わからん
2026-04-01 20:54:26
19233文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】イカロスの目

目を怪我した日車とそんな日車が心配な日下部のくさひぐ
※暴力・グロおよびゴア描写を示唆する表現があります。苦手な方はご注意ください。

 光だ。
 視界を覆い尽くす一面の光、光、光————

 一瞬の出来事だった。
 まるで誰かがこの世界のブレーカーを突然落としてしまったかのように、閃光のあとには、果てしなく続く闇だけが残された。

   × × ×

「これまた面倒……厄介な」と、珍しく驚きを込めた様子で家入が呟いた。「呪力がまったく通らない。呪霊の残した呪力が、反転術式による再生を邪魔しているみたいです」
「そんなことがあり得るのか」
「あり得るんじゃないですか。現に今、日車さんの体内で起こっていることですし」
 前例があったのか問うたつもりだった。しかし家入の話から推測するに、自分が初めての症例ということになるのだろうか——日車はそっと溜息をつき、自身の目蓋に触れた。
 滑らかな感触と、指先から仄かに伝わってくる体温。
 皮膚はすでに再生してある。問題なのはその内側だった。
「当分の間はこのまま過ごさなければならない、ということだな」
「残念ながらそうですね。大元の呪霊は消滅しているので、体内に残留している呪力は徐々に弱まっていくでしょう。私の見立てでは二、三日も経てば反転が効くようになってくると思います」
 いっそ冷淡にも聞こえる家入の口調は日車にとってありがたいものだった。冷静な判断を行うには一度、落ち着かなくてはならない。
「それにしても、よくその状態で呪霊を倒せましたね。見えなくなっていたんでしょう?」
「自爆だ。とどめを刺そうとした瞬間、強い光を発して消滅した」
——自爆?」
 訝しげな声に顔を上げる。何か変なことがあったかと声をかけるよりも早く、もしかしたらと家入の低い声が割り込んだ。
「自分の命を差し出した代わりに爆発の威力を高めたのかもしれません。呪いの力は死によって増幅される……よくある縛りの一種ですよ。反転術式が効かないのもその影響でしょう」
「そうだな。目の前に突然太陽が現れたような、猛烈な熱と光だった」
 家入は頷いたのかもしれない。彼女が自分の言葉にどんなジェスチャーで反応したのか、今の日車には何も見えなかった。
 強烈な光線を至近距離で浴びた両の目は、以来この世界の光を感知せず、日車の視界も無限の闇に閉ざされたままでいる。
「今日のところは入院——ここに泊まってください」
 家入の言葉に日車は頷いた。
「助かる。一人ではまともに歩くこともできない」
「ええ。今日一日は様子を見ましょう」カチリとボールペンをノックし、書類にペン先を走らせる音が聞こえる。「明日になれば京都から乙骨が戻ってきます。日車さんと彼と私、三人で反転を一斉に回せば、術式の妨害もなんとか突破できるかもしれない……正直、どうにもならない可能性のほうが高いですけどね」

 そういえば自分の任務に同行していた補助監督はどうなったのだろう、無事なのだろうか——家入が入院の手続きのため部屋を出ていったあと、日車もまた治療室を後にした。
 頭の中で地図を開き、廊下の壁を探して片手をつく。保健室兼治療室も、補助監督たちの執務室を兼ねている職員室も、どちらも一階に入っている。位置は廊下の両極端。方向を違えず壁に沿って歩いていけば、目が見えていないとはいえ、難なく辿り着けるだろう。
 余った手を無意識のうちに前方へ掲げながら、ゆっくりと足を踏み出した。一歩……また一歩…………左。足裏を擦るように進む日車の足音だけが響く。
 建物内は静かだ。物音ひとつ立たずにしんと静まり返っている。
 視覚が失われ、触覚と聴覚に頼っている部分が大きくならざるを得ない今、不思議な気分だった。呪術高専の仮設校舎は、こんなにも静寂に満ちた場所だっただろうか?
「あれっ、日車?」
 反射的に肩が跳ね、振り向きそうになったのを直前で堪える。これはよく知っている声だ。驚きで開きかけた目蓋を閉じ——修復できていない己の眼球がどうなっているのか(つまりは目も当てられないほど悲惨な状況なのか)判別できなかった——、努めて緩慢な動作で背後を向く。方向感覚が狂わないよう、壁から手は離さなかった。
「その声は虎杖か」
「あっ、そうそう、俺。虎杖」
 安堵して肩の力を抜く。暗闇の中では、相手の反応は音だけでしか伝わってこない。会話の返事、それと相手の同意がいかに安心できる情報であるか、今の状況に置かれるまで日車はまったく意識したことがなかった。否、五感が揃っていたときには、微塵も意識しなかった事柄だろう。
「久しぶり、ってか……目を怪我したって聞いたけど」
 虎杖の言葉に頷いた。「見ての通りだ。呪霊の残した呪力が厄介で、反転が効かなくてな」
「家入さんには診てもらった?」
「ああ。数日もすれば治るだろうと」
 会話において日車がひそかに苦心したのは姿勢だった。聴覚を頼りに顔を向けた先に、虎杖が本当にいるかわからない。かと言って体の向きを戻し、壁に向かって話しかけるのも憚られる。ならばいっそ俯けばいいのか——馬鹿な。普段から彼の目を見て話せないというのに、顔まで逸らすだと。結局、日車はあたりをつけた方向へ首を捻り、正面の暗闇を目蓋越しに見据えるしかなかった。
 そっか、と虎杖が安堵の息をついたのが聞こえた。もう少し左にいるのかもしれない。首を傾ける。
「けど一人で歩いて大丈夫なん? 一緒に行くよ、どこ行こうとしてたの」
 正直なところ虎杖の申し出は助かった。これも普段の自分なら断っていただろうが、思ったよりも暗闇の世界に孤独を感じていたのかもしれない。
「ありがとう。職員室だ。今日の任務のことで補助監督と話したかったんだが——
「え、こんな遅い時間に?」
 壁に触れている手のひらからひやりとした冷たさを感じた。いま触れているこのあたりは確か、ちょうど窓の真向かいで、日中は日差しが当たる場所ではなかったか。
