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2026-03-31 18:29:47
2402文字
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お題:こども

#ししさめワンドロワンライ 2026/03/31


 慣れた外来の肘掛け椅子に座って、村雨は眼前の男に対峙していた。男は筋肉で丸くなった肩を上質の綿シャツに包み、絹の光沢も美しいベストで分厚い胸を締めつけ、そうして肩の力の抜けた様子で、患者用の丸椅子に座っていた。
「前を開けてください」
 村雨がそう言うと、男は大人しく、ベストのボタンに手を掛けた。うつくしく整えられた爪、それがなめらかに動いてボタンを外していく。そうして男はその大きな手で、静かにシャツの前を開いた。
 舞台の緞帳を開くように開かれたその奥――そこには異様なものがある。
「確かに、珍しい症例だ」
 鍛え上げられた筋肉の中にぽっかりと空いた――真闇の穴。
 それもただの穴ではない。
 ――……こども、か?
 胸の中央、肋骨の先端たる剣状突起があるべき辺りに、ちょうど頭部が来るような――膝を抱えたこども型の穴。
「いつからこうなんです?」
 そう尋ねると、男はあの野性味のある、わずかにがさついた声で答えた。
「気がついたときにはこうだったんです」
「そうですか……
 穴の奥はただ闇が広がるばかりで、向こう側に存在するはずの、シャツの布地はまったく見えない。
「ちょっと失礼しますよ」
 そう言って村雨は腕をまくり、穴の中へと己の素手を差し入れた。
 ぶつん。
 穴の中からそんな音が聞こえてくる。

 村雨の右手は、穴の中のなにかに食いちぎられて、手首から先がなくなっていた。


 ほぐされたシャンパンゼリーは、カットされた苺の赤を乱反射して、ピンクのクラッシュアイスのようにきらめいていた。苺の種と炭酸の、二種の刺激をプチプチと味わいながら、村雨はソファに身を預けて座り、テレビの画面をぼんやりと眺めやっていた。
 画面の中では平凡な顔立ちの中年男性がアナウンサーを名乗り、先行きの暗いニュースを読み上げては、小学生の作文のような感想を表明している。
「見て面白いもんでもねえだろ」
 そんな声がして、豆乳青汁のマグカップを持った男が、右隣へと腰を下ろした。
 ぴったりと距離を詰めるわけではなく、肘を張ってもぶつからない程度の、絶妙な距離が保たれている。
 村雨はやたらとこじゃれた長いスプーンを、シャンパングラスの中に差し入れてまた一口含んだ。
 ぷつん、ぷつん……口の中から耳に、食いちぎられるものたちの小さな断末魔が聞こえてくる。
「なんで今オレの胸見たの」
 おかしげな声で獅子神は言った。
「診察していた」
「へえ?」
 獅子神はニットに包まれた胸板を、己の右手で軽く押さえてみせた。やわらかな大胸筋が、その手の下で「たゆん」と――胸が揺れる擬音はそういうのだと叶が言っていた――揺れたのがわかる。
「なんか病気ありそう?」
 言われて村雨は目をまたたいた。終わらない戦いのニュース、走り去る無骨なトラックが映し出されている。
……え、マジで?」
 冗談めいた獅子神の声音が曇る。村雨は小さく肩をすくめた。
「誰にでも病はある」
「そういうなんか哲学っぽいアレじゃなくて、なんか手術とか投薬とか必要なもんかって聞いてんだけど」
「そうではないだろう」
「あ、そ、そうなんだ……
 獅子神は顔をうつむけ、揺れる己の胸板を熱心に見つめている。
『人間は病気の塊ではなく、小さな過ちの集合体だ。』
 おせっかいな神とやらの言葉が、咀嚼音のはざまにこだまする。
 ――その場合、それはどちらの過ちになるのだ。
 自分らしくもなく曖昧な指示語が多い――そう思いながら村雨がスプーンを操ると、グラスに当たったそれがカチリと鳴った。
 獅子神と村雨の間には、触れるにはやや遠い距離があり、獅子神がその距離を詰めようとする様子はない。二人きりでこうして時間をすごすときの獅子神は、いつもうっすらと――ごくわずかに――欲情しており、どれほど冷静に、極力先入観を排除して診断を繰り返してみてもやはり、彼は村雨に好意を抱いているのだった。
 そして村雨も――少なくとも、獅子神のその性的興奮を不快には思っていない。
 ――私にはいくつかの選択肢がある。
 つまり進むか、退くか――とどまるか。
 あの夢は村雨の「神」が――つまり脳の中で繰り返された無意識領域の思考が――村雨へと与えた警告だ。獅子神の中にはぽっかりと、こども型の穴があいていて――彼はそれを埋めるために、半生のほとんどを費やしてきた。金を稼いだという事実、その金で買った幾多のもの、努力して得た美しさ、そういう形にはならないありとあらゆるものを、獅子神は穴の中に放り込んで、そして今も放り込みつづけている。
 キラキラしたそのあおい目で。
 キラキラとやらを追いかけて。
 ――いつか私も自分自身を、その穴の中に放り込むのか。
 医師としての村雨は多くの患者に接し、「小さな過ちの集合体」が、生涯の癒やせぬ病を育てるさまを見てきた。……その傍らでなすすべなく、ともに痩せ細っていくことしか選べない家族たちのことも。
 ――つまり必要なのは覚悟だ。
 底なしの穴にシャベルで何かを投げ込みつづける覚悟。
 ――そして私はそれをしてでもこの男が欲しいと思っている。
 進むか、退くか、とどまるか――その選択肢を三つとも、抱え込んでしまうほどには。


 村雨はグラスを傾け、残り少ない中身を吸うように取り込んで呑み込んだ。
……どうしちゃったの、お前」
 心配の乗った声音は、すぐ近くで聞こえる。
 振り仰ぐとすぐ眼前にあおい目があって、覗き込むようにこちらを見ていた。
 ――キラキラだ。
 村雨はその目を見上げたまま、右手を伸ばす。
 高級なニットの感触が、手のひらに伝わって――だがそれ以上力を込めることなく、しばし、右手は固まって動かなかった。


 穴の存在を確かめることを、おそれるように。