夏休み最後の日の朝。宗真たちの住む仙台では8月の4週目あたりには新学期が始まるため、この日付もその少し前
――そんな時期だった。
海成は数日前、
尾花沢にある祖母の家から戻ってきたばかりだった。親戚づきあいの土産として大量に持たされたスイカを前に、「一つ宗真くんに持っていこうかな」などと考えていた、まさにその時。
『助けて
……宿題持って、うち来て?』
「そ、宗真くんっ!?」
あまりにも切羽詰まったメッセージに、思わず声が出る。海成は慌てて身支度を整え、言葉通り月城家へと向かった。
……お土産のスイカも忘れずに抱えて。
「いやー、海成来てくれて助かった〜!スイカもありがとう!」
玄関先で満面の笑みを向けられ、海成は少しだけ肩の力が抜ける。
「あれ、今日は吉田くんは呼んでないの?」
「
……部活なんだって。部員足りなくて試合もできない弱小部のくせに、オレをほっといて、いっちょまえに練習なんかしやがってさ」
拗ねたように言い捨てる宗真。
(別にそれは普通なのでは
……?)
そう思いつつも、
(でも今日は
……宗真くんと、二人きり
……なのか)
と、胸の奥がわずかにざわつく。
「
……じゃ、海成の宿題、写させて?」
「
……それはダメだよ」
「えー?」
「こういうのはちゃんと自分の力で頑張らなきゃ。分からないところは、僕も教えるからさ」
「はーい、海成せんせっ」
口を尖らせながらも、どこか楽しそうにそう返す。ふと、海成は宗真の顔をまじまじと見た。
「宗真くん、今日の髪型
……なんか、いいね」
「おー、気づいてくれた?髪下ろしてると暑いからってさ、静姉がやってくれたんだ。このでけーパッチンで留めると首の後ろがスッキリして涼しいんだよ」
それは「でけーパッチン」などではなく、正しくはバンスクリップというのだが
――そんな名称を宗真が知るはずもない。
そして海成は、そうして露わになった宗真のうなじから、しばらく目を離せずにいた。
(
……いけない)
慌てて視線をノートへ戻す。
(ちゃんと、宿題終わらせてあげないと!)
海成は小さく深呼吸し、シャープペンを握り直した。
(結局、夏祭りの後はおばあちゃん家に行ってて
……宗真くんと、ちゃんと話せてないんだよな)
鉛筆を持つ手が止まる。
(あの時、宗真くんは吉田くんに泣きついてた。正直、少し気にはなったけど
……)
ページの端を指でなぞりながら、考えをまとめる。
(間が空きすぎた。今さら「何があったの?」なんて聞くのも変だし
……。でも、時間が経った分、僕の中でもそのことをうまく流せてる
……ような気もする)
「海成
……海成?」
「あっ、ごめん。ちょっとボーッとしてた」
宗真は不思議そうに首を傾げながら、ノートを指差す。
「
……大丈夫か?この単語の意味って、なんだっけ?」
英語の宿題を進めながらの、何気ない質問だった。
「えーっとね
……『信頼』」
そう答えた瞬間、胸の奥がちくりとする。
(信頼
……か)
ふと、別の光景が頭に浮かぶ。体育祭の借り物競走。
「頼れる異性」というお題を引いて
――宗真が迷いなく連れてきたのは、ヨツダだった。
(
……あの時、宗真くん、すごく自然だったな)
笑って、腕を引いて、当然みたいに。
(
……僕は、そうじゃないのかな)
海成は視線を落とし、静かにシャープペンを持ち直した。
(それこそ、間が空きすぎているけど
……やっぱり気になるし、聞くなら今しかない)
「
……あのさ」
「なんだよ?」
宗真は珍しく真剣な顔で机に向かい、手を止めることなく聞き返した。
「あの時
……借り物競走の時さ。なんで、吉田くんだったの?」