「今は何時だ」
「えっと……夜の……十一時すぎ。俺もさっき寄ってきたけど伊地知さんしかいなかったよ」
 自分が祓呪任務へ出たのは、朝の六時すぎだったはずだ。
 てっきり、今は昼すぎか、遅くても夕方頃だと思っていた。戸惑いの感情が浮き上がってきたが、同時に納得もした。確かにそうだった。日中の呪術高専がこんなに静かであるはずがない。廊下へ出てはじめに覚えた違和感は、やはり間違いではなかったのだ。
 長く黙り込みすぎた自覚はあった。目の前の虎杖が深く息を吸い、えーっと、と場を取りなすように呟く。
「とりあえず家入さんのところに戻ったほうがいいよ。怒られる前に……あ、伏黒」
 廊下の奥、職員室がある方向からひとり分の足音が近づいてくる。音の主は虎杖が呼んだ通り、彼の友人である伏黒だろう。おうと低い声で応じたのが聞こえ、足音が近くで止まった。
「日車さん? 遅い時間にここで何を……怪我したって聞きましたけど」
 彼は虎杖の右隣にいるらしい。声がした方角へ顔を向ける。
「ああ、見ての通り目をやられてな。君たちこそ遅いが、任務帰りか」
「任務というか外で呪そ……あー……」妙に歯切れの悪い返答だった。「……京都からの出張帰りです。京都校に新しい学長が就任したので、それの挨拶で」
「なるほど、就任式か。乙骨も同じ用事か?」
「へっ? 乙骨先輩?」
 素っ頓狂な声を上げたのは虎杖である。彼の声を遮るように、伏黒が「俺らは会いませんでしたけど、たぶんそうだと思います」とどこか慌てた様子で答えた。
 特級案件は東京のみならず、京都校と連携する機会も多い。虎杖と伏黒は特級術師に認定されて日が浅いが、新学長への挨拶は妥当な行いだろう。
 そういえば日下部も、京都へ行く予定があると何日か前に言っていたように思う。おそらくは虎杖たちと同じ用事のはずだが、彼も東京に帰ってきているのだろうか。
「あ、そうだ日車さん」と伏黒が思い出したように言った。「その様子だとたぶん保健室から抜け出してきたんですよね。家入さんをさっき職員室で見かけたので、そろそろ帰ってくると思います。怒られると思うので早めに戻ったほうが……
 忠告は間に合わなかったようだ。彼が話している途中から、パンプスのヒールが床を叩く音が近づいているのを、日車の耳はすでに捉えていた。
——日車さんちょっと、なんで勝手に外へ出てるんですか」
 怒気を帯びた声色に肩が萎縮した。虎杖と伏黒は一応、こちらの擁護を試みてくれたらしい。なぜわかったのかというと、二人がうげっと小さな呻き声を上げたのが聞こえたからだ。彼女に睨まれれば誰も、何事も反論できない。その威圧的な眼光の効果を唯一受けていないのは現状、視界が閉ざされている日車だけであるらしい。
「見えていないのに危ないでしょう。何をしていたんです」
「職員室へ。任務に同行していた補助監督の安否が気になっていたが、今しがた虎杖たちに時刻を教えてもらった。すまない、夜であることにまったく気づかなかった」
 返事がなかった。家入は呆れているのか絶句しているのか、おそらくどちらでもあるのだろうと思う。案の定、大きな溜息が聞こえてきた。
「補助監督はいくつか擦り傷を負っただけです。呪霊から離れた場所で待機していましたから」硬質な足音が日車の正面から隣へ移動する。「戻って寝ましょう。手を私の肩にのせます。触りますよ」
「ああ——
「目を閉じているのは痛みや違和感があるからですか」
「いいや。怪我をしているのなら虎杖たちに見せないほうがいいだろうと」
「眼球自体に外傷は見受けられません。呪霊の呪力が混ざっている影響か、黒目全体が変色していますが、その程度です」
「日車の目は治る……治りますか?」
「数日待てばいつかは」
 虎杖の質問に家入は素っ気なく答えながら、壁に触れていないほうの日車の手を掴み、自身の肩にのせた。手のひらにじんわりとした熱が伝わってくる。
「日車さん。今も視界に変化はありませんよね」
 促されるがままに目蓋を押し上げ、周囲を見渡そうとしたが、すぐに無駄だと気づいた。黒一色の視界にはものの輪郭も、朧げな光も、何も存在し得ない。
「残念ながら変わりないようだ」
「目玉自体は動くんですね」伏黒が呟いた。「動かしている感覚はあるんですか」
「ないな。君たちにきちんと目を向けられているかも自信がない」
「もう少し右」と虎杖が言った。「で、もうちょい下……行きすぎた、少し戻って……そこそこ、そう、そのまま」
 へへっ、と微かな笑い声を耳が拾う。嬉しそうにも聞こえるが、己の目が虎杖へと正しく向けられている、と考えていいのだろうか。目の乾燥を覚えて瞬きを繰り返す。不意に柔らかいものを叩くような、軽い音が前方から上がった。
「いてっ」
「何やってんだ、日車さんを困らせるな」
 伏黒が虎杖を叩いた音だったようだ——固定していた視線は、その音に驚いて明後日の方角へと向けてしまい、元の場所へは戻れない。諦めて目を瞑ると、隣に立っている家入が息を吸った。
「ほら、いい加減に帰った帰った。早くしないと蹴り出すぞ、私と日車さんが眠れないだろ」
「すみませんでした。失礼します……行くぞ虎杖」
「お疲れさまっしたー」
 ふたり分の足音が遠ざかりかけ、不意に立ち止まった。
「日車さん」
 伏黒の声だ。
「治ります、絶対に。家入さんが治るって言ってるなら、必ず治ります」
「家入さんの反転で治せないものはないから。お大事に、日車」
 今度こそ足音が遠ざかっていき、周囲に反響しながらもやがて途絶えた。
 家入がゆっくりとした足取りで歩き始める。日車も彼女について歩き、扉の開く音が聞こえるとともに消毒液のにおいが鼻を掠めた。保健室に戻ってきたのだと直感的に理解する。
 ベッドに辿り着いた。手のひらでシーツの感触を確かめながら横たわると、体の上に毛布をかけられる。
「両手を上げてください」
 言われたままに天井へ向けて腕を持ち上げると、両の手のひらに柔らかな布の感触を覚えた。
 家入から手渡されたそれを胸の上に置いて撫でてみる。やや縦に長い球形で、軽く押してみると弱いながらも弾力がある。その球体には四箇所、手足と思しき出っ張りがついていた。然るに、これはぬいぐるみである。
