ポほ
2026-03-28 05:44:16
10470文字
Public 跡取り息子、やめました!?
 

帰ってきた嵐

りやめ二学期編第8話。
タイトルの割にそこまで嵐士回ではありませんね

 宗真は、嵐士との決闘に負けた。力の差も、覚悟の差も見せつけられた。
 だがその直後――彼は上司(?)とされる人物からの指示を受け、あっさりと月城家を離れることになった。
「また会うことがあるかは知らんけど」
 そんな投げやりな前置きを残して。
 風呂を覗かれたり、遠慮のない物言いに振り回されたり。正直、迷惑な男だった。
 それでも。決闘を通じて、ひとりの剣士として――いや、“男”としては認めようとした矢先だった。だからこそ、宗真は妙に落ち着かない感情を抱えたまま眠りについた。

 そして翌日。教室に入った宗真(もちろん女の子に戻っている)は、違和感に気づく。自分の席に荷物を置き、ふと後ろを振り向く。
 そこに――当たり前の顔で、嵐士が座っていた。
「宗真くん、おはようさん。昨日は楽しかったなあ?」
「な、なんでいんだよっ!」
 教室の数人がこちらをちらりと見る。嵐士は気にした様子もなく、頬杖をついた。
「まー、向こうの人らと色々話つけてな。やっぱり学校にいる間はボクがキミを見守ることになってん」
「いや、どういうことだよ! お前の言い方だとなんかキモいっていうか……!」
「まあまあ。ボクの意思やなくて、あの人なりに宗真くんのこと思っての指示やから。大目に見たって」
……それって、お前のボスの変態のことだろ」
 嵐士は、そこで初めて薄く笑ったが、否定も肯定もしない。
「それに、逆に考えてみいや? ボクみたいな強い男がずっとそばにおったら、キミも安心やんか」
「べ、別にお前なんかに守ってもらわなくてもいーし!」
「ふーん?」
 すっと視線が落ちる。
「その細っこい腕で? 女の子の身体で? それまで怖い思いしたことないんか?」
「な……なくはない、けど……
 言葉が詰まる。
「宗真くんのこと好き好きクラブ代表の吉田くんや江沼くんは、クラスもちゃうしな。ずっと一緒ってわけにもいかんやろ?」
 にやり、と笑う。
「その点ボクはクラスも同じやし、一緒におる時間も長いし。改めてよろしゅうな」
「なんだよ、好き好きクラブって……
 後ろから聞こえるくつくつという笑い声。
……まあ、学校だけならまだマシか……?)
 家にいないだけ、まだ平穏だ。そう思い込もうとする。
 だが。後ろから感じる視線は、決して軽いものではない。
 剣士としても、男としても、一度はぶつかり合った相手。味方なのか、監視役なのか。
 それとも――宗真は深くため息をついた。どうやら、嵐士との因縁はまだ終わっていないらしい。

 宗真は、振り返ったまま小声で問いかける。
……それで、お前、今どっから通ってんだ?」
 嵐士はぱっと顔を明るくした。
「なんや、ボクの心配してくれるんか! 宗真くんは優しいなぁ」
「違う!」
 即答。嵐士は気にした様子もなく続ける。
「宗真くんの家の近くのマンションや。向こうさんが色々手配してくれてな。場所は正面にウジエスーパーがあるとこで――
「え、そこって……
 一瞬、思考が止まる。
「ヨツダの家じゃねえか!?」
 確かにあのスーパーの向かいには、比較的新しいマンションが建っている。
 そのマンションは階層によって単身世帯向けとファミリー世帯向けの間取りの部屋に分かれているらしく、嵐士の住む高層階が前者、吉田家があるのは低層階の後者にあたるようだ。
 嵐士は肩をすくめた。
「そうなんか?ま、鉢合わせることはそうそうないやろ。昨日も今日もうてないしな」
 宗真は額を押さえた。
「なんか……あいつに貧乏神擦り付けたみたいだな……
「宗真『社長』、冗談きついわ〜」
 けらけら笑いながら、ふと思い出したように付け足す。
「あ、そうそう。入門のときに持ってったお金な。昨日までの日割り分以外は当面の生活費に充てるから、すまんけど回収させてもろたわ」
「あー……まあ、なんでもいいけど……
 正直、宗真にとってはどうでもいい話だ。

