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マチ
2026-03-30 00:13:24
10047文字
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Bottom!Stevenアンソロに寄稿したマクステ小説です。全年齢向け。スティーヴンが通っている街の文化クラブに、ある日マークが興味を示すお話です。
マークが週末の僕の用事ごとについて行きたいと言うので、僕は二つ返事でいいよと返した。それから少し考えて、僕はこれってデートのお誘いかいとマークに問えば、マークはそれにハッキリと首を横に振る。ほんの少し傷つきながら僕がどうして違うのと訊けば、彼は僕をまっすぐに見つめ、いたって大真面目な顔をしてこう言うのだ。
「普段おまえが休みの日に何をしているのか、何が好きなのか、考えてみたら全く知らないと思って、」
僕らは顔を見合わせる。ーーそれで。ーーうん。
そしてマークはこう続ける。
「見学してみたい。おまえの迷惑にならない範囲で」
そこでマークは壁掛けのカレンダーの、今週の日曜日の欄を指差した。そこには「パズルの会、十一時」とメモがある。僕の字だ。先週そこにメモをした。マークはこれについて行きたいのだという。「競技パズルの会」ーーそれは僕が週に一度参加している街のカルチャークラブだ。参加したいの? とまた僕が問うと、マークはやはり首を横に振り、さらにこう続けた。
「見てみたいんだ。おまえが頑張ってるところ」
「ワオ」
それは予想だにしなかった答えだった。だって、マークが僕のプライベートに言及すること自体が珍しいことだったから。
僕とジェイクがそれぞれ身体を得てからずっとそうだ。マークは僕らのプライベートタイムにいっさい口を出してこなかった。口どころか、僕らの前から姿さえ眩まそうとする。まるで冒してはいけない領域であるとばかり、そして自分がそれを共有する権利などないとでも言わんばかり。彼はそっと僕らから距離を取り、遠慮し、姿を消してしまう。
マークは自分の脳内に僕らを生み出し、そして副人格の僕らと共存できるようになってからずっと、独り重たい罪悪感にさいなまれてきた。窮屈、束縛感、不自由
……
。彼は僕らを自分という檻の中に閉じ込めて自由を奪ってしまっている
……
そんなふうに感じてきたのだ。だからこそ僕らが身体を得られると確信した時も、それを真っ先に承認したのはマークだったし、その願いが叶った時、涙をこぼして一番喜んだのもマークだった。そして今彼は僕らがプライベートタイムを心置きなく楽しめるよう(少なくとも彼はそう信じて)、徹底して自分の存在感を消してしまう。
僕とマークが晴れて恋人同士になってもそれは依然として健在したままで、僕はそれがとてつもなく寂しかったのだ。けれど、もっと僕に興味を持ってよ! だなんてハイティーンみたいなワガママを簡単に口にすることはできなかった。マークが抱える不安や強迫観念の出どころを突き詰めれば、いつも最低な記憶にぶつかってしまうから。僕らはそこから生まれた彼の深刻な心の揺らぎを否定したくない。マークはそれに必死で抗いながら、僕らのために必死でよりよいもの、よりよい選択肢を探そうとしてくれている。僕らには悲しみひとつぶだって感じてほしくないと願いながら。それがいまの彼を形作ったのだ。
それに十分、いまのマークが僕を深く愛してくれていることはひしひしと伝わってくる。一緒に過ごす時間だってもちろんたくさんある。だからマークが僕らを尊重しようとしてくれているように、僕とジェイクもマークのしたいことを尊重しよう
……
そう決めていた。それで彼の感じてきた悲しみや苦しみが少しでも晴れるのなら。
ずっと、そう考えてきたのだ。だからこそいま、彼が僕のプライベートに興味を持ってくれたこと(もしかしたらずっと興味はあったのかも)、さらにそれを彼の目で見たいと望んでくれたことがたまらなく嬉しかった。マークが、僕が頑張ってるところを見たいだって? おおハレルヤ! もちろん喜んでとも!
