ゆい
2026-03-29 21:38:06
5135文字
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【宗みか】どうかいつか祝福であれ

夢ノ咲時代、高三と高一の薄暗い話。
テディベア後、決断はしてもまだ上手く受け入れられなかったしゅうくんがいたかもしれないねって話です。

【2026/03/29】どうかいつか祝福であれ
「また床で寝て。君には体調を崩す趣味でもあるのかね」

 呆れと皮肉が滲む吐息の多い声が暗がりに煙となって消えていく。電気もつけずに制服のまま丸く眠りに落ちた影片を塗り潰すように、僕の歪な影が伸びる。カーテンも閉め忘れられた窓から差し込む月明かりと僕が押し開いた扉より届く照明の両方に暴かれても、寝息は安らかに這い蹲って規則正しく冷えていた。カーペットを敷いた中央部では無く、ちょうど剥き出しのフローリングの上で赤子のように両手両足を竦ませながら、タオルケットすら使わずに影片は眠る。べたりと床に触れた頬や首筋は如何なる温もりも滑らかに弾き、小さく開いた唇から隙間風のような寝息が漏れる。夜より深い黒髪を気安く散らし、月より白く息を潜める様は、あらゆる芸術家達が喉から手が出る程に美しいだろう。くたびれて着崩れた制服、申し訳程度に上下する胸元、何も掴めず左右ばらばらに顔の横に垂れ伏した両方の爪先まで、立ち尽くし見下ろしたままそんなことを思う。長く黒く見下ろす間にも左の中指がひくりと跳ね、色の無い唇が一度満足気に唾を飲む。周りに散らばる糸や端切れから察するに何かを作製途中で力尽きたものと思われるが、如何せん全てが中途半端のせいで何をしたかったかまでは分からない。煌めきを目敏く拾った針や鋏が、影片の周りで思い出したように時々星を名乗って光る。だが、今は美しさよりも寝返りの恐れが勝ってしまって、偶然の輝きにすら手放しで見惚れていられないのが、少しだけ残念だ。
 入り口で佇む僕のスリッパ越しにも冷気はひたりと届き、キッチンを忙しなく動き回り火照った身体をゆっくり芯まで冷やしていく。いくらセーターを着込み靴下を履いているとは言っても、殆ど生身で骨張ったあちこちを冬の始まりに晒して眠る人間の気が知れない。そう嘆けば、彼はきっと人形だから大丈夫だもん、といつも通り不気味に笑うのだろう。たとえ人形であっても僕はお気に入りを冷たい床へ直に寝かせたりしないし、そんな自由を許してもいない。人形はあるべき場所とあるべき姿に整えられてこそ、その身に宿した美しさを正しく誇ることが出来る。儚さと憂いを永遠に変え、人形はただひたすらに存在し続けるべきだ。自ら価値を溝に捨てるような、丁寧さや細やかさをひたすら無下にした献身など人形には必要無い。僕は使い捨ての美しさなんて、一度たりとも欲しがったことは無い。見窄らしさを愛情と呼ぶのは、君が酷く無知だからだ。それが何を思い損なったのか、気付けば朗らかに擦り切れて馬鹿みたいだ。ぼろぼろになった分だけ愛着が湧くのであれば、この世はごみ溜めと大差無い。君は早く人間になりたまえ。愛した分だけ大切にしたくなるような、俗物的で現金なしぶとい命に。
 寝息すら白く烟る闇を深く吸い込み、せっかく満ちた静謐を蹴散らすようにして居室に足を踏み入れる。寝ぼけ眼には毒となる電気はまだ点けない。僕の影が一歩毎に伸び縮みを繰り返しては視界を埋め尽くしていく。見覚えのある切れ布や色とりどりの糸くずを丁寧に避けながら出来る限り影片の近くまで寄り、スリッパを軋ませるように傍らへしゃがむ。今日一番色濃い帳が丸まって眠る影片の頭の先から爪先まで余さず包み、元から血色の悪い横顔を一層見苦しいものにした。少し潰れた寝顔は何故か奇妙に安らかで、足裏に纏わりつく冷気が無ければ、清潔でふくよかな寝具に埋もれているのかと錯覚してしまいそうだ。勿論、僕がそんな錯誤に陥る訳は無いから、躊躇無く薄い肩へと手をかける。しっとりと凍えた制服のジャケットの下、温もりの欠片すら見当たらない厚みを、指先は縺れながらも何とか捕える。