「夜蛾元学長の自宅から発見された呪骸です」
 首を傾げる日車に対して、家入が淡々とした声で説明を始めた。「呪骸はもうご存知ですよね。これはパンダのような完全自立型ではなく、外部から供給された呪力によってのみ動くものです」
「ああ。以前、別の個体を見たことがある」
「その呪骸にはここの地図がインプットされています。困ったことがあれば呪力を流して要件を言ってください。水が飲みたいとか、トイレに行きたいとか……もっとも、食事と排泄に関しては、日車さんが眠っている間に蟲を入れておいたので問題ないと思います」
 そうだろうと目覚めた瞬間から思っていた。気にしていないという気持ちも込めて頷く。
「私と連絡したいときもこいつに言ってください。アラートがこっちのスマホにすぐ飛んできますから……申し訳ないですが私も仮眠を取ります。しばらく寝てないんです」
 彼女が「しばらく寝てない」と言うときは大抵、一日以上の徹夜を敢行している。人手不足という呪術界の慢性的な課題を、反転術式を他者に施せるからという理由で一身に背負っている人物である。寝られるときに寝かせてやるべきだ。家入の目元にはきっと、いつもより濃い隈が浮かんでいるに違いない。
「承知した。遅くまですまなかった」
「気にしないでください。——では、お疲れさまです」
 周囲のカーテンが閉められる。パンプスの足音が遠ざかっていくのを聞きながら日車は目を閉じた。この状況で眠れるだろうかと疑っていたが、この異常事態に対して脳が消耗しきっていたらしい。手のひらで呪骸の柔らかな表面を撫でているうちに、いつしか眠りの世界へと落ちていった。

 光。
 強烈な——強烈すぎるあまり、眩しさすら知覚できなかったほどの、白一色。
 それと熱があった。こちらの感覚はよく覚えていない。ただ、表皮を焦がされたようなにおいを、気を失う直前に嗅いだ覚えがある。あれほどの光を発したのなら、光の発生源もまた相当な高温に達していただろう。
 いずれにせよ痛みはなかったのだ。
 光と熱。その知覚を最後に、日車の視界は暗闇に奪われてしまった。
 要するにこれは夢なのだと思う。おそらくは脳が混乱しきっているのだ。あることないこと、日車の脳が思い浮かぶ限りのあらゆる事物、事実や物語あるいは知らぬ間に捏造された記憶が、歪な様相を呈した数珠繋ぎとなってひと塊に連鎖していく。
 今朝祓った呪霊が目の前にいた。巨大な赤紫色の肉塊のような見た目をしたそれは、二級相当と推定されていたが、こちらの実力を鑑みれば易々と祓えていたはずだった。実際、日車は呪霊を圧倒した。一方的に殴り、叩きつけ、吹き飛ばし、戦闘開始からものの数分でとどめを刺せるはずだった。日車が巨大化させたガベルを大きく振り抜いた瞬間、呪霊は決死の反撃に出て、己の命と引き換えに日車の視力を奪っていったのだった。
 油断していた? それには否と答える。油断などしていなかった。呪霊が体内から微かな光を発したのが見えた瞬間から、領域展延を利用した防御の準備は整っていた。
 なのに防ぎきれなかった。
 防御に失敗したのか? あり得ない。だが、そうとしか考えられなかった。現に日車の反転術式は体の一部に対して封じられている。家入も珍しいと言っていた。爆発において設けられた縛りがよほど強力なものだったか、呪霊の放った呪力が未知の属性を帯びていた可能性は充分に考えられる。何せ呪力が生み出される仕組み、呪霊の成り立ちそのものはブラックボックスに等しい……
 夢の中の呪霊は巨大な口を開き、日車と周囲の瓦礫をひと息に飲み込んだ。
 飲み込まれ、落ちた先には暗闇が広がっていた。硬い地面の上に落下し、呻きながら周囲を這いずり回る。足は落下した衝撃で折れていた。反転術式も目も使えない今、暗闇の中で闇雲にあがくことしかできない。どこからか虎杖と伏黒と家入の声が聞こえた。その声を目指して進むも、声の正体は人の声を真似た呪霊なのだった。肉塊の呪霊が体の上へのしかかり、両腕を捻り上げてガベルを取り上げようとしてくる。これを奪われたら自分は死んでしまう! 不意に込み上げてきた強い恐怖心から、日車は全身全霊で抵抗した。互いの筋力は拮抗していたが、やがて呪霊の体が燐光を帯び、それは瞬く間に橙色、赤褐色の巨大な光球へと変化していく。
 全身へ突き刺さる猛烈な熱風に、日車は悲鳴を上げた。至近距離で浴びた熱光線によって四肢が炎に包まれ、肉の焦げる不快なにおいが鼻腔を満たした。想像を絶する激痛に理性は呆気なく打ち砕かれる。やがて皮膚が剥がれ、骨が溶けていき、意識そのものも光の中に霧散して、あとにはただ虚無だけが——

 ひゅうっと喉が音を立て、その音に驚いて目を開けるとともに、日車はひどい息苦しさを覚えて胸元を強く押さえ込んだ。
 耳元で心臓がどくどくと脈打っていた。乱れた呼吸を整えようとするも、動揺しているせいでうまくいかない。深呼吸を繰り返し、目を閉じては開けることを繰り返しているうちに、視界の変化に気がついた。
 黒一色だった景色の中に、白が混ざっている。
 無数の白く細い線だ。それは煙のようにたなびき、流動的に太さを変えながら絡まり合って、何かの輪郭を形取っているようにも見える。一本一本の線を辿り、頭の中で組み立てていくうちに、それが人の姿であることに気がついた。
 ベッドのそばに誰かが立っていた。
 それは無言で日車を見下ろし、悪夢に魘され取り乱している日車を見ても、なんの反応も寄越さない。幽霊のようにじっと観察されている。
「家入か」
 当てずっぽうで言った自覚はある。
 人影はおそらく男だった。案の定、何の反応も寄越してこない。
 こめかみの上を汗が滑り落ちていった。息苦しさに唾を飲み込み、再び口を開く。
「虎杖?」
 これも間違いだ。彼はここまで静かじゃない。
 目を凝らし、不定形に揺れ続ける白い線の形を見極めようと試みる。大柄な人影に思い当たる人物の名前はすぐに思い浮かんだが、なぜ彼がここにいるのだろうか。自分はまだ夢の続きにいるのか?
