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日本海
2026-03-29 20:35:50
3412文字
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太刀忍
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冷たい棘
太刀忍の落書き
仮想空間に再現された五月の、偽物の夜。
作り物にしてはよくできている。
三門の街に瓜二つで、現実とこの箱庭との間に齟齬があるとすれば、月だった。
本物よりはるかに大きい満月。それが、雲ひとつない上空に憚り出て、今にも落下してきそうだった。見れば誰だって偽物だとわかる。ここは現実とは違うのだという注意を喚起させるための装置なのかもしれなかった。
この空間のそこかしこで五秒おきに開く門から、吐き出されるモールモッドの数は五体、六体、七体。忍田は一閃でそいつらを屠っていく。あるものは硬い装甲ごと弱点の目を真っ二つにされ、あるものは腹を捌かれ、ひっくり返ってもう動かない。
斬り伏せても攻めてくる敵に、並の者なら一分で根を上げるだろう。しかし、ようやく調子が上がって来たとでもいう風に、忍田は自由に駆ける。
地面を蹴りあげ、建物の側壁を登って屋上へ。そこから飛び、敵の真上から旋空を放つ。
月のように淡く発光する刀身の一振り。その射程が飛ぶように拡張して、モールモッドたちは薙ぎ払われる。
見る人が見たら、忍田のはしゃぎっぷりに呆れて、「やんちゃ小僧が」と言い捨てたかもしれない。
モニタールームは八畳ほどの小部屋だ。
太刀川は暗いその部屋で、背もたれのある椅子に腰掛け、肘をついている。モニタが並ぶ中でひとつだけ明るい画面には、忍田が建物の屋上から屋上へ飛び移っていく姿が映し出されていた。
太刀川は、丈の長い黒の上着の、前合わせの留め具のひとつを、外したり嵌めたりして弄ぶ。そして腕組みをし、首を捻って骨を鳴らした。
制限時間は二十分。画面上のタイマーの数字は減っていくが、忍田がバテる様子はない。
それを見て太刀川は、設定に勝手に手を加えた。ゲートが開き始めてから十分が経過しようしていたが、その時点からゲートが開く頻度を二秒おきに、出てくるモールモッドの数も倍になるよう変更した。
モニタールームに太刀川がいることを、忍田は知ら
ない。
一人で訓練室に入っている忍田を太刀川が見つけたのは偶然だった。
日付が変わりつつある深夜、太刀川は任務を終えた。
端末上で忍田がまだ退勤していないことを確認して、執務室にいない彼を探しにいき、訓練室棟を通りがかったとき、ある部屋に使用中のランプが点灯しているのを目にした。通常訓練室の私的利用は二十二時までというルールがあるため、使用者は上に許可を得ている者か、特別な権限を持っている人間ということになる。中にいるのが忍田のような気がして、彼は立ち止まり、モニタールームのドアに手をかざした。
ドアはロックされていなかった。
真っ暗な部屋の中で唯一点灯している中央のモニタには、予想通り忍田の姿が映し出されている。
見られたところで、師匠は別に嫌がったりはしないだろうと、ちゃっかり観戦することにして、今に至る。
訓練室の中にいる人間からしてみれば、設定変更は嫌がらせでしかない。
忍田がどんな顔をするのか考えると、太刀川は内心笑いが込み上げてくる。きっと忍田も、退屈はしないはずだ。太刀川は思う。
彼は忍田が負ける姿は万に一つも想像していなかったが、戦いにおいて余裕を崩さない、あの師匠が動揺するところを見てみたいという悪戯心は過分にもっていた。
ついに残り時間が十分を切る。門が開いてそれまでの倍のモールモッドを排出し、二秒と間をおかずに次のゲートが開いたのを視認して、忍田は軽く目を見開き、片眉を上げた。だが驚きの表出はそれだけだった。彼は至極冷静で、モールモッドの数が増えたことにも動じず対応する。
新たな門から出てきた敵が複数の方向から加速して向かってくる様子は、肉片に群がるピラニアのようだった。獲物の胸を抉ろうと振りかざされた鋭い前足によって、巻き起こった風が忍田の髪を揺らす。それを避け、彼は前方に飛んだ。上空でするり、身体を回転させながら放った四本の光の軌道が敵を巻き込み、衝撃で土煙が上がる。着地までの間は二秒。次の門が開き、またモールモッドが吐き出される。忍田は片端から殺していく。無駄のない身のこなしと太刀筋。かけらほどの危なげもない。
