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酔う

輝薫
まだ付き合ってません



 急なスケジュールの変更や、プロデューサーからの確認事項。仕事関係の重要な連絡を見逃さないために、通知は逐一チェックするようにしている。最近は全く緊急性のない内容が送られてくることも増えてきてしまったが、それでもその相手からだって仕事の連絡は来るものだから、一概に後回しにしていいとも言いきれないのが厄介なところだ。
 だから結局、僕は机の上で小さく音を立てたそれを手に取ることになる。メッセージの中身を確認して、緊急とも無駄話とも判別のつかない内容に眉をひそめた。
 『今家にいる?』
 このメッセージの送り主であるところの、天道のスケジュールを頭の中で遡る。ドラマの撮影が入っていたはずだ。たしか、大きな変更がなければ今日がクランクアップ。画面の左上に表示された時刻と合わせて考えると、関係者と食事にでも行ってきた後かもしれない。
 『家にいるが、どうした』
 ひとまずそれだけ返信しておいて、次のメッセージを待つ。と、数秒も待たずに次は着信音が鳴った。
 「なんだ」
 「あ、桜庭ぁ?」
 「……何か用か」
 妙に間の抜けた第一声に、思わずため息が漏れた。この男のこんな声には聞き覚えがあって、これを聞かされるのは大抵彼がアルコールに飲まれた後だ。
 「んん、用っていうか、さっきまで打ち上げで」
 「だろうな。酔ってるだろう。周りに迷惑をかけていないだろうな」
 「だいじょーぶだって、それでさ、今帰りなんだけど、コンビニのとこ歩いてて」
 「コンビニ?」
 「そう、桜庭ん家の近くの、交差点の」
 「はあ?」
 「もう着くんだけど」
 あ、マンション見えた。呑気な声を弾ませて、風の音が残る。こちらが何も言わなくたって、数分もすればきっと彼はこの家の玄関を上がるのだろう。もうわざわざ通話を繋げておく必要もないのに、スマホは無意味に風や衣擦れの音を伝えてくる。
 少しして、機器越しに聞こえる反響音が変わった。部屋のチャイムが鳴ったので、解錠の操作をしてから玄関に向かう。スマホの向こうが無音になったタイミングで、覗き穴を確認して扉を開けた。
 天道は予想通り赤らんだ顔をしていて、中途半端に指を空中に彷徨わせていた。呼び鈴を押す代わりに、そのまま僕の握っているのと反対側のドアノブに手をかける。天道はふにゃりと相好を崩した。スマホはもう必要ない。
 「久しぶり」
 「……上がれ」
 「お邪魔しまぁす」
 もたもたと靴を脱ぐ天道を置いて、リビングに戻る。大きめのコップを出して水を注いだ。それをテーブルに置いた頃、天道も慣れた様子で上着と鞄を置いている。
 「撮影は問題なく終わったんだろうな」
 「もちろん。放送されたら見てくれよ」
 「メンバーの仕事くらい確認する。……それで、何しに来た」
 そう問うと、天道は意表を突かれたような顔をして僕を見つめる。ええと、とらしくもなく口ごもったのを見て酔っ払いだったと思い出し、水を突き出した。
 「もういい、飲め。説教は明日だ」
 「えっ、」
 「なんだ」
 「俺怒られんの?」
 「それだけ酔って勝手に押しかけておいて、怒られないとでも思ったのか」
  「いや、それは、……ごめん」
 そう言ってへにゃりと眉を下げると、天道は据わりが悪いというように視線をあちこちに移した。指先が意味もなく動いて、その間も口は開かない。
 目を瞬かせるのは僕の方だった。どうせいつも通りの文句が続くだろうと思ったのだ。なんだよいいじゃねえか、などと言いながら、ふてぶてしく水を呷るのだろうと。けれども彼が唇を湿らせた後に発したのは、予想外の言葉だった。
 「あ〜……、やっぱ、帰るわ。悪い」
 「は?」
 僕の困惑を受けて、天道も困ったように目線を落とす。僕の顔をろくに見ることもせずに、天道は言葉を続けた。
 「こんな遅くに急に来ても迷惑だったよな、悪かったよ」
 「おい待て、迷惑とは言ってないだろう。そもそもこんな酔っ払いを今更外に出せるか」
 「いいよ、帰れるから」
 「それが酔っ払いだと言うんだ。帰る場所も間違うくせに……
 「間違ってないから。来たくて来てんの」