 だがその頃の月城家。
 代休か何かで平日休みを取れた宗二は、鼻歌まじりに嵐士の持ってきたアタッシュケースを開けようとしていた。
「さてさて……若者の情熱資金を、ちょっと拝見と……
 ぱかり。空。
……あれっ?」
 何度か瞬きをする。もう一度確認する。
――やはり、空。
 その中に残されていたのは、一枚の書き置きだけだった。
『今までお世話になりました。すみませんが、月謝と生活費は今日付けの分までとさせていただきます。 嵐士』
「なにーーーーっ!?」
 静かな家に絶叫が響く。
「ジャパンカップで3倍に増やそうと思っていたのに……!」
 畳に崩れ落ちる。夢の大勝負は、幻と消えた。
――もっとも。
 そのまま賭けていたらどうなっていたかは、誰にも分からない。きっちり回収していった嵐士は、ある意味では月城家の財政を守ったとも言えるのだった。

 ざわつく三組の教室。
そこへ、ひょいと顔を出した人物がいる。
「宗真くん、大丈夫かい? 昨日のアレでケガとかしてないかと思って……
「おー海成、おはよ。響姉がちゃんとテーピングとか色々してくれたから平気だよ。心配してくれてありがとな」
 海成はほっとしたように微笑む――が、次の瞬間、表情が固まった。
……って、赤星くん!? なんで君がここに!?」
 宗真の後ろの席。当然のように座っている嵐士が、頬杖をついたまま視線を上げる。
……今頃気づいたんか。キミの目は宗真くんのことしか見えんようになってるみたいやね?」
「うん、そうだけど?」
(否定せんのかい!)
 一瞬だけ、嵐士の表情が崩れる。
「オレもよくわかんないけど、うちからは出てったけど転校はしなくて済んだんだって。しかもヨツダと同じマンションに住んでるらしいし」
「え!? 樹くん、大丈夫かな……騒音への苦情の手紙が入れられたり、ポストにゴミが投げ込まれてたりしないかな」
「いや陰湿すぎるやろ! キミん中でのボクのイメージどうなっとんねん」
 嵐士は身を乗り出す。
「ボクは吉田くんに何も恨みないし、んな事するわけあるかい! ……って、吉田くんといえば今日は来てへんの?」
「ああ、それがさ……学校には来てるんだけど、さっき三組行こって誘っても来なかったんだよ」
 少し困ったように続ける。
「『どうせあいつ(宗真)の方から黙ってても来るだろうし』って」
……なんだそりゃ)
 宗真の胸の奥が、わずかに引っかかる。
「へー。まるで自分はいつでも宗真くんから話しかけてもらえるみたいな言い草やなぁ?」
 嵐士はにやり、と口角を上げる。
「ああ見えて自惚れてんのやね?」
「そ、そこまでは言ってないけど……! いやでも、言われてみたらその通りかも……
 少し考え込んでから、海成は真顔で言った。
「赤星くん、僕は少し君のこと、誤解してたみたい」
「今更気づいたんか。宗真くんは色々面倒臭いお人やからな。お友達乗り換えるんならボクにしといた方がええで」
「いや、僕は宗真くん一筋だからそれはないよ」
 即答。嵐士は肩をすくめる。
「なんや、真面目そうな顔してキミもなかなか難儀な奴やな……
 二人のやり取りを聞きながら、宗真は視線を机に落とす。
(ヨツダ、なんかあったのかな……
 気にはなる。だが――
(『黙っててもオレの方から話しかけてくる』だって? 何様だよ……
 じわり、と意地が湧く。
(そう言われたら、意地でもこっちから話しかけたくなくなるんだけど)
 チャイムが鳴る。教室がざわめきから授業前の空気へと変わっていく。
 宗真は、前を向いたまま小さく息を吐いた。さて――どう出るか。

 同じ頃の一年一組。ヨツダは、自分の席で窓の外をぼんやりと眺めていた。別に、自惚れていたわけではない。「どうせあいつの方から来るだろう」なんて言ったのも、強がりに近い。
――本当は、合わせる顔がなかったのだ。
 昨日の決闘。勝ち目のない相手に、それでも一歩も引かずに立ち向かっていく。あれは、紛れもなく「男の」姿だった。
 まっすぐで、無鉄砲で。――美しいとすら、思った。

 小三の頃。仲良くなったばかりの宗真は、ただの悪ガキが、気まぐれで自分を助けてくれただけだと思っていた。
 けれど違った。いたずらっぽく笑う裏に、妙に強い正義感があった。理不尽を嫌い、曲がったことを許さない。そのくせ、自分のこととなるとどこか無頓着で。
 家では父から厳しい稽古を課され、放課後も休日も自由に遊ぶことをほとんど許されていなかった。

