る。「おはよう、水木。昨日の肉じゃが、自信作じゃ。温めて食べてくれ」という、丁寧な筆致の置き手紙があった。水木はそれを一瞥し、くしゃりと丸めてゴミ箱へ放り込んだ。
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