「影片。早く起きたまえ、これで風邪などひいたら承知しないよ」
……んあっ、……んぅ、もう食べられへんけどぉ……

 長い睫毛を無駄に震わせながら、影片は頑なに目を閉じて戯言を吐く。夢なら君は何かを満腹になるまで摂取することが出来るというのか。悩ましげなくせにどこか満たされた笑みの浮かぶ口元に、馬鹿馬鹿しいとは分かっていても少し驚く。大分改善されたとは言え、今でもちょっと調子に乗ればすぐに腹を壊す君が随分と都合の良い夢だ。今も着々と冷めゆく夕食を思い出し、僕が生み出した皺を一層乱すようにして揺らす力を更に増す。

「これ以上巫山戯たことを抜かすのであれば、その口いますぐ縫い付けるよ」
「うぁっ、えっ、……っと、おしさん?」
「僕以外に私室で行き倒れた君へ声を掛ける者がいるかね」

 立ち上る冷気に負けないくらい冷たくあしらっても、影片は未だ夢見心地で緩慢に瞬きを繰り返すばかり。少しずつ晴れゆく闇の中、青と黄色の明滅が火花のように閃いては消えていく。雑音の如き翳りを帯びても眼差しの麗しさはやはり損なわれることはなく、半開きの唇や木目を薄く写し取った頬は憎たらしい程に美しい。目が光に眩む理由も僕に肩を揺らぶられた訳も何一つ理解出来ぬまま、影片は霞かかる色彩で僕だけを見上げている。今にも二度寝へ雪崩込みそうな目尻の緩みと一向に力の入らない四肢にうんざりしながら、最後と決めて僕ももう一度名前を呼ぶ。これで目ぼしい反応が無ければもう強引に引き起こしてしまおうかと思ったが、その一歩手前で影片はこちらの不意を突くように笑う。新雪と見間違う鼻筋や額や顎は瞬く間に生き生きと上気し、うっそりと無垢に口角が上がる。普段のだらしなさや卑屈さがぴたりと鳴りを潜めた麗しのキャンバスには、いっそ怖気すら覚えるような無邪気さだけが芸術の名の元に浮かんでいた。咄嗟に息を止めて全体を突き放し、個々の美しさに注視する方を選んだのは正解だったかもしれない。意図無く垂れ流される端正は、見る者の魂を容易く奪う暴力となる。散々骨身に沁みて懲りた隙を急ぎ埋めながら、放埒の残り香すら貰わないように気を付けて警戒を続けた。ふと、月が微笑みの形のままざわりと移ろう。満ちも欠けもしない絶妙な角度で決まった唇は、羽化したての艶めきを瞬間取り戻して更に歪む。

「寝ても覚めてもお師さんばかりや」
……僕を夢見ることを許可した覚えは無い」
……んあっ? えっ、あっ、これ本物のお師さんやん」

 数秒揺蕩って突如ぱちりと輪郭を取り戻した瞳に仏頂面の僕が丸く映る。忙しなく瞬きを繰り返す度に先程まで影片を覆っていた神秘は霧散し、生来の粗忽さが目について不快だった。生き生きと色付き出すあちこちに気付き、さっき人間になれと願った筈の心が鈍い悲鳴のような音を立てて軋む。馬鹿みたいだ、嘆いておいてすぐに顧みるこの未練すら。一度覚悟を決めて受け入れたのであれば、どんな結果にも俯くな。元を辿れば、全ては僕が蒔いた種。咲いた花がいくら異形に綻んだって、朽ち落ちるまでは余さずお前の作品だ。
 鼻の奥がきんと冴える感覚がして、急ぎ眉根を寄せて怠惰への不機嫌を装っておく。そんな僕の動揺など露も知らず、影片はやっと床の冷たさや節々の痛みに気付いたようで、情けない声をいくつも上げた。流石にこの寒さでは、泣き言にかまけた者から凝固するだろう。言い訳と溜め息は全て飲み込み、足首に力を込めて優雅さの萌芽も待たずに全てを道連れに立ち上が
る。脈絡の無い緩急に喃語を漏らす身をこれは義務だと言い聞かせて、正しく軸を整え終わるまで注意深く支えてやる。予想より四秒早く揺らぎから抜け出して立位を取ったことは褒めてやろう。だから、さっさと離れた僕の手を未練がましく目で追ったことは見逃してやろう。

「もう夕食の時間だよ。夢など忘れて顔でも洗ってきたまえ」
「んぁ、ごはんの準備してくれておおきに。やっぱりお師さんは夢でもこっちでも優しいわぁ」
「君が夢の内容を覚えているような生き物かね」

 失笑を孕む軽蔑に影片はきょとんと瞬いて、不意を突かれたフリをする。夢と現実の境目が危ういのはお互い様で、君が進んで夢見がちを装うのも僕の影響だと理解している。全くうんざりすることばかりだと忌々しさに溜め息が漏れても、目の前の白々しさは揺るがない。いくらドアを開け放していても一向に暖まらない室内で、雑多に囲まれながら僕達は温度差を持って向かい合う。冷ややかに弁解を待つ僕を数秒ぽかんと見上げた後、影片は何を思ったかまたゆっくりと口角を上げる。静けさを破り、損なわれ出した価値の奥、迷い無く見開かれた色違いの星だけが場違いに美しい。

