宿泊学習から帰った日の夕方。
家路につく宗真の背後に、ふと
――人の気配があった。振り返るよりも先に、低く、楽しげな声がする。
「あの子が
……“かあさん”の言う宗真『くん』か〜。へぇ、思てたより可愛い子やん?」
声の主を確かめる間もなく、気配はすっと消えていた。
「
……気のせい、か?」
胸の奥に、言いようのないざわつきだけが残った。
翌日、土曜日の朝。月城家の食卓には、簡単な朝食が並んでいる。トーストに、いくつかのペーストの瓶。
「このさ、ずんだ茶寮のずんだペースト、まあまあじゃない?」
「オレ的には、こっちの小倉トースト用のやつのほうが好きかな。コメダの
……」
「
……」
宗二は何やら落ち着かない様子で、時計と玄関のほうをちらちらと見ている。
「なんだよ父ちゃん。ついに仕事クビになったか?」
「ち、違う! そうじゃない!」
宗二は勢いよく立ち上がった。
「た、
……大変なんだ!うちに、入門希望者が来た!」
「えっ!?」
「
……っていうか、そもそも来たことあったっけ? そんなの」
「ないわね。でも一応、道場の看板は下ろしてなかったし」
そういえば、と宗真は思い出す。体育祭のリレーで一緒になった上級生の郡司から「剣道教室の看板を見た事がある」と言われて、その時に気づいたレベルだ。
「と、とにかく!お前たち、食べたらすぐ道場に来なさい!」
そして先に道場に向かっていった。
「えー
……めんどくせぇ
……」
「まあまあ。挨拶だけして、さっと戻ってくればいいじゃない」
宗真は渋々トーストをかじりながら、ため息をついた。
(どうせ、響姉に瞬殺されて、すぐ帰ることになるだろ)
――このときは、まだそう思っていた。
だが。
この“入門希望者”の来訪が、月城家の日常と、宗真を取り巻く関係を静かに、しかし確実に揺さぶることになるとは。このときの宗真は、まだ知らなかった。
そして、静乃と宗真が道場へとやって来た。
すでにそこでは、宗二と響が来客の応対をしている最中だった。
「こちらが
……」
宗二が言い終わる前に、相手がにこやかに身を乗り出す。
「あー、お姉様方ですね!いやぁ、えらいべっぴんさん達やなぁ?」
そう言ってから、わざとらしく付け足す。
「あ、もちろん響姉さんもですよ?」
「
……はあ」
門下生が増えること自体は喜ばしい。だが、初対面からこの距離感
――。響は、どこか引いた表情を隠せずにいた。
「ボク、
赤星 嵐士言います」
軽く頭を下げ、続ける。
「剣道はちっとばかし、かじってた程度なんですけどね。この月城流っちゅうのが、えらい強い流派やって聞きまして。ぜひ、色々学ばさせてもらお思てます」
(
……赤星!? まさか
……)
(か、関西弁だ
……!)
静乃は一瞬だけ表情を引き締めると、すぐに取り繕った笑顔で言った。
「
……あの、赤星くん。少しだけ、待っててもらえる?」
そう言って、宗二、響、宗真を部屋の隅へと手招きし、小声で話し始める。
「どういうつもり!?“赤星”なんて、どう考えても赤星流のスパイでしょ!そんな子、入れちゃダメ!」
「待て待て。赤星さんなんて全国に七千七百人以上いるんだぞ?全員が赤星流なわけないだろ」
「でもさ、父ちゃん。関西弁だし、なんか胡散臭くね?」
「関西弁だから、はさすがに偏見だと思うけど
……」
響が窘める。
宗二は一瞬、言いよどんだあと、決定打を出す。
「
……でもな。絶対に、入れてやらないといけない理由がある」
そう言って、嵐士の足元に置かれたアタッシュケースを指さした。
それに気づいた嵐士が補足する。
「あ、月謝と、諸々のお金はですね。先にこちらに積ませてもろてます!」
「お金に釣られてる
……!お父さん、ほんとにプライドってものが
――」
「静乃姐さん!」
(
……“姐さん”はやめろ)
嵐士は悪びれた様子もなく近づいてきて、紙袋を差し出した。
「『バンドル』、お好きなんですよね?東京のポップアップストアで数量限定発売されたやつで
……えーと、カズミくん?やったっけ、それのなんたらかんたらなんですけど。これ、ご挨拶代わりに」
「あはっ。
……ようこそ、月城流へ!」
「静姉ーーーー!!」
宗真の叫び声が、道場に虚しく響いた。
(ひ、響姉なら
……!ちゃんと追い返してくれるはずだ
……次期当主なんだし!)