 月城宗真は、お気楽そうに見えて、少しだけ寂しさを抱えた少年だった。それに気づいたのは、案外早かった。だからこそ、気が合ったのかもしれない。帰る方向が同じだったこともあり、並んで歩く時間が増えた。
 宗真の父――宗二が出張で長く不在だった日。初めて、公園で時間を気にせず遊んだこともあった。あのときの、解き放たれたような笑顔。今でも、はっきり思い出せる。
――そして今。中学一年の自分が、四年以上の付き合いがある同性の友達に対して。友情以上のものを感じてしまうのは……おかしいのではないか。
 おかしくなかったとして、この思いを、どうすればいいのか。
 胸の奥が、じわりと熱い。昨日の宗真の姿を思い出すたび、呼吸が浅くなる。もし今、顔を合わせてしまったら。その感情が、はっきりしてしまう気がする。言葉にしてしまえば、後戻りできなくなる何か。それが何なのか、まだ分からない。
 分からないけれど――吉田樹にとって、それはどうしようもなく、怖いものだった。

 一時間目が終わり、教室に解放感が広がる。ヨツダは自席で時間割を開き、静かに確認する。
(今日は体育もあるし、部活もあるし……
 ページを指でなぞる。
(こういう時は、身体動かして気分転換するに限るな……
 余計なことを考えないで済む時間が欲しい。――そのとき。
「樹くん! 良いニュースと悪いニュースと、もっと悪いニュースがあるんだけど……聞きたい?」
 勢いよく現れた海成に、ヨツダはゆっくり視線を上げる。
(これ言って話切り出すやつ、実在したんだな……
……じゃあ、良い話から順番に」
「宗真くん、元気そうにしてたよ」
「そ、そうか。良かったな……
 胸の奥が、わずかに緩む。無事でいるなら、それでいい。
……で、悪いニュースなんだけど、赤星くんはまだこの学校にいたよ」
「え、マジか……
 嫌な予感が、現実になる。海成は少し言いづらそうに続ける。
「さらに悪いニュースなんだけど、赤星くん、君のマンションの上の階の方に引っ越したみたい」
……そ、そうか……
 一瞬、思考が止まる。
(でもマンションって、そんなに顔合わせることないし。せいぜいエレベーターくらいか?)
 構造上、単身用とファミリー用でフロアは分かれている。
(俺単独ではあいつとそんな接点ないし、言うほど悪いんだろうか……?)
「で、宗真はなんか言ってた? 別に赤星のことじゃなくても」
「うーん……
 少し首をかしげる。
「そういえば、あの後僕が赤星くんと意外と盛り上がっちゃってさ。宗真くんは、ちょっと静かだったかも」
(海成と赤星のやつが仲良くなっていく方が、俺としてはなんとなく嫌な予感がするんだけど……
 胸の奥に、ざわりとしたものが広がる。
「そうか。ありがとう」
 平静を装って答える。
 海成は思い出したように、ぱっと手を打った。
「そうそう。君が言ってた“自分から来るだろ”とかいうのは、樹くんの自惚れだよねーって、赤星くんと盛り上がってたんだ」
……あー、はいはい……
(もう嫌な予感が的中してる!)
 思わず机に額を打ちつけたくなる衝動を堪える。気分転換どころではない。
 むしろ今すぐ三組に乗り込んで――いや、行ったら行ったで、何を言えばいい。
 ぐるぐると巡る思考。チャイムが鳴り、二時間目の準備を促す。
 ヨツダはゆっくりと教科書を取り出した。
……落ち着け。俺は別に、自惚れてなんかいない)
 ただ。少しだけ。ほんの少しだけ――焦っているだけだ。

 二時間目の授業中。黒板にチョークの音が走る。
 だが、宗真の意識はそこにはなかった。普段から真面目に授業を聞くタイプではない。それでも今日は、いつにも増して上の空だった。
(なんだよ、ヨツダのやつ……
 ノートの端に、意味もなく線を引く。
(昨日はあんなデカい声で応援してくれたのに、まさかオレのこと嫌いになったんじゃないだろうな……?)
 胸の奥がざわつく。
(なんかオレ、知らないうちにあいつに酷いことしてたのかな……?)
 ふと、嫌な可能性が浮かぶ。
(あ、もしかしてコイツのせいか!?)
 後ろを振り返り、嵐士をきっと睨みつける。
(同じマンションだし、朝に何か吹き込んだとか!?)
 視線を受けた嵐士は、片眉を上げた。
……なんや、宗真くん。まだボクに怒ってんのか?)
 ちなみに、この件に関しては嵐士は完全な濡れ衣である。