「ちゃんとは覚えてへんけど、お師さんが出てきてくれたことだけは確かやで。あっちのお師さんもなぁ、おれのこと何度も呼んでくれはったの」
「その程度の内容でよくもまあそこまで喜べるものだね」
「んあっ、正直言えば内容は何でもえぇんやけど。おれはお師さんだから嬉しいだけやし。……目を開けても閉じても、一番におれを見つけてくれたのがお師さんで本当に良かったわ」

 今日もおれは果報者やね。何の憂いも後ろめたさも無い声と朗らかさを見せつけられても、僕の眉根はきつく漣を湛えたまま。僕の影を浴びながらも微笑みは甘ったるく煌々と自我を持ち、それが酷く鬱陶しかった。これから先、ひとりの人間として生きるべき君は、いつまでもどこまでも僕にばかり固執する。僕の周りを衛星か金魚の糞かのように付いて周り、何でもかんでも僕を主語に物事を判断してきた君に、まだ確固たる個を名乗るだけの余白があるのだろうか。考える度に鳩尾は痛み、そのくせやっと自覚し始めた罪深さに立ち尽くすことすら烏滸がましかった。君はただ、僕の身勝手な願いを自分のものだと誤認して、訳も分からず手当り次第に叶えたがっているだけだ。いくら自在に四肢を動かせたって、心が好き好んで雁字搦めでは意味が無い。君はもう自由だ。僕なんてずっと前から自由だったのに。一人称が僕「達」になった途端、世界はぐんと狭くなり、二人はどこにも行けなくなった。人間と人形では寿命も言葉も夢だって、一つとして同じものなど望めない。君は僕と最後まで往くのだろう。だったらいい加減、いつかの呪いなど手放して、次のスタートラインに立ってくれ。
 
……下らない寝言はそこまでにしてくれ。君の夢物語に付き合っている暇は無いのだよ」

 そう大声で突き放してやりたい己をきつく瀬戸際で押し返し、僕は結局いつもの言葉足らずな自分を選ぶ。僕の傲慢に影片は瞬間瞠目するけれど、湛えた笑みにはやはり傷一つ見当たらない。無垢さに耐えきれず逸らした視線にも行くあてなど無く、縒れたネクタイの結び目辺りを中途半端に睨んで終わる。僕はいつもこうだった。伝えたいことは舌先を悪戯に痺れさせるだけで、むず痒さを誤魔化すように無責任な痛みばかりを与えてしまう。屈辱と挫折を経て、やっと全てをやり直し始めたのに、僕はまだ君に優しくすることが出来ない。これでは君が僕を手放せなくとも咎められないだろう。夢の残滓に人間未満が寄って集って、まるでどこかの神話みたいだ。
 痛々しいばかりの沈黙がぶつ切りにされた会話を無かったことにも出来ずに続く。保護者としてやるべきことは済ませたし、先に部屋を出てしまおうか。ひとでなしは重々承知の上で、ここを一刻も早く立ち去りたい気持ちが抑えられずにふと血迷う。だが、最低を行動へ移す直前、そこまで身動ぎ一つしなかった痩身が微かに揺らぐ。はっと息を呑む暇も無く、セーターに殆ど隠れたままの指が闇を裂くように動き、先程まで自分を支えていた手までまっすぐ伸びる。身体の横に下ろしていた左手の、無防備に夜に晒されていた小指の爪。よく意識しなければ触れられているのかすら分からない場所を狙って、影片は右の親指と人差し指だけで僕に触れる。僅か前のめりなった身体が僕と距離を詰め、一瞬冷たい匂いが鼻腔を掠めた。爪先から氷のような質感と温もりが少しずつ肌まで這い上がって来る。今度こそ本当に見なくても分かる。会話も遁走も放棄し、ついにきつく目を閉じた僕はの頬のすぐ横で波紋のような笑い声が上がる。

「全部お師さんの言う通りやね。やっぱりおれ、お師さんに怒ってもらわんと駄目みたい」

 そこだけ春と見紛う程の長閑さで影片はまた笑い、冬の気配が一層強く僕の周囲を薫る。人間同士の会話とは到底呼べないようなやり取りすら、僕達はきちんと噛み合うことが出来ない。結局、理解も喜びも満ちること無く部屋は黒く澱み、僕達は無様に乖離している。まだ温もりを持って漂う筈の遠い湯気すら、僕はもう上手く思い出せなかった。