……日下部」
 人影は一切の反応を見せない。
 諦めて視線を逸らし——人影以外に白い線は見つけられなかった——、そこでようやく、胸元に抱えていたはずの呪骸がなくなっていることに気がついた。
「家入から預かっていた呪骸がない」
 声に出して人影へ言ってみた。
「君の近くに落ちていないか。嫌な夢を見てしまったから、少し歩きたいんだ」
 何がしかの反応を寄越してくれないかと淡い期待を抱いてはいたが、まさか本当に動いてくれるとは思ってもみなかった。人影が動き、日車の肩を指先でそっと押す。それから手のひらで触れてきた。手は日車の腕を辿り、指先を掴む。弱い力で引かれ、彼の言わんとしていることを理解した。
 体を起こしてベッドの端に腰掛けると、手を離した人影は日車の足元にしゃがみ込み、裸足の上に何かを履かせてくれた。感触からしてスリッパだろうか。冷気が日車の足首を撫で、腕や背中にうすく鳥肌が立ったのを感じる。
 影が立ち上がるのを待って日車は右手を掲げた。日車の要望通り、影は手を掴んでやや強い力で引く。人影に導かれるまま部屋を後にした。
 今はまだ夜だろう。虎杖や伏黒と会ったときと全く同じ静けさが、仮設校舎の廊下をひっそりと支配し、日車と前を行く男の足音だけが周囲に響いていた。
 それに、と日車は心の中で付け足す。彼は間違いなく日下部だ。胼胝たこが目立つ硬い手のひら、自分よりも高い体温——何度も触れた手なのだから、触れればすぐにわかる。しかし、なぜ彼はこうも黙ったままなのか。何か話しかけたいが、こちらを振り向く素振りのない後ろ姿は、会話を拒絶しているようにも感じられた。
 なのに歩く速度はこちらに合わせて遅く、気を遣われているのが気配でわかる。
 この状況は謎だらけだ。なぜ日下部は深夜の呪術高専にいるのか? 日車が目覚めたとき、なぜ無言でこちらを見続けていたのか? 今の彼は何を考え、どこへ行こうとしているのだろう?
 部屋の位置はあらかた記憶していたので、日下部がどの角を曲がったのかは正確に把握できた。本校舎を出てすのこが敷かれた渡り廊下を歩き、別棟に進んだ先で再び角を曲がる。横開きの扉が軋んだ音を立てながら引かれた。
 職員や補助監督のために設えられた休憩室だ。
 部屋へ入ってすぐ右手に自動販売機が置いてある。日下部はその前で立ち止まり、日車の手を離した。
「なに飲む?」
 地を這うように低い声だった。
 日車の予想通り、彼はひどく機嫌を損ねている。
……蟲を飲んだから必要な、」
「なに飲むの」
 有無を言わさぬ声色に肩が跳ね上がる。機嫌を損ねているどころではない。日車が今まで聞いたこともないほど、日下部の声は怒りの響きに満ちている。
「ブラックコーヒー……
「お前ふざけてんのか」と日下部が吐き捨て、自販機に小銭を入れた。「怪我人がカフェインなんか摂取すんなよ、ばか」
 ピッピッと機械音が鳴り響く。日下部が自販機を操作している動きは見えるが、肝心の機械自体は今の目では見えない——要するに、逃避のために彼以外の事物へ意識を向けようとしたが、あえなく失敗した。
 彼からこれほど直球に、しかも一方的に詰られたのは初めてだ。覚醒してから感じていた困惑がいよいよ高まっていき、顔が歪むのを感じて日車は俯いた。
 ごとんと重い音が聞こえる。日下部が買った飲料をテーブルの上に置いたのだろう。その音もいやに大きく鼓膜を震わせ、日車はますます首を曲げて下を向いた。
「悪い」
 前方から聞こえてきた声は、先ほどのそれから一転して弱々しい。
「ごめん、どうかしてた」
 彼は自販機の前から移動していた。テーブルに——無論、それ自体は見えないが——手をつき項垂れている。
「本当に駄目だ。なんで怒鳴ったんだろ、俺……
 衝動的に動いていた。後先考えずに足を踏み出した直後、左足の先が硬いものに引っかかる。あっと思う間もなかった。体が傾き、転ぶと思った瞬間、咄嗟に伸びてきた日下部の腕が体を支えてくれていた。
 我ながら呑気なことに、ずいぶんと薄着だなという感想が第一に浮かんだ。まだ肌寒い季節なのに、いつものトレンチコートもジャケットも着ていない。薄いシャツ越しに彼の体温が直に伝わってきた。離れがたいと思い、次いで離れるべきだろうかと考える。相反した感情であることは理解していた。日下部も、そして日車自身も、気が動転している。
「怪我は?」
 耳元で囁かれた言葉に、首を横に振る。「すまない。俺は何に引っかかった」
「椅子だ。椅子の脚……
 背中へ回された腕に力がこめられる。体の自由がまったくきかないのに、拘束は痛くはなかった。できることは限られていた。腕を上げて日下部の背中に触れる。彼は身じろぎ、首筋に鼻を強く押しつけてきた。
「さっきはごめん。ひどいこと言った」
「大丈夫だ、もう気にしていない」
……本当に見えてねえんだな」
「ああ、寝る前は何も。今は少しだけ見える」
「少し?」
「見え方が普通じゃないんだ。君の……輪郭が、白く浮かび上がっている。他には何も見えない」
 日下部は黙り込み、日車の耳元で息を吸った。
——呪力だ」
「呪力?」
「今のお前には呪力が見えてる」