 チャイムが鳴り、休み時間。嵐士が身を乗り出してくる。
「何でさっきあんな怖い顔で見てきたん? まあ宗真くんは怒っても迫力ないし、小型犬みたいなもんやけども」
「お前、朝とかにヨツダになんか余計なこと言ったんだろ? わざわざ同じマンションに引っ越してるし……
 嵐士は呆れたように息をつく。
「いや、ここに通いやすい立地で、管理人さんも住んでてオートロックで、独立洗面台で、スーパーも近いし、仙台にもバス一本で出やすい条件で探しただけやし」
 やたら具体的だ。
「まあ、向こうさんの財力やらコネを使ってもな、家探すのだって結構大変で……
……もういいよ」
 ふっと肩の力が抜ける。
「オレ、意地張るのやめる」
「ふーん?」
 嵐士の意味深な視線を背に、宗真は立ち上がった。勢いよく廊下に出て一組へ向かい、扉を開ける。
「ヨツ――
 そこで、凍りついた。
――教室の中では、一組の男子たちが体育に向けて着替えの最中だった。
 シャツを脱ぐ音、笑い声。女子は専用の更衣室で着替えるため、教室は男子だけ。
「そ、宗真くん!?」
「!?」
「わーーーっ!? 間違えました! すみません!!」
 勢いよく扉を閉める。廊下に飛び出す。
(なんでオレ一応男なのに、男の着替え見て謝ってんだ……
 自分でもよく分からない羞恥が込み上げ、逃げるように三組へ戻る。
「お、随分早かったみたいやね?」
(こいつに今のこと話したら一生いじられる……
「次の授業、体育だからもういなかったんだよ」
「へー、そりゃ残念やったな」
 声色は軽いが、目はどこか楽しそうだ。
(全然残念そうじゃない言い方……
 宗真は席にどさりと座り込んだ。意地を張るのをやめると決めた直後に、まさかの空振り。どうにも噛み合わない。
 チャイムが鳴り、一組の体育の時間が始まろうとしていた。

 空は高く、風は冷たい。今日の体育は長距離走だった。一定のペースでトラックを周回するだけの、単調な時間。
 海成はというと、早くもばてている。顔を赤くしながら、周回遅れでゆっくりと走っていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
 フォームも崩れ、腕の振りも弱々しい。
(長距離走って、適当にペース保って走ってればいいから、頭使わなくていいな……
 一方ヨツダは、この時間が救いとなっていた。
 一定の呼吸。一定のリズム。余計なことを考えなくて済む。
 けれど脳裏に浮かぶのは、さっきの光景。一組の男子たちが着替え中の教室に、勢いよく入ってきて。凍りつき、真っ赤になり、叫びながら逃げていった宗真。
(あんなに取り乱して。あいつ、相変わらずバカだな……
 思わず、口元が緩む。風が頬を撫でる。胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
……まあ、ああいう感じで、しれっと話しかけられればいいか)
 あいつは、深く考えていない。少なくとも、あの様子を見る限り。
(そうだ。変にあいつのことを意識するから悪循環になるんだ)
 友情だとか、恋だとか。名前をつけようとするから、息苦しくなる。いつも通りでいればいい。帰り道で、くだらない話をして。たまに言い合いをして。
――それでいい。
 呼吸を整える。一定のペースを守る。ゴールはまだ先だ。
 今はただ、前を向いて走ればいい。ヨツダは視線を上げ、トラックの先を見据えた。

 ヨツダはそのまま、無心で走り続けた。
 呼吸のリズムだけを意識し、足音だけを聞き、周りの順位も、視線も、雑念も切り離す。
 ただ、自分のペースで。そして――走り終える。
 教師がストップウォッチを見て、少し驚いたように声を上げた。
「お、吉田すごいな。前回よりかなり速くなってるぞ」
 ヨツダは目を瞬かせる。
「本当ですか?」
 驚きは本物だった。色々なことを忘れたかっただけだ。頭を空っぽにして、余計な感情を追い出したかっただけ。けれどそれが、かえって「走ること」だけに集中させてくれたらしい。
 汗を拭きながら、ぼんやりと空を見上げる。
……その様子を、遠くからじっと見つめる視線があった。
 同じクラスの女子。手を胸の前でぎゅっと握りしめ、何かを決意したような表情で、ヨツダを見つめている。
 
