あんころ
2026-03-29 01:32:16
2935文字
Public 伊奈スレ
 

のこされたもの

ブルスカにつぶやいていた人魚ネタに必さんが最高の絵を描いてくれてブチ上がったSSです。
なんでもゆるせる方むけ・しっとりしんみりしている

「不思議な色だね」
 滑らかに輝く肌を、正確にはその鱗を撫でる。彼の鱗はその目の色と同じで、ブルーにもグリーンにも見える不思議な色をしている。僕は彼らの鱗がどういう原理でこうも輝いて見えるのか知らないので、不思議だと形容するしかない。きれいだと思う。好意的に受け取ってもらって構わない内容だった、のだが。
……鱗は食べても不死になれないですよ」
 言われた本人――ヒトではないけれど――はただ眉をひそめてそう言った。


 彼は、寄り道をした小さな町で見世物小屋に捕まっていた人魚だった。僕が買い取って、今は海沿いの潮焼けして古びた家で一緒に暮らしている。見世物小屋の主人にも渋られたしそれなりに値も張ったが仕方ない。一目惚れというやつなので。
 人魚といえば、伝説になっているくらいの特別な存在である。海中に住まう、美しい不老の生物。僕も実物を見たのは初めてだった。小さな水槽に押し込められてその尾びれと髪を揺らめかす姿は、神聖なようにも煽情的なようにも見えて、なるほどこれは見世物としていい稼ぎになるだろうと感心したものだった。
 美しい彼は、どんくさくて人間が好きだった。自分を捕らえて食い物にする――最悪なことに文字通りの意味もある――人間を愛していた。異様なほどに。
 有名な話だったが、人魚の肉は不死の力を持っている。彼もそうらしい。断ればいいのに、彼は求められたぶんだけその肉を分け与えてきた。
 本人いわく、僕が買い取ったときにはすでに、もうほとんど残っていない状態だった。

 人魚である彼は、美しい人魚であるがゆえに、死のその間際までその形を保つことができる。死んだら流石に「なくなる」と言っていたけれど、彼がどんなに削がれ減らされても、見た目には現れないらしい。肉を削いだその日のうちは血も流れるし痛そうにもしていたが、次の日には見た目だけはすっかり塞がっている。
 彼はそういう生き物だった。
 人間の僕には全く理解のできない原理で、彼ら人魚は生きていた。




 彼は――スレインは、僕が彼を買い取ったのはその不死の肉を独占するためだと思っているらしい。鱗なんて普通の魚でも食べないのに、僕がそこまで狂人に見えるのだろうか。少なくとも、彼の噂だけを頼りにはるか遠くからこのボロ小屋を訪ねる人たちよりは常人だろう。
「僕は君の肉のために君を買い取ったんじゃない」
 現に僕は、不死の肉を求めてやってくる人のために彼が自らの肉を削ぐのを止めたことはない。はじめのころに止めようとして「こんな僕でも必要としてくれるのだから」、と泣かれて以降は、一度も。
 不老であるスレインと生きていくために不死になりたいなと思うことはあるけれど、僕のことをてんで信用してくれない今の彼に伝えても理解してもらえないだろう。
「僕の肉が目当てでないとして、じゃあ何がほしいんですか」
……きみ」
 ほとんど本音のそれを、スレインは鼻で笑った。陸でも海でも機能する魔法のような肺から、嘲笑のようなものが押し出されて空気を震わせる。
「やっぱり不死がほしいんじゃないですか」
 ほら。見ず知らずの人間には肉を分け与えて微笑むくせに、一緒に暮らしている僕のことは信用ならないらしい。それとも本当に、自分の価値はその不死のちからを帯びる肉だけだと思っているのか。思っていそうだ。一緒に暮らして分かったことだけれど、この人魚はまあまあ面倒くさい性格だった。
「いいよ、今のところはそれで。ところで今日は何が食べたい?」
……野菜が食べたい」
 魚は飽きたらしい。
「わかった。後で市場に行ってくる」




 とある日、スレインは珍しく魚を食べたがった。
 昼間にまた、彼の肉を求めてやってきた男にその体を分け与えていたようで、腹のあたりに出血を隠すようにしてガーゼが当てられていた。日ごろ彼が好む野菜などよりは貧血にいいかもしれないが、本当は魚よりもレバーなんかを食べてほしい。人魚の血液が、人間と同じ成分なのかは怪しいけれど。
 結局彼のおねだりに負けて、僕は市場で新鮮な魚を山ほど買った。慣れているだろうと思って出した刺し身も、まるごと焼いてスパイスで味付けした料理もスレインは喜んで完食してくれた。よく食べるのはいいことだ。僕も嬉しいし。
 いつものように二人で食事をして、本当にいつも通りで、スレインもいつも通りに「おやすみなさい」と言って水槽に沈んでいった。

 その夜。
 小さな揺れを感じて、深く沈んでいた意識がぼんやりと浮上する。
 気配のする方を見ると、彼の寝台でもある大きな水槽から体を乗り出して、スレインが僕のベッドに体を横たえていた。ちかくに、冷たいけれどたしかな体温がある。脳は覚醒しきらず寝ぼけたまま、僕を見る人魚を見る。不思議と、彼の目は暗がりでぼんやりと光を放っている。
 陸に長くいると人魚の体は崩れてしまう。だから早く戻って。そう伝えたいのに、体は鉛のように重かったし、意識も泥沼の中にいるように鈍かった。
「あなたには、僕の肉なんていらないだろうから」
 スレインはそう言った。やさしい声だった。そこまで聞いたのに、僕の意識はぼろぼろと形を崩して落ちていく。何か言葉を返せたのかもあやふやだ。頬に何かが触れた。
 それきり、僕は再び深い眠りへと落ちてしまった。



 まだ外の暗い時間に、目が覚めた。いつもなら穏やかに揺れて水の音を反響させている室内が、やけに静かで、明るくて。
 違和感に飛び起きると、スレインはいなくなっていた。すぐ近くの水槽にも、部屋のどこにも見当たらない。
 僕は、彼の色で満ちた鱗の海の中に眠っていた。指先に、足に、振れればからりと音を立てる鱗がある。
 それで、彼が脱走したのでも、連れ去られたのでもなく、死んでしまったことを理解するほかなかった。死んだら「なくなる」とは確かに聞いていたけれど、肉をなくした人魚が本当に文字通り跡形もなく消えてしまうだなんて。呆然とする体に、鱗だけの彼が寄り添う。

 昨日の昼間、僕の知らないうちに知らない誰かのために削がれてしまった肉が、きっとスレインの最後だった。僕の知らない間に、彼はきれいさっぱり僕以外の人間に分け与えられてしまっていた。
 鱗を残してくれたのは、彼の優しさだろうか。僕への哀れみだろうか。それとも、彼が唯一のよすがにしていた価値に靡かなかったことへのあてつけ? ……そういうモノなら、まだ救われたかもしれない。

 もうちょっと伝え方があるんじゃないか、と行き場のないやるせなさだけがある。昨夜のぼんやりとした夢のようなあれが、きっと彼なりの気遣いだった。優しさで、おいていかれる僕への、彼からの贈り物。
 ベッドに散らばるそれをてのひらにかき集めて、持ち上げてみる。からりと軽い音。小さなそれは指の隙間から落ちていく。スレインの瞳の色。いつだったか、僕が不思議な色だと――きれいだと伝えた、彼の弱い皮膚を覆っていた鎧。不死の力などない、ただきれいなだけ。
 彼の色をした鱗でしかないそれは、どうしようもなく僕のためだけの彼だった。