宗真のペン先が、ぴたりと止まる。
「
……読書感想文」
「え?」
「課題図書読んで、しかも内容をオレにもわかりやすく教えてくれるなら
……その理由、教えてやってもいいけど?」
何食わぬ顔で、とんでもない条件を突きつけてくる。
(宗真くん
……!宿題やってなくて切羽詰まってるからって、そんな取引持ちかけるなんて
……)
内心あきれつつも、断れない自分がいる。
(これ、お姉さんにバレたら絶対怒られるやつだよな
……)
そして海成は、ため息をひとつついて
――宗真の机に置かれた課題図書を静かに手に取り、ページをめくる。
(
……ああ、もう)
その時点で、勝負は決まっていた。海成は完全に、宗真の掌の上だった。
海成は課題図書を、わずか一時間ほどで読み終えてしまった。
「
……読めたよ。要点、このメモにまとめておいたから」
「マジかよ!?やっぱ海成ってすげーなっ!ありがと!」
ぱっと咲いたような、屈託のない笑顔。
――いや、人に交換条件を突きつけて宿題をやらせている時点で、やっていることはほぼ悪魔なのだが。
それでも海成は、その笑顔を向けられるだけで嬉しかった。
「オレ、お礼に一枚脱いでもいーけど?」
「
……そういうの、今日はいいかな?」
「ま、マジに返さなくてもいいじゃんか!」
「それで
……借り物競走の時のことなんだけど」
「あー、あれな」
宗真は少し照れたように頭をかいた。
「オレが引いたのは『頼れる異性♡(笑)』
――ってやつだったんだよ。その『はーと』と『かっこわらい』が、なんか気になってさ」
「
……うん?」
「だってさ。お前を、そんな冗談みたいなノリで連れていくの、失礼だと思ったんだ」
海成の胸が、きゅっと音を立てる。
「オレ、海成のことはさ。本当に、男として頼れるヤツだと思ってるよ?今だってこうやって助けてくれるし。中間(テスト)の時も、海の時も。祭りの時も」
言葉を重ねるごとに、宗真の頬が少しずつ赤くなっていく。
「だから
……それを伝えるなら、体育祭の一競技じゃなくてさ。ちゃんと二人きりの時に、向き合って言うべきなんじゃないかって思ったんだ」
一拍置いて、少し照れ隠しのように付け足す。
「その点、ヨツダだったら
……冗談で済むだろ?」
海成は、すぐには返事ができなかった。
(
……そんなふうに、考えてたなんて)
宗真は相変わらず、ずるくて、無自覚で、どうしようもない。けれどその言葉は、間違いなく本音で
――海成の胸の奥に、静かに、でも確かに残り続けていた。
なんとか全体の半分ほどを終わらせた頃、時計は昼を回っていた。海成の教え方がいいのか、想定していたよりもはるかに早いペースだ。
「
……なあ、海成」
「ん?」
宗真はシャーペンをくるりと回しながら、少し言いづらそうに続ける。
「今のうちに言っとくけどさ。もしよかったら
……泊まってかない?」
「えっ!?」
一瞬、思考が止まる。
(宗真くんの家に
……お泊まり
……!?ど、どうしよう
……ラブコメディ的なハプニングとか
……あったら
……?)
……何を期待しているのか。
「宿題、今日中に終わるかわかんないし。ダメなら無理にとは言わないけど」
「ぼ、僕は全然いいよ!ていうかむしろ大歓迎!うん!」
勢いでそう答え、慌ててスマホを取り出す。
「あ、もしもし?お母さん?宗真くんの家に泊まってもいい?
……うん
……うん、ありがとう」
通話を切って、顔を上げる。
「OKだって!」
「あー、よかった!」
宗真はほっとしたように笑う。
「明日そのまま学校行くなら、一回帰って制服とか着替えとか準備してきた方がいいよな?