マークも決意も嬉しいし、僕がそこで頑張っていると評価してくれたのも素直に嬉しかった。これは彼にとっての何か大きな転機なんだろう。あるいは心の移り変わりなのか。ああ嬉しいな。僕はできるだけそっと、それを受け止めたい。そして、心から応援したい。
「スティーヴン、やっぱり何かまずかったか
……
」
僕が驚いて彼の言葉を噛み締めている間にも、マークの顔色はみるみるうちに悪くなってゆく。僕が慌てて「そんなことない。もちろん歓迎するよ」と頷けば、彼はようやく安堵してとても愛らしく顔をほころばせた。なんとなくそれに照れて、僕はその気恥ずかしさ隠しに彼の手取ってそっと握る。
「本当に見るだけでいいの? 参加だって大歓迎だよ?」
「ああ、見るだけでいいんだ。邪魔にならないよう遠くからでいいから」
「うん。見学者はいつだって募っているし、近くで見てくれて大丈夫だよ。クラブはいつもものすごく和気あいあいとしてるし、誰かの目が気になるなんてこともないからね。でも、そうだな。マークに見られながら会に参加するのってちょっと照れるね」
「緊張するか? もしもプレイに影響が出るのなら
……
」
「ウウン。そうじゃなくって、君の視線を気にしながらプレイするのがワクワクするって意味だよ」
「ワクワク?」
「そう、ワクワク。つまり嬉しいんだよ、とっても」
マークは「そうか」「なるほど」と僕の言葉を嬉しそうに噛み締めている。彼のハンサムな相貌がくしゃりとほころんで、僕はそれにずいぶんと見入ってしまう。僕はずっと、この姿を独り占めしてきた。
僕は彼の視線を想像する。彼がパズルの会にやってきて、僕を見つめる眼差しをだ。椅子に浅く腰掛け、肘をついた手で顎を支えて座るさまも。すっとまっすぐに伸びた彼の背筋。ぴんと張られた胸もと。健康的なハンサムなのに、どことなく物憂げでミステリアスな佇まいだ。誰も彼もが思わずマークを振り返るだろう。そして彼の美しい姿にうっとりと見入ってため息を吐く。けれどもマークはそんな不躾な視線を気にも留めない。いま彼の視線の先には僕がいて、彼は僕だけを見つめている。僕の背を熱心に見つめる、マークの熱い眼差し。僕はあえて、彼の方を振り向いたりしない。ゲームに集中しているふりをする。マークの熱い眼差しを全て独占する僕への、誰も彼もからの羨望の眼差しを想像して悦に入る。しばらくしてからひと段落ついたふりをして顔を上げる。そうしてわざとゆっくりマークの方を見る。うっとりと僕を見つめるマークの瞳。それがそっと細められる。彼の雄弁な眼差しが語る。「俺のスティーヴン」と。僕はちいさく彼に微笑み返す。ーーウン。そうだよ、僕のマーク。僕は君のスティーヴンで、君は僕の恋人だ。
*
マークはぼんやりと道ゆく車の後ろ姿を目で追いながら、僕のペースに合わせてすこしだけせっかちに歩く。いまここにジェイクがいたのなら、きっと彼は僕らを見て口笛を吹いたただろう。ふふんそうさ、これは立派なデートだ。けれども今日は、なんだか不思議な気分だった。デートの時に感じる高揚とも少し違う、少し浮ついた心地もする。たぶん、今日とうとうチームメイトにマークのことを紹介できるという事実に、どうやら僕は浮かれているのだ。
今日は待ちに待った週末だ。前日の晩、僕はマークが今日のことをすっかり忘れてしまっていないかを確かめずにいられなかった。マークは笑って「忘れるものか。楽しみにしてたんだから」と言った。マークは少し緊張しているようにも見えた。
午前9時半。市民会館までの道のりを、僕らは手を繋ぎ、時々肩が擦れ合うような距離で歩いた。秋の始まりのロンドン市街には気持ちの良い風が吹いていた。マークが空を見上げて「雨じゃなくて良かったな」と言い、僕が「ウン。最高のパズル日和だね」と頷く。マークはやっぱり笑って「パズルに適した天気があるんだな」と返す。そうだよ。今日は君を連れてゆくのに、うってつけの日だ。
