近頃は平和で依頼も無く、それはまこと歓迎すべきことだが、ただ暇というのもよろしくない。ライドウは今日を鍛錬に費やすことに決めた。鳴海には日が暮れるまでには戻ると告げて、ゴウトを連れてさて何処へ──今日ばかりは時間もあるし、修験界は少し見慣れてきてしまったし、と危険を承知でアカラナ回廊に出向いた。次元の狭間で悠々自適に過ごす悪魔たちは手強く、鍛錬に最適の相手である。
悪魔たちと戦い、疲れたら龍穴で少し休息を取り、たまに時間旅行者と会話を交わして過ごし、を繰り返す。そろそろ戻ろうとかと思っていた矢先、ライドウは聞き捨てならない言葉を耳にした。
──煙草は健康に悪いとかなんとか。しかも将来もそれは変わらずだとか。深刻な問題だとか、なんとか。
まあ、確かに。あれだけ煙を吸い込めば何かが起きようというもの。誰もがそれを承知で喫んでいるのだろう。酒と同じ。だから未成年には禁止なのだ。
大人になったら自己責任。健康に悪いとわかってやるなら仕方がないのだ。
だから今現在煙草を大量に吸っている人が将来どうなろうともどうしようもないのだ。
ここで聞いた将来の話を無闇に外へ出すのもよくないことなのだ。
つまり忘れよう。聞かなかったことにしよう。今日はもう帰って、明日の準備でもしよう──。
*
「煙草を少し控えては?」
鳴海が煙草に火をつけたのを見咎め、ライドウは言った。
「……ライドウくんってば、まさかうちのお財布事情を把握し始めた?」
煙草を咥えて、傍らに近寄ってきたライドウを見上げる。
「そうではなく。把握はしていますが……」
ライドウは態とらしく音を立て、大窓を開け放った。煙が窓の外へ逃げ出していくのを眺めながら、ぽつりと、
「健康に悪いようですよ」
と言う。
鳴海は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「悪いからやってるんだなあ、大人は」
鳴海もまた態とらしく、ライドウに煙を吹きかける。ライドウは顔の前で手をぱたぱたと振った。
「心臓を悪くしてしまうとか」
「まあ生きてればどっかしら悪くなりそうなもんだしなあ?」
「二十年後に影響が出るんだとか」
「二十年ねえ、そんときのお前は今の俺より歳上になっちゃうの? おっさんになったライドウ、ピンと来ないねえ」
取りつく島もない。ライドウはじ、と煙草を見つめる。
回廊で聞いた将来の話は軽々に言わない方がよいと、ゴウトに釘を刺されていた。だが現在のことならどうだろう、回廊から戻ったライドウは古本を漁り、今の煙草の健康事情に辿り着いていた。そしてやはり駄目だった。どうしても煙草は健康には良くないのだ。
確かに鳴海は『健康に悪いと聞きましたから止してください』などと言って素直に聞くような男ではない。ライドウ自身それをよくわかっている。しかしこうも簡単にあしらわれると、ライドウも意地を張りたくなってくる。
「何故大人は煙草を吸うんですか。
悪いからやっているなら、もし煙草が健康に悪くなければ、吸わないのですか」
「……いいかライドウ。大事な話だ」
鳴海は真面目な顔を作り、ぴんと人差し指を振る。
「健康に良いとか悪いとかどうでもいい。煙草も酒も珈琲だってのみたいときにのむ。大して理由はないのだ!」
そう元気よく言い切ると、再び煙草を加えて煙を大きく吸い込み、その煙をゆっくりと吐き出した。白い煙が尾を引きながらゆらゆらと揺れる。甘いような苦いような匂いがライドウの鼻をくすぐる。
「お前にもわかるときが来るさ」
鳴海はいたく満足気にライドウと視線を合わせた。そうでしょうか、とライドウは小首を傾げる。
入口の手すりにもたれていたゴウトは、その様子を見て鋭く鳴いた。
『うぬまでやられては困るな。これだけでも全く臭くてかなわん。
鳴海のその口でも縫い合わせておいてくれ』
──それだ。
確かにこの口がいけないのだ。
煙草を迎えてしまうこの口が。
「わかりました」
ゴウトの言葉は天啓だった。まさにライドウの脳裏に稲妻が走った。すっと歩き出すライドウに、ゴウトは眉根を寄せた。
『……待て、まさか針など探してはいまいな?」
「手芸道具は自室にあります」
「待って、二人で何か不穏な話してる?」
「いえ。何も」
それだけ言い切り、部屋を退出するライドウ。
鳴海は煙草をそっと灰皿に押し付けた。彼の様子が、怖かったので。
程なくしてライドウは部屋へと戻ってきた。手にしたお盆の上には皿とカップ。それらを鳴海の机に当然のように配膳する。
「どうぞ」
カップには淹れたばかりの珈琲、そして皿の上にはクッキーが積まれている。鳴海はその一枚をぱくりと食べた。
「……本日のおやつ?」
はい、と答えながらライドウも一枚。味を確かめるようにもぐもぐ。
「よく焼けていると思いますが」
「うん、焼けているなあ」
クッキーの優しい甘味と、珈琲の上品な苦味がよく合う。
「……まさかとは思うけど、煙草の代わりにクッキー戦法……?」
はい、と再び答えて、ライドウは卓上に並んだ煙草を一箱回収した。文句を言い出しそうな鳴海の口には、クッキーを横並びで二枚ほど差し込んでおき、反応を待たずに自室へと戻る。風のような速さだ。徹底的に箱を隠す気だな、と鳴海は彼の後ろ姿を睨んだ。クッキーを飲み込みながら。
『餌付けか……』
ゴウトが何を呟いているか、今だけは聞こえる気がする。鳴海はクッキーを咀嚼しつつ、カップと皿を部屋の中央の大机に移動させ、更にクッキーを頬張った。口をもごもごさせながら、ようやく廊下を戻ってくるライドウへ呼びかける。
「ライドウ、お前がその気なら、もうお前の分なくなっちゃうからな」
困ります、とちょっと焦った声が聞こえる。
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