……って、その前に昼メシか。うどん茹でるから、ちょっと待ってて」
宗真は立ち上がる。
「あ、手伝うよ!」
「いーのいーの。先生にご飯作ってもらうわけにはいかないって」
台所へ
……行くかと思いきや、そのまま自室の方へ向かっていった。
数分後。
宗真が戻ってきた姿に、海成は言葉を失った。中間テストの後に着ていた、あのジャージメイド姿だった。
「じゃーん!せっかくご飯作るなら、こういう格好の方が気分アガるよなっ」
「か
……かわいいね
……!ど、どうしたの、それ?」
宗真は得意げに胸を張る。
「静姉がさ。中間テストの罰ゲームの時に、なんかくれた!」
(宗真くんのお姉さんも、いろんな意味ですごい人だよな
……)
海成はそんなことを思いながら、視線の置き場に困っていた。
きつねうどんを前に、ふたりは向かい合って座っていた。湯気が立ち上り、部屋の中にだしの香りが広がる。
「海成、うまい?夏なのに熱いうどんにしちゃったけど」
「大丈夫。すごくおいしいよ。
……宗真くんが作ったからかな?」
宗真は箸を持ったまま、少し照れたように笑う。
「えへ、よかったー!まあ、オレのやつは静姉ほどじゃないんだけどさ。何が違うのかはよくわかんないんだよな
……なんだろ、めんつゆの比率とか?」
※私が作る時はめんつゆじゃなくてヒガシマルのうどんスープを使ってるから、ただスープの味が違うだけね
By 静乃
「でも、僕はお姉さんのを食べたことないし
……宗真くんが一生懸命作ったってだけで、嬉しいし
……美味しいよ?」
宗真はぷいっと視線を逸らす。
「そ
……そーかよっ」
少し間を置いて、海成が立ち上がる。
「じゃあ僕、一旦うちに荷物取りに行ってくるね。
……宿題は大丈夫?」
「うん!やる気なくなった時のために漢字練習だけ残してたんだ!これなら手動かせば終わるから海成いなくてもできるし」
(そういうところには、ちゃんと知恵が回るんだな
……)
そうして海成は家へ向かった。途中、学校の前を通る。彼の家は校舎を挟んで反対側にあるのだが
――
「おーい、江沼!」
午前中で部活が終わったヨツダが、海成の背中を見つけて声をかけた。
「あ、吉田くん。お祭り以来だね」
「宗真の宿題手伝ってんだろ?あいつ、ただサボってたツケがあるだけなのに、お前も付き合わされて大変だな
……」
「まあ、ね。でも、宗真くんなりに頑張ってるし、教えたらちゃんとわかってくれるから、教えがいあるよ」
「でも、今ここにいるってことは、もう宿題終わったんだろ?お疲れ!」
(あ
……)
まだ終わっていない。これから宗真の家に泊まって、続きをやるつもりだ。
……けれど、それは言えなかった。
「雑に扱ってもいい」「ネタだってわかってくれる」「頼れる異性」。胸の奥に、ちくりとしたものが残る。ほんの少しの嫉妬だった。
三人で協力すれば、もっと早く終わるかもしれない。それは正しい。けれど
――今は、正しくなかった。
「うん。もう帰るとこなんだ。
……じゃあね、また明日」
「おう。またな」
背を向けて歩き出しながら、海成は小さく息をついた。
(戻る時は帽子でも被って
……万が一でも、吉田くんに見つからないようにしないとな)
そう思いながら、再び宗真の家へ向かうのだった。
海成は、宿泊用の荷物を持って月城家に戻ってきた。
「おー、おかえり!」
「た
……ただいま」
(なんか
……宗真くんに「おかえり」って言ってもらえるの、いいな)
「あれ、上着替えちゃったのか?帽子まで
……」
「う
……うん!けっこう汗かいてたからさ。日差しも強かったし
……」
(本当は、吉田くんに見つからないようにするためだけど)
「そっかー。あ、漢字練習やったから、宿題、だいたい7割くらい終わったぞ!書きすぎて手首ちょっと痛いけど」
「すごいね、お疲れ様!
……あ、差し入れにアイス買ってきたから、キリのいい所で休憩しない?」
「おー!サンキュー!気が利くなっ」
冷凍庫にアイスを入れながら、海成は一瞬だけ迷った。
――さっき、学校の前でヨツダに会ったことを伝えるかどうか。でも、結局口には出さなかった。
(今日くらい
……宗真くんを独り占めしたって、いいよね?)