 は、と漏れた吐息ともつかない音に、天道の眉が寄せられる。その後ようやくまともに顔を上げて、バツが悪そうに髪をくしゃりとかき混ぜた。そうして真っ直ぐに目線を交えた後、言い聞かせるように「だから、」と続ける。
 「桜庭の顔見たくて来た。間違ってねえから、帰れる」
 紅潮した頬も、据わった目も、吐く息の酒臭さも、どれも彼の言葉を酔っ払いの戯言だと鼻で笑うのに十分だった。ただ僕は、そうしなかった。じっと視線を向ける天道から、先に目を逸らしたのは僕の方だ。立ったままの彼の横を素通りして、僕は一人ソファに腰かける。
 「尚更、帰る必要がないだろう。いいから泊まっていけ」
 落とした声音でそう言うと、天道はおずおずと空けられた半分のスペースに収まった。僕が水を指すとようやくそれを手に取って、何口か飲み込む。それからコップを置いて、窺うように僅かに首を傾けた。
 「来ても良かった?」
 「……事前に連絡くらいはしろ。僕がいなかったらどうするつもりだったんだ」
 「そりゃあ、帰るよ。でもいると思ってさ」
 「そんな適当な予想で来るな」
 やっぱ怒ってんじゃねえか。そう言って口を尖らせる。天道は、僕が怒っているのだと思ったらしい。突然帰るなどと言い出した彼の言動が腑に落ちる。
 関係者もいる場でどれだけ飲んだんだとか、来るにしても連絡は入れろとか、苛立ちの種がないわけではない。けれどそれでいちいち僕が彼を追い出していたなら、僕たちはとっくに解散でも何でもしている。それも分からなくなる程度には、やはり彼は酔っているのだろう。
 「君は、弱いくせに何故そう飲むんだ」
 「何でって……楽しいから? 桜庭だって飲むだろ」
 天道はちびりとコップに口をつける。投げ出された足がつまらなそうに交差して、空を切った爪先が僕のズボンの裾を掠めていった。
 「僕は君ほど弱くない。仮に君のような体質だったとしても、自分の酒量くらい弁える」
 単調な思考だけがぼんやりと残って、感情の制御が効かなくなった頭は、言うつもりのなかったことまで口走りそうになる。アルコールに侵された脳みその挙動は例えば、コップに添えられた君の指先、水を飲み込んだ喉の動き、少し潤んで伏せられた瞳、そういったものが嫌に目につく、今に似ている。
 「正体をなくすほど酔うのは御免だ」
 喉が渇く。酒なんて一滴も飲んでいないのに、冷水を呷りたくなった。真っ暗なテレビ画面に映る自分の姿が居心地悪そうで、いっそキッチンにでも立とうかと思った。
 「……俺はさぁ、結構好きなんだよな」
 「酔うのがか」
 「酔うのがっていうか……ごちゃごちゃ考えてたのが、だんだん頭の中単純になって、分かんなくなるみたいな」
 そこでもう一度、天道はコップを傾ける。空になったそれをテーブルに置いて、カツ、と指先でコップの側面を叩いた。
 「分からなくなってるじゃないか」
 つい先程、自分の意思で来たと言ったばかりだというのに。吐き出した声には、知らず彼を詰るような響きが混じった。天道はそれを聞いて小さく笑う。その柔らかな顔にも、僕の不服は募る一方だ。
 「分かんなくなって頭の中空っぽになっても、それでもずっと考えちまうことってあるだろ。それくらい、自分にとって大事なこと」
 「酔っ払いは同じ話ばかりするからな」
 「そ、……ん〜〜、いやまぁ、そういうことかぁ……?」
 「なんだ、はっきりしろ」
 「んん、だからさ、余計なこと何も考えずに、頭の中全部でそのことだけ考えてる時間っていうのも、たまにはあっていいだろ」
 少なくとも俺には必要で、だから好きなんだと、天道は機嫌良さげに口にする。この男が、第一印象にそぐわず思慮深いことを知っている。彼曰く余計なこと、を考え尽くしてしまう性質の天道が、アルコールで空っぽになった頭の中に、たったひとつ残したもの。
 「……なにを、」
 聞かなければ良かったと、口に出したそばから後悔した。天道が目尻を細めて、綻ばせた口元から軽い息を零す。僕はそれから目を逸らすこともできずに、ただ彼の唇が次の言葉を形作るのを待った。
 「会いたくて来たって、言ったろ」
 返すに値する言葉を、僕は持っていない。だから口を噤んだ。天道も、それ以上言葉を重ねることはしなかった。沈黙が降りても不快な重さはなく、けれど焦れるような緊張がずっと足元をさざ波のように打ちつけている。
 もう数センチでも動かせば、彼の指先が触れる。きっと互いに視界の端に捉えていても、アルコールがその距離を溶かすことはなかった。