パズルの会のメンバーは僕らを(というかマークを)見て大いに喜び、心の底からマークを歓迎してくれた。僕がみんなにマークを「大事なパートナーなんだ」と紹介すれば、マークがはにかんでそれに頷いて見せる。会のみんなは使命感に溢れた顔をして僕にさっと目配せを送る。「おいおいそういうことは私たちに任せてくれよ?」と言わんばかりに。彼らは張り切ってマークと僕を囲み、マークに向かって僕のことをこぞって紹介し始める。チームの中にいる、僕のことを。マークの知らない、僕のことを。
「スティーヴンは私たちにとって重要なエース。彼のプレイは本当に鮮やかで気持ちがいいんだ」
「とても冷静で、判断力に長けてる」
「ピースを見極める洞察力に優れているんだよ。あっという間にパズルを完成させてしまう」
「さあ、ほら。よければ彼のお隣に座って。とくとご覧になって」
「彼の集中力は凄まじいものだよ。呼吸さえ忘れて没頭してしまうんだ」
「勘も鋭くてね。それが勝利と幸運の女神を引き寄せている」
僕が隣で照れて何も言えないでいる代わりに、マークは嬉しそうに深く頷いて彼らの話に耳を傾けていた。マークはずいぶんと和やかで楽しそうだ。彼からはとても柔らかな雰囲気が漂っていて、僕はつい、そんなマークの横顔をじっと見入ってしまう。そしてふと気がつく。こんなふうに初対面の人と朗らかに言葉を交わすマークのことを、僕はこれまでちゃんと見たことがなかったのだと。マークだってこんなふうに知らない人たちとにこやかに会話を交わし、微笑み合うのだと。マークの社交性を知らなかったわけじゃない。彼はなにもずっと孤独に生きてきたわけじゃない。誰かと支えあったり、助け合ったり、声を掛け合ったりして、社会の中でその一員として暮らしを営んできた。そうしてちゃんと、人とのつながりを育んできた。それは至極当然のことなのに、いま僕は新鮮な気持ちでそれを見つめていたのだ。そして、それはなんだか僕をとても眩しい気持ちにさせる。胸が苦しくなるくらいに嬉しくて、泣いてしまいそうなくらいに切ない気持ちを呼び起こす。どうしてだろう?
マークを取り囲むおしゃべりがいよいよ収集つかなくなったところで、クラブのリーダーが高らかに手を打ち鳴らし、皆に声をかけた。それはとても気持ちよく部屋に響いて皆の注目をさっと集める。マークもいまやクラブメイトの一員のような顔をしてリーダーに注目している。
「ほらほらみんな、練習を始めましょう。彼はスティーヴンのプレイ姿を見に来たんだから。口で説明するよりも見学していただくのが一番でしょう?」
マークは初めこそ遠慮して部屋の隅っこでの見学を申し出ていたのだけれども、チームのみんなからの強い勧めによって、僕の真隣に用意された椅子に腰掛けてプレイを見学することになった。僕とマークは机に向かって隣同士に並んで座る。まるでこれから共に学校の授業を受けるみたいに。普段向かい合って座ることの多い僕ら。マーク側の僕の肩がほんのりと温かいような気がしてくすぐったかった。マークはというと、少し緊張したような顔をして(それこそこれから彼が試合に出場するみたいにさえ見える)、椅子に浅く腰掛けている。マークがぐるりと部屋全体を見回す。部屋には均等に並べられた事務机の群れ。机は二台をくっつけて並べて、パズルを並べるのに十分なスペースを儲けてある。今日は個人戦の練習だ。メンバーはそれぞれ与えられたスペースの中で、時間内にパズルを完成させる。もちろんこれは練習の一環なので、時間は試合よりもうんと短く区切られ、時折プレイの手を止めてはそれぞれの戦法を評価し合ったり学び合ったりするのが主な目的だ。
中央の大きな机の上から皆がそれぞれランダムに選んで持ち出したのは大きなパズルの箱だ。ここが自宅だったならば、僕とマークとジェイクの三人で楽しむのにちょうどの難易度。箱にどっさりと納められたパズルのピースの山を覗き込んで、マークが僕に問いかける。
「これは何ピース?」
「1000。これは練習用だけれど、本番でも個人戦は1000ピースなんだよ」
「うちでやるよりずっと多く見えるな」
「ウン。いつもは三人で少しずつのんびりやってるからかな。これから全部箱から出しちゃうんだけど、机に広げるともっと多く見えるかも」
「これをおまえ一人で完成させるのか」