 これ以上に妥当な説明はないと思った。煙やオーラのように、彼の体からたちのぼって見えるものの正体は、まさに呪力以外にあり得ない。視界を奪われた日車の目には呪霊の呪力が混ざっている。だとすればこの視界は、呪霊が見ている世界に近いと考えることもできるのかもしれない。
「そうか。なるほど、確かに」
「なるほどじゃねえよ……
 咎めてくる声は弱々しい。生温かい吐息が首や鎖骨の上を撫で、くすぐったさに日車は身じろいだ。日下部が首を傾け、こちらに顔を向けている気配を感じる。
「輪郭だけが見えるって、どんな感じなの」
 日車もまた日下部の顔を見ようとする。頬に当たっているのは日下部の首筋か頬か、そのどちらかなのだろう。輪郭が見えているとはいえども、やはり線だけではものの認識に差し障りがある。
「まず……君の体は見えていても、自分の体は見えない」
「そうなの?」
 右腕を上げ、日下部の背中越しに手を覗き込もうとしたが、やはり目の前に広がっているのは暗闇ばかりである。呪力が見えているという日下部の話を思い出し、手元に呪力を集めてみる。するとわずかながら、青白く細い線で描かれた自分の指先が見えた。
「呪力を集めれば見ることができる。ただ、常に意識しなければ無理だな」
「服とか顔の見え方は?」
 唸りながら腕を下げる。回答に困っているというのが正直なところだ。両腕で日下部の背中を上下にさすりながら考えていると、彼の背中が小刻みに震えた。笑っているのだろうか、あるいは意図せずくすぐってしまったか? 腕の動きを止めてじっと思索する。
「服はよくわからない、輪郭そのものがぼやけているから。……顔は……
 日車を抱きしめる腕の力が緩み、熱が首筋から離れていく。
 目の前には日下部の顔があるはずだった。白い線に縁取られた線の内側は、のっぺらぼうのように黒く塗りつぶされている。
——何も見えない」
 しかし、そこにあるのだ。自分の目が捉えていないだけで、本当は。
 日車は手を差し出し、輪郭の内側に左右から触れた。頬骨のなだらかな凹凸らしきものを手のひらが捉える。
「直接触らなければ、何がどこにあるかわからない」
 日下部はされるがまま、無反応かつ無抵抗に佇んでいる。それを肯定的に解釈し、日車は手のひらを移動させた。
 頬の柔らかさ、弾力、その下にある骨を感じられる皮膚の薄さ、血液が流れているがゆえの温かさ。手のひらを緩く押しつけては離し、指の腹でさすりながら、五指のすべてで皮膚の上を探索する。
 彼が目蓋を閉じた、と感じたのは中指の先が睫毛を掠めたからだが、睫毛だと認識したときにはそのまま、目蓋のなだらかな膨らみをそっとなぞっていた。滑らかな感触は自分のそれとさほど変わりがないように思える。彼と自分は同じ生物であり、同じもので構成されている。だが別個とした存在なのだ。
 目蓋の下で目玉が動いていた。その丸みから額へと手を動かし、眉間に皺が寄っていることに気づく。普段から気難しい顔をしているのだから癖になっているのかもしれない、と人差し指の先でその本数を数え、その数が常よりも多く、そして細かく震えていることを認識した。
……日下部?」
 返事がない。
 眉間から目蓋へと指を戻す。周囲の筋肉は強張り、睫毛の先が濡れていた——自らの触覚を疑ったのは、これが初めてだった。
「日下部、どうした」
 戸惑いながら頬をさする。目の前の彼は依然として黙り込んでいた。何も見えないために状況を把握しきれない戸惑いは、徐々に不安へと移り変わっていく。
「どうした? 君は何を考えている? 教えて——
 彼が微かに息を吐いた。その息遣いもまた乱れ、日車にそれを悟られまいと懸命に堪えているのがわかる。親指を口元へ移動させると固く結ばれた唇の端は痙攣しており、それを理解すると同時に、日下部の目尻から零れ落ちた雫が手のひらを濡らした。
 今の自分に何ができるかは限られている。元々、目が見えているときですら限られていたのだから、いま残されている選択肢も必然的に狭まっていた。
 両腕を日下部の背中に回す。すぐに耳元から押し殺した嗚咽が聞こえてきた。抱きしめ返してきた腕の力は弱々しく、先ほどとはまるで立場が逆転している。目の前の白い線は呼吸とともにいくつもの弦に乱れ、小刻みに震え続けていた。
「お前の目……
 裏返り、震えた声で日下部が言った。
「今のあんたの目、呪力のせいで青くなってる。五条みてえに」
——青?」
 家入は変色と言い表していたが、そこまで顕著な変化だとは思ってもいなかった。虎杖と伏黒も日車の目を見て大した反応をしていなかったはずだ。
「空みてえで綺麗だって思っちまったんだよ……なのに何も見えてねえって」
 なんだよそれ、と掠れた声が吐き出されるのを、日車の耳は拾った。
 悪夢で目覚めてから今に至るまでずっと、日下部はどんな表情で自分のことを見ていたのだろう。どんな思いで自分と会話していたのだろう……考えだせばきりがない。
 自分がどれほど無神経に振る舞い、日下部の心を傷つけていたのか。
 濡れていた目蓋や頬、震え続けていた眉間と唇の感触が、今も手のひらにはっきりと残っている。何かしてやりたいが何もできず、腕に一層の力を込めて抱きしめることしかできなかった。応じるように日車の背中へ回された腕にも力が入ったが、それは普段の日下部からは想像もつかない、ごく小さな変化に過ぎない。
