Hnyanko
2026-03-28 22:50:48
3263文字
Public
 

片想い🧡の悠アキ🏹🧡

すこしだけ、臆病な🧡くん。

 西日が、店のガラス越しにやわらかく差し込んでいた。

 午後の六分街はいつも少しだけ騒がしい。遠くで誰かが笑う声がして、通りを走る足音がして、見慣れた看板の色が、傾いた光にぬるく溶けている。そんな何でもない時間のはずなのに、その日だけは、どうしてだか空気の温度まで違って感じられた。

 カウンターの内側で新作のパッケージを並べ替えていたアキラは、ふと、棚越しに伸びてきた手に気づいて顔を上げた。

「これ、面白かった?」

 ケースをひとつ摘まみ上げながら、悠真がこちらを見る。

 ただそれだけのことなのに、息が詰まった。

 光が彼の横顔に落ちていた。柔らかな黒髪の隙間を透かしている。睫毛の縁を淡く照らして、金色の瞳の色を、いつもより少しだけあたたかく見せていた。たぶん本人は何も気づいていない。自分が、見た者の呼吸を奪うほど綺麗な顔をしていることも。そんなふうに立って、何でもない声で話しかけるだけで、誰かの胸の奥をやわらかく刺してしまうことも。

 綺麗だ、と、思った。

 思ってしまってから、遅れて戸惑う。

 そんなふうに見てはいけない気がした。見慣れた友人の顔を、触れてはいけないものみたいに感じてしまう自分が、ひどく後ろめたかった。けれど一度気づいてしまった感情は、見ないふりをしたところで消えてはくれない。

「アキラくん?」

「あ、うん。面白いよ。たぶん、悠真も好きだと思う」

 なるべく何でもない声で返す。うまく笑えていただろうか。わからないままケースを受け取ると、悠真は「じゃあ借りようかな」と軽く肩をすくめた。その仕草にさえ、胸が小さく疼く。

 どうしようもないな、とアキラは心の中でだけ呟いた。

 好きになってしまったのだ、と思う。

 ずっと前から、その兆しはあった。気づくか分からないような微かなノック音と、ふらりと店に寄っては他愛ない話をしていくこと。気まぐれなくせに、こちらの顔色が少し悪いだけですぐ気づくこと。飄々と、ときには強い言葉で悪役を引き受けることもあるのに、肝心なときは誰よりまっすぐで、あまりにも自然に誰かを守ろうとすること。

 そういうひとつひとつを、特別に受け取ってしまう自分がいた。
 でも、その想いに名前を与えるたび、胸の奥には別の痛みが生まれた。

 もし、このままなら。

 悠真本人の口から告げられた病名を、アキラは忘れたことがない。可能性の話だ。確定した未来ではない。治療だって進んでいる。希望がないわけじゃない。本人だって、必要以上に悲壮ぶるような性格じゃない。

 それでも、もしこのままなら、あと数年かもしれないのだと。

 その影だけは、どれだけ笑っていても、ずっと胸の底に沈んでいる。

 だからアキラは、好きだと言えなかった。

 恋をしていいのか、わからなかった。こんなふうに誰かを見つめて、未来を願って、隣にいたいと思って、それでもその先にあるかもしれない喪失を考えるたび、足が竦んだ。もし叶ってしまったら。もし、そのぶん失う痛みまで深くなってしまったら。もし、優しい悠真が、自分のために何かを背負おうとしたら。

 怖かった。

 怖いくせに、やっぱり今日も綺麗だと思ってしまう自分が、いちばん厄介だった。

「そういえばさ」

 ケースを胸元で軽く叩きながら、悠真が窓の外へ目を向ける。ちょうど通りの向こうで、季節ものの雑貨を並べ替えていた店先に、小さな造花の束が見えた。黄色い花弁が、陽を受けて明るく光っている。

「僕、花ならひまわりが好きなんだよね」

 何でもない会話の流れで、彼はそう言って笑った。

 アキラの指先が、ぴくりと止まる。

……ひまわり?」

「うん。わかりやすいでしょ」

 自分でもそう思う、とでも言いたげな軽い口調だった。冗談めかしているのに、ひどく似合ってしまうのがずるい。ひまわり。明るくて、まっすぐで、夏の光の中でいちばん綺麗に咲く花。