脳裏に浮かぶのは、夏祭りの夜の光景。人混みの中、髪も浴衣も乱れた宗真が、ヨツダの胸に顔を埋めて泣いていた姿。
(あの時は
……僕の居場所、なかったもんな)
空になったアイスの袋を握る手に、少しだけ力が入った。
「いやー、夏はやっぱスイカバーだよな!さっき海成はスイカもくれたし、そっち食べんのも楽しみだなっ。
……あ、そうだ!オレも渡したいものあったんだ。
……はい、これ!」
差し出されたのは、例のパンダの型抜きバウムだった。
「うわ、かわいい!これ、どうしたの?」
「この前、静姉に東京の方連れてってもらってさ。上野で買ったんだ。まあ、パンダはもう動物園にはいないみたいだったけど」
「へえ
……型抜きになってるんだね」
「今食べてもいいぞ?ていうか、海成が上手く型抜きできるのか、今すぐ見たいまである」
「え、いいの!?じゃあ宗真くんが勉強してる間、やってみようかな
……」
「うっ、休憩時間引き延ばそうと思ったのに!」
ふたりして笑った。
「あとちょっとだもん。もう少し頑張ろう?」
「
……はーい」
宗真が数学のテキストに取りかかるのと同時に、海成は型抜きを始めた。器用な手つきで、少しずつ、慎重に。パンダの輪郭が綺麗に浮かび上がっていく。
「えーっと
……こんな感じかな。上手くできてる?」
(すげーな
……オレよりもっと丁寧だ。あの時は、ヨツダのきったないパンダ見て笑って元気出たけど
……ちゃんとくり抜くと、パンダも喜んでるみたいだな)
「
……うん!これは海成の勝ちだなー。ほんとはさ、海成とヨツダと3人で並んで、型抜き対決したかったんだけどさ。集まれなかったから
……ほら、見てこれ。ヨツダのやつ。ひでーだろ」
スマホを差し出し、ヨツダ作の、あまりにも酷い型抜きパンダを見せる。海成は、笑ってはいけないと思いながらも、思わず吹き出してしまった。
「もっと笑っていいぞ!」
「いや、失礼だから
……!」
そう言いながらも、笑いを堪えようとすればするほど、肩が震えてしまう。
「
……でもさ。こうも考えられないかな。出来の善し悪しじゃなくて、こうやって人を笑顔にできるのは
……吉田くんの才能でもある、って」
「そ、そうか
……?ただのぶきっちょなだけだろ!」
「
……そういうところもきっと、宗真くんにとっての頼れる異性、ってとこなんだと思う」
――自分とは違って。
その言葉は、胸の奥に押し込めたまま、海成は微笑んだ。
夕方。居間に響が顔を出した。
「江沼くん、いらっしゃーい」
「響さん!お邪魔してますっ!」
「ごゆっくり〜。宗真ー!部屋にお客さん用の布団出しといたから、あとで敷いときなさいよ!」
「おー、響姉サンキュー!」
(そ、そうか
……今日は宗真くんと二人で寝るんだ
……!)
思わず海成の背筋がぴんと伸びる。
「あと、お姉に言われてあんたの新しいパジャマ買ってきたから、置いとくねー」
「え?まあいいや、ありがとー!」
(静姉のセンスってことは、可愛いやつだよな
……期待しとこっ)
「宿題は、あとどのくらい?」
海成が問いかける。
「あとは
……読書感想文だけ!」
「すごい。よく頑張ったね!」
海成は思わず、宗真の頭を撫でた。
「
……あ、ごめん!髪、嫌だった?」
「全然?むしろ嬉しい!お前のおかげだしな。ありがとう、せーんせ♪」
(本当にこの子は
……!)
「もしシャワーでよければ、先に風呂入っちゃうか?」
「確かに
……お姉さんたちに気を遣わせたくないし、今のうちに入っちゃおうかな」
「おっけー。じゃ、先入っていーよ。風呂はお前が荷物取り行ってる間に掃除しといた!こういうのはお客さん優先だもんなっ」
「あ、ありがとう
……!」
シャワーを浴びながら、海成の頭には宗真のことばかりが浮かんでいた。新しいパジャマはどんなものだろう。どんな色で、どんな形で。
そして
――その姿を、ヨツダよりも先に自分が見るのだという事実。
(今日は
……宗真くんと一緒に過ごす日だ)
胸の奥が、じんわりと満たされていく。
(吉田くんには、ちょっと悪いことしたかな
……でも)
借り物競走での「頼れる異性」。夏祭りで、宗真の涙を受け止めていた背中。パンダの型抜きで、笑顔を引き出したこと。
(吉田くんは
……ずるい)
宗真と出会ったのも先で、宗真からも頼られていて。「雑に扱っていい」
……それがいかに恵まれていることか。
(たまには
……僕が、この位置にいたっていいじゃないか)
胸の奥で、黒い感情が静かに渦を巻いていた。
「いいお湯だったよ」
時刻は17時半頃。寝るにはまだ少し早いが、きちんとした綿のパジャマに着替えて風呂から上がる。
「お!めっちゃ本格的なパジャマじゃんっ」
「へへ。こういう綿のパジャマって、よく眠れるんだ」
「へー!海成はやっぱ物知りだなー!」
そして、くるりと踵を返す。
「じゃ、オレも入ってくる!あ、新しいパジャマおろそうっと!」
(
――来た
……!)