「俺は平気だ。心配をかけてすまない」
「なんで平気なの」
 言葉の意図を掴めず返答に詰まる。日下部は洟を啜り、なんでなのと繰り返した。
「俺だったら怖いよ。辛いし不安だし、あんな暗くて寒い場所に一人で寝たくねえ」
 家入との連絡手段があった、と言うのは誠実な回答ではないように思われた。呪骸の存在も同様だ。
 日下部の言葉は理解が難しかった。怖い、辛い、不安だといった感情を、今回の怪我で日車が抱えたことは一度もなかったからだ。
 なぜ恐怖を覚える必要があるのか? 怪我は治ると家入が保証してくれている。時期は不明でも、いずれ反転が効くようになると診断されたのだ。ならば自分がすべきことは彼女の判断を信じ、療養に努めることではないのか。
……悪い」
 沈黙をどう捉えたのか日下部が呟いた。
 口を開いたものの言葉が出ず、首を横に振る。静寂が部屋を満たし、物音ひとつ立てられないまま、日車は日下部の体を抱く腕にまた力をこめた。
 触れ合った部分から相手の体温が伝わってくる。日下部の体温は自分よりも高い。日車の平熱が低すぎるのだと彼はいつもぼやいているが、自分の平熱を抜きにしても彼の体は温かかった。この瞬間、この場所でなければ、抱擁は自分にとって喜ばしいものだっただろう。日車は目を閉じ、日下部の首筋に頬を押しつけてから再び目を開いた。
 天の河のようだった。
 呪力は粒子の形などしてはいないが——それは確かに、光の集合体である。
 そして太陽ほど強く輝くものではなく、かといって月のように強力な光を反射して鈍く光る幽玄な明かりでもない。
 自ら青く燃え上がり、時に黒い閃光をも放つ奇妙なエネルギーと、それらを生み出し操る呪術師の肉体。外なるものの呪力に冒された今、日車の目は呪力のみを知覚し、呪力によってこの世界を解釈し、区別する。ヒトのように個人の顔や姿形を判別することは決してない。呪力の有無——光と闇、そして線と面だけが、この偽物の宇宙のすべてだった。
 日下部の体は淡い光を纏っている。間近で観察するとそれはある一定の動きを持っていた。血管が血液を全身へ巡らせるように、呪力は滞留せず表皮で動き続けていると同時に、外へ向けて少しずつ拡散されていく。これは血管にない流れだろう。呪力は所有者の内部で生産され、所有者の体内を絶えず循環するとともに、少しずつ外部へ漏れて失われていくのである。ならば、血管や宇宙として例えるよりも、呪力はもっと遍満的なもの、たとえば霧のようなものだと解釈することもできる。
 この霧は燃える。青く黒く、炎を発しながらもその温度は非常に低い。のみならず呪霊という命すら生み落とすことのできる霧は、彼らを葬るため呪術師たちが利用し、これを介して生と死を自在に操っていく。
(美しい)
 白い輪郭を取った日下部の体とその線からたちのぼる呪力は、目に怪我を負い、かつ呪霊の呪力が混ざらなければ経験することのない光景だっただろう。日車の負傷を嘆く日下部と、怪我による経験を尊重している日車とでは、根本的なところで考え方が相容れない。
 君の呪力が綺麗だと素直な感想を口にすれば、日下部はますます傷つくだろう。今の日車に見えている世界と、日下部が見ている世界は異なっているからだ。
 そうか、今の俺は呪術師のみならず、ヒトの世界からも疎外された存在なのか——ふと、その考えが頭をよぎった瞬間に、足元にぽっかりと穴が開いたような錯覚に陥る。
 真っ逆さまに転がり落ちて、堕ちきり、真の暗闇に身を包まれたとき、自分に残されるものとは何だろう。
 考えたとき、己の腕の中にあるこの温もりこそが、唯一なのではなかろうか。
「なあ、日下部」
 数秒の間黙ったのちに、なに、と鼻声で応えがあった。
 彼が日車を通して抱えている恐怖の正体は、自分が理解できないものである。
 だが寄り添うことはできるはずだった。それが、今の自分が取れうる最も誠実な態度なのだと思う。
 日下部のことがまるで迷子の子どものように見えた。彼のためなら何でもしてやりたい。弱りきっている彼に必要なものなら、何だって与えてやれる。
「朝までそばにいてくれないか」
 線だけの世界では距離感を掴みにくい。傾けられた顔にゆっくりと近づき、囁く。
「悪夢を見た。このまま眠るのはいやだから……
 とても長く感じられた数秒間だった。静寂ののちに日下部がみじろぎ、自由になった手で頬を包んでくる。
「目、閉じて」
 言われるがままに目蓋を下ろす。鼻先に吐息を感じ、目蓋の上に温かく柔らかなものが触れた。それは右の目蓋に長く触れたあと、左にも長い時間をかけて触れ、名残惜しそうに離れていった。
 目蓋を開いた先には日下部の顔がある。見えなくても、触れなくてもわかった。彼はもう涙を流しておらず、日車を見下ろし微笑んでいた。

 ……頭上から声量を押し殺した話し声が聞こえる。
「だからってこんな場所で……風邪とか……
「悪い。けど仕方ないってか……悪夢を見たとかで……これくらいなら大丈——
——こんな硬いところで寝て、大丈夫なわけなくないですか?」
 家入の声だ。明らかに怒っている。何があったのだろう?