 あまりにも、悠真みたいだった。

 似合う、と思ってしまった瞬間、喉の奥が冷える。

 花は、いつか萎れる。季節は、終わる。どれだけ眩しく咲いていても、その盛りが永遠ではないことを、花はあまりにも静かに教えてくる。

 ――待って。

 胸の内でだけ零れた声は、もちろん届かない。

 届かないままでいい、とさえ思った。

 言ってしまえば壊れてしまう気がした。今こうして、ガラス越しの光のなかに立って、気軽に話しかけてくれるこの距離が。何でもない顔で笑い合える日常が。もし触れようとしてしまえば、手のひらの熱で花弁が傷んでしまうみたいに、全部が繊細に崩れていく気がした。

 だから、願う。

 告げる代わりに、祈る。

 治ってほしい。助かってほしい。来年の夏も、その次の夏も、その先も、こうして笑っていてほしい。ひまわりが好きだなんて、何でもない顔で言える明るさのまま、生きていてほしい。

 それだけでいいのだと、自分に言い聞かせる。

 そばにいられるだけで十分だと。名前も持たないまま、この恋は胸の奥で静かに咲かせておけばいいのだと。届かないなら、せめて君の幸せを願おう、と。

 そうして何度も宥めるたび、本当はこれでよくなんかないのだと知ってしまう。

 このままもし、悠真が先にいなくなってしまったら。

 そのあとも自分は生きていくのだろう。朝になれば店を開けて、眠ればまた目が覚めて、季節が巡れば服を替えて、少しずつ今よりもっと大人になっていくのだろう。コーヒーの好みだって変わるかもしれない。笑い方も、声の低さも、目元に刻まれる皺も、今とは違うものになっていくかもしれない。

 そうして、悠真の知らない自分になっていく。

 そのことが、たまらなく怖かった。

 君が見たことのない僕。君が知らない歳月を重ねた僕。もしそんなものがこの先に待っているのだとしても、本当はひとつだっていらないのに。

 君と一緒に年を取りたかった、なんて。

 そんな願いは、いくら何でも重すぎる。口にしてはいけないものだ。だからアキラはただ、ケースの角を整えるふりをしながら、乱れた呼吸をゆっくり飲み込んだ。

「アキラくん、どうしたの?」

 ふいに覗き込まれて、心臓が跳ねる。

 近い。溶かしたような琥珀の瞳がまっすぐこちらを見ている。こういうところが、本当にずるい。自分はこんなにも必死に隠しているのに、悠真は何のためらいもなく距離を詰めてくる。優しさだとわかっているから、なおさら苦しい。

「大丈夫。ちょっと、考えごとしてただけ」

「ふぅん。無理しないでよ」

 それだけ言って、悠真はまたいつものように笑った。

 光差すその横顔が、どうしようもなく綺麗だった。

 思わず息を飲み込んで、ただ戸惑うことしかできない。恋なのか、祈りなのか、自分でももうわからない感情が胸いっぱいに広がっていく。届かないから、届かせないから、僕は、ただ君の幸せを願おう――そんなふうに、幾度も幾度も自分に言い聞かせる。

 これでいいのだと。

 君が生きていてくれるなら、それでいいのだと。

 なのに、物憂げに目を伏せる君を見つめるたび、胸の奥では別の声がかすかに疼く。どうか行かないで、と。どうか置いていかないで、と。どうか来年も、その先も、君の時間が途切れませんように、と。

 それはきっと、誰にも聞こえない唄だった。

 口には出せない。届けるつもりもない。ただ胸の内で、君へ向けて静かに歌い続けるしかない祈りだった。

 西日は少しずつ傾いて、店の床に落ちる光の色を変えていく。六分街の喧騒は相変わらず途切れず、世界は何事もないように夕方へ滑っていく。

 そのなかで、アキラはそっと目を伏せた。

 ひまわりが好きだと笑った君の声を、胸の奥にしまい込むみたいに。

 どうか、咲いたままでいてほしいと願いながら。