みずあめ
2026-03-31 22:52:01
2601文字
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久々綾


真夜中を過ぎてもうまく寝付けなくてこっそりと部屋を出た。寝巻きのままでも寒くはなく、心地良い風が吹いてほっと息を吐く。廊下を歩けば床板の軋みで他の人を起こしてしまうだろうから素足のまま地面に下り、足音を忍ばせて人のいない方へとあてもなく進んだ。
眠れない原因はわかっていた。一学年上の先輩である五年生が、課題の一環で近くの城へ潜入しに行って数日経ち、まだ帰ってきていないからだ。任務に危険はつきものだけれど今回に関しては問題なく終わるだろうと、出発前にそう話していたが、彼が無事に帰ってくるまで安心なんてできなかった。怪我ひとつなく、なんて欲張りなことは言わない。ちゃんとここに帰ってきて、ただいまと言ってほしい。
いつのまにか握りしめていた手から、うまく力を抜くことができなかった。深く息を吸い込みたいのに胸が押されているように苦しい。ハッと浅く息を吐き、ぶわりと強く吹きつけた風に目を瞑った。木々が鳴り、花が香って、僕は風に攫われ乱れた髪を押さえつけて目をそっと開いた。空を見上げると雲が流れて大きな月が顔を覗かせる。明るい夜だ。忍者にとってはあまりよくない。だけど月が明るいぶん影は濃くなるから、うまくやればあるいは。
なまぬるい空気のせいか考えなくていいことを考え過ぎてしまう。もっと寒かったら余計なことを考えずに済んだだろうか。せめて鋤を持って出てくれば良かった。穴を掘っている間はそのことだけに集中できるのに。
いつのまにか校庭の隅まで来てしまって、僕は大きな木の根元に腰を下ろした。土のついた足を適当に払い膝を抱える。
明日も授業がある。眠った方がいいのは分かっている。だけど、布団に入ったところで眠れる気はしなかった。今度はゆっくり、慎重に深呼吸をしてみる。目を瞑って、嗅ぎ慣れた土の匂いにそっと体の力を抜いた。先輩、明日には帰ってくるだろうか。
しばらくそこでじっと体を休めていると、遠くから駆けるような足音が聞こえた気がして僕は顔を上げた。忍術学園には曲者が忍び込んでくることも少なくない。怪しいやつだったら先生に報告しにいかなくちゃ。音を立てずに素早く木に登って、枝葉に隠れて音のした方向に目を凝らす。葉っぱの隙間から、見慣れた藍色が見えた気がして心臓が跳ねた。
僕は息を殺して、もう一度視線を走らせた。自分の心臓がうるさくて足音を聞き取ることが難しい。ハードルが高い課題でだってこんなに心音が邪魔になったことはなかったのに。
ガサッと塀の向こう側のすぐそばの木が揺れ、人影が飛び出して塀を越えてくる。僕の足元、木の根のあたりに着地したのは、見間違いではなく藍色の制服を着た人だ。ハッとその人から荒い呼吸音が聞こえ、僕は躊躇いなく木の枝から飛び降りた。
「久々知先輩」
「っ! ……え、喜八郎……? なんでこんなところに、それにどうしてこんな時間に起きてるんだ?」
「眠れなくてお散歩してました。久々知先輩はようやくお帰りですか? ……血の匂いがしますね」
「ああ、俺は怪我してないよ、大丈夫。けどお風呂には入ってないから近づかない方が、……喜八郎〜」
ぎゅうっと抱きしめた僕を支える力も残っていないのか、久々知先輩はそのまま地面に転がり、僕の下で大人しくなった。確かに見える範囲に怪我はなかったし、軽く探った感じ服の下にも切り傷はなさそうだ。アザまでは今は確認できないけれどとりあえずほとんど怪我なく帰ってきたらしい。優秀な人だって知っていたし、分かっていたつもりだけれど、ようやく本当に安心できる。
そのまま数分抱きついてじっとしていると、されるがままだった久々知先輩がもぞっと動いて、僕の顔を撫でて目を合わせてきた。また雲が月を隠してしまったから、暗くて表情まではよく見えない。
「そんなに心配してくれたんだな」
「してません」
「説得力ないよ」
「綺麗な落とし穴が掘れたんです。早く帰ってきてくれないと先輩に見せる前に誰かが落ちちゃうから、それだけ心配でした」
「ふ、そう? じゃあ後でその落とし穴見せてね」
……うそです。今日は一つも落とし穴を作れなかった」
……喜八郎、ただいま」
おかえりなさい、と言ってもう一度強く抱きしめる。僕を可愛がるようなくすくすという久々知先輩の笑い声はいつもならムカつくのに、今はただただ愛おしかった。
安心したからか一気に眠気がやってきて、寝落ちてしまう前に僕は久々知先輩から離れて立ち上がった。先輩に手を差し出せば僕より少し大きい手が僕の手を力強く掴む。僕の正面に立った久々知先輩はあれ、と不思議そうに首を傾げた。
「喜八郎、どうして裸足なの?」
「あ、忘れてた。眠れなくてこっそり部屋から出てきたから」
……眠れなかったのって、もしかして俺のせい?」
……ちがいます」
「ごめんな。心配してくれてありがとう」
「ちがうって」
「ふふ。部屋まで送る。抱えていこうか?」
「ばか」
笑ってる久々知先輩を押しやって、僕は部屋に向かって素足のまま地面を踏み締めた。喜八郎、と呼びかけてくる声に振り返って、思ったよりも近くにいた久々知先輩に驚いて身を引こうとしたところで抱き寄せられ、額に唇が押し付けられる。ぎゅーっとさっきの僕のように抱き締めてくる久々知先輩を反射的に抱き返してから、「先輩、汗臭い」と後付けで文句を呟く。久々知先輩が笑うと僕の体も一緒に揺れて、きゅっと心臓が締め付けられた。
「喜八郎がいてよかった。帰ってきたって感じがする」
……そうですか」
「うん。ありがと」
久々知先輩はそれだけ言ってパッと手を離した。月明かりが先輩の満足げな笑顔を照らし、僕はほとんど無意識に汚れた服に手を伸ばして、先輩を引き寄せながらかかとを上げた。なかなか縮まらない身長差にムカつきながら久々知先輩の唇にキスをする。まぁるく見開かれた瞳にざまあみろと思った。
「今度はもっと早く帰ってきてください。でないと、先輩のことなんて忘れちゃいますよ」
……了解。喜八郎、ほんのちょっと見ない間にかっこよくなった?」
「ふん」
ばーか、と舌を出して今度こそ長屋へと向かう。喜八郎と呼ぶ声を無視していれば久々知先輩は笑いながら僕の隣に並んで、あとちょっとだけ、と言って手を繋いだ。先輩の手が温かかったから、僕はその手を振り払わなかった。