その期待を、嵐士はあっさりと踏み越えてきた。
「響姉さん!」
「は、はあ
……」
「ボクみたいなんでよければ、稽古の相手、いくらでも付き合いますから」
「えっ、本当!?」
ぱっと表情が明るくなる。
「実はね、最近誰も相手してくれなくて困ってたの
……!嬉しい!」
「まあ、さっきはコテンパンにやられましたけどね」
(
……もう勝負してんのかよ)
「でも嵐士くん!あたしが今まで闘った人の中では、一番骨があると思う!」
「ほんまですか?」
「うん! 絶対、強くなれるって!」
「それは嬉しいなあ」
(
……ん?この流れ、なんかおかしくね?)
嵐士はそこで、ようやく宗真のほうへ視線を向けた。
「で、キミが末っ子ちゃんか〜。ボクと同じ中学一年なんやってね。よろしゅう」
「い、言っとくけど
……オレ、いや、私は
……!」
一瞬、言葉に詰まる。
「
……私は、お前なんか認めね
……認めないから!」
(
……こいつ相手に、わざわざ男だってバラす必要もないよな)
「へぇ。見た目とは裏腹に、えらい強気な子なんやね?」
「い、いいだろ、じゃなくて。いいでしょ
……別に
……!」
宗真は一歩、前に出た。
「それより
……勝負しろ
…して!私が勝ったら、帰ってもらう!」
「ちょっと、往生際悪いんじゃなーい?」
静乃が横から口を挟む。
「う、うるさいなっ!」
宗真の声が、道場に響く。だがその横で、嵐士はどこか楽しそうに、口元を緩めていた。
勝負は、始まった。
――いや、始まったと思った瞬間だった。
「
……っ!」
踏み込んだ刹那、視界が揺れる。次の瞬間には、体勢を崩され、畳の上に転がっていた。
「な
――っ!?」
立て直そうとしたところで、間合いを詰められる。一歩、二歩。
反応する前に、完全に制されていた。
「
……ここまで、かな」
静かに距離を取る嵐士。
「
……っ、クソッ
……!」
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「新月なら
……新月だったら
……!」
「ううん」
響は首を横に振った。
「そういうの関係なく勝ち目なかったよ?」
「
……!」
「嵐士くん、ちゃんと“強い”。今のあんたじゃ、どう転んでも無理」
その言葉は、慰めでも突き放しでもなかった。ただの事実だった。
「まあ、年季の差やね」
嵐士は悪びれもせず、軽く笑う。
「でも、根性はあると思うで。最後まで下がらへんかったしな」
「
……うるさい」
視線を逸らしながら、そう吐き捨てる。
(
……最悪だ)
宗真の胸に、悔しさと、ほんの少しの
――認めたくない感情が、残っていた。
「じゃあ、嵐士くんには今日から住み込みで稽古してもらう。それと、学校は響と宗真の中学に通ってもらうからな」
「はあ!?コイツ、居候すんの!?」
「使ってない部屋があっただろ?ちょうどいいじゃないか」
「え
……じいちゃんだか、ばあちゃんだかの部屋だっけ?」
「ここだけの話な」
宗二は声を潜める。
「月謝だけじゃなくて、当面の生活費と学費も、さっきいただいたんだ」
(さっきの『諸々のお金』って、そういうこと
……)
静乃は自分が買収されたのを棚に上げて呆れる。
「いやいや!こんな怪しいヤツ、家に入れていいのかよ!?危機感とかさあ
……!」
宗真の言い分は、もっともだった。宗真が呪われて女の子になっても、本人がそこまで“元に戻りたい”と強く願わなかったせいで、いつの間にか忘れかけていたが
――