シャワーの音だけが、浴室に響いていた。
(早く海成に新しいパジャマ見せたいなー)
自然と、顔が緩む。
(ヨツダは、オレがいくら可愛くオシャレしても、あんまりホメてくんないんだよな。素直じゃないっていうか
……)
思い出すと、少しだけむっとする。
(
……その点、海成はいつもちゃんと見てくれるし。変えた髪型もすぐ気づくし、料理だってちゃんと美味しいって言ってくれるし)
気づけば、考えているのは海成のことばかりだった。
――ついでに、なぜかヨツダの顔も浮かんでくる。
(すぐ顔真っ赤にして照れるとこもさ
……なんか可愛いよな)
優等生で、真面目で。でも、からかうとすぐ動揺する。
(からかいがいがあるっていうか
……)
そんなことを考えながら、ふと浴室の鏡に目を向ける。
(
……あれ?)
湯気越しに映る自分の姿。いつもと同じはずなのに、なぜか違和感があった。
(
……少し、胸
……大きくなってない?)
首を傾げる。
(ついに成長期、来たか?)
確信はない。ただの気のせいかもしれない。それでも、胸の奥が少しだけざわついた。シャワーを止め、宗真はタオルを手に取った。
(
……ブラ、買い替えに行った方がいいのか?)
一瞬だけ、そんな現実的すぎる考えが頭をよぎる。
(
……いや、それより今はパジャマだよな!)
気持ちを切り替え、脱衣所に置いてあった新しいパジャマを手に取る。
響が買ってきたそれは、ジェラートピケに並んでいそうな
――と言いたいところだが、実際はしまむら産なので、生地や縫製はそれなり。
それでも見た目は十分すぎるほどだった。淡いパステルカラーの、もこもこのパーカー。同じ素材のショートパンツ。そして、ウサギの耳みたいに長いリボンがついた、ルームウェアと同じ生地のヘアバンド。どう見ても、「女の子の可愛い部屋着」そのものだ。

(姉ちゃんズ、ナイス
……!)
思わず口角が上がる。
(早く、海成に見せたいっ)
タオルで髪を軽く拭き、ヘアバンドをつけて、深呼吸ひとつ。そして宗真は、リビングへと足を運んだ。もこもこのルームウェア姿で、海成の前に立つ。
「新しいパジャマ
……どう、かな?」
少しだけ照れくさそうに、でもどこか期待するように。宗真は、そう問いかけた。
海成は、その姿を見た瞬間
――思考が一拍、遅れた。
(
……え)
淡い色のもこもこ。小さく揺れるリボン。いつもより少し幼く見えて、それでいて
――はっきりと「女の子」だと意識させられる姿。視線をどこに置けばいいのか、一瞬わからなくなる。
(だ、だめだ
……これは
……!)
心臓が、やけにうるさい。頭の中で、理性が必死に叫んでいる。
(落ち着け。深呼吸。相手は宗真くん。友達。宿題。健全。健全
……!)
だが視線は、どうしても一度は全身をなぞってしまい、そのたびに「かわいい」という単語が、勝手に浮かび上がってくる。
(かわ
……っ、いや、言っちゃだめだ、言っていいのか?でも
……)
顔が、熱い。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。宗真の問いかけが、やけに近く感じた。
「
……なに黙ってんだよ。変か?」
「へっ!?い、いや、ちが
……っ」
慌てて首を横に振る。
「その
……すごく、似合ってる。
……か、かわいいと、思う
……」
最後はほとんど、絞り出すような声だった。言い切った瞬間、さらに顔が熱くなる。
(言った
……言っちゃった
……!)