「ふふ。そうさ。見ててね」
外箱には完成図がプリントされている。青々とした森の中に佇む一頭の鹿の写真。全体的に似たような色合いばかりのパズルのピース。僕はあえて難易度の高いものを選んだ。それは単にマークの前で、格好をつけたかったから。
かかる合図で全員がパズルの入った箱をテーブルにひっくり返した。一斉に響く大きな音に、マークは隣で肩を震わせて辺りを見回している。物珍しそうに、興味深げに、好奇心いっぱいに首を動かすマークの気配が愛らしい。僕はマークの気配をひしひしと感じながら、パズルの完成図を机の端に見えやすいように立てかける。そして色ごとにピースを寄せながら、一辺が平たいピース、つまり一番外枠に当たるコマを集めてゆく。
僕の手元に集まるマークの視線。彼を見なくともわかる。彼はそこに座るだけの最大級の敬意と注意を払い、真剣な眼差しで僕の手元と横顔を見ている。みじろぎや息遣いが僕のプレイの邪魔にならぬように身を潜め呼吸を潜め、ただ静かに熱心に、そして大真面目に僕を見守ってくれている。まるで、僕とマークがふたりで一つのチームであるかのように。ほんの少しでも僕の力の糧となれるように。それがなんだか誇らしくて嬉しかった。
こうなると彼はもう、いたずらに僕に呼びかけることも、プレイ中疑問に思ったことさえも口にはしないだろう。それが僕の作業の妨げになることを恐れている。マークはとても優れたすばらしい観客だった。もてなされたゲストであるにもかかわらず、この部屋で最も謙虚な姿勢を崩さず、決して出しゃばらず、音や気配に細心の注意を払いながら僕らの指先をそっと観察するのだ。
彼の存在に影響を受けているのはなにも僕だけじゃない。この部屋にいるプレイヤーたちは皆少なからずマークを意識している。マークというゲストの存在が、僕らに適度な緊張感を与える。マークの観客としての心意気に報いたいと、皆がそう考えている。つまりが、ここにいるもの皆がマークにいいところを見せたいのだ。そして、少しでもパズルの楽しさを知ってもらいたいと願っている。
そんな僕はどうだ。まだまだ集中しきれていない。マークの存在に気を取られてばかり。もちろんマークが悪いんじゃない。僕が勝手に浮かれているのだ。ピースを探す手はあちこち彷徨ってばかりで目的のものをいつまでも見つけられずにいる。目はパズルピースの山の表面を滑って、やがて視界の隅にほんのりと映るマークの気配をとらえて離さなくなる。なんて間抜けなんだろう。集中できないどころか、いつもよりもうんと走り出しの出来が悪い。ペースが掴めない。いずれ、僕が集中できていないことにマークは気が付いてしまうだろう。そんなことになったら台無しだ。だから僕は必死にピースを選り分け、絵を完成させるべく小さなパーツたちをあるべき場所へと導いてゆく。僕は心の中で必死に唱える。「マークにかっこいいところを見せるチャンスなんだぞ」と。ーーそうだ。今日ここにマークがいるのは「僕が頑張っているところを見たいから」なんだった
……
。
小さなピースが次第に大きな塊となり絵の全貌を少しずつ表すたび、マークがうっとりと控えめな息を吐く。それは世界でいちばん謙虚な歓声だ。僕はうっかりそれに気を取られてしまわぬようにいよいよパズルに神経を集中させ、あるべき位置へとピースを運んでゆく。
一度目のストップウォッチのアラームが鳴り響いた時、僕は全身ぐっしょりと汗に濡れ、すっかり疲れ果てていた。気がつけばマークが心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。目の前にはほとんど完成間近のパズルの絵が出来上がっていて、僕は満足げにひとつため息を吐く。きっと、誰よりも早くパズルを完成図に近づけられた自信があった。
「今日は信じられないくらい集中できたよ
……
」
僕の言葉にマークが何度も頷き、テーブルの下でそっと僕の手を握った。僕の手と同じくらい、マークの手もしっとりと温まっていた。
「ああ。そんな感じだった。カッコよかったよ、とても」
マークは興奮を隠せない様子でそう言って、労うように僕の肩に触れた。僕にだけ聞こえる声で、マークは言う。