 身じろぐとどうやら自分は横たわっており、頭の上から何かを被せられていることに気づいた。布越しに大きな手のひらが頭を撫でてくる。起きるな、まだ寝ていろと言われているように思えて、彼の言う通りにしようと起きかけたのをやめた。
 手のひらは頭から背中の上を何度か往復し、撫でるのをやめても頭の上に留まっていた。その重みと温もりは邪魔ではなく、寧ろ安心する。
 家入の溜息が頭上から聞こえてきた。
「起きたらこっちに連れてきてください」
「了解」
 コツコツと甲高い足音が遠ざかっていく。頭上の手は再び頭を撫で始めていた。それに促されるように、日車の意識は再び夢の世界へと落ちていった。
 どれくらい二度寝していたのだろうか。次に目を覚ましたとき、日車の脳は今の状況を正確に把握していた。
 ここは別棟の休憩室だ。長椅子の上に自分は横たわっており、頭に被せられているのはおそらく毛布かブランケットで、頬の下に感じる温もりは膝ではなかろうか。となれば、頭を撫でている手の主は——
 のそりと起き上がり、頭に被ったままの毛布を掴んで引く。
 はじめに感じたのは光だった。窓を見やれば橙色の朝日が差し込み、休憩室の壁を明るく照らしている。
 色鮮やかな世界を、光によって浮き上がったテーブルやガラスや自販機などの質感を、たっぷりと時間をかけて見つめる。
 それらは普段から見慣れているもののはずなのに、何年も目にしていなかった景色のように思えた。
 テーブルの上にはレモネードの缶が置かれていた。一晩置いて冷えてしまっているだろうが、あれは自分のために買われたものだと確信する。
 最後に正面へ顔を戻した。
 日下部が喜びを隠せない様子で微笑んでいる。
「おはよう。目の調子は?」
「君が見える」日車は即座に答えた。「まだ幾分かぼやけているが、君が笑っているのが見える」

「無事に治りそうでよかったです」と、いつも通り淡々とした声色で家入が言った。「反転がまだ完全に効かない、というのが心残りですが」
「いずれ完全に回せるようになるだろう。一晩で見える程度には回復したんだ」
「仰るとおりです。あと数日経てば、反転も完全に効くと思います」
 日車は頷き、眼鏡のブリッジを摘んで押し上げた。
 即席で手配してもらったものだが、よくできている。眼鏡をかけていれば当分のあいだ生活に支障は出ない。ただ、仕事でつけるわけにもいかないので、祓呪任務はもう少し休まなければならなかった。いずれにせよ怪我が快方へ向かったのは良いことだ——視界の隅に映る眼鏡の黒縁が、やや鬱陶しく感じられることを除けば、だが。
「礼を言う。世話になったな、家入」
「どうも。お礼は日下部さんにも言ってください、一番頑張ったのは私ではなくあっちなので」
 言い方が妙に引っかかった。彼女は寧ろ、自分を入院用のベッドで寝かせなかった日下部を責めていたはずだ。
 日車の訝しげな様子を見た家入も、どこかばつが悪そうな表情を浮かべている。座っていた事務椅子を無意味に一回転させると、溜息をついて姿勢を崩しながら足を組んだ。
「これ、日下部さんから言うなって口止めされてるんですけど、私側のメリットが何ひとつないので言っちゃっていいですか」
「それは……俺には判断できないことだが——
「じゃあ言います」日車の意見をばっさり切り捨て、家入は肘置きの上で肘をついた。「昨日の夜遅くまでずっと外で戦ってたんです、日下部さん」
 驚きに目を見開く。今までまったく知らなかったし、日下部もそんな素振りを見せなかった。
「緊急の仕事か?」
「そうとも言えますし、そうでもないと言えます」
 家入は斜め下の床を見つめながら話を続けた。
「昨日の夜、京都からの帰りだっていう虎杖と伏黒に会いましたよね。それと乙骨も東京にいないと私が言った記憶があります。つまり、特級術師全員が京都校の学長就任式へ出席するため、うちから出払おうとしていた。——日車さん、これが意味するところは? ?」
 嫌な予感がした。鼻のサイズが合っておらず、ずり下がってきた眼鏡を押し上げる。
「呪詛師たちだ。うちの戦力が手薄になる」
「だとしても、こっちには次なる特級候補である日車さんが控えていました。加えて、日車さんの術式は対人特化もの。並大抵の呪詛師が張り合える相手ではありません。そこで連中の一人が、術式か何かで上級呪霊を調教し、うちに送り込んできたんです」
 ——光。
 視界を多い尽くす一面の光。
 強烈すぎるあまり、眩しさすら知覚できなかったほどの白一色。
 それと猛烈な熱——。事の次第を理解した日車は息を呑んだ。
「俺の怪我は仕組まれていたのか?」
「推測する限り、おそらくは」
 家入の返答に深呼吸を繰り返す。もっとうまく立ち回れたのではという後悔が、またしても込み上げてきていた。過ぎたことだと言い聞かせても、自身を責める言葉は胸の内から無限に湧いて溢れ出ようとする。
……呪霊が爆発した瞬間、ちょうど現場の近くを日下部さんが移動中でした」家入が話を再開した。「怪我したあなたを抱えて私の元へ運んできたのも日下部さんです。二人ともひどい怪我でしたよ。重い火傷を負って……特にあなたは反転を回していましたが、名前を言われたところで判別なんてとても……
「日下部も怪我を?」
 思わず話を遮って問いただした。先ほど、帰宅の準備をすると言って別れてきた日下部からは、そんな素振りなど微塵も見て取れなかったのだ。
 家入はじっと黙り込んだあと、頷いた。
「現場であなたの体は激しく燃えていたそうです。それを消火して運んできたために、体の前面と両腕に大火傷を負っていました。とはいえ怪我はすぐに治ったので、その後はうちを襲撃してきた呪詛師たちの撃退に」
 顔を上げて日車を見た家入の瞳には、同情の色が浮かんでいた。無理もないことだと他人事のように思う。だが、日下部との約束を破って全てを教えてくれた彼女には、感謝せねばならない。
 そういえばと昨晩の記憶を手繰り寄せる。校舎内で会った虎杖と伏黒に乙骨のことを尋ねたとき、二人とも妙に慌てていなかっただろうか。おそらくは彼らも京都になど行っておらず——実際は襲撃の知らせを受けて途中で引き返してきたのだろうが、嘘をついていたのだ。家入と同じく日下部から口止めされていたのだろう。日車が真実を知れば、自責の念に苛まれると見越していたのだ。