でも、目を逸らしながらも、嘘だけはつけなかった。宗真のその姿は、海成の理性を本気で揺さぶるくらい
――どうしようもなく、かわいかった。
「あとは読書感想文だけだな!夕飯前にちゃっちゃと片付けてさ、ご飯食べたら一緒にゲームとかしようぜっ!」
「う、うん
……!」
読書感想文は、海成がまとめてくれていた要約メモがあったおかげで、それをなぞるように肉付けしていくだけで、驚くほどあっさり完成した。
「できたーーーーっ!!終わったーーーー!!ありがと、海成っ!」
勢いよく差し出した手で海成にハイタッチをした。ぱちん、と乾いた音が部屋に響く。
「ほんとに頑張ったね。お疲れさま」
「いやー、マジで海成いなかったら詰んでたわ
……ほんと、ありがとっ」
そのタイミングで、廊下の方から声が飛んでくる。
「宗真ー、夕飯そろそろできるよー」
「はーい!」
その日の夕飯は、お好み焼きだった。ホットプレートの上で焼ける音とソースの匂いに、自然とテンションが上がる。
「え、もう宿題終わったの!?偉いじゃない」
「ああ、海成が手伝ってくれたおかげだよ」
そう言って、少し誇らしげに海成の方を見る。
海成はその視線に、照れくさそうに小さく笑った。
そして歯も磨き、あとは寝るだけ
――という状態になった宗真は、可愛いルームウェア姿のまま、完全に「これから遊ぶぞ!」という顔をしていた
……のだが。
「すう
……すう
……」
気づけば、自室の布団の上で、無防備に爆睡していた。
「そ、宗真くん
……?」
肩にそっと声をかけても、まったく起きる気配はない。
「朝から張り切りすぎて、そのまま力尽きたのね
……お泊まり会で友達残して先に寝るなんて、ないわー」
「い、いえ
……!今日は本当に頑張ってましたから。起こさない方がいいかなって
……」
「お姉ー、じゃあ今のうちにこれ、江沼くんに見せたらー?」
「あ、ナイス響!」
そう言って、響が持ってきたのは
――分厚いアルバムだった。
「まあ、そんな面白いもんでもないかもしれないけど
……暇つぶしにはなるかしら?好きに見ていいからね」
「は
……はい!」
遠慮がちに受け取って、ページをめくる。そこに写っていたのは、幼い頃の宗真。短い髪、少し大きめの服、無邪気な笑顔。
(
……当たり前だけど)
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
(宗真くん、ちゃんと
……男の子だったんだな
……)
宗真の寝顔を思い出しながら、海成はアルバムの続きをめくった。
小学校の運動会の写真だろうか。メダルを首から下げた宗真が、ヨツダと肩を並べて、屈託のない笑顔で写っていた。
ページをめくる。
次は学芸会の写真。演目は『オズの魔法使』。どういう経緯かはわからないが、宗真は女装させられ、ドロシー役を務めていたらしい。隣には、やはりヨツダ。彼は案山子役のようだった。
「
……」
言葉が出ない。そこには、今の自分にはどうやっても埋められない、宗真との時間が写っていた。
(
……きっと、写真に残ってない時間だって、たくさんあるんだろうな)
胸の奥が、じわりと重くなる。この場にいないはずのヨツダの存在が、アルバム越しに強く主張してくる。まるで
――彼を今日ここに呼ばなかったことへの、罰のように。
もちろん、静乃や響にそんな意図はない。ただの思い出の共有でしかない。それでも海成は、自分とヨツダとの間に横たわる差を、否応なく突きつけられた気がしていた。
「ありがとうございました。面白かったです。僕も
……ちょっと早いですけど、そろそろ寝ますね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「おやすみー」
海成は宗真の部屋に入った。来客用の布団はすでに敷かれている。だが、そのまま横になる前に、思わず宗真の方へ視線が向いた。
(宗真くん
……もう少し、顔を見たいな)
宗真は布団を深くかぶって眠っていた。起こさないよう、そっと
――本当にそっと、顔のあたりだけを布団から引っぺがす。
その瞬間、海成は息を呑んだ。
……宗真の身体は、見事に“男”に戻っていた。
(
……えっ、なんで!?)