「ほんとうにおまえが一番だった。凄いよ」と。
*
ワゴンでテイクアウトした小さなパイ(チキンのものと、ほうれん草のものを一つずつ。それから、ジェイクへのおみやげにミートパイを二つ)をかじりながら広い公園の遊歩道を歩いた。マークが指先についたパイ生地を払いながら僕に言う。
「セクシーだったよ。
……
ああ、その、そういうことはプレーヤーに向けていうべき言葉ではないんだろうが
……
。お前の頑張ってる姿は本当に素敵だった。カッコよかったよ」
「ふふ、どうも。嬉しいよ」
「キスしても?」
「うん。どうぞ」
マークはまず僕の頬にキスをして、それから僕の唇へとあまく彼の唇を触れ合わせる。軽いキスなのに、何かが胸の奥からぐっと滲むような気持ちになる。たぶん、ずっと無意識でこれを待っていたからだ。互いの唇にはパイ生地のかけらが貼り付いていて、僕らはそれを笑いながらそっと指で払う。マークの手が僕の指先を丁寧に撫でる。
「ずっとお前の横顔を眺めていたから、終わったらまずここにキスしようって考えてた」
「君の視線、すごく熱烈だった。見えなくとも感じるんだ。ドキドキしたよ、とても」
「ああ。緊張してるように見えた」
「そりゃあね。みんなが君を見てるんだもの」
「どうかな。お前がチームの中心って感じだった」
「みんな僕らを喜ばせたくてああ言ってくれたんだよ」
空いていたベンチに並んで腰掛ける。芝生がふかふかで靴の裏がきもちいい。公園の輪郭に等間隔に並んだプラタナスの木々は葉がうっすらと黄色く色づいていてとても綺麗だ。マークがじっと僕を見つめる。眩しいみたいにうっとりと目を細めて、唇をうすく微笑ませて、とびきりハンサムに。僕はたちまち、その美しい眼差しに吸い込まれそうになる。マークが僕の目を見ながら、静かな声で言う。
「スティーヴン。おまえは俺の世界そのものなんだ」
マークがそう発した瞬間、世界中の音が止んだような気がした。世界のすべての営みが一度手を止め、マークの言葉にそっと耳を澄ませたように。そのくらい、マークの言葉はりんと透きとおって美しかった。
僕があからさまに驚いた顔をしてしまったせいだ。僕らの間にほんの少しの間沈黙が生まれ、マークはそう言ったきり、自信を失ったような表情をして口をつぐんでしまった。いくら続きを待ってもマークは何も言わず、ただ困ったような顔をするばかりだった。言わなければよかったと後悔しているようにも見えた。
マークの言葉は僕にとっては唐突だった。けれども、けっして悪い気はしない特別な響きを持っていた。僕が君の世界なの? 大袈裟でなく世界まるごと全部? それはきっと、今日のマークの中でそれを思わせる何かがあったのだ。マークの中で、自然とその言葉が溢れてしまうだけの思考や過程があったのだ。僕はそう確信して、マークの冷たい手を取る。
「僕はべつに気分を害したわけじゃないよ。単に驚いただけ。ねえ、続きを聞かせてよ?」
マークはしばらくの間唇をもごもごとさせた後、やがてゆっくりと話し始めた。丁寧に言葉を選んで喋ろうとしていた。まるで一歩違えばろくでもないことが起こる氷の上を慎重に歩くみたいに。
「
……
なんというか今日、おまえの横顔を見ていて、ああ俺たちはほんとうに離れ離れになったんだなと改めて思ってさ
……
」
うろうろと彷徨っていたマークの瞳が、ふいにすっと僕を捉える。僕はその瞳に釘付けになる。
「今やおまえは自分だけの身体を手に入れて、素晴らしい人生を送ろうと努力してる。
……
おまえが知らない誰かとああやって楽しく話をしたりパズルをしてるのを見ると嬉しいんだ。おまえはいつも明るくて、どんな時でも前向きで、誰とでもすぐに打ち解け敢えてさ。どこにでもするんと入っていって、居心地のいい居場所を見つけられる
……
」
マークが僕の手をしっかりと握った。その手は力強くて頼もしいのに、どこか自信なさげにも感じた。だから僕は彼の助けになれるようその手をいっそう強く握り返して離さなかった。マークは続けて言う。