タイマーのカウントダウンが最後イチからゼロになったとき、太刀川は魅入ってしまっていて、まばたきするのを忘れていた。
フィールドのそこら中にモールモッドの残骸が転がっていた。並の剣士ならとっくにトリオン切れで殺されている。
忍田は大きな月を背にして、この空間の中でも一際高いビルの上から作り物の三門の街を見下ろしていた。
ズームアウトしていたカメラがアップに切り替わって、表情がはっきりと映り込む。
口許を吊り上げて、忍田は笑った。いつもの彼とは違う、冷えた微笑。悪魔だってもっと人間らしく笑うだろう。
太刀川がここにいるなんて知らないはずなのに、明確にその存在を認識し、こっちへ来いと誘っている。
太刀川はその笑みが、誰でもない、自分にのみ向けられた
のだとはっきり分かって、心臓にナイフを突き立てられたような感覚にぞっと鳥肌を立てた。
そこから、いくつもの感情が混ざり合っていくのを自覚する。
「
……
いつもこうだ」
小さな独り言が、暗い部屋に吸い込まれて消える。
あの時と同じだった。
画面の向こう側の忍田はコートの裾を翻して、蛍光色をしたトリオンの粒子に分解され、フィールドから消える。
たぶん、後ほどモニタールームにやってくるだろう。
彼がいなくなった後も、太刀川は薄く涙の張った眼球を見開いたまま、画面を眺めていた。
身体が記憶を引き摺り出す。
「心臓の場所はわかるか?」
(そんな当たり前のこと聞く?)
太刀川は、内心不服に思う。
「ここ、です」
一応左胸に手を当ててみせると、師匠は微笑んだ。
忍田はときおり弟子に、トリオン体のみならず、生身の肉体の急所を教えた。自らのトリオン体を生身に見立てて、狙うべき場所を切り落とさせてみることもあった。最後の最後、慶が生き残ることができるように、と言う忍田が、何を想定しているのか、賢明な太刀川はきちんとわかっていた。
トリオン体に、骨や肉が断ち切られるときのリアルな感触は必要ない。痛覚も、どこを損傷したかわかるくらいの違和感があるように設定してあるだけだ。だから忍田に胸を貫かれたとしても、太刀川はほとんど何も感じないはずだった。
「心臓は胸郭に保護されている。胸郭は十二対の肋骨、十二個の胸椎・胸骨からなる」
忍田は説明した。訓練の時と同じ、淡々とした声。
「内部は胸膜に覆われていて、心臓だけでなく肺や気管支がおさまっている」
違うのは、距離だった。いつもよりも、近い。
「動いている敵なら狙いにくい場所だが、刺されば即死だ」
訓練室の白いグリッドを眺めていると、喉が詰まる感じがする。それを、太刀川は誰にも言ったことはない。
「準備はいいか?」
忍田に言われ、太刀川は頷いた。
ゆっくりと切先がトリオンの肉に埋められていく。
くすぐったい。変だ。トリオン体の設定を誤ったかもしれない。
弧月が、肋骨の隙間を抜けて、心臓を貫いていく。
たとえば、腕に刺された注射針の先、血液が逆流してくるのを、注視するような気分だった。
太刀川は、息苦しい、と思った。気のせいではない。だんだん呼吸が浅く、早くなっていく。
太刀川は視線をさまよわせたあと、逆光になっている忍田の、胸より上を見上げた。
すると忍田は目をすがめて、口元だけに微笑みを浮かべていた。これまで見てきた、誰のどの笑顔よりも優しい表情だった。この状況と不釣り合いなようで、太刀川はぎょっとしてしまう。
その瞬間に、心臓の奥に何かが残った。
忍田がいったいどうしてそんな顔をするのか、太刀川には分からない。
冷たくて痛い。抜けない。
視界が白くなり、気が遠くなって、気づいたら尻餅をついていた。弧月は胸から抜き去られていて、損傷部分の自動修復もとっくに終わっていた。
ハッとして忍田を見る。彼の面持ちは、太刀川を心配するそれへと変わっていた。
「慶、大丈夫か?」
「
……
」
すぐには応答できなかった。未だ太刀川の胸に棘が刺さって抜けなかった。鼓動のたび、心臓の形さえ知覚できるように痛みが走る。まるで弧月が刃こぼれして、その破片が中に残っているみたいだった。
その時から、同じ場所が痛む。
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