思わずそう思い、音を立てないよう注意しながらスマホを取り出す。検索結果を見て、すぐに理解した。
――新月。
(
……そういうことか)
理由がわかった途端、胸の奥に溜まっていた息が、ゆっくりと吐き出される。新月で
……ある意味、良かったのかもしれない。
もし、宗真が女の子のままだったら。ヨツダへの嫉妬で心をかき乱されていた自分が、この静かな夜に、宗真を前にして
――いったい、どんな気持ちになっていたのか。
……考えるのは、やめておいた。
翌朝。
「げーーーっ!男の日だった!最悪!こんな可愛いパジャマ着て寝たのに!」

「
……ていうか江沼くんが泊まりに来てるのに、寝すぎよ。江沼くん、もう起きて着替えて朝ごはん食べてるわよ?」
「えーー!?」
静乃に叩き起こされ、慌てて夏服に着替える。
(
……相変わらず男子の夏服はかわいくなくてアガんねえ)
顔を洗い、髪を整え、居間に駆け込むと、ちょうど海成が食器を下げているところだった。
「おはよっ!」
「おはよう。
……あれ、男の子?そういえば、新月か」
自分で言っておきながら、少しわざとらしかったな、と海成は思う。
(
……知ってたけど)
「そうなんだよ。すっかり忘れてた。せっかく可愛いルームウェア着たオレ♀を、あんまり見せられなくて残念だよ。ほんと
……」
「昨日ね、宗真くんが寝た後に、お姉さんたちが昔のアルバム見せてくれたんだ。宗真くん、昔から
……可愛かったよ?」
「えっ!?姉ちゃんズ、変な写真とか見せてないだろうな
……!?まあ、子供なんて誰だって、だいたいは可愛いもんだろ」
「
……ねえ」
声のトーンが、少し低く、真剣になる。
「僕が今言ったみたいなこと、誰にでも言ってると思う?」
「え
……?」
一瞬、宗真は言葉に詰まる。朝の明るい居間の空気の中で、海成の視線だけが、やけにまっすぐだった。
姉たちは気を遣ったのか、いつの間にか先に家を出ていた。家の中には、宗真と海成の二人きり。
「
……女のオレだったらまだわかるけどさ。なんで男のオレに、そんなこと言うんだよ?」
「女の子の時に言ったらさ。見た目に惹かれてるだけ、って思われるかもしれないから」
「
……」
(あ、これ
……)
ふと、響の言葉が思い出される。宗真が次期当主をやめると決めた時のことだ。
――女の子になったことを理由に当主をやめると説得するのはズルい。だから新月の日に、ちゃんと“男の宗真”として話をつけに行く。
響はそう言って、宗真とともに父・宗二のもとへ向かったのだった。
(それと
……同じだ)
海成は、「女の子の宗真」ではなく、あえて新月の
――男に戻った宗真に向けて、言葉を選んでいる。昔から可愛かった。今もそうだと。
(つまり
……)
見た目や、性別の変化や、一時的な可愛さじゃない。それらを全部ひっくるめた「宗真」に向けて、真正面から言っている。
「
……」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
(こいつ
……本気、なんだ)
照れくささよりも先に、逃げ場のない実感が落ちてきた。冗談でも、ノリでもなく。海成は、今ここにいる「宗真」を見て、言っているのだ。
「ご
……ごめん。お前がそう言ってくれるのは
……すげー嬉しいけどさ。正直、オレ
……どうしたらいいのか、まだわかんない
……」
「
……っ。ぼ、僕こそごめん!変なこと言って
……最近、僕の中でいろいろあってさ。ちょっと焦ってたんだ」
一呼吸おいて、海成は視線を落とす。
「もう、いいんだ。
……いつもの僕らに戻った方が、きっといいよ。今日からまた学校だし
……」
「
……そ、そうだな!せっかく宿題終わったのに、遅刻したら元も子もねえし!」
わざと明るく言って、宗真は笑う。海成も、それにつられるように小さく笑った。けれど、さっき交わされた言葉は、なかったことにはならないまま、二人の胸の奥に静かに残っていた。
談笑しながら登校する二人の背中を、ヨツダは少し離れたところから見かけた。だが、すぐに小さな違和感を覚える。
(
……宗真、男じゃん。ってことは今日は新月か)
それ自体は別におかしなことではない。
——いや、普段は女の子で新月だけ男に戻る体質というのは、冷静に考えれば十分おかしいのだが
……。
(
……ん?)
次の瞬間、別の点が引っかかった。
(江沼って、家こっちの方じゃなかったよな?)
昨日の昼間。部活帰りに学校の前で海成と話した時、たしか「宗真の宿題を手伝って、これから帰るところだ」と言っていたはずだ。
(
……まさか)
嫌な想像が、頭をよぎる。
(あの後、あいつの家に泊まった
……?)
胸の奥が、じわりとざわついた。仲良くなれたと思っていた海成にウソをつかれたことへの失望なのか、それとも、宗真と二人きりの時間を過ごしたことへの嫉妬か
——
ヨツダ自身にも、まだはっきりとは分からない。本当なら、さっさと追い抜いて先に行ってしまいたかった。けれど、そうすればこの違和感に気づいたことまで海成に悟られそうで、それも癪だった。
(
……さっさと歩けよな)
結局、抜かすに抜かせず。一定の距離を保ったまま、二人の少し後ろを歩き続ける。そうしてヨツダは、微妙な間合いを抱えたまま、学校へと向かった。