あの呪いは本来、宗真を「跡継ぎになれない身体」にするためのものだった。そんなことを平然と行う、恐ろしい連中がいる。
本来なら、警戒して然るべきなのだが。
「いやあ〜、まさか本業でこんなに儲かるとはな!」
「お父さん、一応まだ剣道の師範で食べていく気だったんだ
……でも、修行仲間ができるのは嬉しいな!」
「か、カズミたそ
……♡」
(もうだめだ、オレの家族は、おしまいだ
……)
その晩。嵐士は“来客扱い”ということで、勧められるまま一番風呂を済ませた。
廊下にて、スマホでどこかへとメッセージを送信する。
(『無事に潜入できました』っと
……あとは、ボディチェックか)
そして今
――宗真が入浴中だった。
(はあ
……疲れた。父ちゃんも姉ちゃんズも、あんなヤツほいほい家に入れて本当に大丈夫なのかよ
……)
湯船に浸かって溜息をついていた、そのとき。
――がちゃ。
突然、浴室のドアが開いた。
「すまんすまん、忘れ物
――」
(
……あ。本当に今は、女の子なんやな)
「おい!!何覗いてんだ、お前っ!!」
宗真は勢いよく立ち上がり、バスタオルで身体を巻き慌てて引き返そうとした嵐士を追いかけると
――
ぱしん!
「風呂覗いてんじゃねえよ、変態!!」
「あー、それなら、もう済んだから」
「何のことだよ?今度やったら、グーだからな!!」
(『身体を張って確認しましたが、ちゃんと女の子のままでした』
……っと)
嵐士の胸の内など知る由もなく、月城家の夜は、こうして騒がしく更けていった。
翌朝、日曜日の月城家。
(
……昨日、なかなか寝れなかった。全部こいつのせいだ
……)
眠気を引きずりながら居間に出ると、すでに朝食は始まっていた。
「いやー、静姉さんの作る朝ごはん、ほんま美味いなぁ!」
「市販のずんだ茶寮のペースト塗って焼いただけだけどね?」
「いやいや、それでも塗り方が上手いんやと思いますよ。ずんだってのも仙台らしくて、ええやないですか」
「
……まあ、ずんだを褒められるのは、地元民として悪い気はしないけど?」
二人の楽しそうな笑い声が、居間に響く。
(なんか、こいつがいるなら家にいたくないな
……)
トーストをかじりながら、宗真はそっと視線を逸らす。
(ヨツダあたりに声かけて、外出ちゃおうかな
……)
そのとき。
「ねえ、宗真」
「
……なに」
「嵐士くんに、仙台案内してあげなさい?」
「はあ!?」
「なんでオレが!昨日こいつに、風呂覗かれたんだぞ!?」
居間の空気が、一瞬だけ止まる。
「
……それ、本当なの?」
響の問いに、嵐士は軽口を叩こうとして
――そこで、ふっと表情を改めた。
「
……ああ、それは、ボクが悪かったわ」
「え?」
「忘れ物を取りに行ったんは事実やけど、中に人がおるかどうか、ちゃんと確認せんかった」
嵐士は宗真のほうを向き、深く頭を下げる。
「宗真ちゃん。不快な思いさせて、ほんまにすまん」
「
……!」
「女の子が入ってる風呂を開けるなんて、理由がどうあれアウトや。そこは言い訳せぇへん」
しばしの沈黙。宗真は視線を逸らしながら、ぼそっと言う。
「次、同じことしたら
――」
嵐士は一瞬だけ、真面目な目になる。
「ああ、そしたら月城流、即破門でええ」
「えっ、オレ、いや私、そこまでは
…」
「当たり前やろ。住み込みさせてもろてる立場やしな」
静乃は少しだけ、嵐士を見る目を変えた。
「うん。ちゃんと分かってるなら、今回はそれでいいと思う。ただし、宗真の入浴中は私達でちゃんとガードさせてもらうから」
(
……最悪なヤツだけど。最低、ではない
……のか?)