――体育の後。更衣を終え、廊下に出たところで。
「よ、吉田くん……!」
 少し裏返った声。ヨツダが振り向くと、さっきの女子が立っていた。頬がほんのり赤い。
「昼休み、ちょっと話があるんだけど……いいかな」
「?」
 唐突な申し出に、ヨツダは首を傾げる。
「いいけど……
 その返事を聞いて、彼女の肩がわずかに緩む。
……宗真と話す時間あるかな……
 そんなことを、無意識に考えてしまう自分に気づき。ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。

 そして、昼休み。宗真は弁当もそこそこに、一組の教室へ向かった。扉の前で一瞬だけ呼吸を整え、何でもない顔を作って中を覗く。
 だが――ヨツダの姿は、なかった。
(なんだよ……
 胸の奥が、妙にざわつく。

 背後から声がした。
「宗真くん? どうしたの」
 振り向くと、海成が不思議そうに首を傾げている。
「なあ、ヨツダいる?」
「え? あれ、さっきまでいたんだけどな……
 海成は教室を見回す。
「たぶん、誰かに呼ばれて――
 その言葉を最後まで聞かず、宗真は踵を返した。
「オレ、やっぱ探してくる!」
「えっ、ちょっと待っ――
 慌てて追いかけようとした海成は、走り出しかけて足をもつれさせる。
「わっ――
 よろける海成を置いて、宗真は廊下を駆け出した。胸がやけにうるさい。
 理由は、考えない。ただ、じっとしていられなかった。
――その頃。
 ヨツダと例の女子は、校舎裏の古い渡り廊下にいた。今はほとんど使われていないその場所は、昼休みでも人通りが少ない。
 窓から差し込む光が床に長い影を落としている。女子は両手を前で握りしめ、何度も深呼吸をしていた。
「えっと、その……吉田くん」
 ヨツダは壁にもたれ、静かに返事を待つ。
「なに?」
 穏やかな声。だが、内心は少し落ち着かない。
……宗真、教室来てないかな)
 そんなことを、ふと思ってしまう。

 女子は意を決したように顔を上げた。
「わ、私……前から、吉田くんのこと――
 その瞬間。渡り廊下の向こうから、走ってくる足音が響いた。

(あ、あれって……!?)
 渡り廊下の奥。人目につかない場所で向かい合う二人の姿。距離。空気。表情。
……宗真でも、すぐに分かった。
 数歩、反射的に引き返す。

 それから足を止め、柱の陰に身を隠すようにして息を殺した。
 胸の鼓動が、うるさい。
 ふと、思い出す。いつかの、杏奈――ヨツダのいとこ――の言葉。
「いっちゃんは、急にモテだすよ」
 信じたくなかった。笑い話だと思っていた。
 だが――それが今、現実になろうとしていた。
 
「だから……
 女子――岩切いわきりが、震える声で続ける。
ヨツダは、まっすぐに彼女を見ていた。
 そして。
……ごめん」
 静かな声。
「そう言ってくれるのは正直、嬉しい。けど俺、……他に好きな人がいて。岩切さんの気持ちには、応えられない」
 迷いのない言葉だった。取り繕いも、逃げもない。嘘偽りのない、本心。
(ヨツダのやつ……好きな人がいるなんて聞いてないけど!?)
 頭が一瞬、真っ白になる。
(オレというものがありながら……!)
 自分でも意味の分からない怒りが込み上げる。岩切は一瞬だけ目を伏せ、そして小さく笑った。
……そっか。変なこと言ってごめんね?」
 無理に明るく振る舞う声。
「最近の吉田くん、運動も勉強も頑張っててさ。カッコよくなったなーって思ってて。……あ、その人の為に努力してるのかな? なんて……
「そ、そんなんじゃ……!」
 ヨツダは慌てて否定しかけ、言葉を濁す。耳が赤い。
……あ、一緒に教室戻ろうか?」
 気まずさをごまかすように提案する。だが岩切は首を振った。
「ううん。ひとりで平気。ごめん、ほんとに忘れて!」
 そう言って、踵を返す。駆け出そうとする背中に、ヨツダが声をかけた。
……忘れないよ」
 岩切の足が止まる。
「だって俺、こうやって告白なんかされたの……初めて、だし。嬉しかった。謝ることなんて、ない」
 照れ隠しのように視線を逸らしながらも、言葉はまっすぐだった。岩切の頬が、ぱっと赤くなる。
「あ、ありがとね。変な話聞いてくれて。……先、教室帰ってるね!」
「うん……
 岩切は走り去る。渡り廊下には、ヨツダだけが残された。
 そして――柱の陰には、まだ動けないままの宗真がいた。