 最後に、悪夢を見て目が覚めた直後のことを思い出した。
 目の前でゆらめく線と光。それは人形のように物言わず、日車を静かに見下ろし、微動だにしなかった。
「あまり日下部さんを責めないでやってください」
 家入が静かな声で言った。「今回の怪我は日車さんひとりの過失ではありません。特級術師全員を京都へ送れと命令してきた総監部と京都校が悪いんです。特級術師を京都へ呼ぶことで、自分たちの権力を誇示したかっただけのボケ……能無しどもが」
「悪口を隠しきれていないようだが」
 日車が渋々指摘するも、家入は鼻で笑い飛ばしただけだった。
「言い出したのは旧御三家の分家どもでしょう。楽巌寺元学長が総監部での権力をいち早く掌握しないのが悪いんです」それに、と小馬鹿にした口調で続ける。「うちもうちですよ。トップをいつまでも欠いたままじゃ、特級術師を何人抱えていようが、向こうの意見を数に任せて押し切られる」
「総監部の人間が代理で就任する噂を聞いたが」
「あんなの却下ですよ却下。総監部の傀儡なんかにされたらたまったものじゃない」
 彼女の言葉には日車も概ね同意見だった。
「これは呪術界全体の問題です。京都校もうちも総監部も、特級術師たちも日車さんも日下部さんも、もちろん私も、呪術界に関わる全員のね」話しながら家入が椅子を回して背中を向ける。「まずはうちのトップが早く決まればいいんですけど。この仮設校舎にもそろそろうんざりしてきたし、けど予算が下りないらしいし、この際なので日下部さんを説得してくれません? あの人と一番仲が良いの、日車さんでしょう?」
 彼女は振り返って体半分をこちらへ向け、にやりと笑って、診察はこれで終わりだというようにひらひらと手を振った。
「半分は冗談ですよ、お大事に。日下部さんによろしく伝えておいてください——もちろん、お礼を言うことも忘れずに」

「よっ。お疲れさん、伊達男」
「誰が伊達男だ」
 溜息をつきながら助手席に乗り込んでドアを閉める。その拍子にずり落ちた眼鏡の位置を直し、再び溜息をついた。
「頻繁に落ちてくる。鼻のサイズが合っていないんだ」
「間に合わせだからしゃあないわな、何日かすれば視力が戻って外せるんだろ?」
「ああ。少しの辛抱だが」言葉を切って考えたのちに付け足す。「君も夜通し働いていたんだろう? 疲れているだろうに、運転までさせて申し訳ない」
「いいって。どのみち、今の目じゃ運転なんてできないだろ。安心して任せとけ」
——ありがとう」
「どういたしまして」
 車のエンジンがかかる。日下部がカーナビを操作し、スピーカーからローカルラジオが流れ始めた。人々が活動し始める朝の時間帯で流れるに相応しく、ニュースや天気予報、星座占いなどを毎日流している番組だ。日下部が毎朝好んで聞いている番組でもある。
 コートを脱ぎ、シートベルトを締めながら横目で日下部の様子を窺う。彼の横顔はいつも通りだ。寝不足による目元の隈がやや目立つが、それ以外に変わった点はない。夜を徹して何人、ともすれば何十人もの呪詛師を斬り殺し、日車の身を案じて涙を流した男と同一人物だとは、にわかに信じがたかった。
 彼は感情の切り替えがうまい。裏を返せば、本心を隠し通す達人ともいえる。
 ——日下部も怪我を?
 ——現場であなたの体は激しく燃えていたそうです。それを消火して運んできたために、体の前面と両腕に大火傷を負っていました——
 ワイシャツの袖をまくった日下部の前腕、そしてネクタイを外して寛げた襟元から覗く鎖骨には、火傷の痕跡などまったく見当たらない。当然だ。家入による反転術式の精度の高さは自分のそれと段違いに高い。日下部自身も大火傷を負ったことなど忘れて、呪詛師からの防衛戦へ即座に舞い戻ったのだろう。
 それらの出来事をおくびにも出さない日下部の信条は、頼もしく思えど、もどかしい。日車から話を切り出したならば、適当にあしらわれて終わってしまうのは明白だった。
 言葉だけで足りないのなら行動で伝えたい。彼に対する感謝や労りをどうやって伝えられるだろう?
 考えていた日車の口元に思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
 これでは昨晩とまったく同じだ。日下部に対してはおのずと多くの選択肢を削ってしまう。向き合うことに及び腰になってしまうのは、自分の悪い癖だ。
 彼に何をすれば喜んでくれるだろうという難問は、一度棚へ上げておく。というよりも、諦めた。放置だ。
 自分が何をしたいか、何を差し出して与えたいかは、とうに決まっている。
 嵌めたばかりのシートベルトを外した。気づいた日下部が顔を向けてくる。
「あれ、どうしたの——
 身を乗り出したまではよかったが、途端にカチッと小さな音が立ち、日車の顔が止まった——日下部の顔に唇を押し付ける直前で。
 音の出所は眼鏡のようだった。レンズが日下部の鼻に当たり、そのまま眼鏡全体が持ち上げられたので、ノーズパッドの部分が動いて金具と擦れた……ラジオでアナウンサーが星座占いの結果を伝えている……そんな些事などは今、どうでもよく。思惑が外れた混乱と遅れて込み上げてきた羞恥心によって、心が逃避先を求めたらしい。
 頬が烈火のどこく熱かった。首や頭や全身にまで熱は回っていき、適切な言い訳ひとつ思い浮かばない。今の自分の顔は茹で蛸のように真っ赤なのだろう。口を開いては閉じ、目を左右へ泳がせるしかない。
 日下部ははじめ、きょとんと目を丸く開いて状況を理解していない様子だった。しかし徐々に事態を飲み込み始めたらしく、両目を愉快げに細め、口元にはにやにや笑いを浮かべている。
 つまり、彼は日車よりも立ち直りが早かった。顔からずれた眼鏡のテンプルを摘み、ゆっくりと日車の耳から引き抜いていく。
「やり直し?」
 日下部の提案は正しい。だが素直に頷くのも癪に障るので、日車は無言で残りの距離を詰め、今度こそ間違えずに彼の唇へ自分のそれを押しつけた。