宗真は小さく舌打ちする。
「
……もし次やったら、グーだからな」
「はいはい。そのときは、ちゃんと殴られます」
「殴られに来るな!
……つっても、仙台に観光地なんて別にないし、そこにあるイオンでよくね?」
「そんなつれないこと言わんといてや。青葉城址とか瑞鳳殿とか、定禅寺通りとかあるやろ?」
「妙に詳しいな。そこまで知ってんなら、別にオレがいなくても
——」
(あ。やべ、女の振りするの忘れてた
……まあ、居候みたいなもんだし、もういいか)
(「オレ」ねえ
……やっぱ中身は男の子のまんまやな)
「いやー、情けない話やけどな。ボク、よう知らん土地でバスとか電車乗るの、めっちゃ怖いねん。仙台来るんも初めてやし?一人で歩くなんて、とてもとても
……!」
「嵐士くん、見た感じ西の方から来てるっぽいしさ。宗真、案内してあげなよ?」
「ひ、響姉まで
……!」
(まあ、最近まで富谷の方におったし、土地勘は全然ゼロとちゃうけどな)
駅に向かうバスの中。宗真は今日はいつもよりお洒落を控えめにしていた。静乃にコーディネートも頼まず、紺と白のボーダーのラフなカットソーにパンツという、男の時の服を兼用した動きやすさ優先の格好だ。
対して嵐士は
——妙に距離が近い。
「宗真ちゃん、モテるやろ?ボクの前の学校やと、宗真ちゃんより可愛い子、おらんかったで」
「
……そういう褒められ方、嫌い。ていうか言っとくけど、オレほんとは男だからな?」
「ああ、呪いでそうなってるんやろ。で、『新月になると呪いが解ける』んやったっけ?知ってる知ってる」
「な、なんでそれを
……!?」
「宗真『くん』、それ割と有名な話やで?ボクの耳にも届いとるしな」
なぜか宗真はムキになる。
「じ、じゃあこれは知ってるか?新月じゃなくても、なんか知らないけど戻った時もあんだぞ!」
(なんなら数日前の話だけど)
「へぇ〜、それは初耳やな
……メモしとこ」
「そんなんメモしても、何の役にも立たないだろ」
「まあまあ。世の中、何が役に立つか分からんもんやろ?」
(「かあさん」に言っとかんとな)
そして駅のバスターミナルに着いた。
「じゃあ、次は『るーぷる仙台』ってバスに乗って、そっから青葉城の方
――」
「行かへんよ?」
「
……は?さっき行きたい的なこと言ってなかったか?」
「だってボク、可愛い宗真くんとデートするのが目的やし?わざわざそんな遠くまで行く必要、別にないやろ」
(
……じゃあなおのこと、最初からイオンで良かったじゃねえか)
「それにしてもやなぁ。こんなに可愛い可愛い言うてやってるのに、あんま嬉しそうやないな?このくらいの歳の子は普通もっと喜ぶもんやと思ってたわ。あはは!」
「『言ってやってる』?
……だ、誰がお前みたいなやつにチヤホヤされて喜ぶかよ!オレ以外の女の子だって、お前みたいなのはきっと願い下げだっつーの!」
「あーあ。随分主語デカいんやなぁ
……これは早いとこ機嫌取らんとなあ」
そう言って、嵐士はふらりと近くにあった売店に寄り
——たい焼きを買ってきた。
「
……こんなもんでオレの機嫌が取れるとでも思ってんじゃねえよ
……え、白あん?」
一瞬だけ言葉に詰まり、目を逸らす。
「まあ、勿体ないから食うけどさ
……」
「素直やなぁ」
(月城家の皆さん、やっぱチョロいわ)
そして二人は、東口のヨドバシへ移動した。
「ほら、こんな新しいヨドバシとか、お前の地元にはないだろ?前にどこにいたかは知らないけどさ」
(まあ、新しめではあるけど、ヨドバシ自体はいろんなとこにあるわな)
「
……宗、真?」
吉田樹
――GUで服を買うついでに、石井スポーツのアウトドアコーナーも覗く予定だったらしい
――が、通路の向こうで立ち止まる。
「あっ、ヨツダぁ〜!いいところに!ちょっと助けてくれよ、変な居候にこの辺案内させられててさ!」
宗真が自然な動きでヨツダの腕にしがみつく。

「
……居候?」
「どうも。ボクは赤星 嵐士いいます」
(赤星って
……!?)