「そんなおまえがさ、どこへでも自由に行けるのに、誰とでも心から幸せになれるだろうに、それでも真っ直ぐに俺のところへ帰ってきてくれる。いつも俺を見つけてくれる。いつも俺と楽しいことや幸せなことを分かち合おうとしてくれる。だから俺はいつも幸せだったよ。ここにいていいんだと思えたし、あの家でおまえを待っていたいと思う。身体は離れ離れになってしまったけれど、それを惜しいと思ったことはない。いまは、おまえと手を取り合える喜びを感じてる。
……
スティーヴン。おまえは、おまえが想像している以上に、俺の世界を占めてる。ほんとうに、俺のすべてなんだ」
マークは照れたように瞼をふせて鼻頭をかく。
「だからふと
……
そう思ったんだ。それだけだよ。ジェイクだってそうだ。おまえたちがいてくれるから、俺はずっと満たされていた。おまえたちが俺の世界を作ってくれる。
……
今日、おまえの頑張ってる姿を見に行けてよかった。楽しかったよ」
このままマークを見つめていたら、僕は声をあげて泣いていたかもしれない。照れたふりをして逸らした視線の先で、溢れそうになった涙をなんとかまぶたのなかに押し戻した。再び顔を上げる頃には満面の笑みを作って、僕は力いっぱいマークにハグをする。
「うん、うん
……
。ありがとう、マーク。僕も君といられて幸せだよ」
僕はずっと不安だったのだ。僕らに自由を与えることと引き換えに、マークが孤独を選んでしまったのではないかと。本当は僕らは、離れ離れになるべきではなかったんじゃないかと。これまでマークは何も言わずに僕らのことを見守ってくれていた。そんな彼の沈黙が、耐える寂しさや苦しみばかりでなくてよかった。彼はずっと、そこにもちゃんと喜びや幸福を感じていてくれていたのだ。嬉しかった。マークがそれを言葉にできるようになって、ほんとうに良かった。
「なんでおまえが泣くんだよ
……
」
「泣いてないよ。笑ってるんだ、嬉しくてさ。
……
君ってば、すごいこといっぺんに話しちゃうんだから」
マークのあたたかな指先が慰めるように僕の額や頬をゆっくりとなぞる。僕はその手に甘えるみたいに頬ずりをして、視線だけでキスをねだる。マークが微笑んでそれに応えてくれる。鼻先が擦れ合うような距離で、僕はマークにそっと呼びかける。マークがさっきやってのけたように、世界の全てがそれを聞き逃すことのない声と言葉で、僕はマークに誓う。この声は、マークが僕にくれたたからものだ。
「ねえマーク、忘れないでね。君こそが僕やジェイクに人生を与えてくれたんだよ。僕らは君がいてくれるから、今がこんなにも楽しいんだ。マーク、僕らは君がくれたすべての愛に報いるよ。一生をかけて、君に恩を返す。君を、絶対に一人にしないからね」
僕を見つめていたマークの相貌がたちまちにくしゃりと崩れた。まるで熱い珈琲に入れた角砂糖みたいに。そして彼の瞳に映る僕がやわらかく揺らめく。朝焼けが光る湖みたいに。やがてマークが頷くよりも先に、彼の瞼からは涙がこぼれて落ちていった。白鳥が時を待って飛び立ってゆくみたいに。それを隠すように、マークがゆっくりと頷いてみせる。美しい光景だった。彼のしゃくりあげる直前の吐息ごと食べてしまうみたいに、今度は僕からマークにキスをする。頬を垂れるマークの涙が僕らの唇の隙間に吸い込まれて消える。唇がふやけてしまったって構わない。大事なことは、マークが欲しがっているものをひとつだって見逃さないことだ。誓ったことを、ひとつずつ目の前で証明することだ。
マークがはにかみ、くすぐったそうに笑う。互いの頬をなぞり、何度だってキスをして、それから僕はそっとマークの耳元に唇を寄せる。互いの身体を寄せると、僕の膝の上の紙袋がいまさらカサコソと音を立てる。
「
……
さっき言ってくれた言葉、ジェイクにも聞かせてあげてね」
「ああ、わかった」
「
……
ねえマーク」
「うん?」
「
……
ジェイクへのおみやげのパイ、さっきのハグで潰しちゃった」
「潰してごめんって、あやまろう」
END.
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