 宗真は、ヨツダに見つからないようにそっと教室へ戻ろうとした。
――が。
 さっきのやり取りの衝撃が抜けきらないせいか、足元への注意が完全に散っていた。何もない床で、盛大に躓く。
「うわっ――!?」
 バタン、と派手な音。
「だ、大丈夫ですか……!? って、お前かよ」
 駆け寄ってきたヨツダと、ばっちり目が合う。
「いたた……わっ、見つかった!?」
……『見つかった』じゃねえよ。見てたのか? 今の……
 わずかに赤い顔。宗真は慌てて立ち上がる。
「だって朝からお前がオレのこと避けてんだもん。オレ、お前に何かしたか?」
「な、何もしてねえよ……
 視線を逸らすヨツダ。
(あれ、なんか昨日より普通に話せるな……岩切さんの件で緊張がピークになって、逆に緩んだか?)
 宗真はじっとヨツダを見つめる。
「じゃあいきなり避けたりすんなよ。オレ、お前に……嫌われちゃったかと思って心配したんだからな!?」
 その言い方があまりにも真っ直ぐで。ヨツダは、思わず吹き出した。
「お前、そんなこと心配してたのかよ」
 くつくつと笑う。
「あれはさ……
 言葉を選ぼうとして、でも。――もう、誤魔化せない。
 この時点で、気持ちに蓋をすることはできなくなっていた。
「真面目に剣道やってるお前のことが、カッコいいなって思って」
 宗真は一瞬きょとんとし、それからにやっと笑う。
「『カッコいい』かー。『かわいい』の間違いじゃなくて?」
 その軽口は華麗に無視。
「そしたらなんか、俺にもよくわかんないけど、じっとしてられなくなって」
……で、帰っちゃったのかよ。よくわかんねえな、お前」
「ごめん。少なくとも、お前のこと嫌いになったわけじゃない。むしろ逆だから」
 一拍、沈黙。宗真の表情が少しだけ変わる。
……でも、お前には好きな人いんだろ?」
 ヨツダの眉がぴくりと動く。
……それも聞いてんのかよ」
「ごめん、そこまで聞くつもりはなかったけどさ。やっぱ、友達としては応援……すべきなんだろうな」
 少しだけ無理をした声。
(相手が誰か、までは聞かないんだな……コイツ)
 妙なところで踏み込まない。それもどこか宗真らしくて、もどかしい。宗真はわざとらしく肩をすくめる。
「でもこんなに可愛いオレがそばにいながら『好きな人』か〜。いいご身分ですこと」
 ヨツダは眉をひそめる。
「は?」
(その『好きな人』を明かしたら、こいつどんな顔するんだろうな……
 一瞬、そんな考えがよぎる。けれど――違う、とすぐに思い直す。この流れで言うことじゃない。岩切の告白に便乗した形になるのが、どうしても引っかかった。
 宗真は、そんな葛藤など知る由もなく、にやりと笑う。
……じゃあさ、これからはお前の為にデートの練習とか、付き合ってやろうか? 杏奈さんからは20点のデートって言われてたし?」
 からかうような声音。ヨツダは肩をすくめる。
「『練習』か。まあ、お前とじゃ、ある意味本番みたいなもんだけど……
 ぽつり、と本音が混じる。
「はあ?」
 宗真は聞き返しかけるが、すぐに自分の都合のいい解釈に飛びついた。
「あー、こんなに可愛い女の子と一緒にいたら緊張もするもんな!? よーやく気づいたんだ、オレの可愛さに?」
 胸を張る。どこまでも自信満々だ。
(そうじゃねえよ……
 内心でため息をつく。けれど、その“ずれ”が、妙に愛おしい。
 ヨツダは一歩、宗真に近づいた。
……なあ」
 少しだけ真面目な声。宗真が首を傾げる。
「な、なんだよ」
 昼休みの喧騒が、遠くに聞こえる。渡り廊下の静けさの中。
 ヨツダは、ほんの一瞬だけ迷って――それでも、今はまだ言わないと決めた。