「昨日から月城家で居候させてもろてます。キミは宗真くんのお友達?」
「
……まあ、そうですけど」
「あ、ボクら同学年やから、敬語やなくてええよ。えーと名前は
……」
「俺は吉田 樹
……」
「へえ。吉田くんなのに、あだ名はヨツダくん言うんやね?ほな、ボクもそう呼ばせてもらおかな」
「
……いや、吉田でいい。その変な呼び方してんの、こいつだけだから」
「ふうん?『ヨツダ』は宗真くんからの特別な呼び方やから、ボクみたいな新参者には使わせたくない、ちゅーこと?」
「う、うるせえなっ!」
「そーだそーだ!」
ヨツダの腕にしがみついたまま、宗真はわざとらしく指を差す。
(へえ
……なるほどね)
東口のベローチェに入り、三人は奥の席に腰を下ろした。
「
……で。宗真の家族は、みんな何かしらの手段で買収されて、結果あいつは居候になった、と」
「そうなんだよ!てか苗字が赤星とか、どう考えても怪しいだろ!」
「だよなぁ
……」
「父ちゃんなんかさ、『赤星さんは全国に七千七百人いる』とか言い出して、完全にお金に目が眩んでんだぜ?」
(この先、宗真の親父さんが株を上げる展開ってあるのか
……?)
「ちょっと待ちぃな。それ、全国の赤星さんへの風評被害やんか!それに買収やなくてほんの気持ちやんか」
嵐士は笑いながら、コーヒーを一口飲む。
「それより、明日からはボクも宗真くんや吉田くんと同じ学校なんやし。二人ともそんな恐ろしい顔せんと、仲良うしたいなぁ」
「げっ
……学校まで同じなのかよ
……」
「しかもクラスは三組やって。宗真くんと一緒なんやってね」
「はあ!何考えてんだよ、あの学校
……!」
「あの学校の制服、女子はセーラーなんやろ?宗真くんのセーラー服姿、拝むの楽しみやなぁ」
「
……お前に見せるために着てるわけじゃねえよ」
宗真はむすっとしたまま視線を逸らす。それを見て、嵐士はどこか含みのある笑みを浮かべた。
店内に流れる静かなBGMとは裏腹に、三人の間には、これから確実に荒れる予感だけが漂っていた。
嵐士は、悪びれた様子もなく肩をすくめて言った。
「で、まだデートの途中やんか。宗真くん、次はどこ連れてってくれるん?」
「
……お前はもう、うち帰ったら?オレはヨツダと二人で、このままデートするからさ」
あまりに直球な物言いに、ヨツダは小さく溜息をつく。
(何言ってんだか
……)
「あーあ。ボク、随分嫌われてるんやねぇ。たい焼きまで奢ったのになぁ?」
「うっ
……!」
言い返しかけて、言葉に詰まる宗真。図星を突かれた時の、いつもの反応だった。
「宗真
……あんまり冷たくすることもないんじゃないか?」
ヨツダは嵐士ではなく、宗真の方を見て続ける。
「なんか、事情はわからないけど。こういうの
……イジメみたいでさ。正直、あんまり気分よくないっていうか
……」
妙なところで律儀で、融通が利かない。それが吉田 樹という男だった。
「
……それとも。こいつに、何かされたのか?」
「
……風呂、覗かれた」
一拍の沈黙。
「そうか。じゃあ、俺たちはこの辺で
……」
そう言って、ヨツダは立ち上がり、宗真の手首を取る。宗真も逆らわず、椅子から立ち上がった。
「ちょ!?待って!?話、まだ終わってへんやろ!?」
「お客様、お会計は
――」
「あー、ええですええです!ボクがまとめて払いますから!」
慌てて財布を取り出す嵐士を背に、宗真とヨツダは何も言わずに店を出た。
(
……なるほどな)
テーブルの上に残された二人分のカップを見つめながら、嵐士は小さく息を吐いた。
(宗真くんは守られてる。しかも、本人はその自覚がない
――か)
嵐士はレシートを指で摘まみ上げ、どこか楽しげに、しかし少しだけ寂しそうに笑った。
ヨツダは嵐士をまくつもりなのか、無言のまま宗真の手を引き、東口から西口へと早足で向かった。
「わっ、ちょ
……!」
引っ張られるまま走りながら、宗真は不意に笑ってしまう。
(なんか
……ちょっと楽しいかも)
息を切らしつつも、今の状況に、どこか既視感があった。
「
……あ、そっか!」
「なんだよ、急に」
「なんかさ。お前に手引かれて走ってると、体育祭の時の借り物競走思い出すなーって!」
「あー
……そんなこともあったな
……」
六月の体育祭。借り物競走の走者だった宗真が引いたのは、ちなつが悪ノリで用意した「頼れる異性♡(笑)」というふざけたお題。
海成は真に受けてしまいそうで選べず、結果、宗真はヨツダの手を引いてゴールしたのだった。
そして二人は、そのまま
駅の反対側の商業ビルの方まで来ていた。
「あ、オレちょっと新刊あるか見てきていい?
そう言って、宗真は手を離すと、エスカレーターを降りて一階の丸善へ向かう。
「おい、一応あいつから逃げてる途中だったんじゃ
……」
その時。
「
……宗真くん?それに、樹くん?」
参考書コーナーにいたらしい海成が、不思議そうな顔で声をかけてきた。
「あ
……海成か
……」
ヨツダはどことなく気まずそうにする。成り行き上そうなっただけなのに、詰められる予感しかしない。
「
……デートしてたの?」
「デートっていうかー
……愛の逃避行?」
「えっ!?」
「おい!誤解を招くこと言うなって!」
「っていうか
……その子、誰?」
背後から、聞き慣れた軽い声が割り込む。
「初めまして〜。ボクは赤星嵐士いいます!」
「げーーーっ!?普通に追いついてきてるし!」
「だってキミら、途中から思い出話始めて走るのやめてたやん?その癖、手はしっかり繋いで
……なあ?」
「
……樹くん?」
静かだが、妙に圧のある声だった。
「どういうことかな?」
三人分の視線が、一斉にヨツダに集まる。
「
……ちがっ、これは
……」
逃げ場は、もうどこにもなかった。
……そして結局、四人は西口のドトールに入ることになった。逃げるでもなく、解散するでもなく、最悪の形で全員が同じテーブルにつく。
「で、とにかく!コイツはオレの風呂覗いた最低野郎なの!」
勢いよく指を突きつけられ、嵐士はわざとらしく肩をすくめる。
「う
……それは、許せないね!」
(今、何を言いかけた?)
「宗真くん、キッツいわぁ〜。吉田くんにバラすだけやのうて、江沼くんにもか?そないされたら、ボクの第一印象最悪になるやろ」
「なんだよっ!事実を言ってるだけだろ!」
海成は、カップを両手で包んだまま、じっと嵐士を見る。
「それで
……君は、何が目的なの?」
穏やかな声だったが、その奥に警戒が滲んでいた。
「剣術もできるってことは、やっぱり赤星流のスパイなんでしょ」
「なんでそんなこと言うん?ボクはただ、月城流剣術を学びに来ただけの善良なボンボンや言うてるやんけ」
「善良な人間は、覗きなんかしねーよ」
即座に突っ込むヨツダに、嵐士は両手を上げてみせる。
「事故や言うとるやろ!それにもうせえへんわ!したら破門って約束もしたしな」
一拍置いて、嵐士は軽い調子で続ける。
「というかやな、宗真くんみたいな凹凸の少ない身体見て、どないするんや」
——その瞬間。
海成の表情が、すっと消えた。
「
……今の言葉、取り消してもらえる?」
声は低く、静かだった。だが、それまでとは明らかに違う空気が、テーブルの上に落ちる。海成は立ち上がらない。
ただ、嵐士を真正面から見据えたまま、言葉を重ねる。
「宗真くんの身体を、君がどうこう言う資格はないよ」
その声音に、冗談めいた余地は一切なかった。
(
……あーあ)
嵐士は内心でため息をつく。
(踏んだな。一番アカン地雷を。まあこれでうやむやになれば御の字や)
店内の穏やかなBGMとは裏腹に、四人のテーブルだけ、嵐の前触れのような沈黙に包まれていた。
海成は海成で、嵐士の物言いがどうしても許せなかった。からかうように、値踏みするように宗真の身体を話題に出したこと自体がアウトだと思っている。
「“凹凸が少ない”とか、そういう言い方が余計なんだよ!見たい見たくないの問題じゃないでしょ、本人の前で言うことじゃない!」
「いやいや、ボクは正直に言うただけやで?むしろ興味ないって、ちゃんと線引きしただけやん」
「その線引きの仕方が失礼だって言ってるんだ!」
一方で宗真は、二人のやり取りを聞きながら、だんだん居心地が悪くなっていく。庇われているのはわかる。
でも“凹凸が少ない”“身体の話”という単語が何度も何度も出てくるたびに、胸の奥がきゅっと縮む。
「
……なんかさ。オレの身体のことで、人前でワーワー言われんの、普通に恥ずいんだけど
……」
言葉を選びながら、視線を逸らす。
「もういい。オレ、先帰るね
……」
止める間もなく、宗真はその場を離れていく。
残されたのは、ヨツダ、海成、嵐士の男三人。一瞬、気まずい沈黙。
嵐士が肩をすくめて、妙に楽しそうに口を開いた。
「あー、ようわかったわ。吉田くんと江沼くんは、宗真くんを挟んだ三角関係なんやね?」
「
……はあ?」
即座にヨツダから怪訝な声が返る。
「いやぁ、あんだけ必死に庇われたら、そう見えるって。宗真くん、罪なお人やなぁ。まあ、その辺は親譲りってとこやろか」
「
……宗真の親父さんって、そんな感じだったか?」
嵐士は一瞬だけ、しまったという顔をしてから、すぐにいつもの軽い笑みに戻る。
「おっと。
……口が滑ったわ」
その言葉だけを残して、意味ありげに視線を逸らした。
海成は一度、小さく息を吐いた。
「
……ほんとはさ。樹くんがまた抜け駆けしたこと、ちゃんと問い詰めたかったんだけど」
「抜け駆けって、なんの話だよ
……」
海成は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに切り替えるように嵐士のほうを見る。
「まあ、今はいいや。それより、もっと面倒そうなのが出てきたから」
嵐士は肩をすくめて、薄く笑う。
「面倒やなんて、ひどい言い草やなぁ」
海成は笑わない。
「赤星くん
……だったね」
名前を呼ばれた瞬間、空気が少しだけ張り詰める。
「学校では
……いや、学校じゃなくても。宗真くんに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせるようなことはしないでほしい」
静かな声だったが、言葉ははっきりしていた。
「もし、そういうことをしたら
――僕も、この樹くんも、黙ってないから」
「
……おい。また俺をナチュラルに巻き込んだな?」
文句めいた口調だったが、声に本気の拒絶はない。否定もしないし、距離を取る気配もない。むしろ、それがこの男らしさだった。
嵐士は二人を交互に見て、くつくつと喉を鳴らす。
「なるほどなぁ
……ほんまに、ええ友達持っとるわ。宗真くん」
そう言ってから、意味ありげに目を細めた。
「安心してええよ。ボクは、ボクの“大切な人”以外に深入りする気はあらへん」
その言葉が、どこまで本当なのかは
――まだ、誰にもわからなかった。
「ていうか宗真くんもおらんのに、男だけでカフェに入り浸ってもおもんないわ。ボクも帰るかな」
「ちょ、赤星くん、まだ話は
……!」
伝票だけ持って去ってしまった。唖然とする二人。
「俺らも帰るか
……」
「う、うん
……」
(
――結局、赤星の目的ってなんだったんだ?)
その問いだけが、答えを与えられないまま、じわりと胸の奥に残り続けた。